つなぎとめるもの
海水の冷たさに心臓が跳ねる。
水圧に、体が押しつぶされそうだ。
水に絡めとられ、ノエルが巻いてくれた包帯がほどけていく。
僕の血液がゆるゆると海に溶け出していく。
近くで魚が暴れまわっているのがわかる。
みんなは、ノエルは、無事だろうか。
すぐに、息が苦しくなった。
冷たい水の壁が、四方から体を押しつぶしてくるみたいだ。
今すぐにでも息苦しさから逃げ出したくなる。
なんだか、悔しくて、自分が情けなかった。
ノエルの力がなければ、僕はこんなにも無力なのか。
十分にわかっていたつもりだったはずなのに、自分がひとまわりもふたまわりも小さくなってしまったような気がする。水の中では呼吸することさえできないただの人間の力が、どれだけちっぽけなのか。この海に思い知らされている。
だけど、こんなところで負けてはいられない。
ブラッドに、何より、自分に、こんなところで負けるわけにはいかなかった。
だって、この町で、守りたい人たちに出会ったから。
これは、あの日僕が守れなかったものを、温かい家族のぬくもりを、大切な人を。もう一度守るチャンスなんだ。
両手で大きく水を掻いて、前へ進む。
下手くそでも不格好でもいい。痛む傷口は奥歯を噛みしめて黙らせる。
濡れた服が体にまとわりつき体力を奪っていくが、それ以上の力を込めて進む。
とにかく、みんなを、ノエルを、助けなきゃ。
魚が迫ってくる。魚の鱗の模様がはっきりと見えるほど肉薄する。
刹那、右手で槍を思い切り突き出す。
体重が乗せられないのでいつもより威力が小さい。
固そうな鱗目にわずかな穴をあけた槍を引っこ抜く反動で体勢を整え、そのまま間髪入れずにもう一発。
あてずっぽうだけど、がむしゃらにでもこれを続けるしかない。頭頂部以外の、もう一つのブラッドの核を探し出して、壊さなければならないのだ。
次第にぼうっとしてきて、頭が回らなくなってきた。
自分に言い聞かせる。今の僕は、ただ暴れるブラッドに槍を突き刺し続けるだけの機械仕掛けの人形だ。
自分でも、何回突き刺したのかわからなくなってきた頃、ブラッドの胴がひときわ大きく波打った。
……やったのか?
水流に体を押し流されながら、必死で目を凝らしてブラッドの様子をうかがう。
ブラッドは――死んでいなかった。
流された先で、水中により深くもぐってきたらしいブラッドの顔が真正面に合った。虚ろに白濁した目と、目が合う。
ブラッドが薄く口を開き、剣山のような口内をあらわにする。
水の中だということを忘れ、僕は咄嗟に、声を上げそうになった。
対峙する僕とブラッドの間には、ぐったりした様子のノエルが漂っていたのだ。
疲れ切っていたはずの体は、ほとんど脊髄反射で動いた。
奪わせない。絶対に。
その衝動だけが、僕を突き動かした。
今度は僕が守るから。
やっと手が届いたノエルの肩を、両手で強く引き寄せる。そのまま背後に押し隠し、自分の体を前にする。
なんだかとてもすがすがしい気分だった。視界にかかっていたもやが晴れたみたい。
今僕はきっと、あの日僕の目の前に飛び出したエリルと、同じ景色を見ている。
亡き妹に心の中で問いかける。
ごめんな。お兄ちゃん、お前にこんな景色を見させて。
今やっと、あの日を「やり直せ」ているんだ。
「死んじゃやだ」
どこからか、聞こえるはずのない声がして、僕は目を見開いた。
都合の良い幻聴かもしれない。
だけど、それは確かに、
「お兄ちゃんまで、いなくならないでよ」
亡き妹の声だった。
喉の奥が震える。
どうして。どうして。と、そればかりが泡のように脳裏に浮かんで消える。
「お兄ちゃんが死んだって、誰もうれしくないよ。死んじゃったら、意味、ないんだよ。だから、お兄ちゃんは、いつまでも、かっこいいお兄ちゃんでいてよ」
小さな手が、僕の背中を押した。
「お兄ちゃんは、生きて」
確かに、幻聴だったのかもしれない。
だけど、何かに誰かに背中を押された感覚だけは、確かだった。
いったい、誰が。
振り向くと、そこには、ミチがいた。
*
ミチは水中でも軽々とした身のこなしだった。羽が生えているかのように、ふわふわと自在に飛び回る。海の妖精みたいだ。陸にいるときと変わらない無邪気な微笑みからは、息苦しさもまるで感じさせない。
ミチがそっと、僕の左手をとった。
――ついてきて。
口の動きだけで器用にそう言って、ミチは僕の手を引いて泳ぎ出す。
びっくりするくらい、泳ぐのが上手だ。ぐんぐんスピードを上げていく。
――さっき、みつけたの。
ミチが指したのは、開いたブラッドの口の中だった。
――いし、あのなか。
はっとして僕はミチの笑顔を見つめ返す。
あの口の中に、ブラッドのもう一つの核がある……。ミチはそう言っているのだ。
それを壊せば、今度こそ、この魚のブラッドを倒せる。
やるしかない。
ミチに頷き返す。ミチはにっこり笑って、ぐるりとあたりを見回した。
つられて僕も見回す。
またしても僕は声を上げそうになり、慌てて口を抑える。
そこには銛を持ってすいすいと泳ぎ回る、船乗りたちがいた。
よかった。みんな、無事だったんだ。
みんな、魚になったみたいだった。水中をすばしっこく動き回り、水の中でも呼吸ができているんじゃないかと思うような余裕の表情をしている。
レノと目が合う。
――海の男、舐めんなよ。
そう言わんばかりの笑顔だった。
みんなが一斉に、銛を構え、魚のブラッドに挑む。
危険な行為だけど、なぜだかもうあまり怖くない。
きっと大丈夫だと、そう思えた。
僕は一人じゃない。その事実だけで、体の奥底から、こんなにも力が湧き出て来るのはなぜだろう。
ありがとう。
誰にというわけでもないけれど、心の中で唱える。
みんなの声が、僕の背中を押す。それだけでほんの少し、強くなれる。
ブラッドが僕を飲み込もうと大きく口を開ける。
真っ紅な輝きを目指し、僕はその中に飛び込んだ。




