掛け軸のなかの貴女に僕は(三十と一夜の短篇第50回)
ぶらりと町を歩いていて、何気なく目を向けたショウウインドウのガラスの向こう。
おろし髪の女性を描いた掛け軸が見えて、僕の脚は止まった。
墨の濃淡で描かれている水墨画に一点、赤い色。女の唇だけが赤く赤く、ゆるりと弧を描いている。
何のことはない、よくある美人画だ。
それなのに、どうにも目が離せない。
「魅入られましたね」
そう言ったのは老齢の男だった。
ショウウインドウのとなりに開いている扉から顔を見せた男は、しゃんと伸びた背筋のわりにくたびれた様子で僕を手招く。
「ああ、いや、僕は……」
掛け軸を買えるほど、懐に余裕はない。
今にもすり切れてしまいそうな着物を見ればわかりそうなものだが、と身じろいでみるも男はくたびれた顔で僕を待っている。
愛想笑いのひとつもないのは、単に話し相手が欲しいからかもしれない。
そう自分を納得させて、僕はうす暗い扉の向こうへと足を進めた。
その実、僕の心はあの掛け軸のそばに行けると浮き立っていたのだが。
店のなか、雑多な物が無秩序にならないよう並べられた空間は、思っていたよりも清潔で居心地がいい。
どうぞ、とすすめられた椅子もきしむでもなく受け止めてくれ、なんなら珈琲の一杯もいただきたいような気になってくる。
ただ、視線はどうしたってあの掛け軸に向いてしまう僕に男、店主は言った。
「魅入られましたね」
店主の言い方は、まるで医師が病名を告知をするかのように強張ってひやりとしていた。
けれど、そのことばに僕が感じたのは喜びだった。
「彼女は……」
彼女に魅入られた、とは。
「あれは」
ショウウインドウからこちらを見ている掛け軸の女を見つめて問えば、店主は落ち着かなげに視線を動かしながら早口で喋りだす。
「あの軸はわたしが出したわけではないのです。いえ、なにを言っているのかと思われるでしょうが」
きょどきょどさえしていなければ、立派な紳士然として見えるだろうに。
店主は笑おうとして失敗しながら続ける。
「あれは、本来であれば木箱に封じてしまいこんであるものなのです。けれどときおり、箱から抜け出して人を招き寄せまして」
「それを魅入られた、と?」
ええ、と頷く店主の声は弱々しい。
おかしなことを言っている自覚があるのだろう。
けれど、僕は店主を笑う気になれなかった。
彼女に魅入られた。
店主のそのことばが、僕の頭を甘く痺れさせたからだ。
「好い、絵ですね。さぞ名のある方が描かれたのでしょう」
しみじみと言えば、店主は黙り込んだ。彼がどんな顔をしているのか、軸の彼女に見惚れていた僕にはわからない。
けれど短くない沈黙の後、聞こえた店主の声はうめくようだった。
「いえ、いいえ。名もないどころか、あの絵の作者は絵師ですらないのです。あの絵を描いたのは……わたしの、祖父なのです」
密やかに、罪を告白するかのように告げる店主に、僕は首をかしげる。
「あれほど目を惹く絵を、絵師でないかたが手掛けられた、と?」
「ええ。ええ、そうです。祖母をはやくに亡くした祖父は晩年、一心不乱に紙に向き合っていました。そしてある日、描いた絵を額装し持ち帰ってきたのが、あれです」
あれ、と言いつつ店主は掛け軸に視線を向けはしない。
僕がくちを挟む間もなく、うつむいたまま店主は続ける。
「あの絵を完成させて間もなく、祖父は息を引き取りました。ですからあの絵に描かれているのがだれなのか。どうしてあの絵をあれほど熱心に描き上げたのか、だれにもわかりません。わたしはただ、わたしの父がしていたようにあの絵をしまいこむことしかできないのです」
うつむき、かすかに震える手を握りしめて話す店主の姿は、まるで懺悔をする罪人のようだった。
なにが彼をそうさせるのだろう。
不思議でならない僕は、吸い寄せられるように描かれた女に目を向けた。
そう言えば、あの掛軸はいつの間にこちらに向けられたのだろう。さきほどはたしかに、通りを向いていたのに。
