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絶対に婚約破棄したい王子VS絶対に婚約破棄したくない悪役令嬢

作者: 榛名丼

 


 学園の大ホールにて、その騒ぎは唐突に起こった。



 広いホールは数百人もの学生、それにその両親や教師達なんかでひしめき合っている。

 現在はパーティーの真っ最中。つい数分前まで彼らは隣人と親しげに会話をし、共通の話題を交わしては笑い合っていた。

 しかし現在、その場に集った全員が固唾を呑みながら……目の前の光景を何事かという顔で見守っていた。


 壇上にて注目を集めるのは一人の少女と、寄り添い合う二人の男女である。


 少女の名は、公爵令嬢ミュゼ・サトゥーナ。

 見目の整った美貌の少女なのだが、意志の強い吊り目には少々キツめの印象がある。今も瞳をギラつかせ、男女――主に男に寄り添う女の方に対し睨みを利かせている状態だ。


 そんなミュゼを見つめる男は、この国の王子タクティクス・シード。

 それなりに整った顔立ちをしているが、垂れ目のためか少々気弱そうな印象がある。

 しかし今は隣の少女を守るように前に出ており、ミュゼを相手取っても一歩も引かない凜々しい態度である。


 そして男に寄り添う平民の少女は、リリカ・コヤーバ。

 派手な美しさを纏うミュゼに比べて一見すると地味だが、小柄で華奢な体格のためか、男の庇護欲を掻き立てるような愛らしい少女だ。

 リリカはミュゼの敵意に怯えているようで、王子の腕に甘えるようにしてすり寄っている。


 その光景をなすすべ無く見守る人々は、ひそひそと会話を交わす。


 というのもミュゼとタクティクスは幼い頃から仲睦まじく、学園内でも二人の関係は有名だったのだ。

 それなのに今、二人はまるで敵対しているかのような立ち位置にある。彼らの多くが動揺するのも決して無理からぬことである。


 注目を浴びているからか少々緊張した面持ちで、口火を切ったのはタクティクスだった。


「我が婚約者、ミュゼ。僕が君を呼び出した理由は理解しているかな?」


 対するミュゼはツンと澄ました表情で応じる。


「いいえ。何の心当たりもありませんわ」


 広いホールにもよく響き渡る美しい声だった。ミュゼの態度はどこまでも堂々としていた。

 そんなミュゼに、リリカが恐ろしげに震えると……タクティクスはそんなリリカの手を励ますようにそっと取った。

 それからリリカに柔らかく微笑みかける。リリカはそんな王子に安堵した様子だった。そんな二人を見守るミュゼの表情には険しさが増していくばかりだが。


 タクティクスはリリカに頷くようにすると――ミュゼを指さし、言い放った。



「公爵令嬢ミュゼ・サトゥーナ! 僕はお前との婚約を破棄する!」



 ――その場には一気に、大きなざわめきが広がった。

 まさかあのタクティクスが、ミュゼに婚約破棄を言い渡すとは!


 いったい二人の間に何があったというのか?

