たったひとつの願い
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小さい頃から、本を読むのが好きだった。
まだ文字を読めない頃から、近所の年上のお兄さんやお姉さんに頼んで、村中のありとあらゆる本を読み聞かせてもらった。文字が読めるようになってからは、村の書庫や、長老たちの書斎に忍び込んで、そこに閉じこもって、膝を抱えて、雨の音を聞きながら、一日中読みふけることもあったっけ。
その中で、やけに印象的だった物語がある。
あれは確か、古代の神話。
難しい内容だったし、細かいところははっきりとは思い出せないけど、なんとなく記憶に焼き付いていて、時折ふと思い出す。
それは、世界が人間を滅ぼしちゃう話。
他の生き物たちより少しだけ頭が良い人間は、欲張りすぎた。
他の生き物たちを私利私欲を満たすためだけに殺し、美しい自然を焼き払う。それに飽き足らず、今度は人間同士で憎み、妬み、争い、奪い合う。
そんな人間の愚かさに腹を立てた神様が、人間はこの世界のできそこないだと言って、世界中のありとあらゆるものの力をかき集めて、人間を滅ぼしちゃう。そんな話。
幼い私は、神様に腹を立てた。
なんでそんなことするの? 神様ひどいよ。
だって、この村の人たちはみんな優しい。みんな一生懸命働いて、毎日欠かさずお祈りをして、贅沢しないで、村のみんなで家族みたいに助け合って生きている。
私だって今日は早起きをして神殿の蔦の手入れを手伝った。踏みつぶされそうになっていた芋虫を掬って近くの茂みに帰してあげたり、森で倒木に足を挟まれて動けなくなっていた狐を逃がしてあげたりもしたんだ。
こんなに素晴らしい人間という生き物を滅ぼすだなんてありえないし、そもそもそんなことできっこないと思っていた。私たちが力を合わせれば、抗えないものなんてないって、そう思っていたんだ。
だけど、ほんの少しだけ大人になった今ならわかる。
人間は醜くて、汚くて、憎い。
私利私欲のために、優しさも思いやりも全部忘れて、簡単に怪物になり果ててしまう。
それに、人間は決して、強くなんかない。
人間がどうやったって何人束になったって抗えないものなんて、たくさんある。
――例えば海。例えば空。例えば大地。
――そして、例えば時間。
生きとし生けるものは皆、時間という大きな世界の流れに背中を押され、命という鱗を一枚ずつ優しくはがされていく。やがては朽ちて、海や空や大地に還っていく。それは人間も例外じゃない。
時間の前に、人はひざまずくしかない。
その時間を操る力が、この村には、そして私たち、時の旅人にはあるんだ。
私はふと思う。
今、私は、神様になれるんじゃないかって。
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ノエルの周りの空気が揺らぎ、地面に大きなひびが入った。風が急に強くなり、木々の枝葉が擦れるざわざわという音が、まるで悲鳴みたいだ。
「なんだなんだ!?」
兵士たちが武器を構え、きょろきょろとあたりを見回す。
森の中からいくつもの黒い影が湧きあがる。
影は黒い雨のように、僕たちのいるサヤトの村に降り注ぐ。
それらはすべて、ブラッドだった。
虫、鳥、獣、植物……。森に棲まう生き物が大きくなって、爪や牙が鋭く伸びて狂暴化したような見た目。
大小さまざまな、いろんな姿の、何百、何千もの数のブラッド。
それらが、兵士たちをあっという間に取り囲む。
「わあああっ」
言葉にならない、裏返った悲鳴があちこちであがる。
僕の隣のノエルは、ただ、静かにそれを見つめている。
「……ブラッドは、私が生み出した怪物なの。神殿に何十年、年百年とかけて蓄積されてきた時の旅人の祈りの力を放出して生み出した、人間を滅ぼすための、怪物」
目の前の光景から目をそらせない。
故郷をめちゃくちゃにされ、絶望して、泣きじゃくりながら、世界をめちゃくちゃに破壊していく彼女を、目に焼き付けるように見つめる。
――『私たちは主様のもと、人間を滅ぼすために生まれた。それだけだ』
書のブラッドは、そう言っていた。
今ならわかる。
主様は、人間がとても憎らしかったんだ。人間なんて、いなくなってしまえって、そう思ったんだね。
ねえ、ノエル。
僕だって、今はその気持ちがわからないわけじゃない。
ノスタルジアで僕が騙されていたと知ったとき、雪の街でおばあさんを襲った人々の形相、それに……。
「私ね、いままで君に、ずっと嘘をついていたの」
「今のノエル」がまっすぐに僕を見ている。
「あなたが殺さなくちゃいけない相手はね、私なの」
ノエルがすっと右手を前に突き出し、僕にかざした。
刹那、電流のような鋭い痛みが全身を駆け抜け、僕は立っていられなくなる。
「ノエル、何を……」
氷のように冷たい無表情で首をかしげるノエルは、僕が知っている彼女とは別人みたいだ。
「この痛みも、あっちの私を倒せば、消えるんだよ。だからさ……」
過去のノエルは、両手を祈るように組み、目を閉じて涙を流している。
そんな過去のノエルに、僕の体は勝手に、槍を向ける。
必死に抗おうとしているのに、体が言うことを聞かない。ノエルが僕の体を操っているのだろうか。
「ノエル! お願い、やめてくれ!」
痛みと焦燥で頭が朦朧とする。
僕は、あの時、なんて言った?
