第6章
1909年10月16日。
カリフォルニア州コルモの『ミッション・ストリート・アリーナ』。
ジャック・ジョンソン対スタンレー・ケッチェルの世界ヘビー級タイトルマッチ当日。
ちまたでは、ジョンソンが『手を抜く』という噂が立っていた。
その後、数多く持たれた、『八百長疑惑』の第一回目である。
それにしても、この試合・・・『世界ヘビー級王者に、世界ミドル級王者が挑戦する』・・・
いまでは考えられないようなカードだが、当のジョンソン本人さえも、対戦相手ケッチェルのマネージャーから、この試合を持ちかけられたとき、「自分の耳を疑った」と回想している。
案の定、試合には「条件」が付けられていた。
『試合を最後まで持たせてくれ。ケッチェルを痛めつけないように。それで【結果】は・・・ノー・デシジョン(= 無効試合))だ。』、と。
・・・二万五千ドルという、巨額のファイトマネーに魅かれて、ジョンソンは、この浅ましい、幼稚な条件を飲んだ。
さて・・・いざ、リングに上がった二人だが、裸になった挑戦者ケッチェルと比べて、ジョンソンの肉体的優位は、圧倒的だった。
映像をご覧いただければ分かると思うが・・・それほどの体格差があったのである。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
カーーーーン!
第1ラウンドのゴングが鳴った。
ケッチェルは、上背があり、ふところの深いジョンソンを責めあぐねているようだ。
なかなか、いつものように、アグレッシブに攻めていけない。
『・・・相手もチャンプだから、堂々と闘ってほしかったよ。』
ジョンソンが回想する。
「スタンレー、しっかりしろ。」
あの『ゴールデン・スマイル(黄金の微笑み)』を浮べながら、挑発する。
ここで早くも、ケッチェル、ダウン。
カウント・エイトでなんとか立ち上がった彼は、ヨロヨロしながらも、王者ジョンソンに向かう。
第9ラウンド。
疲れきった挑戦者は、立っているのが精一杯だった。
ジョンソンに責められっぱなしである。
なにも攻撃していないのに前のめりに倒れかかろうとするケッチェルに対し、両脇をつかんで、無理やり立ち上がらせるジョンソン。
『・・・もうちょいやろうぜ、スタンレー。』
ケッチェルの顔面には、出血が。
そこへ、もはやフットワークを使わず、完全に足を止めてしまって余裕で棒立ちのジョンソンからの、情け容赦ない鋭い「左ジャブ」が何発も突き刺さる。
一方、フラフラになってはいても、ケッチェルだってやられてばかりはいない。
しかし、得意の左の「オーバーハンド・フック」に賭けるケッチェルの攻撃を、ジョンソンは簡単にクリンチで止めてしまう。
『そんなにあせるなよ、スタンレーくん。』
『もっと、手ぇ出せや・・・。』
このようにして、11ラウンドまでは、ジョンソンがケッチェルを、それこそ『こわれもの』でも扱うように、つぶさないように、『シナリオどおり』に、『筋書きどおりに』試合を持たせる。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
そして迎えた、第12ラウンド。
ここでようやく、ケッチェルの闘志がよみがえってきた。
そして、このラウンドに、『ハプニング』が起きた。
「いまだ、スタンレー!!」
チャレンジャー・コーナーからの突然の叫び声に振り向いたジョンソン。
そこへ、挑戦者のワイルドなオーバー・ハンド・ライト・・・大振りの右スウィングが炸裂する。
ジョンソン、たまらずダウン。
ケッチェル有利の展開に。
白人ファンが、総立ちになる。
(・・・この野郎、裏切りやがったな!)
怒りに燃え、ふらつきながら立ち上がるジョンソン。
彼は・・・ケッチェルに鋭い眼光を向けると・・・渾身の力をこめて、飛びかかってきたケッチェルの顔面を右ショート・アッパーで、おもいきりぶっ飛ばした。
のされたケッチェルは、背中からキャンバスに沈み、大の字になったまま失神して動かなくなった。
ジョンソンも、ぶんなぐった瞬間、勢い余って、向こう側に自身もふっとんで倒れた。
・・・スローモーションで見てみよう。
ケッチェルは、全体重を右に集中させていた。
よろよろと立ち上がる相手を見て、ケッチェルは、『勝った』と思った。
だが、ジョンソンの、絶妙なタイミングで繰り出された右を、アゴに直撃され、ジョンソンも勢い余って転倒。
動かなくなったケッチェルを、余裕の表情で見おろしながら、ジョンソンは、グローブに付いた『なにか』を払い落とす。
じつはこのとき、ジョンソンがあとで語ったところによれば、ケッチェルの、折れた歯が三本ほど、彼のグローブに食い込んでいたということらしいが・・・単に、グローブが裂けていただけ、という説もあるようだ。
こうして、この試合は、ジョンソンの初防衛成功で幕を閉じたわけであるが・・・すこし、後味の悪い裏話がある。
ミドル級の名チャンピオンだったケッチェルは、この試合の一年後の1910年10月、三角関係のもつれから、恋敵に射殺され、わずか24年の生涯を閉じている・・・。
(このスタンレー・ケッチェルにつきましては、あとで、個別に、簡単なボクシング・エッセイを立ててみます。)