14.フリーズ・ムーン
廊下はほとんど消灯していて、薄暗かった。
元々個室しかないフロアのせいか、あらかじめ照明の数も少ないようだ。
「大丈夫、殺してはないわよ」
俺の視線に気づいたのか、トミタが言い訳がましく呟く。
「無関係の人間はできるだけ殺さないって言うのがポリシーだから」
「コピーキャットと違って?」
「ええ。コピーキャットと違って」
速足で歩き出したトミタを追う。
「どうしてここに?」
「屋上であなたたちが落ちた後、他の生徒に紛れて様子を窺ってたのよ。救急車で搬送されたら追跡も楽だったのに、横溝が余計なことするから……」
「ちょっと待て」
「なによ?」
振り返るトミタに尋ねる。
「どうして俺を運んだのが横溝だと知ってるんだ?」
「カマかけてるつもり?」
とトミタが鼻を鳴らす。
「ここの連中がべらべら喋ってたのよ。病院のオーナー……神林だっけ? から直々の命令が下りたとか、救急車じゃなくて車で搬送されたとか」
「……そうか」
「そうそう。横溝はオーナーに掛け合って、しばらくあなたを閉じ込めておいてほしいって言っていたらしいけど、心当たりは?」
「ある」
大方、飛び降りたのは自分がぶん殴ったせいとでも思っているのだろう。
「あら、そう」
トミタは小さく肩をすくめただけで、何も聞かなかった。
薄暗い病棟で、唯一電気がついていたのはナースステーションだ。
しかしスタッフは、テーブルに突っ伏すようにして眠りこけている。
取り返したスマホは充電が切れていた。
「明日香さんに電話するつもりなら、やめといたほうがいいわよ」
「どうして?」
「あなたをここに軟禁するのを決定したのが神林なら、その旨を娘に伝えていてもおかしくないでしょうが。今このタイミングで脱走がばれたら面倒なことになるわよ」
言いながらトミタはナース服を脱ぎ捨てた。そこらの百貨店でも買えそうな無地の白い下着だった。手近な椅子に引っ掛けていた普段着を羽織り、言う。
「さて、脱出と行きましょうか」
エレベーターで一階に降りて、スタッフ用の裏口から外に出るまで、スタッフはおろか警備員も見当たらなかった。
ただそれだけなのに、何かしら空恐ろしいものを感じる。
「この世に本当に安全な、殺されない場所なんてあるのか?」
「あるんじゃない? 私は知らないけど」
警備員から奪ったものであろうカードでやすやすと自動ドアを開ける。室内とは違うむっとした暑さが顔を撫でる。
駅まで少し離れている。そこまで行くか、途中で流しのタクシーを見つけられれば御の字だろう。
「それで、これからどうするの?」
「いったん家に戻って……あとは明日に備えるだけだが、そっちはどうなんだ?」
「私? そりゃもちろんコピーキャットの計画を阻止するわ。そのために、ここまで来たんだから」
「そうか……なら、やり方はともかく、共闘のしようはあるってわけか」
「お姫様を守るため?」
からかうようにトミタが笑う。そんな彼女を睨んだ。
からかうためとはいえ、明日香も標的にしているようなことを言っていたのを、忘れたとは言わせない。
とはいえ、自分でもわからないことがあった。
「結局俺は、どうしたいんだろうな」
「どうしたい、って?」
「幼馴染を、明日香を守りたいという気持ちは今も変わらないはずだ。でも、それ以外の点では、すべてにおいて――コピーキャットの言い分も、お前の言い分も理解できるんだ」
いや、そちら側の方が、より共感できるというべきか。
「人生設計だとか、税金だとか、大学進学やら就職活動、そういった、俺の社会でのせせこましいことを一生懸命に追いかけるのは滑稽に思える。
しかもそれらは結局のところ正解がないんだ。自分が妥協さえすればどこまでもハードルを下げられるし、逆にハードルを上げることもできる。
ゴールポストが動き続けるサッカーをやらされている気分だ。その割に、リターンは少ない。
逆にお前らはどうだ? 安心とは無縁の生き方かもしれない。でも、やるべきことはシンプルで、一貫している」
トミタは一瞬立ち止まったが、すぐに何事もなかったかのように歩き出した。
「初めて日本に来た時、ラジオを掛けたわ」
「うん?」