――「ブラッドがいつどこで生まれたのか、それを突き止めて、ブラッドが生まれる原因を、断ち切ればいいんだ!」
――「ブラッドの支配者を倒しに行こう!いつかブラッドが生まれた『はじまり』まで遡って、この世界にブラッドが生まれる前から、世界をやり直そうよ!」
――「僕はブラッドが許せない。あいつらを全部、この手で殺してやる」
あの時、ノエルはどんな顔をしていただろう。
ただ、僕の顔をじっと見つめて、それから、
――「ユーマなら、そう言ってくれると思ってた」
そう言って笑った。
ねえノエル、君はあの時、いったいどんな気持ちだったの?
僕はずっと、ブラッドの根源を断ち切り、ブラッドを操っている存在を倒しさえすれば、この世界に平穏が訪れるのだと思っていたんだ。
スバルのおばあさん、青い目の兵士、王女様の国でブラッドになり果ててしまった人たち、ノスタルジアで死んでしまった人たち、エミリー。
今まで僕の手からこぼれ落ちた、救えなかった人たちも、僕が手にかけてしまった人たちも。
ここからやり直せば、「すべて」を救えると思っていた。
僕が犯した罪も、背負ってきた悲しみ孤独も全部、きっとなかったことになるんだと、そう思っていた。
だけど、どうやらそれは違うみたいだ。
――「本当に守りたいものを選ぶ強さも、必要なんだってことを、覚えとけ」
陽気な船乗りの男は、静かにそう語った。
レノさん、僕にそんな強さはやっぱりなかったです。
ブラッドのいない平穏な世界も、 家族との平和な元通りの暮らしも、君の笑顔をもう少し隣で見ていることも、僕にとってはどれも、「いちばん守りたいもの」なのに。
誰かを救うために、誰かをこの手で傷つけなければならないことがある。
何かを選び取れば、なにかがこの手からこぼれ落ちる。
ならば、前にも後ろにも進みたくない。ここから一歩も動きたくない。時間が止まればいい。
そんな時、涼やかな声で、花が咲いたような笑みで、僕の名前を呼んで、僕の顔を覗き込んで、道を示してくれたのは、いつも君だったよね。
「ねえ、ユーマ」
今はその声は、僕に希望を与えてくれはしない。
「私は、君に、この世界を救ってほしかったの。ずっとずっと前から。言ったでしょう。君は、選ばれしものだって。私が、君を選んだんだよ」
ノエルはあの日、最後の街で僕に旅立ちを告げた日と同じ、嬉しそうに、けれど少し寂しそうに、目を細めて、まっすぐに僕を見つめる。
「だからユーマが世界を救うって言ってくれた時、ブラッドを生み出した存在を倒すって言ってくれた時、私、とっても嬉しかったんだよ。私は他でもない、君に、過去の私を止めてほしかったんだから」
「やめて……。僕は、こんなこと……」
涼やかで、いつまでも聞いていたくなる。そんな、僕の大好きな声が、僕の罪を責め立て、罰を突きつけてくる。
「私はね、君に、私を殺してほしかったの」
「ノエルっっ!!」
ノエルはすこし眉を下げて、柔らかく笑った。
「だってね、ユーマ。私、ずっと前から、君のことが……」
「ッッ……!」
耳をふさぎたくなる。
どうして。
君からずっと聞きたかった言葉なのに。こんなにも胸の奥が温かくなる言葉なのに。
胸が苦しくて、頭が割れそうで、息がうまくできない。
君からその言葉を、こんな形で聞きたくはなかったんだよ。




