15.紙切れとバイブル
「ここでいい」
言われた運転手は、思わず首を傾げる。
何もない空き地だ。
「えっと、お勘定は……」
メーターを確かめて、金額を告げる。ごそごそとポケットを探る少女は、何気ない口調で尋ねた。
「ところで一つ訊いておきたいんだけど」
「なんです?」
気が付けば、こめかみに何か押し付けられていた。
映画で聞き慣れた、撃鉄を起こす音。
「金のためにタクシー運転手殺した、永山則夫って知ってる?」
銃声。
降りてきた黒髪の少女は頭頂部を掴むと、一気に引っ張った。ずるり、と顔の皮が髪ごと剥けて、鮮やかな金髪が夜空に舞った。
『あの……明日のことなんだけどさ』
『明日? あんた、今入院中って……ホラ。その……』
『いや、検査では何もなかったんだ。だからお前のお父さんに頼んで、今退院してきたところだ』
『そう、なの?』
『ああ。それとな、俺と一緒にいた女、覚えてるだろ?』
『うん……トミタヤヨイさんだっけ?』
『信じてもらえないかもしれないが……あいつに校舎から突き落とされた』
『……え? だって……従姉なんでしょ?』
『そう言えって脅されてたんだ。そうしないと、お前を殺すって』
『………』
『冗談でこんなバカな話をするつもりはない。いいか、トミタヤヨイには気をつけろ。もし何かやらかすとしたら、明日が絶好の機会だ。俺もできる限りのことはする。でも、常に狙われていると思っていた方がいい』
『……うん……』
『その、ごめんな』
会話はここで途切れていた。再生を終えたスマホは突如として煙を噴き出して動かなくなった。
「『ミッション・インポッシブル』の世界だね」
見上げたトミタは、そのまま視線を逸らした。
「ごめん。不謹慎だった」
スマホだけの関係とはよく言ったものだ。
実際破壊されてしまった以上、今から明日香に連絡を取るのはほとんど不可能だと言っていい。直接会いに行けば病院に戻されるのは必然だろう。
それに、万一連絡を取れたところで、さっきの電話が俺のものではないとどうやって証明すればいいというのだろう。
「コピーキャットは、私に変装して脱走の手引きをした。しかも君のふりをして電話を掛け、明日香嬢に偽の警告を送った。十中八九、あなたを引っ張り出すためよ」
何か言おうとしたが、何も言えなかった。
椅子に座る。座り込むと言った方が正しいかもしれなかった。
「俺はこの数日で、自分がどれだけ非力な存在であるかを知ったよ」
自嘲でも何でもない。本心だった。
「誰も信じてもらえない状況ってのは、平和が当たり前だからだ。平和が当たり前なのは、体制がある程度整っているからだ。体制が整っているということはある程度筋の通った社会があって、その社会は通常、どんな攻撃を受けたところで揺るがない」
ただしそれはあくまでも攻撃を受けてからの話であって、攻撃を未然に防ぐことは不可能に近い。
「なんだか俺は、自分がバカのように思える。お前も含めて何人もの人間に言われた。何も考えずに、ただそれが終わるのを待っていればいい、流されてしまえばいい、ってな。俺にはコピーキャットや、お前に対抗できるような実力はない。かと言って、それに対抗できるだけの人を動かすような社会的ステータスもない。こんな半端な状態に比べたら、お前たちのような、力こそすべてという弱肉強食の考え方や、神林のような金こそすべてという両極端な考えが、いっそ羨ましくなる。俺は……無力な俺は、そのどちらにも引っ張られて引き裂かれる」
トミタはしばらく黙っていた。しかし、俺の顔を見て、ぽつりと呟いた。
「でも、流されるつもりはないんでしょ?」
「ああ」
結局のところ、最後に残るのはプライドだ。自分がどうしたいかという意志だ。
そしてそれだけが、自分自身を満足させる最後の砦だ。
たとえ、結果が伴わなかったとしても。




