いなくならないでほしかった
どしん、どしんという重たい音で、目が覚めた。
地響きが、小さなこの家を小刻みに揺らしていた。
「ああ……」
なんとなく、わかっていた。
私がどうして、「今」、サヤトの神殿で目覚めたのか。
それはきっと、私が作り出した精霊たちが、じきに役目を全うしようとしているからで。
――世界が終わる瞬間が、近づいているのだと。
そして、それが、今日なのだと。
ユーマがあわただしく跳ね起き、寝間着のまま、外に飛び出していく。
私はそれを、よろよろと追いかける。
夜明けの街は、蜘蛛の子を散らしたようだった。
あちこちの家から飛び出してきた人たちが、遠くにそびえるその大小さまざまな影の数々を指さし、叫んだり、武器を取ったり、逃げ出したりしている。
「ノエル、お願いだ……」
立ち尽くす私の左手を、ユーマが両手で包み込む。
「あいつらを、止めてくれ」
縋るような視線に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「できない……」
「どうして! 君が生み出したブラッドなんだろ! お願いだ! 君の言うことなら聞くんじゃないのか? ねえ!」
私に掴みかからんばかりの勢いで迫ってくるユーマに、思わずたじろぐ。
「ちょっとお兄ちゃん! こんな時に、ノエルちゃんになにしてるの!」
「エリルは黙ってろ!」
遅れて家から飛び出してきたエリルも、ユーマの剣幕に、息を呑む。
からからに乾いた喉から、かすれた声を振り絞る。
「ごめんなさい……。精霊たち……ブラッドを操るための、時の旅人の力は、とっくに使い果たしてしまったの」
本当のことだった。
あの日、故郷が滅ぼされた日、大嫌いな「人間」という生き物をこの世界から消し去りたくて、私は、私自身の時の旅人の力と、神殿に先祖代々蓄積されてきた祈りの力をすべて使って、世界の理を変えた。
空っぽの抜け殻みたいになってしまったからこそ、私はこの五年間、あの苔むした神殿でひとり眠っていたのだ。
今、ここにいるブラッドたちは、あの日与えられた使命をまっとうするために動いているだけ。今の私の意思は、彼らには関係のないことだった。
「ごめんなさい……」
ユーマの目を見ることができなかった。
うまく足に力が入らないのは、地響きのせいなのか、それとも私の足が震えているからか。
「私、人間なんか、みんないなくなっちゃえって思ってたの。だけど、今は、……」
その時だった。
街の人たちの叫び声が一層大きくなった。
細い路地に四角く切り取られた朝の空を見上げる。
「あ……」
大きな、二足歩行の獣が、空から私たちを見下ろしていた。
黒い毛皮に覆われた獣は、ユーマの家なんか片足を踏み下ろしたらあっけなく踏みつぶせそうなほどの大きさだった。犬のようなオオカミのような三角の小さな耳がふたつ、荒い呼吸に合わせて動いている。喉がぐるぐると鳴って、鋭くとがった歯列の隙間から、どろどろと唾液が漏れ出ている。
獣が一歩踏み出す。黒い土煙と瓦礫が舞い上がって、どこかで泣き叫ぶ声がした。
赤く光る瞳が、切り取られた世界に閉じ込められた私たちを捉える。
「逃げよう……」
もつれる足で、駆けだす。
ユーマが私とエリルの手を掴んで引っ張る。
その手は氷のように冷たくて、引っ張る力は腕が抜けそうになるほどだった。
流れていく景色が、人々が身を寄せ合って創りあげた街が、次々と粉々になって消えていく。
何度もつまずきそうになって、喉が灼けるように熱くて、呼吸が荒くなって、それでも体は芯から冷え切っていて。
回らない頭で、私は必死に考えた。
どうすれば、私は私を止められるだろう?
