4.愛の消えた街
「昨日アパートから先に出ていった女の子とね、人を殺して――それで、ちょっと揉めてね。
私もその場に置き去りにされかけたんだけど、それを通りすがりの男の子に助けてもらったの。
でね、その助けてくれた子なんだけど、私、信用するわけにはいかないから、いろいろ連れ回してみてるんだけど、尻尾を出さないだけなのか、それとも今はただ時期を見計らっているだけなのか、全然見当がつかなくてね。沖君はどう思う?」
肩に置かれた腕を払った。
「知ったところで彼にとって何も関係がない。余計なことをすれば何をされるかわからないくらいなら、目を瞑っていた方がいい。余計な労力を使うことはない、と、そんな風に考えているんじゃないのか。放置していても何の問題もない」
「へえ? 沖君はそう思う?」
「ああ。俺の予想通りならそいつは、何もできない腰抜けだろうしな」
そっか、とトミタは頷く。
俺の肩を掴んでいた手をゆっくりと握り、開く。
もう一度呟いた。
「そっか」
再び歩き出した。
交番の前を通っても、何の感慨もわかなかった。
何かがあったら駆け込む場所、あるいは助けてもらう場所なのかもしれない。けれど、どうしても思い出してしまう。
「用がないのに保健室に行くな」
という教師たちの言葉を。
要するに、俺にとっての『本当に用があるとき』が、必ずしも周りの人間にとってそうとは限らないのだ。
余計なことだと認識されるくらいなら、何もしない方がいい。
学校は社会の縮図だ。
保健室も交番も一応は置いてあるだけで、本当に必要になるときが来るなんて誰も考えていない。下手に訪れようものなら迷惑と思われるだけ。
どうせ交番にいる警官だって、誰も訪れないことを祈りながら交番にいるのだろう。
だったら俺だって、初めから無いものとして考えるだけだ。
「あれ? テレビ局かな?」
美術館の前に人だかりができていた。
テレビ局のものらしきカメラが二台、美術館の入口に向けられている。インタビューアがマイクを一人の男に向けていて、残りは群衆らしかった。
ほとんどがみな、スマホを掲げて写真撮影を行っている。中には、カメラの角度を工夫して、入り口に立つ男と自分が一枚に収まるように無駄な努力を怠らない男もいた。
「あの人たちはテレビに出たいのかな? それとも、あの人と写真を撮りたいのかな?」
「あの人?」
「あの人が、神林財閥の会長さんでしょ?」
人ごみから少し離れた場所から、そっと窺ってみる。インタビューアが群衆に負けないように声を張り上げた。
「さて、では早速、本美術館の建設をトップ自ら指揮した、神林誠会長にお話を伺ってみましょう! 改めて、こちらに美術館を建設したその理由をお聞かせ願えますか?」
白髪が混じり始めた中年の男はマイクを向けられ、重々しく頷いた。
「まず、神林財閥を築いた私の父ですが、父は晩年自分はどれだけ地元に貢献できただろうか、と最後まで悔やんでいました。その意を汲むという思いも込めて、この美術館の建設に着手したというわけです。祖父は美術品の収集にも力を入れていましたので、それらのコレクションがようやく陽の目を見ることでしょう。
また、二つ目の理由としてはグローバル化が挙げられます。次の世代を担う若者にこそ、世界が誇る芸術を、自分の目で見てもらうことで、確かな審美眼を養うことができると私は考えています。ですのでオープニングセレモニーには、私の母校であり、また、娘の母校である東高校を招待しております。祖父の秘蔵コレクションの全世界初公開ということもあって、われながら、大々的なオープニングとなると確信しています」
「会長はご自身でも絵を嗜んでおられると聞いていますが、それらの絵は公開されるのですか?」
「ああ、それはですね……私はどうにも恥ずかしいからと断ったのですが、部下にどうしてもと押し切られましてね。オープニングで一回だけ披露して、後は隅にでも追いやられることとなると思います」
謙遜している割には饒舌だった。
なんとなく、自己顕示欲のようなものが透けて見えて、嫌な感じがした。
しかし、周囲はそうは思わないらしい。いや、そう思っていても、気づかないふりをしている。
どこからか現れた町長が、この美術館が地域経済の活性化に一役買うことになるでしょう、と笑みを浮かべて言った。
二人が握手した瞬間、群衆が待ちかねたようにわっと沸いた。
どこもかしこも笑顔があふれていた。
俺はこっそりと、隣のトミタを盗み見た。
『こちらの世界』の常識にとらわれない彼女にこんな光景を見られることが、ひどく恥ずかしく思えた。
けれど。