「自分だけが知っていると思うマイナーな曲を挙げてください、なんてコーナーでね。その中の曲の歌詞がこうだった。『戦争に行きたい。殺したいわけじゃない。でも死んだっていいんだ。この社会に殺されるよりは』」
トミタがゆっくりと振り返る。
「あなた、コピーキャットを殺せる?」
「わからない」
正直な答えだった。校舎から一緒に落ちたのは、その状況に迫られたからだった。
「案外淡々と殺せるかもしれない。あるいは直前になって、どうしてもできなくなるかもしれない。ただ、あいつは快楽殺人者だ」
「だから、罪の意識からは逃れられやすいかも、って?」
「ああ。でも――」
「でも、なによ?」
「――それ以上に、あいつには逮捕されてほしくないと思うし、死んでもらいたくないと思ってる」
「なにそれ」
「あいつはそれを自分の役割という言い方で表現していた。あながち間違っていない気がする」
「でも、自分の大切な人には死んでほしくない、手をかけてほしくないわけ?」
「……ああ」
トミタは吐き捨てるように言った。
「ゴールポストを移動させてるのは、あんただって一緒じゃない」
その時、タクシーが通りがかった。俺とトミタは無言で乗り込む。家の住所を告げると、運転手は頷いて、ゆっくりと走り出した。
カーステレオからは、どこかで聞いた音楽が流れている。
「『ステイン・アライヴ』か。名曲よね」
「おや、ご存知ですか?」
運転手がバックミラー越しに見返す。トミタは頷いた。
「『サタデー・ナイト・フィーバー』で使われたやつよ。映画の方も名作だったわ」
「ああ、確かにダンスシーンは圧巻でしたね。みんなよく真似したもんです」
運転手の相槌に、トミタは露骨に顔をしかめた。
「……あれはね、貧困層の若者が、他にすることがないからドラッグとダンスをやってるって、一種の社会風刺が入ってる映画よ。ダンスホールの顔になったところで、下町のハリウッドスターと呼ばれたところで、それが自分に何かもたらしてくれるわけでもない。
知り合いの女の子はハリウッドでデビューしようと、プロデューサーのおっさんを何とか振り向かせようとしていた。
でもそれらは所詮現実逃避でしかない。そんな自分の中の無力感を悟った主人公が、それでも生きていかなければならないって気づいて、そこに挿入される曲なの。歌詞の意味知らないの?」
「ディスコではよく聞いてたんだけどね」
と、運転手は照れたように言う。
「誰も、歌の歌詞なんか気にしないから」
「なにそれ。音楽ってのは歌詞がキモでしょ。なのに意味わからないものを聴いて、知ろうとも思わないし、知らないことを恥ずかしいとも思わないの?」
トミタが腕を組み、唇をへの字に曲げる。気まずくなったのか、運転手は帽子をかぶりなおした。
運転手の心の声が聞こえたような気がした。
誰も、英語なんかわかるわけないじゃないですか。
そもそもそんなの、なんでマジになる必要があるの?
流れていく夜景をじっと追っていた。憂鬱な気持ちに反して、ビージーズの明るい歌声が車内に響く。
ふと視界に、ライトアップされた美術館が見えた。
『サタデー・ナイト・フィーバー』に例えるならば、あれがハリウッドだろうか。
この街に建てられた神林財閥の象徴。
持つ者と持たざる者。
それにとらわれずに生きていこうとする者。
それを壊すことで嘲笑おうとする者。
ふと考えた。
果たしてコピーキャットは、自分の造り出した破壊に便乗して楽しもうとする人間を、容認するような真似をするだろうか?
タクシーは停まり、俺は金を払った。運転手は降りようとしないトミタに疑問を抱いたらしかったが、また何か言い返されるのを恐れてか、何も言わなかった。
「私は私のやり方で動くつもり」
降りる際、トミタはそう囁いた。
「だからあなたは、自分が本当にしたいと思うことをするべきよ」
「……ああ」
ドアが閉まり、タクシーが走り出す。見送って家に入った。
もちろん家の中は真っ暗だった。電気のスイッチを探して壁に手を走らせる。
腹に鈍い衝撃が走った。
崩れ落ちる俺を見下ろす影は、倒れた俺を跨いで電気のスイッチを押した。
俺を見下ろしていたのは、トミタだった。
「あなた、本物?」