大嫌いなはずだった。あんなに汚くて愚かな人間という生き物なんて。みんな、いなくなっちゃえって思っていた。こんな、寂しい最後の街のことなんて、どうでもいいはずだった。
どうでもいいはずだったんだよ。
なのに私は今、なぜか、泣きながら、この人たちの命を奪わないで済む方法を考えている。
角を曲がる。目の前に延びる道の真ん中に、建物が大きな瓦礫の山となり果てて、横倒しになっていた。
ユーマが素早く山によじ登り、下にいる私たちに手を伸ばす。
「はやく! 捕まれ!」
獣の姿をしたブラッドが、こちらに目を向ける。
足音が、だんだん小刻みに、そして大きくなってくる。
ユーマの右手が、私の体を瓦礫の山の上に引っ張り上げる。そのままの勢いで私は山の向こう側へと滑り落ちた。
「ユーマ!」
彼は、瓦礫の山の上から向こう側に手を伸ばし続けている。
「ユーマ、はやく降りてきて! 追いつかれちゃう!」
こちらから向こう側の様子は見えない。ただ、下に向かって転げ落ちそうなほど手を伸ばすユーマの影が、きらめく朝日に照らされているのが見えるだけ。怒ったような泣き出しそうな、うわずったユーマの声が聞こえるだけ。
「エリル!!」
「あ……」
今、私がどれだけ喉を枯らして叫んでも、その声は彼には届かないのだと思った。
彼には、彼の愛する、守るべきひとしか見えていないのだから。
獣のブラッドは、もうすぐそこまで来ている。
痺れを切らし、私は滑り降りてきた瓦礫の山を再びよじ登る。
「ユーマお願い! 私と逃げよう!」
肩を掴もうとした私の手を、ユーマは払いのけた。
「ごめん、エリルは、僕の大切な家族なんだ」
まっすぐに私の目を見つめる瞳には、強い意思が宿っていた。胸の奥がきゅっと痛んだ。
そこからのことは、一秒一秒、昨日のことのように、鮮やかに覚えている。
瓦礫の山を登っている途中で足場を崩して地面に倒れ込むエリル。それを、獣のブラッドの影が覆い隠す。
ユーマが山の上から飛び降りて、エリルをかばうように獣のブラッドの前に立ちはだかる。
その時にはもう、獣のブラッドは、丸太のように太い毛むくじゃらの腕を振り下ろしかけていて。
長く鋭い爪が、一瞬の朝日を浴びる。
見ていられなくて、私は思わず目を瞑った。
世界が真っ暗になる。
お兄ちゃん、泣きわめくエリルの絶叫だけが、真っ暗な私の世界に響いた。
*
真紅の瞳が、私を見下ろしていた。
鋭い牙がのぞく大きな口から、雨のようによだれがこぼれてくる。
私はそれを見上げている。
「私を殺すなら、殺せばいいよ……」
自分の創ったものたちに殺されるなんて皮肉だ。
あの時の私は、人間を滅ぼしたかった。だけど今は、たぶん違う。少なくとも、生きていてほしかった人はいたんだ。
人間を滅ぼすために創られたものたちにとって、今の私はきっと邪魔者でしかない。
ならば、もうそれでいい。
結局、彼を殺したのは私なのだし。
罰を受けて、当然なのだ。
どうせもうすぐ終わる世界だ。
私が生きていたって、もう意味はない。生きている価値もない。
「ああ……」
失って初めて、気づいた。
彼にまた会いたい。声が聞きたい。
いなくならないでほしかった。
「ごめんなさい……」
叶うなら、あの日からやり直したい
人間なんていなくなってしまえと願ったあの日から。
やり直したい。
やり直したい。
やり直したい。
――目だ! 目を殴れ!
「っ……!!!」
どこからか、聞きたかった柔らかな声が聞こえて、涙があふれた。
同時に、反射的に拳を突き上げる。
「ユーマ!! どこにいるの!」
突き上げた私のひ弱な拳は、文字通り目と鼻の先に迫っていた獣のブラッドの顔面――左目を、直撃していた。
こつん、と軽い衝撃が腕を伝う。
ぴき、ぴき、と氷が春の陽に溶かされるときのような音が聞こえる。
おそるおそる見上げると、ブラッドの紅い目に、大きな亀裂が入っていた。
そこで初めて、獣の目は目ではなく、私と同じ、紅色の石が埋め込まれていたのだったと知った。
ブラッドはやがて、灰の塊のようになって、風に流されるように、消えた。
「ユーマ。」
もう一度、呼んでみる。彼はもう、どこにもいない。
少し高くまで登った太陽が、優しく、瓦礫と死体の山となった最後の街を照らしているだけ。世界の最期を祝福しているかのような、澄み切った空と、優しい風だった。
だけど、私はまだ生きてる。
そう、呟いてみる。
不思議と、時の旅人の力が少し戻った感覚があった。
もちろん、あの日からすべてをやり直せるほどの力は残っていない。
ならば、ひとつだけ、歯車を変えよう。
それで、私の過去を、なかったことにしよう。
この世界の未来を変えよう。




