初陣と絶望と
神殿を出たとたん、どしゃぶりの雨に包まれた。
いつの間にか天気が大きく崩れていたらしい。
神殿の中では聞こえなかった切れ間のないノイズが、容赦なく僕の体を濡らしていく。
分厚い雲が垂れ込めた灰色の世界の真ん中で、全てをなぎ倒していくものが一匹。
ブラッド。
雨を全身に浴び、さまようように森を破壊しながら、こちらへ歩いてくる。
雨で視界が悪いせいか僕の姿は見えていないらしい。好都合だ。
鳴り止まない鼓動。荒くなる息。
ゆっくりと、しかし、確かな速度で、僕の足は雨の中を突き進んでいく。
早く、戦いたい。早くあいつを倒したい。
ずぶ濡れで冷たいはずの体が燃えるように熱い。
獲物はすぐそこにいる。
僕の歩みに合わせて、足元の水たまりが、ぱちゃん、ぱちゃんと音を立てる。五感の鋭いブラッドならば、そろそろ気づくはずだ。
「グル……」
喉の鳴る、音。
きた。
やつは破壊する手を止める。僕も足を止める。
僕とブラッドは対峙した。
「グルルルルル…」
ヤツは地の底から湧き上がるようなおぞましい唸り声をあげた。
僕はそれには動じず、じっと様子を観察する。
ブラッドは、獣の姿をしていた。
漆黒の毛並み。地面を踏みしめる二本の足。ぶらりと垂れ下がった二本の腕には艶やかに光る大きなかぎ爪。頭頂部には、不釣り合いなほどかわいらしい大きさの耳が付いている。それは、熊を連想させた。ただし、体長二十メートルほどもある、二足歩行の熊である。
血走ったように赤い瞳が、まっすぐに僕を捉える。
僕は走り出した。
風も雨もまとうように、突っ込んでいく。目指すはこいつの足元。
ブラッドが振り上げた拳で地面を叩く。僕を叩き潰そうとしているのだろうか。
だが遅い。
僕は力一杯飛び跳ねてかわす。
間髪入れず、踏み鳴らされた黒い足が落ちてくる。地面に転がって避ける。体に泥がまとわりつくが、かまわない。それを泥を振り落とすほどの速度で、また走る。
目の前には、振り落とされたばかりの巨木のような足があった。今、やつは自分の体の大きさで足元は死角になっているはずだ。
全身の力で槍を構え、突く。
生肉が焦げる時のような匂いと音がした。ヤツの右足はどろどろと溶け出していく。
「グロロロロァァア…!」
ブラッドが吠える。耳を塞ぎたくなるような奇声をあげながら、バランスを崩したブラッドは前のめりに倒れた。
「すごい……!」
気持ちが高ぶった。
対ブラッド用の槍の威力に感動してしまう。当然ながらこの武器を実践で使うのは初めてだった。
このままブラッドの全身を突き刺しまくったら、ブラッドは間違いなく――殺せる。
「ははっ」
僕は思わず「笑って」しまった。
足をなくしたブラッドは立ち上がることができない。
僕を踏み殺すことも、逃げることすらままならない。
いい眺めだ、と思った。
「母さんが……エリルが味わった苦しみを……。味わわせてやる!!」
僕は残った左足に向けて槍を構える。
だが、すぐに異変に気付いた。
「え……?」
僕は目を見張った。
先ほど溶かしたはずの、ブラッドの足。
どろどろに溶け出した足が、またひとつに集まっていく。そして、ある形を作っていく。
焦げ臭い匂いがきつくなり、今度は空気が抜けるような音がしている。
「ある……」
気づいた時には、元どおりの場所に綺麗に、足が生えていた。
僕が溶かしたはずの足だ。
まるで僕を残して時間が戻ったみたいだった。
「再……生?」
こんなの、聞いたことがない。ブラッドが再生するなんて。こんなの。
勝てない。
そう思った。
空を稲妻が駆ける。雨は強くなるばかりで一向に止まない。
雨粒が、僕の頬をすうっと伝って落ちていく。
僕は立ち尽くす。
ブラッドは立ち上がる。
真っ赤な瞳が迷いなく、僕を映した。
僕は動かなかった。
ブラッドは屈んで、目線を僕と合わせた。
みーつけた。
そう言ってやつがにっこり笑っているような気がして、ぞっとした。
いつの間にか槍は手から落ちて、地面に転がっている。
ブラッドの鋭い牙と、そこからとめどなく流れる唾液がよく見える。息が顔にかかりそうだ。
