1.僕が僕であるために
笑顔を浮かべていれば、どんなことにも耐えられる。
できることならこの喜びを、みんなに分けてあげたいとすら思う。
どうして、世の中の人間は、生きる喜びを知らずに生きていけるというのか――!
「大げさなことを言ってるところ悪いがな、沖」
コツコツとこめかみを叩きながら、担任が口を開く。
「俺にはお前の能天気さがどうにも理解できないんだが」
「それは先生にハッピーが足りないからですよ」
途端に、担任は口をつぐんだ。
「……なんでしょう、その可哀そうなものを見る目は」
「これを見たら、お前もハッピーじゃなくなると思うんだが」
視線を落とす。ことごとく赤で書かれた数字。
赤ペンならぬ赤点。
「もう一回遊べるドン! ってやつでは?」
「凄いなお前のポジティブシンキング」
まあいい、と彼は、ワイシャツのボタンを外した。
「まあ、補習もそんな感じで頑張ってくれ……全部赤点だが」
「もちろんです」
「やるべきことはちゃんとやるように。進級できなくなったらコトだろう。ふざけるのもいいが、将来のことはきちんと考えておけ」
話は終わり。お説教も終わり。
俺はハッピー・スマイルを意識しながらそのまま回れ右をする。
「ただし」
後ろから担任の声が追いかけた。
「あんまりそのハッピースマイルとやらを見せびらかすのはやめろ」
「どうして?」
「バカにされていると思う先生方もいるらしい。特に数学の……横溝先生は不快に思っているそうだから」
俺は振り返り、言った。
「スマイルが足りないからですよ。人生半分損してますね」
「そうだな。自分の半分も生きてない若造にそう言われれば、横溝先生が怒るのもよくわかるな……」
担任の力ない笑み。
俺のモデルになった微笑。
気が付けば、腕時計の上から手首を押さえている。
自分の笑顔について、ハッピー・スマイルと呼んでいるのは、そう呼んだ方が必殺技っぽくてカッコいいからだった。
必殺、ハッピースマイル。
そんな風に意識して発動させやすいので、中学時代に気づいて以来そうするように心がけている。
幼馴染には中二病の一言で片づけられてしまった。
そんな彼女は今、俺の隣でとぼとぼと歩いている。
「お疲れのようだね、神林嬢。そんな時もこのハッピー・スマイルを使うことで疲労の7パーセント解消が見込めるぞ。ぜひこの笑顔大使とともにやってみよう!」
「誰が笑顔大使よ、このどあほう!」
幼馴染、神林明日香はゾンビのようにむくりと起き上がると一応のツッコミをしてくれた。本当に疲れているのなら無理をしなくてもいいのに。
「一生の不覚だわ……っ! まさかあたしが補習を受ける羽目になんてっ」
「それも人生の醍醐味さ」
「嫌いな科目のために余計に勉強して、余計に時間をとられることに何の醍醐味があるって言うのよ!」
「じゃ、逆転の発想として科目を好きになってみるというのは」
「却下。あんな場所も時間も飛びまくる世界史なんて、誰が好きになるもんか!」
栗色の髪を振り乱しながら力説する姿には相応の迫力があった。
ごもっとも。
「あーあ、本当に一生の不覚よ……本当なら、お父様と一緒に美術館の下見に行けたはずなのに」
「美術館の下見というと、あの?」
「そ。うちが建設から内装まで全部やった、神林記念美術館よ」
そう言って彼女は、顎で駅前の一角を示す。
駅前特有の、くすんだ灰色の建物に埋もれるようにして、突如として現れた白い建物。ローマやギリシャの建物のような、あの忌々しい世界史のナンタラカタラ様式の紋様は、明らかに周囲から浮いている。
噴水もある。ヴィーナスっぽい石像もある。場所も時代も間違えた美術館が、美術のビの字もわからないような田舎町にでんと突っ立っている。
ここまで突き抜けてたらいっそ清々しい。
「神林財閥この地にあり、ってとこだな」
神林明日香は露骨に顔をしかめた。
「自分だけでなく、おじいさまの代まで顧みて、あまりにも地元に貢献できていなかったから、せめて何か、後世に遺せるようなものを、って言うのが、お父様の言葉だったわ」
間接的な批判の言葉。
実際俺もそう思う。
後世に遺すのであればいっそ学校に出資した方が、よほどのことがない限り潰れることはないだろうし、美術館なんて建てたところで、中身がなければただの箱だ。
外見だけは金ぴかで中身が空洞、というか外見に釣り合っていないのは、いかにも高度経済成長という時流を堪能した成金と言った感じがする。
手ひどく言うならば、戦争成金の最後っ屁、といったところだ。
「でも、なんだかワクワクするよな。ああいう建物は」
「そ、そうよね?」
取り繕った言葉に食いつかれた。
発言者を盗み見ると、彼女は胸に手を当て、何度も深呼吸を繰り返していた。
「そ、それで、それで、ね? その……」
「何?」
ぎゅっ、とスカートの端が握り潰される。俯いた顔からは表情は窺えない。