そんな疑問がふと脳裏をかすめた。
けれど、蠱惑的に歪められた赤い唇を目にした途端、そんな些末なことはどうだってよくなってしまう。
「あの絵を、たまに見せてもらうわけにいきませんか。本当であれば買い取ります、と言いたいところなのですが、懐が心もとなくて……」
恥を忍んで告げれば、なぜか店主はうれしそうに目を見開いた。
「あなたなら、まだ……いえ、ええ。ええ。構いません。そうですね、また来週の今日、これくらいの時間に店を開けておきましょう。声をかけてくださればあの絵をお出しします。ただ、気が向かれましたらで構いません。忘れてしまっても、それっきりで構いませんので」
いやに早口でまくしたてた店主は、ひとりで決めてしまうとすぐさま立ち上がって掛け軸を巻きはじめる。
もうすこし見ていたかったのに、と言いかけて、それはあまりに図々しいと思いとどまった。
「来週ですね。それでは、今日は良いものを見せていただきありがとうございました」
一週間は長いな、と思いながらもしぶしぶ立ち上がる。
できることなら毎日でも通いたいが、店主の好意に甘えている身としては無理は言えない。
「それではまた、一週間後に会いに来ます」
巻き取られて見えなくなってしまった彼女に声をかけて、僕は店を出た。
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その晩、僕は夢を見た。
彼女が僕を待つ夢だ。
「 」
彼女は遠くに立っていて、ゆるりと動いたその唇から発せられたことばは、僕に届かない。
「待っていて。一週間後に会いに行くから」
そう伝えたところで、夢は途切れた。
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彼女に会いたい。
はやる気持ちをおさえて道を早足で進む。
一週間は長かった。
夜毎、夢に彼女が出てきてくれなければ、目覚めるなり駆け出してあの店に行ってしまいたい衝動を抑えきれないところであった。
眠るたび、夢を見るたび姿を見せてくれる彼女に僕は伝えた。
必ず会いに行くから、と。
伝えるたび、遠かった彼女が近づいている気がしてうれしかった。
夢で焦がれた彼女にとうとう会える。
うれしくてうれしくて、日が昇るなりこらえきれずに家を出た。
小走りになる足を止められず、祭りに向かう童のように息を弾ませて店を目指す。
ショウウインドウが見える距離まで駆けてくると、いた。
彼女が、掛け軸のなかから僕を見つめている。
「ああ、ようやく会えた!」
「ああ、やはり来てしまわれた……」
弾む僕の声に返ってきたのは、店主のうめくような声と彼女の妖艶な微笑み。
なんて魅力的なのだろう。
夢では遠かった彼女が、硝子のすぐむこうにいる。
そのことがうれしくて、けれど触れ合えないことが悲しくて、僕は知らぬ間に言っていた。
「金は如何様にも工面します。どうか、彼女を譲ってください。彼女を連れて帰りたいんです」
売れるものは売って、友人知人に頭を下げて歩いてでも言い値で用意しよう。
そう決意していたのに、店主から漏れたのは呆気ないことば。
「……いいえ、どうぞそのままお持ちください。あなたは魅入られたのですから、どのみち逃れられないのでしょう」
驚きと喜びにはじかれるようにして店主に目をむけて、僕は瞬きをした。
「お怪我を?」
店主の首元に白い包帯が見える。服のしたはどうなっているのかわからないが、シャツから覗く彼の両手の甲にも、また白い包帯が巻かれている。
僕が問いかければ、店主はハッとしたように手を腰の後ろで組んだ。
「いえ、何でもないのです。ええ、こんな、すこしの引っ掻き傷など」
青ざめて見える店主がつぶやく声に、僕は素直にうなずいた。何でもないと言うのを無理に聞き出すこともない。
それよりも今は。