 そんな乱れた空気の中……ミュゼは動揺の欠片もなく、きっぱりと言い返した。


「嫌ですわ」


 その返答に呆気にとられたのはタクティクスだ。

 驚かれたり、泣かれたりといった反応は想定していたのだろうが、まさか「嫌」とシンプルに拒絶されるとは思っていなかったのだろう。


 そしてタクティクスの一瞬の戸惑いを見逃さず、ミュゼは畳みかけるように言った。


「絶対に絶対に、絶対に嫌ですわ」

「い、嫌と言われても困る! 僕はお前との婚約を破棄する!」

「嫌ですわ」

「もうこれは決まったことだ! お前が嫌だとかどうかではなく破棄し」

「ません。絶対に婚約破棄なんてしません」


 怒涛の拒絶の嵐に呆然とするタクティクス王子。

 だが、このまま彼女のペースに呑まれるわけにはいかない。気を取り直そうと何度か咳払いをする。


「……ミュゼ、よく聞け」

「世迷い言はもう結構です」

「頼むから聞いてくれ! 頼む!」

「……そこまで仰るなら、まぁ」


 渋々ミュゼが頷いたので、タクティクスは静かに語り出した。


「ミュゼ、お前は公爵令嬢の立場を利用し、平民であるリリカのことを虐めていたな?」

「いいえ」


 つっけんどんと答えるミュゼ。まるで本当に心当たりは無い、とでも言わんばかりの強気の態度だ。

 タクティクスはそんなミュゼのことを見据えながら、隣のリリカを促した。


「……リリカ、どうなんだ?」

「わ、私はミュゼ様から酷い虐めを受けていましたっ!」


 タクティクスに問われたリリカは、ここぞとばかりに瞳に涙を浮かべて訴える。


「小汚い平民ごときがタクティクス王子に近づくな、といつも罵られてっ、足をひっかけられて転ばされたり……生ゴミを頭にぶつけられたり……ううっ」


 話しているうちに辛い感情がこみ上げてきたのか、わっと顔を覆って泣き出してしまうリリカ。

 その姿に、話を聞く人々も同情を覚える。何人かからはミュゼへのブーイングが飛んだ。


「罪を認めろ、ミュゼ・サトゥーナ!」

「悪の令嬢には裁きの鉄槌を!」


 だがミュゼは冷たい目で彼らを見据えると、舌打ちして言い放つ。


「お黙り愚民ども」

「国民を愚民呼ばわりするのは止めろミュゼ!」


 タクティクスが注意すると、ミュゼは震え上がる観衆を一睨みしてからリリカへと目線を移した。

 それだけでリリカは恐怖のためか、顔を蒼白にさせる。ミュゼは威嚇するでもなく、落ち着いた口調でこう切り出した。


「……ではうかがいますが、リリなんとかさん。直近だといつ頃、わたくしからの嫌がらせを受けましたか?」

「リリなんとかって……ええっと、昨日です! 昨日、ミュゼ様は私を人気の無い校舎裏へと連れ出し、王子に近づくなと私の頬を平手打ちしたのです!」


 いつの間にタクティクスとリリカの後ろに集まっていた女子達――リリカの友人達が「そーよ!」とその言葉に同意を示す。


「私も見ました! 昨日、ミュゼ様は嫌がるリリカさんを無理やり連れ出して!」

「頬を腫らして泣くリリカさんを、私たちが医務室につれていったんですから!」

「そこで適切な治療を施したから、もう頬には腫れた跡は残っていませんけど!」


 それらの言葉にリリカと共にうんうん頷いていたタクティクスが、厳しくミュゼを見つめる。


「……どうだ、ミュゼ? これでも言い逃れをするつもりか?」


 もはやその光景を見守る人々も、華々しき公爵令嬢ミュゼ・サトゥーナの終わりを悟っていた。

 だが渦中の人物であるミュゼは全く動揺していなかった。それどころか彼女は――フッ、と挑発的な笑みさえ浮かべてみせたのだ。


「そもそも昨日の放課後ならば、わたくしには明確なアリバイがありますわ」

「な――何だって!?」


 驚くタクティクス。リリカや友人達も「アリバイっ!?」と目を丸くしている。

 ざわざわとホール内の人々がざわめく中……ミュゼはとある人物を見つめる。

 その目線を全員が追った直後、絶妙なタイミングでミュゼは明かした。


「わたくし、何を隠そう昨日はそちらに居る――タクティクス王子のお部屋に居ましたから」

『!!!!???』

「何をしていたかというと、もちろんわたくし達は婚約者同士ですもの。公衆の面前では言えないようなことをしておりました。その際に王子より耳元で囁かれた言葉を代表例としてお教えしておきますと、「好きだよ」「可愛いよ」「大好きだよ」「僕にはお前だけだよ」などなどなど」


 きゃあ、とあちこちから黄色い歓声が上がった。


「えっ……本当ですか王子……」

「な、何を馬鹿げたことを! 嘘を吐くなミュゼ!」


 リリカに軽く引かれ、タクティクスは顔を真っ赤にして慌てだした。

 その言葉に「まぁ、ひどい」とミュゼは愛らしく頬を膨らませる。


「もちろん証人もおりますわよ。ね、タクティクス王子のお兄様!」

「えっ!?」


 ホールの隅に目立たないように立っていたタクティクスの兄は――ミュゼに呼びかけられてぎょっとした。

 この国の第一王子である彼は、あまり目立つことが好きではない人柄である。しかし周囲の人々から容赦なく注目を浴び、何よりミュゼの迫力に押される形でおずおずと事実を口にせざるを得なかった。