「な、何でもないわよ、バカぁ!」
突如顔を上げた彼女は叫ぶと、びしっと人差し指を突き付ける。
「いい!? 二人で、さっさと世界史の補習だけでも終わらせるわよ!」
「ん、ああ、そうだな……」
「返事は!?」
「イエッサー」
よくわからんがとりあえず敬礼。
ついでにハッピー・スマイル。
「じゃ、じゃあ、そういうわけだから、今日からあんたの家でと、泊まり込みで勉強するってことで、その……」
「あ、すまん。そろそろ時間だわ」
腕時計を見る。
彼女から離れ、歩き出す。
「え、ちょっと! どこ行くのよ!」
「儀式だよ、儀式」
「儀式!?」
「そ」
振り返った。
「ハッピー・スマイルは、遠くアンドロメダ星雲の彼方、ニーナ・ゲールトの啓示を以て初めて発揮できるからな。彼女のご機嫌取りの儀式をやる必要があるのさ」
顔文字ばりの唖然とした顔。
顔面が沸騰するまで約二秒。
「勝手にしなさいよこのボケナス!」
カバンの中に手が突っ込まれる。引き出すと同時に、高速で何かが飛んできた。
避けきれなかった。額に激突してたたらを踏んだ。そのまま倒れる。
俺の顔面をぶち抜いたオロナミンCが、腹の上で勝利の踊りを踊っている。
「……やれやれ」
果たしてこの未開封のオロナミンCは、彼女なりの激励なのだろうか。
不器用な少女だった。
儀式が必要なのは、昔からだ。
自分が特別な人間でないことくらい、小学生でもなければ理解している。
それでも特別な人間らしく振舞うためには、理解されづらい、『自分らしさを高める時間』というのが必要になる。
「いやまあ正確には必要じゃないんだが」
なんというか、あった方がマシ。
生きるのが楽しくなるコツである。
自販機でコーラを買う。マイナーなやつだ。舐めるようにして味わいつつ、ぬるくならないうちに飲み干す。喉に流し込むときに目を瞑り、大きく息を吐き出して、深呼吸をする。
そして目を開ける。目の前の景色が少しだけ違って見える。
そんな『いつもと違う』ことが実感できれば、儀式は成功だ。
夕焼けで、公園は滲んでいた。
近くにアパートがあるせいか、入り口には自販機が設置されている。
公園そのものもかなりの広さを誇っており、俺の記憶が正しければ、バブルの置き土産だったはずだ。放火してでも買い占めようとした土地が最終的に遊具もない公園にされるなんて、誰が予想できただろう。
そんな、とりとめのないことを考えることが好きだ。
公園のことを考える。この公園の歴史について考える。手元のコーラについて考える。いつから好きになったかを考える。対象がどんどん変わっていき、最終的に自分に向かう。
自分のことについて考える。
やるべきことはなんだろう。
やりたいことはなんだろう。
脳裏をいろんな大人の顔がよぎる。
「やるべきことはちゃんとやらんと、進級すら危うくなるぞ」
教師の言葉。
「お前、将来のこと、ちゃんと考えてるんか?」
「……あんたらはどうだったんだよ」
古くはジジイから――高度経済成長、バブルに溺れ、国の指導者たちがことごとく政策を読み違え、ツケは全部次世代行きだ。
俺たちが汗水たらして得る金は年金として奴らに使われて、逃げるが勝ちでボックリ逝くんだろう。
真顔になりかけた自分の頬を叩き、笑顔を作る。
空になったコーラが嫌な音を立てて潰れた。
目を開けた。ずっと目を閉じていたわけでもないのに、気が付けば日は落ちていた。
日中は青々しく見える若葉が黒ずんでいて、風に揺られてこすれ合い、嫌な音を立てる。気持ち悪いくらい涼しい風が肌を撫でる。
駅前に向けて、重い足取りで歩き出す。
奇妙な女に会ったのは、その道すがらのことだ。
ちょうどアパートから出てきたところだった。落ち着き払った様子で服の埃をはたき、襟に軽く指を添える。笑みを浮かべ、何事もなかったかのように歩き出した。途中、こちらに気づいたように会釈する。
行進するように右手はブンブンと勢いよく振られているのに、左手はだらりと下がったまま。ジャケットの裾に隠れた小さな手は握りこまれている。
流れるような金髪が、夕陽に光っている。
染めたような感じの色ではなく、外国人のような自然なブロンド。
自分とは違う、本物の異質さがそこにあった。
ペースを落とし、距離を取った。彼女が曲がり角を曲がって見えなくなるのを待ってから、アパートの手前で立ち止まる。
ますます奇妙だった。
アパートのドアは半開きになっていた。
羽音をぶんぶんと言わせながら、玄関のライトに突撃を繰り返す虫がいる。隙間から中に入った虫が、黒い斑点のように浮かび上がっている。頼りない光に任せ、視線をゆっくりと足元へと落とす。
半開きなのには訳があった。
ドアと壁の隙間から、白く細い腕が覗いていた。
三和土の砂利が食い込み、砂埃で汚れることも構わず、人差し指と中指が人形の脚のようにパタパタと地面の上を這いずり回っている。
いや、痙攣しているのか?