トミタは笑っていた。
「あれ、あんた、こんなところで何してるのよ」
ふいに話しかけられ、飛びのくようにして振り返った。
神林明日香が不思議そうな顔をして立っている。
自分でもわかるくらい、顔色が変わった。
トミタと神林明日香、この二人を決して会わせてはならない、と今更になって思った。
本当に、今更の話だ。
神林明日香は俺から、俺のすぐ隣に立っていたトミタの方に目をやった。
彼女の目がゆっくりと見開かれる。
「その……恋人?」
「どう思う?」
と、トミタは軽く首を傾げて見せる。
再び神林明日香が口を開くより早く言葉を重ねる。
「そういう神林嬢こそ何をしてるんだ?」
「何をしてるって、その……お父様が取材を受けるとかいうからちょっと見に来たのよ」
「お父さん?」
「ああ、あたし、神林明日香っていうの」
過度に謙遜するわけでもなく、かと言って自慢するわけでもなく、さらりと名乗ることができるところはさすがだと思う。トミタは僅かに目を細めた。
「そっか……自慢のお父さんなのかな?」
「変なこと訊くのね」
神林明日香は僅かに目を細めながら、
「まあ、嫌になるときもあるけど、嫌いじゃないかな」
「この美術館についてはどう思う?」
「取材相手、間違えてるんじゃないの?」
若干困惑した様子でトミタから俺の方に視線を移す。
「やっぱり、美術品って言うのはみんなで見てナンボだと思うから……いいことだとは思うけど」
それより、と、彼女は再びトミタの方に視線を戻す。
「本当に、どういうカンケイなの?」
「いとこだ」
「イトコ?」
「家庭の事情で今居候しててね。せっかくだからこの街を案内してるってところだ」
「名前は?」
「トミタ……ヤヨイだったか?」
「なんであんたが全部答えてんのよ?」
「きっと私のことが好きなんだろーね」
トミタはわざとらしく俺の腕を取り、軽く頬ずりする。神林明日香は何とも言えない顔をして、喉に何かが詰まったようにぐっと飲みこんだ。
「……そうなんだ。うん、そうなんだ」
何度も頷く。
まるで、自分を納得させようとしているかのように、何度も。
そんな彼女を見つめるトミタはどこか楽しげだ。
それが、クラスメイトをからかうような視線とは全く無縁のものであることは明らかだった。
どくん、と。
こめかみのあたりが収縮するのが分かった。
神林明日香と出会ったことは偶然かもしれない。
だが美術館の取材に、さらに言えば神林会長のインタビューに間に合ったのは、本当に偶然なのだろうか?
「そ、そうだ! 何ならさ、今から三人でどっか行かない?」
その場の空気に耐えかねたのか、神林明日香がポンと手を打つ。
「やー、あたしもようやく補習から解放されたんだし、自分へのご褒美も兼ねてどっか食べに行きたいなーなんて。せっかくだし、ヤヨイさんからマモルの昔話とか聞かせてもらえたら、って」
「ダメだ」
「え」
神林明日香が、一瞬固まる。
「ダメって……ダメって、どういうこと?」
「いいから、ダメだ」
「何もよくないわよ! この街を案内してるんなら、あたしだって十分詳しいし、そういうのって、大勢で行った方が楽しいでしょ!?」
「そんなわけないだろうがっ!」
「な、なによ?」
忙しなく視線が泳ぎ、スカートの端がぎゅっと握りしめられる。
「なによ」
もう一度呟いた言葉は、弱々しい。
「……もういい。勝手にすれば?」
踵を返し、彼女は去っていった。
気が付けば、腕時計を押さえている。
もっとましな誤魔化し方もあったかもしれない。
けれど思いつかなかった。それだけだ。
今までなら、ただへらへら笑っていればよかった。
そうすれば、相手はテキトウなところで勝手に切り上げ、諦める。俺の名誉や評価は落ちるだけ落ちるが、それも我慢さえすればいいことだ。
ただ、教師に貶されるのと、幼馴染に貶されるのとでは、雲泥の差があった。
もう彼女は、今までのように呆れながらも、俺に付き合ってくれることはないだろう。
ただの誤解じゃすまされないのだ。
「随分あの子に入れ込んでるんだね」
しばらくして、トミタが言った。
「ただ、疑問が残らないでもないかな。彼女は今までなんだかんだ、沖君と付き合ってくれていたでしょうに、肝心要の君自身は信じてもらえていなかったのかな?」
「黙れ」
腕を振り払う。
「もしも明日香に指一本でも触れてみろ。その時は――」
「その時はどうする? 殺すとでも言いたいの?」
マンガみたいなセリフ、とトミタは大げさに驚く。
「さっきまで無関心を装っていた君はどこに行ったの? 人殺しだという自白を受けても警察に駆け込もうともしなかった人間が?
