決壊
「あの方だけは、きれいなまま、お美しいまま、純粋無垢で、透明なまま、お守りしていたいのです。私たちがここで化け物に成り下がり、やがて人の心を忘れてしまおうとも、王女様だけは、お守りしていたいのです」
明くる朝、谷底へ向かう馬上で、僕を乗せてくれていた若い女性の兵士が言った。
「いつか私たちが怪物になり果てても、王女様はあのままでいてくだされば、それでいいのです。それを、私たちが生きた証にしたいのです」
彼女はうっとりと、嬉しそうに笑っている。
隣を走っていた壮年の男性兵士も言った。
「あの方になら、殺されたってかまわない。いいや、むしろあの方に終わらせてほしいとすら思う。だって、あの方ならきっと、俺たちが望んで怪物となったのではないことも、人間だった頃にしてきた善い行いも、すべて受け止めて、そのうえで、終わらせてくださるはずだから……。そうやって死ねたなら、悔いはないから……」
二人の兵士は顔を見合わせ、
「王女様万歳!」
と歓声を上げる。
馬は今日も、あの谷へと、突き進んでいく。
*
「最近、詰所で見かける兵士の数が、ずいぶん減ってしまったようですが……」
涙ぐみ、拳を握りしめる王女様の前で、青い目の兵士がひざまずき、頭を垂れている。
今日も青い目の兵士は王女様に戦況の報告をおこなっていた。
僕たちがこの国に来て、ちょうどひと月ほどが経っていた。
「皆は本当に無事なのですか。国境は、本当は苦しい状況なのではないのですか。あなただって最近、怪我が増えていますよね?」
青い目の兵士は包帯でぐるぐるに巻かれた右腕をそっと隠した。
実際、このひと月で、国境の形勢は大きく傾いていた。
詰所で控えている兵士など、もうほとんどいない。兵士や国民たちに、それを取り繕う余裕もない。
それに気づかないほど、王女様は能天気ではなかったのだ。
「お願いですから、私に本当のことを……」
「王女様のことは必ずお守りいたします。何も心配なさらず」
青い目の兵士は頭を下げたまま、わざとらしい堅苦しい口調で、きっぱりと王女様の言葉を遮った。
「ねえ、誤魔化さないで。それに、死ぬなんて言わないで」
顔を上げず微動だにしない青い目の兵士の後頭部を、王女様はしばらく睨みつけていたが、やがて諦めたのか、今度は僕たちの方にすがるようなまなざしを向けてくる。
「ユーマさん、ノエルさん、本当のことを教えてください」
僕たちはそろって目をそらした。本当のことを王女様に伝えたって、よそ者の僕たちにはひとつも損はないけれど、軽率にこの国の「ルール」を壊すことはためらわれた。
そんな僕たちに、王女様は小さくため息をつき、とうとう言った。
「……もういいです。私も戦います」
青い目の兵士がぎょっとしたように王女様を見上げる。
王女様が加勢しようとして、青い目の兵士がそれを咎める。そんなやりとりはこれまで幾度となくあった。けれど、今回の王女様の声には、これまでのやりとりとは違う、凛とした気迫があった。
「王女、落ち着いて」
「落ち着いてなんていられません! 私だって馬鹿じゃない。国境が危ういのだということくらいは察しています。国の頂点に立ち皆を導くものとして、最前線に立ちたい、いいえ、立たなければならないと思うのです! それが私の使命です!」
青い目の兵士が立ち上がり、王女様の行く手を阻むように立つ。
王女様はそれを見上げて対峙する。
「貴女は国民の希望の象徴なんだ! 貴女を失えば、この国は終わりだ! 」
「私が死ななければいいのでしょう!? 私のことを甘く見ないで。私だって、戦えます」
「貴女はまだ実戦の経験は無いだろう!」
「……どの口が」
「……ッ」
気がついた時には、王女様は腰にさげた鞘から剣を引き抜き、切っ先を青い目の兵士の喉元にぴたりと向けていた。
青い目の兵士が息を呑む音が聞こえる。
「どの口がそんな生意気を。訓練戦闘で、私が誰かに負けたことなんてないでしょう」
王女様の目にもとまらぬ剣さばきに、僕はひそかに驚く。
道場で黙々と鍛錬を続けているのは城に来るたび目にしていたが、まさかこの国でいちばん強いほどだとは。
「このために鍛錬を積んできたんですもの。皆に全てお任せして、安全な場所で待っているのは、もう、耐えられないのです」
「だけど貴女だけは……!」
「どうして私をそれほどこの城に閉じ込めておこうとするの! そんなに私が頼りないの? そんなに私を信じられないの!?」
強い意思を宿したまなざしが、まっすぐに青い目を射抜く。
「どうしてってそんなの……!」
青い目は、少し潤んでいるようにも見えた。勢いよく何かを言い返しかけたが、やがてもどかしそうに口ごもる。そんな青い目の兵士に、ぐっと王女様が距離を詰める。
「私は本気です」
王宮の豪奢な照明を受けたティアラがきらりと光った。
「国民は、私が守ります」