異様さに立ちすくみ、走り出す。
意図しない方へ。
ドアの前に立っている。
気が付けばドアを開けていた。
うつぶせになった少女が倒れていた。フリルの付いたドレスシャツも、無地のスカートも砂ぼこりで白く汚れている。妙に粘っこい唾液を呑み込んで、少女の肩を軽く叩く。
「だ……大丈夫か?」
ざら、と指の間から砂が零れ落ちていく。こちらがじれったくなるほど緩慢な動きで、少女は立ち上がった。眉間に皺をよせ、挑むようにこちらを睨みつける。
「……誰?」
「その……家の前を通りがかって、それで、君が倒れていることに気づいて……あっ、そうだ。救急車を――」
携帯が宙を舞った。
鋭い、じんとした痛みが掌に広がっていく。携帯ははたき落とされ、嫌な音を立てて三和土の上を滑った。
「呼ぶ必要は、ない」
「でも」
「大事にしたくないの。わかる?」
叩きつけるような口ぶりだった。しばらくこちらを睨んでいたと思ったら、ゆっくりと目を逸らして言う。
「……大丈夫だから」
暗い玄関で、ざっと彼女の体を検めた。
見たところ、ひどい出血をしているとか、そういった様子はない。確かに、救急車を呼ぶほどのことはないかもしれない。
「一体、何があったんだ?」
「別に。……ちょっと転んだだけ」
嘘だ。
彼女は俺が、玄関から出ていった少女を目撃したことを知らないらしかった。
玄関から入って廊下、右手側に部屋があるようだった。電気がついているのか、引き戸の隙間から僅かに光が漏れ出ている。
三和土に視線を戻す。
乱雑に散らばった四足の靴。
――他に誰かがいる。
「……じゃあ、俺は、ここで……」
「待って」
と、彼女はこちらにもたれかかろうとして、そのまま立ち眩みを起こしたらしかった。一気にこちらに倒れ掛かる。受け止めた体はあまりにも華奢だった。
「駅まで行くんでしょ? 私も買い物があるから、付いていく」
「は?」
「連れてって」
彼女は言って、一旦部屋に引っ込んだ。
ポーチを抱えて戻ってくるまで一分もない。
「じゃ、行こう」
彼女は俺の腕に自分の腕を絡めながら言った。
あからさまな嘘に、誰かに見せつけるような演出された親密さ。
少女はきゅっと腕を絡めたまま、俺をせかすようにして歩く。
絡めるというよりも、固められているとでも言うべきだろう。
体が動かない。
その上、時折急に力を失って崩れ落ちそうになるので、一緒になって転びかけたことも一度や二度ではなかった。
「離れたらどうなんだ?」
車や人がすれ違う度に、彼女は体を強張らせ、こちらにもたれかかってくる。まるで、何かに怯えているかのようだ。俺を睨み、首を振る。
「いいから、歩いて。何でもないように」
囁いた瞬間、またガクっと崩れ落ちる感じがあって、俺も一緒に引っ張られた。
足を取られ、一緒に倒れこむ。
ちょうど新たな対向車が俺たちの脇を過ぎて行った。
白と黒のツートンカラー。
音もなく、赤色灯が回転していた。