狼煙
今まで生きてきた中で一番おいしい酸素をひとしきり吸った後、ゆっくりと上体を起こす。
ミチは毛布でぐるぐるに巻かれて寝かされていた。まだ目は覚めていないようだが、目立ったけがもなく、大事には至っていないらしい。ひと安心だ。
「っていうか、ノエル、体は大丈夫?」
僕はがばっと大きくノエルを振り仰ぐ。ノエルはきょとんとしていた。
「え? 私?」
「うん。水の中で、ノエルの時の旅人の力が急に効かなくなったんだ。それで息が続かなくなった」
「そうだったの!?」
ノエルがびっくりするので僕もびっくりしてしまう。
「えっ……そんな……。僕はてっきり、君が、前みたいに力を使いすぎて倒れちゃったからなんだと思ってたんだけど……」
「……そんなことないよ。私は元気」
「そっか。じゃあどうしてだったのかな……」
その時、レノがこちらにやってくるのが見えた。娘を取り戻した彼の表情はいくらか明るくなっている。
彼がいなかったらと思うと、ぞっとする。ミチも僕も、もしかしたらみんな、今ここにはいなかったかもしれない。
「レノさん、ありがとうございました……いたっ」
「水くせぇよ」
深く下げた頭を、レノに叩かれる。彼は優しく笑った。
「お前もミチも、無事でよかった。……それよりさ、」
ブラッドの死骸を指さし、彼は言う。
「あれ、引っぱって町まで持って帰らねぇか」
「ブラッドを、ですか!?」
僕は素っ頓狂な声を上げてしまう。船乗りたちもざわついている。レノだけが真剣な表情を崩さない。
「そうだ。解剖して、あいつの正体、知りたいと思わないか? 俺たちは魚のプロフェッショナルだ、どんなに大きな魚でもキレーにさばけるぞ」
「なるほど……」
それは確かに、「あり」かもしれない。雪の街の図書館で読んだ本の作者も、ブラッドの死骸を解剖して研究したと書いてあった。僕たちも同じようにすれば、ブラッドの謎について、本で読んだこと以上の何かがわかるかもしれない。
「それに、珍しいものを欲しがっている国とか商人とかに売ったら、がっぽり稼げるかもしれねえ」
おお、と船乗りたちから歓声が上がる。
「うまい肉!」
「高い酒!」
「それに、愛しい俺の娘をあんな目に合わせた魚、八つ裂きにしても足りねえよ」
レノが怒りのこもった声で呻くと、金髪の男が笑った。
「本当はそれがいちばんなんでしょ」
こうして、レノの指揮で、船団はブラッドの死骸を取り囲む。
「行け! 網を投げ込め! そのまま町まで引いて帰るぞ!」
「おう!!!」
乗組員たちが威勢の良い返事を返す。
その時だった。
「ん? 今何か動かなかったか?」
誰かが言った。
「あの死骸……動いてないか!?」
「おいおいまさか……! 死んだんじゃなかったのかよ!?」
湧きあがった声の向こう。
魚のブラッドが再びむくむくと頭をもたげている。
「どうして……! 石はレノさんが壊したはずじゃ……!?」
重い体を引きずって、僕は船の縁から身を乗り出す。
「石が再生したのか? でも、石を壊したらブラッドの再生も止まって、完全に死ぬって、ノエル言ってたよね…….!?」
「そのはずなんだけど……」
ノエルの瞳が揺れる。彼女も混乱しているらしい。
ブラッドの頭頂部の紅の石は、壊れたままだ。なのに、ブラッドの死骸は動き出している。
その時、かすかな声が聞こえた。
小さな女の子の、振り絞るような、か細い声。
「ミチ!!」
レノが声を上げる。寝かされたままのミチが、うっすらと目を開けて、僕たちに何かを訴えかけていたのだ。
「さかなのくちのなか……もういっこ、いしがあった……」
小さな声だけど、確かな口調で、ミチは言った。その言葉をノエルが掬い上げる。