それとも君はまさか、人殺しである私が君の幼馴染には手を出さないとでも思っていたの? だとしたら、想像力が欠如していると言わざるを得ないよ」
――暴力ってものは理不尽にも、善人にも悪人にも、知り合いにも無関係の人間にも平等に襲い掛かるもんなんだから。
「明日香は、関係ないはずだ」
「うん。関係ないよね。たとえ私が神林財閥関連の仕事を請け負っていたとしても」
自らのバカさ加減に唖然とした。
コロシに手馴れた人間がこの街に来たとなれば、当然狙うのは神林財閥一択のはずだ。
神林会長、神林明日香は財閥の顔とも呼べる存在だ。
狙わないという方がおかしい。
――気が付けば、胸倉を掴んでいた。
「お前の目的はなんだ」
「鍛えた方がいいよ。振りほどこうと思えばいくらでもほどける。映画の真似ならせめて宙づりにするものだし」
挑発するように掴んだ腕を叩きながら、軽く眉を上げて見せる。
「……それから場所も選んだ方がいい」
遠巻きに見る群衆は、女の胸倉を掴んでいる男に眉をひそめている。
けれど、誰も止めようとはしない。
視線を向ければ目を伏せる。
その程度の関心であり、それほどの無関心とも言える。
「くそっ」
トミタの腕を引っ張り、公衆便所の陰に引っ張った。
――瞬間。
腕を跳ね上げられた。しびれが走る。
たたらを踏んだところに、肩を掴まれた。
腹に膝が食い込んだ。息が詰まる。
空気を求めて喘いだ瞬間、横っ面を殴り飛ばされていた。地面にへばりついた瞬間、腹を蹴り上げられていた。仰向けになったところにマウントを取られた。
恐怖に体が硬直している。
教師の体罰のように、罵声とともに殴りかかってきたわけでもない。
すべてが洗練された流れるような動き。
彼女が加減しなければ、あっさり殺されていたことだろう。
「ええと、こうして……何を訊くんだった? 『お前の目的はなんだ』」
ちっ、ちっ、と舌が鳴る。尻に敷けなかったスカートの端がひらひらと揺れる。
「恩人に手荒くするのは趣味に合わないけど、慣れ合うつもりはないから。ケジメと思ってほしいな」
立ち上がる。スカートが揺れる。
「とはいえ、サービスとしてもう一つだけ、恩返しついでに教えてあげる」
トミタが回る。ゆっくりと、俺を品定めするように。
「どうにも違和感があって仕方がなかったんだよ。君やほかの連中のような、無関心を信条とするこの国の人間が、どうしてあんな安物のアパートの前で、わざわざドア開けたのか」
俺にもわからなかった。
どうしてあの時俺は、あのアパートに踏み込んだのか。
「それこそ初めっから、無視してりゃよかったんだよ。昨日ドアを開けさえしなけりゃ、君は矛盾に陥ることなく、そのままでいられたのに」
「矛盾?」
再び馬乗りになる。トミタの顔がぐっと近づいた。
彼女の息が鼻をくすぐる。
「君は中途半端なんだよ。笑顔ひとつとってもそうだ。後先考えずに自分のスタイルを信じて突っ走るか、自分の嫌いな周りの連中と同じく頭空っぽにして、自分以外の誰かの考えを頭の中に流し込んで奴隷になるか、いっそ徹底させたらどうかな。
君の姿はあまりにも見苦しいし、作り笑いは、他の連中のそれと比べてもあまりにもブサイクで、不快だ。利用できるところまで利用しようとも思ったけど、不快すぎて嫌になっちゃった」
トミタは笑い、肘鉄を腹に振り下ろした。
「何も知らなかったことにすればいい。そうすれば、全部すぐ終わる」