2.RED SHOES STORY
スーパーの中にベンチがあった。
「ありがとう」
何についてお礼を言われたのかがわからない。それでもなんとなくわかったふりをした方がいいような気がして、頷いた。
「そうか」
「随分顔、強張ってるけど」
表情が貼りついてしまったかのように、顔の筋肉が動かない。親指を押し込んでも、びくりとも反応しない。それがなぜだか怖くて、必死になって親指を押し込んだ。
「あなた、東高校の人?」
「ああ、うん」
「名前は……おき、さん?」
隣に座っていた少女が身を乗り出した。無力を悟った俺の手に、そっと自分の手を重ねる。
顔を上げる。
大きな瞳が、じっとこちらを捉えていた。
「また、会える?」
「それは……」
会えるに決まっている。
だが肯定すれば、自分は呑み込まれる。
違う。
俺は何を言っている。
どうして『巻き込まれる』を『呑み込まれる』なんて思ったのか?
「あ、私ったら」
圧倒されるあまり、息もできないこちらに対し、彼女は言った。
「会えるか、じゃなくて、会いに行く、って言えばよかった。そうよね?」
「ちょっと、待っ……」
立ち上がろうとして、額に人差し指が当てられた。
ただそれだけなのに、動けない。
彼女はじっと俺を見下ろし、俺の膝の上に乗った。スカートの端がしわになるのも構わず、俺を真正面から見据え、目を細めた。
笑っている。
ように見える。
「また、会いに来るから」
彼女は何事もなかったかのように俺の体から降り、商品には目もくれずに出口へ向かっていく。反射的に飛び起きた俺は、思わず声を上げていた。
「あのっ!」
振り返る少女に笑みはない。
冷たく俺を見下ろしている。
無関心ならぬ、拒否。
まるで、立場をわきまえろとでも言わんばかりに。
俺は、絞り出すようにして尋ねた。
「名前は……?」
少女は呟いた。
「トミタ」
あれは、明らかに脅しだった。
トミタの顔が、トミタの声が、ずっと付きまとって離れない。
「なんや、どっかの誰かさんは今日はまともらしいな」
数学の横溝がそう言って大声を上げる。
「普段はキチガイみたいな笑いを顔に貼りつけとるくせにな」
お望み通り見せてやったら、大きな舌打ちが聞こえた。
今は、笑える。少なくとも今、笑える時は笑っていなければならない。
「あんた、また横溝先生を馬鹿にするような真似をしたらしいわね」
授業を終えて、神林明日香がそっと囁いた。
「なんで神林嬢がご存知なんだ?」
「あたしのクラスでも当たり散らしてくれたからよ」
そう言って彼女は眉をしかめた。
「そりゃあたしだってあの先生の、生徒をバカにした感じが好きじゃないけどさ。わざわざ喧嘩を売りに行かなくたっていいでしょうが」
「何のことだ?」
「それよ、その笑い方」
肘で小突かれて肩をすくめる。
「そうは言っても、これは俺なりの処世術なんだ」
「誰に倣ったのよ?」
「専売特許だよ」
「嘘つきなさんな」
神林明日香はこめかみを押さえ、
「今時どんな時でもへらへら笑うのは政治家くらいのもんでしょ?」
「そうでもないけどな」
いろんなところに笑いが転がっている。
人を小馬鹿にしたような笑い、相手を自分より下に見る哀れみの笑み。愛想笑い。
「あまりにも非ニーチェ的なだけさ」
「どういう意味よ」
「ずばり、ルサンチマン」
そう言って、俺は笑いかける。
あんたには理解できないだろうけどね、という意味合いの笑み。
「そんなことより、もっと前向きな話はどうだ? 美術館にまつわる黒い噂とか」
「あんた、あたしの家のこと何だと思ってんのよ」
二度目の肘鉄。
「いや、だって親父さんが一から指揮したんだろ? 俺、お前の親父さんのことをよく知らないんだが、どんな人なんだ?」
「カッコつけたがり」
娘は父親を一刀両断した。
「『ゴッドファーザー』見て『こんな家長になりたい』って本気で考えるタイプ。昔は本気で役者もやりたかったらしいし、神林の中に映画部門も作りたかったんだって」
「作ればよかっただろうに。一昔前なら、いい役者も揃ってただろ」
「おじいさまが許さなかった。それだけよ」
「そのおじいさまのために美術館を造るのか?」
「そう聞いてるわ」
神林明日香は、感情のこもらない声で言った。