「本当に、彼女をこのまま連れ帰ってよろしいのですね。返せと言われても手放せませんし、あとあと金をと言われても、御覧のとおり僕に払えるものなど微々たるものですよ」
彼女に会うため、目いっぱいにしゃれ込んだ僕は一張羅の着流しの袖を広げて見せた。
一張羅とはいえ、ただの薄っぺらい着流しだ。継ぎが当てられていないだけ、僕の持つ服のなかでは上等なのだ。
「金銭をいただこうとは毛頭、思っておりません。それに、もう戻って来ないならば、そのほうが良いのです」
祈るように言う店主が不思議でならなかったけれど、彼女を手に入れられた喜びのほうが大きい。
彼の気が変わらないうちに、僕は店主を急かして掛け軸を箱に入れてもらう。
ああ、巻き取られて見えなくなるこの瞬間さえも、切なくてたまらない。
彼女がすっかり隠れてしまうと、店主が用意した木箱に目を向ける余裕が生まれた。
丁寧に巻かれて紐を巻かれた彼女をしまうために出された箱は、まるで作り立てのように真っ白い。
新調したのだろうか。
ふとそう思ったけれど、問いかければ彼女を連れて帰るのが遅くなる。
僕は余計なくちを聞かず、店主に礼を述べてそそくさと家路に着いた。
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はらり、開いた掛け軸のなかの彼女と目があって、喜びが込み上げる。
「ああ、ようやくあなたに触れられる」
僕の想いが溢れたかのようなつぶやきは、けれど僕のくちから出たのではない。
耳をくすぐる甘い声は、掛け軸のなかの彼女のもの。
その証拠に、いままた赤い唇がゆるりとことばを紡いでいる。
「この一週間、待ち遠しかった。だけど、やっと」
陶然と彼女の声に聞き入っていた僕の耳に告げられた声。
「やっとあなたを」
それは、夢で何度も見た彼女のほほえみ。甘く歪められた唇の形は、覚えるほどに見つめたそれ。
「食べられる」
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この店に来るのも、いつぶりだろうか。
掛け軸を手にした店主の姿に僕はつい、嫉妬してしまう。
「今度こそ、戻らないと信じていたのに」
かすれた声でつぶやいた店主が、掛け軸の入っていた真新しい木箱の横から何かをつまみあげる。
木片だろうか。
色褪せ砕けた木の破片は、元は細長い箱の形をしていたのだろう。ちょうど、掛け軸を入れる真新しい木箱と似た大きさをしているようだった。
「あの青年は自制が効いていたから、まだ逃げ出せるかと思ったのに……」
後悔をにじませた店主の顔は、以前よりもずいぶんと老け込んで見えた。
はじめて会ったとき店主を老齢だと思ったけれど、もしかしたら僕が思っているよりも若いのかもしれない。
「しまい込んでもいつの間にか表に出る、お祓いも効かない、封じた木箱は壊してしまう……ああ、やはり、どうにもならないのか」
息を吐き尽くさんばかりに嘆く姿には、深い後悔が見える。
掛け軸の彼女に魅入られた男を見送るたび、これほどの後悔を繰り返して店主は老け込んだのではないだろうか。
そんな推測をするけれど、答えを店主に聞くことはもうできない。
僕のことは気に病まないでください、そう伝えたくても、もう伝えられない。
「せめて、わたしの代で終わらせられたなら……」
つぶやいて、店主は筆を手に取り真新しい木箱に向かう。
ひた、ひたと願いを込めるように店主が筆を動かす。
書かれているのは掛け軸の箱書きだ。
つまりは、掛け軸に書かれた彼女の名前。
多くを語らない彼女の呼び名を知る喜びに、僕は喜びを感じた。
収められた木箱に蓋がされれば、残されていた視界も閉ざされる。
掛け軸のなかに棲む彼女のその名を抱いて、僕の意識はゆっくりと溶けていく。
彼女の腹のなか、彼女とひとつになれる歓びに浸りながら知ったばかりの彼女の呼び名を最期につぶやいた。
『女郎蜘蛛』
掛け軸のなか、彼女の唇が赤い弧を描いた。