あの日の光景が鮮やかによみがえってくる。
食べられるおばさん、母さんの手、そしてエリル……。
ああ、僕も、死ぬ。
ブラッドが手を伸ばしてくる。
僕の腹にやつのかぎ爪が食い込んで。僕は持ち上げられる。
食べられる、と思ったけれど、次の瞬間、僕は弾丸のような速さで投げ飛ばされていた。
「がっ……!」
神殿の外壁に背中から叩きつけられる。
衝撃で肺の中の空気が押し出される。
首ががくん、と大きく揺れ、そのまま僕はどしんと地面に墜落した。壁には亀裂が入り、石がぽろぽろと降ってくる。
ドスン、ドスン、ドスン、ドスン。
やつがこっちに来る。死が、向かって来る。なのに、動けない。
僕に苦しみを味わわせて楽しんでから食べるつもりなのだろうか。さっき僕がしようとしたみたいに。
悔しい。屈辱だ。
だけど、もう、それでいいやと思った。
壁にもたれて、足を投げ出す。
これから先、生きていても、毎日「あの日の記憶」が手に、足に、絡みついてくるんだろう。生きていることが申し訳なくて、苦しくなるのだろう。
今までの日々がそうだった。どうして何もできなかったんだって後悔して、その苦しみから逃れるためだけに、必死に訓練した。もしもいま生まれ変わったらみんなを救うことができるくらい、そのくらい強くなりたかった。
エリルはもう二度と生き返らないのに。
時間が戻ることはないのに。
エリルの最期の笑顔。笑って飲み込まれていく、あの瞬間。エリルを見殺しにして、生きてきたことへの罪悪感。
鍵をかけて、見切りをつけて、前に進もうとしたけど。
できるわけないじゃないか。
いつも、どんな時でも、エリルは僕の心の中で生きていて、無邪気に笑って「お兄ちゃん」と甘えてくる。鍵が壊れてしまう。
じゃあもういっそ、前になんて進まないでおこう。鍵は壊したまま、諦めて、楽になってしまおう。
ドスン、ドスン、ドスン、ドスン。
真上に、ブラッドの顔があった。
うまく呼吸ができない。空気と一緒に内臓まで吐きそうだ。
朦朧とする意識の中、雨音と、ブラッドの手が迫ってくる気配しか感じられなくなる。
思えば本当は、守りたいものも守るべきものも、ブラッドを倒す意味もなかったんだ。これはただの復讐だ。成し遂げても何も生まない、偽物だ。
ならば僕の生きていく意味なんて、もう。
僕は目を閉じる。死を、体感する、直前。
また、だ。
また、僕は助けられた。
「目だ!目を殴れ!!」
涼やかでよく通る、高い声。
とっさのことで、僕はその声がどこから聞こえてきたのか、理解するのに時間がかかった。
だが、それを理解する前に体が勝手に動いていた。もう諦めていたのに。自分でもびっくりだ。
カッと目を開き、真上に向かって拳を突き上げる。
拳は、何かに当たった。ぴき、と音がする。
「グラアアアアアアアアアアアア!!」
断末魔。そう表すのがぴったりの叫び声だった。
ビリビリと大地が震え、わずかに残った森の木々が揺れる。
そっと目を開けて、ぼんやりとやつを見上げる。
僕のちっぽけな拳は、偶然にも、顔を近づけてきたブラッドの左目を直撃していた。
やつの左目にはヒビが入っていた。
――なんで、目にヒビが入るんだ?
小首を傾げていると、また声が飛んだ。
「もうひとつも!」
ほぼ反射的に、僕は声の言う通り、今度は狙って、拳を突き上げる。
ガラスを靴底で踏み砕く時のような音とともに、ブラッドの真紅の目は粉々になった。
そして、「目」をなくしたブラッドは、
「ぐる……ァァ…」
悲痛なうめき声をあげながら、崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
濡れそぼった、黒い大きな毛むくじゃらの塊だけが残った。
――どういうことだ? 僕は、勝ったのか? それともまた再生するのか?
呆然としていると、
「ねぇ」
また、あの涼やかな声。
僕はぎこちなく首を動かし、声の主へと目を向ける。
「だれ……?」
薄々、わかっていた。
声を出せる者は、この場には多分僕以外にひとりしかいない。
あの白い少女が、そこに立っていた。
僕は、まだ、生かされている。