「その……ミュゼ、さんの言うとおりだけど。俺は隣の部屋から弟の甘ったるい「大好きだよ」が聞こえてきたあたりで、耳を塞いで静かに外に出たけど」


 実の兄にまで暴露されてしまったタクティクスはもはや卒倒しそうな顔色だ。


「兄上! 何故僕に不利になるようなことを答えるのです!」

「お前よりはミュ……ゼさんの味方だからかな」

「こういうときは肉親に味方してくださいよ!」

「そう言われてもな……長い付き合いだし」


 すっかり形勢は逆転し、ミュゼはふんぞり返るようにして首を傾げた。


「――それで、タクティクス王子? リリなんとかさん? まだ何かあります?」

「えー、ええっとぉ……」


 あっけなく嘘がバレてしまったリリカは目を泳がせ、タクティクスは赤い顔のまま沈黙することしかできない。

 ミュゼは勝ち誇るように腰に手を当てた。


「もう仰ることは何も無いようですわね。それならば婚約破棄……でしたか。その話は無かったことにしてさしあげても、よろしくてよ!」


 オーホッホッホ、とそれこそ悪役よろしく高笑いをするミュゼ。

 もはやこの場はミュゼの独壇場である。観衆まで味方につけた彼女は文字通り最強だった。

 あわれ王子とリリカはこのまま、なすすべなく撃沈するのかと思われたが……



「どうしてお前は……そんなに僕と婚約破棄したくないんだ?」



 ――シン、とその場が静まりかえる。


 だが、タクティクスの言葉に最も驚いた様子を見せたのは……笑うのをやめて絶句しているミュゼだった。

 それに気がつかないまま、タクティクスは言葉を続ける。


「本当は昔から、不思議だったんだ。パッとしない僕と違って、お前は何でも器用にこなすし……いろんな男にモテて、告白されてるし……正直、僕のことなんて何とも思ってないんだと」

「……ひどい」


 異変に気がついたタクティクスはようやく顔を上げる。

 ミュゼはわなわなと身体を震わせ、タクティクスのことを睨みつけていた。

 興奮のためか息は荒く、目は大きく見開かれている。タクティクスはミュゼの異様な様子に困惑した。


「何でそんなことを仰いますの?」

「それは、だって……」

「理由なんてたった一つだけですわ」


 ミュゼは立ち尽くすタクティクスにつかつかと歩み寄った。

 もしやぶたれるのでは? とびびるタクティクスだったが――違った。


 ミュゼは、タクティクスの服の裾をぎゅっと握り、ぽろり……と透明な滴を零したのだ。


「わたくし――あなたのことをお慕いしていますもの」


 ミュゼが涙と共に口にしたのは……あまりにも少女らしく愛らしい、そんな言葉だった。

 言葉もなく驚くタクティクス。さらにミュゼはいくつも涙の粒を落としながら、


「リリカさんにも、誰にも負けませんわ。わたくしが一番、あなたのことが好き。あなたが大好き。それなのにあなたは、わたくしの想いをお疑い、なのですね……」


 思いがけずそんな健気なことを言われてしまったタクティクスはといえば、おろおろしながら彼女の肩に触れようとしたが、その手はべしっとミュゼ自身にはね除けられてしまった。


