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3.彼


 授業が終わり、補習も終わった。


俺は再再試を受けることになり、神林嬢はギリギリ合格した。


あんたもさっさと合格なさい、と叱責を受けて笑みを浮かべた。




 ルサンチマン的笑み。




 予想通り、その日のうちに合格できた教科は一つもなかった。


 世界史の教師は諦めたように首を振り、俺は職員室に連行された。



約五分のお説教。

職員室を出ようとして、今度は横溝に捕まった。




でっぷりと太った腹を掻きながら、椅子に座ったまま俺を睨み上げる。腹巻をつけていたらそこらのチンピラ役でエキストラができそうだ。




「お前、全部で何個補習受けとるんや?」

「全部です」

「は?」

「全部の教科です」



手に取ったチャートが乱雑に机に叩きつけられ、横溝は腕を組む。



はち切れそうなワイシャツのボタン。



「お前、恥ずかしくないんか?」

「何がですか?」

「毎度毎度テストの度に補習を受けて」

「悔しいとは思っていますよ。でも、これが自分の実力なら仕方がないと思っています」




 そう言って、俺は笑う。

 横溝も笑った。



 よろけて尻餅をついた。

 近くの教師が一瞬静まり返り、見て見ぬふりをした。



横溝は顔をしかめ、自分の手を振った。

返り血を拭うような仕草だった。



 もちろんうまい教師は、顔を殴るときは鼻ではなく口を狙う。



おかげで歯がぐらぐらする。




「お前、お前、自分が怠けとるのに、それで平気でへらへらできるんか、ああ? 少しは恥ずかしくないんか?」

「ですから、悔しいとは――」

「言い訳するな!」





 仕方がないので笑う。

 また殴られる。

 人生そんなものだ。






 殴られて、ニヤニヤ笑いが止まらなかった。



 楽しいわけでも、嬉しいわけでもない。

単に、笑顔でも浮かべないとやっていられないだけだ。



笑顔を浮かべられる限り、俺はまだ大丈夫なはずだった。







校門をくぐる。

笑みが消えるのがわかった。








自分の中にあったなけなしの反抗心やら気概やらが、圧倒的な違和感の前にぺしゃんこにされた。


トミタは身を預けていた校門から、ゆっくりと身を起こした。


軽く手を挙げてこちらに駆け寄る。


待ち合わせをしていた男女に見えなくもないはずだ。



「何、何の、何の用だ」

「ご挨拶よね」



 彼女は頬を膨らませながら俺の腕を取り、鼻歌とともに絡めた。



 展覧会の絵。



「私、この街に越してきたばかりじゃない? だから、誰か詳しい人に案内してもらえればなって思って」



 今日はそういう設定らしい。



 促されるままに歩き出す。自分の顔が歪んでいる。


 彼女の行動理念はあまりにもシンプルで、ひたすらに俺を利用することしか考えていない。一応他の誰かに聞かれてもわからないよう取り繕ってはあるものの、生き延びるためにはなんだって利用するとでも言わんばかりの在り方は、きわめてシンプルだ。



 具体的に彼女が何をしたか、するかというのは全くわからないが、彼女からは俺の日常とは相いれないものを感じる。



 ――血の臭いがするのだ。



「そう言えば、さっきこっち来るまで、随分変な顔をしてたね」

「変な……顔?」

「そう。なんか、泣きそうな顔」

「いや、あれはだな……笑顔のつもり、だったんだけど」

「何それ?」




 彼女はこちらを振り返りながら言った。




「笑えない」



 何ら違和感のないはずの言葉が、ずしりと腹に響いた。





 彼女の服装は、昨日とあまり変わり映えのしない、シンプルなブラウスとチェックのスカートだったが、一見、制服の夏服のように見える。



昨日の服が一点ものなら、今日の服は完全な既製品で、お嬢様から庶民へと一気にグレードダウンした感じがあった。



 あるいはそれも、彼女なりの擬態のようなものなのかもしれない。



「ね、この街、どんな見どころがあるの?」

「そんな観光地みたいに言われても困る。街の中央には駅があって、その周りにはスーパーがある。再開発に巻き込まれなかった個人商店がちらほらあるけど、後はマンションだったりアパートだったり、特に見どころもない街だ」

「キョートとは大違い?」

「一緒にするのが間違いだ」



近代化というのは要するに制度を造り、画一的にすることで地方の特色を殺していくものだ、という世界史の豆知識を披露して、自分は何をやっているんだかと我に返る。



彼女は別世界の人間で、教師とは違うのだから、余計なことをしゃべる必要はなかったはずだ。けれど、いざまともな人間らしい振舞を思い出そうとしても、うまくいかない。



再び彼女が口を開いた。



「じゃあ沖君は、この街のことが嫌いなの?」

「さあ」

「わからないの?」

「興味がないんだ」

「どうして?」

「誰も聞かないだろう、そんなこと」



 それとも政治家みたいに地元愛を連呼していればいいのだろうか。何が地元なのかさっぱりわからないのに?



 

俺はこのクソみたいなところから逃げ出したいと思っている。



叶うことなら抜け出して、もっと違う、相応しい場所に行きたいとすら思っている。

けれど、それがどこなのか、どういう風に行けばいいのかさっぱりわからないのだ。




ただ、その願望も、結局は無駄だ。




ここがどこでも変わりはないだろうし、ここにいるのが俺でなくてもいい。


凡庸な夢を抱く凡庸な人間に、画一化された近代社会は個性を求めない。


求められるのは役割であって、その人間ではない。


おそらく、目の前にいる彼女にとっては無縁の話だろうが。




「なあ、この街に何をしに来たんだ?」

「あ、それ聞いちゃう?」



 わざとらしい流し目。



「……仕事だよ、仕事」

「仕事?」

「そ。急に入った仕事。成し遂げたところでお金がもらえるわけでもないんだけど、しいて言うなら、やるべきこと、とでもいう方が正しいかな」

「ふうん……」

「沖君は?」

「なに?」



「沖君にとって、なにか、やるべきことってある?」

「……宿題とか、補習とか、そういったところかな」

「それだけ?」



 気が付けば、肩に手を載せられていた。

万力のようにがっちり掴まれていて、振りほどけない。



微笑を浮かべたまま、トミタが顎で示す先に交番があった。


歳をとった警官が一人、退屈そうに座っている。




「ねえ、沖君。沖君のやるべきことって?」


 肩を掴まれている。


「何のことだ」


 肩を掴まれている。


「情報提供」

「何の?」



 ゆっくりと咳払いしたトミタは、淡々と言う。



「昨日私、人を殺したんだ」




 肩を掴まれている。



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