女神様
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白いワンピースの胸元に、槍の穂先が触れる。
このまま左足を強く踏み込み、この両腕を突き出せば、すべてが終わる。
その状態のままで、僕の体は静止していた。
僕の体だけじゃない。風の音も、木々のざわめきも、ひるがえる過去のノエルのワンピースの裾も。
すべての時間が止まっていた。過去のノエルに槍を突きつけ、過去のノエルの虚ろな瞳に貫かれたまま、僕はしばらく動けなかった。
「ユーマ。」
背後から名前を呼ばれる。
びっくりして、反射的に振り返る。
「あ、れ……」
体が動くようになっていた。
槍を引いて、声の主に向き直る。
そこには、僕のよく知っている、片目に紅の石が埋まった、いつものノエルがいた。
「……なにするんだよ」
僕の体を操っていたであろう彼女に、あえて茶化すように抗議してみる。
「……ごめん」
ノエルは、相好を崩してくれない。
大きな瞳を縁どる睫毛が、濡れているように見えた。
「泣いてるの?」
「ユーマもね」
言われてはじめて、自分の頬に触れる。確かに指先が湿っていた。
長く、悪い夢を見ていた。そして、なぜか、どこか懐かしい夢だった。
その懐かしさの正体を暴きたくて、僕は尋ねる。
「今のは……」
「全部ほんとのことだよ。あの日からの私の記憶。ユーマに隠してたこと、全部。それを今、ユーマに伝えたくて、私が見せた夢だよ」
「そう……」
うまく言葉が出てこなかった。
「私はあなたに出会う前に、一度この世界を書き換えてるの。だから、ユーマに会うのは、二回目なの」
風の音も、木々のざわめきもない。止まった時間の中で、僕たちだけが呼吸をして、涙を流して、向き合って、話している。
「……夢の続き、話してくれないか。君が、サヤトで今の僕に出会うまでのこと」
ノエルは頷いた。
「……あれから。ノスタルジアで、私がひとりぼっちになってから。……ブラッドを生み出した過去を、なかったことにできるほどの力は、私には残ってなかった。だけど、何か一つくらいなら、過去を変えられる気がしたの。それが歯車みたいに、いろんな運命を動かして、この世界の結末を変えることもあるんじゃないかって、思ったの。……私は一生懸命考えた。たったひとつの歯車で、全てを変える方法はないかって。それで私は、ユーマに託すことにした」
「……僕に?」
「私は最後の力を振り絞って、一体のブラッドの過去の行動を、変えることにした。そして……ユーマの家族を襲うように、そして、ユーマの目の前で、エリルちゃんを殺すように命令した」
「な……」
言葉がつかえてうまく出てこなかった。ノエルは今、なんて言った?
確か、ノエルの記憶の中の世界――最初の世界では、僕の故郷はブラッドに襲われはしたが、僕たちの家族は無事だった。
「本当にごめんなさい……。私は君に、『ブラッドの生みの親』を憎んでほしかった。過去のユーマは、『ブラッドの生みの親』が私だってことを知らない。姿の見えない何者かに、自分の大切なものを奪われたら、何か奪い返してやる、復讐してやる、って、きっと思うでしょう。そうすればユーマは、『私』を終わらせに来てくれる、って、そう思った」
「ちょ、ちょっと待って。だっておかしいだろ……。エリルはあの日、僕をかばって……」
「それも、最初から決まってた運命だったんだよ。女神が決めた、運命。ユーマが絶望して、心の底からブラッドを憎むようになるためには、この方法がいちばんだった」
困惑と、吐き気がするような怒りと、ノエルを信じていたい気持ちがせめぎあって、頭がくらくらする。
ノエルは僕からそっと目をそらし、続ける。
「私はあの神殿で、もう一度君を待った。二回目の世界で、サヤトに来たユーマは、とてもとても、強くなってた。私、びっくりしたんだ。だってユーマ、出会ったころは、自分は弱虫だ、って自虐してたくらいだったから。……だけど、すぐにわかった。君が強くなったのは、君の運命に、私の力が及んだせいなんだって。ブラッドの生みの親である、私の力が、君の運命をねじ曲げた。だから君は、ブラッドたちと同じくらい、強い力と、紅の石を手に入れた。……その力と、その石は、私の『愛する家族』である証だもん」
出会った頃、ノエルが言っていた。僕は「女神さまに選ばれしもの」だって。そういう意味だったのか。女神は、自分だったのか。
「はじめは、あの神殿で真実を伝えてしまおうかな、とも思ってた。その場で私を殺してもらってもいいかもしれないって。……だけど、君にもう一度出会って、考えが変わった。もし今私がいなくなったとしても、この世界の結末は変わらない。生み出してしまったブラッドたちが消えることはないし、奪ってしまったものを返せるわけじゃない。だから、過去の私を殺してもらおうと思った。ブラッドを生み出す前の私を殺してもらえば。……そうすれば、この世界はまた元通りになる。ユーマはふるさとの村で、変わらずエリルちゃん達と一緒に幸せに暮らせる」
ノエルは、僕に視線を戻し、力なく微笑んだ。
「……なんて、きれいごとを言ってるけど、ほんとは、ユーマと少しでも長く一緒にいたかっただけなのかもしれない。ユーマが過去の私を消してくれたあとは、ユーマが私と出会うことはなくなっちゃう。私のことは忘れちゃう……っていうか、知らないまま、生きていく。だから、こんな方法を思いついちゃったのかもしれない」
ノエルを恨めしく思う。もしもあの時神殿で、本当のことを伝えられていたら、こんなに苦しい気持ちになることはなかった。なんのためらいもなく、ノエルの心臓を貫いて、エリルと母さんの仇をとったつもりになっていただろう。
「あとは、ユーマが知ってる通りだよ。私にはもうほとんど力が残ってなかったから、少しずつ過去に飛んで、そのたびに、その場所で、ユーマにブラッドを倒してもらって、力を回復させて。……そうして一緒に時を旅して、どんどん過去に遡っていけば、いつか私が過ちを犯した、あの日に帰れる。そして、旅の最後に、私を殺してもらおうって。そう思ったんだ」
それが、今なんだよ。と、ノエルは言った。
「お願いユーマ。私を、終わらせて。私は、自分でもなく、他の誰かでもなく、ユーマに、私を終わらせてほしかったの。わがままだけど、許してほしい」