「な、何も泣くことないだろ……」

「泣きたくもなりますわっ! だってわたくしはこんなにもあなたのことが大好きなのに……う、うええ、ひっく……」


 あまりにも痛ましくミュゼがシクシクと泣くので、その様子を見つめていた女性達までもが涙ぐみ始める。


「可哀想……」

「泣かせるなんてひどい」

「王子、最低だな……」

「ミュゼ様に謝れ!」


 観衆からは好き勝手にひどいブーイングが飛ぶ。事態は収拾がつきそうもなかった。

 そんな中、タクティクスはどうすればいいか分からず戸惑うことしかできずにいた。

 事実、彼はまさかこんなことになるとは夢にも思っていなかったのである。


 ――誰か助けてくれよ、と彼は天を仰ぎ、声もなく呟いた。























 ――その混乱に乗じてたった一人。

 少女が素早く、闇の中を駆け抜けていた。


 彼女には強い使命感があった。

 こうなってしまった以上、自分が何とかしなければ全てが台無しになってしまう……そんな思いだけが、彼女のことを突き動かしていた。



「ちょっと! ナレーター!」



 背後からの大声に驚いた少年は、そこで慌ててマイクを切る。

 何事かと振り向けば、そこにはつい先ほどまで王子の隣に居たはずの少女の姿があった。


「な、何だよ小林。まだ本番中だぞ」

「うるさい! もうそれどころじゃないわよ、さっさと幕を下ろしなさい!」


 体育館放送室までわざわざ押しかけてきた小林里香が、息を切らしながら険しい表情で言い放つ。

 だが少年にも譲れない理由があった。


「いやでも、まだ悪役令嬢ミュゼが国外追放すらされてないし。この後、悪役令嬢が実は聖女の素質を持っていて、その力でスライムに変化して王子達に復讐した後に災厄の魔王をゴブリンの軍勢を率いて倒す熱い展開が待ってるんだから、何とか軌道修正してくれ」

「修正できるかアホ! もう尺も使い切ってるし」

「それをどうにかするのがいやしい系ヒロインの務めだ!」

「誰がいやしいヒロインよ!」


 容赦なく頭をはたかれ、少年は「痛って!」と目に涙を浮かべる。


「ともかく、未優はお怒りよ。もう拓人君も無理っぽいし。このあたりで幕引いたほうがまだ良い感じに収まるわよ」

「……う、分かったよ」


 少年は頭をさすりつつ、再びマイクのスイッチをオンにする。

 あーあ、初めてチャレンジした流行りの悪役令嬢物、面白いと思ったのになぁ……。


『こうして、ミュゼの美しい涙で彼女への溢れるような愛情を思い出したタクティクス王子は、「何であんな性悪なリリカなんかの言葉を信じたんだろう? あいつ、魔女か何かだったのかな?」と首を傾げつつ、愛しのミュゼと抱擁、そしてキスを交わした。こうして王国には百年の安泰が訪れたという。めでたしめでたし』


 真下の舞台では「抱擁、そしてキス!!」とミュゼ・サトゥーナ役の佐藤未優(サトウミユウ)が顔を輝かせている。先ほどまでの涙はやはり嘘泣きだったようだ。女って怖い。

 そしてタクティクス・シード王子役の種田拓人(タネダタクト)は、「抱擁、そしてキス?!」と飛び上がって天の声からの無茶ぶりに愕然としている。


 まぁ、せっかくの文化祭を台無しにした責任は取ってくれたまえよ、と少年は高みの見物で笑ったが、


『誰が性悪リリカよ!』

『痛ッて!』


 再び怒ったリリカ・コヤーバこと小林里香(コバヤシリカ)に容赦なく後頭部をはたかれ、額を激しくマイクにぶつけたのだった。


 ……こうして一年二組の舞台演劇『悪役令嬢復讐物語 ~実は聖女でスライムで賢者で世界最強の落第剣士なわたくし、チートスキル『ゴブリン祭り』でバチクソ無双しますわ~』は、観客の爆笑の声と共に幕を下ろしたのだった。






「……未優、怒ってる?」


 文化祭の打ち上げが終わったその帰り道。

 拓人はおずおずと、隣を歩く彼女――未優にそう訊いた。


 事の始まりは一ヶ月前のことだった。

 文化祭の出し物で演劇を行うことになり、拓人の親友が脚本と監督役に名乗りを上げた。

 元々、小説投稿サイトでよく書き物をしている彼は、ぜひ脚本に挑戦してみたいと言い出したのだ。

 本番ではナレーションまで務めた親友は「我が校の有名カップルを起用すれば何だってウケる」と言い張り、最終的にクラス全体を巻き込んで今日の舞台に臨んだのだったが――結果としては散々だった。


 そもそも「劇であっても拓人にフラれるなんて絶対嫌だ」と主役の未優が言い張ったことにより、通し練習も一度も最後まで行えた試しがないので、失敗するのは火を見るより明らかだったのだが……。