「口の中に、もう一つ核があるのね! 両方壊さないといけないんだ!」
その間にも、魚はみるみるその巨体を起こしていく。
魚が、あんぐりと大きく口を開いた。
「なんだなんだ! 今度は何が始まるんだよ!?」
「見ろ! 何か吐き出してるぞ!!」
船乗りたちが指をさす。その先で、ブラッドの口から吐き出されたのは、大量の、小ぶりの魚たちだった。小ぶりといっても、あくまでこの巨大魚のブラッドに比べたらの話であって、レノたちの網にかかっていた魚たちに比べたら、ひとまわりもふたまわりも大きいのだけれど。
巨大魚は、吐き出した魚たちをそのまま僕たちの船めがけて、ものすごい勢いで飛ばしてくる。
「魚の雨みてぇ!!」
のんきに言った金髪の男の顔が、一瞬でこわばった。
「待って、こいつらも…….ブラッドじゃないすか!?」
小さな魚たちも、凶器のような鋭い牙をむき出しにしており、その頭頂部にも、紅色の石があった。
まるであの巨大な魚のブラッドのミニチュア、あるいは――。
「子供みたいだ……」
レノが言った。
「体の中で飼ってたのか……」
数えきれないほどのブラッドの雨が僕たちに降り注ぐ。
「みんな逃げて! 小さくてもブラッドは危険なの!」
ノエルが叫ぶ。
しかし小さな漁船の上に逃げ場などない。海に飛び込めば、そこにはさらに危険な巨大魚が待ち構えている。
……それでも。
「行かなきゃ……」
痛む傷口をおさえ、僕は立ち上がる。
「待ってユーマ!!」
ノエルの声が僕を引き留める。
「紅石の力が使えないんでしょ!? 今行ったら危ないよ! それに、応急処置してるだけだから、そんなにすぐに動いたらまた傷が開いちゃう!!」
僕は顔だけでノエルを振り返る。彼女は泣きそうな顔をしていた。胸がギュッと苦しくなる。
「大丈夫だよ、ノエル。僕がみんなを守らなきゃいけないんだ。守りたいんだ。……今度こそ」
「……!」
ノエルが目を見開く。
「もう、僕は負けない。僕は強くなるよ。二度と、守りたいものを、失わなくてもいいように」
「俺たちだって、それは同じだァ!!」
背後から、船員の誰かが叫んだ。それに応えるように、あちこちの船から、そうだそうだと声が上がる。
「俺たちも戦うぞ!!」
「俺たちにできることねえのか!!」
「みなさんには危険です!! 下がってて!」
僕は叫ぶ。
「最後の街でも、そうやって立ち向かっていった人たちが僕の目の前で何人も死んだんです! みんな、敵わなかった! それが、僕の見てきた未来なんです! もう、同じ景色を見たくないんです!」
船員たちが静まり返る。口を開いたのは、レノだった。
「今回はそうなるかどうか、やってみなきゃわからねえだろ」
「レノさん……!」
レノは静かに笑った。
「そんな不安そうな顔すんなよ。運命なんて変えてやる」
「……!」
「そうだ」
先代が頷く。
「俺も戦いたい。もう何も、失いたくないんだ。もう俺の手からは何も奪われたくないし、奪わせない。俺が、俺たちが、大切なこの町を、守りたい」
強く、悲しくきらめく先代の眼光が、僕の胸に刺さって溶ける。
そうか。
僕だけじゃない。
彼も、僕も、みんなも。きっと、同じものを抱えている。
「わかりました。一緒に、戦いましょう……!」
「ああ。この海を守る船乗りの誇りにかけて!!」
「おう!!!」
レノの掛け声に、海の男たちが雄叫びで返す。
その手には、魚を獲るときに使う金属製の銛が握られている。
「……そうだ」
それを見ていたら、いいことを思いついた。
「どうしたの、ユーマ」
僕はノエルに微笑みかけ、船乗り皆に聞こえるように声を張り上げる。
「みなさん! これを受け取ってください!!」