 しかし最終的には「ハプニング大賞」を受賞し、景品としてクラス全員に「一週間食堂利用タダ券」がプレゼントされたので、ある意味成功といえば成功なのかもしれない。打ち上げのカラオケの盛り上がりも壮絶だったし。


 そして今回の演劇で主役を務めた佐藤未優。

 未優は拓人の隣の家に住む幼なじみで、五歳の頃から付き合っている彼女でもある。

 ……五歳の頃のことなので、無論拓人ははっきりとは記憶していない。だが何度も未優にその日の微笑ましい思い出話を聞かせられる内に、「言われてみればそんなこともあったな」みたいな感じで徐々に記憶は改ざんされつつあった。


 そんな未優はすれ違う人の八割が思わず振り返るくらいのとびっきりの美少女だ。

 それこそ告白されるなんてしょっちゅうで、学校の男子生徒のほとんどが彼女に憧れている、なんて風にも言われている。本人は誰に告白されようと「彼氏がいるから」と素っ気なく断り続けていて、「そこも良い」なんて言われているのだが。


 そして一見すると近寄りがたいクールビューティで、隙が無い未優なのだが、実際は傷つきやすいふつうの女の子であることを拓人はよく知っている。

 台本をハナから無視し続けたのも、拓人扮する王子に婚約破棄を言い渡されるのが我慢ならなかったからだろう。それを思うと、拓人は原案の時点で反対しておけばよかった、と申し訳ない気持ちになった。


「別に怒ってないよ」


 そんな拓人にとって、未優の返答はかなり意外なものだった。


「え、本当に? 怒ってないの?」

「本当だよ。里香がタクくんに触ってたのはムカついたし、タクくんがいちいち里香に優しくするのには頭にきてたけど」

「……う、うん」


 ちなみに悪役令嬢を断罪する側のヒロインキャラクターを演じた里香は、未優とは仲の良い友人同士である。

 先ほどの打ち上げでは「二度とこんな役やるか!」と大暴れし、手のつけられない怪物と化していた。そして拓人の親友は羽交い締めにされ往復ビンタを食らっていた。あまりに怖くて誰も助けられなかったけど。


 未優は長い髪を掻き上げ、ハァと息を吐く。


「正直言うと今回の劇、最初は死ぬほど嫌だったんだけど」

「……うん」

「でも、正装姿のタクくんが格好良かったから……そこは満足かな」


 拓人はその言葉に驚いた。

 そして、見る見るうちに嬉しさがこみ上げてくる。

 演劇の経験なんて幼稚園児の時に草を食む牛の役をやっただけなので、今日は緊張しっぱなしだったのだが……まさか可愛い彼女に格好良い、なんて評してもらえるとは。


 嬉しくなった拓人は周囲を見回し、誰も見ていないのを確認してから未優の耳元にそっと囁いた。


「未優、好きだよ」


 未優が頬を赤らめる。

 それからきょろきょろ周囲を見回してから、お返しするように拓人の耳元に、


「……私も好き」


 とこそばゆい息を吹きかけ、「えへへ」と恥ずかしそうにはにかんでみせた。

 本当ならこの場で抱きしめたいくらいに笑う未優は愛らしかったのたが、さすがに往来のド真ん中でそんな恥ずかしい真似はできない。


 そう思った拓人は、未優の右手を引き寄せて自分のそれと繋いだ。


「……今日もうち来る?」

「行く。タクくん大好き」

「僕も大好きだよ、未優」

「えへへ。私の方が好きだもん」

「僕の方が、もっと好きだよ」


 しかし近所の人々はその有名バカップルのことを当然のように認知していたので、「あの二人、またやってるなぁ……」と生温かい眼差しで見守るのだった。





息抜きの息抜きの位置づけで悪役令嬢が出てくる短編を書いてみました。

登場人物の名前を考えるのが楽しかったです。


普段は長編の悪役令嬢物を書いています。下にリンクを貼っておりますので、そちらもよろしければ是非!


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― 新着の感想 ―
[一言] ミュゼちゃんがあんなきっぱりと断ってたのはそういうことだったんですね…名前が不思議な感じ(?)してたのは…そういうことなんですね(そういうことて何)ナレーターって文字が出てきたときはびっくり…
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