魚
飛び込んだ水のあまりの冷たさに思わず息を吸い込みそうになり、慌てて呼吸を止める。
ノエルの時の旅人の力も、無限じゃない。彼女の体力のことを考えれば、一刻も早く、ミチを見つけ出さなければ。
だけど、ミチを助けなきゃという思いに駆られるあまり、僕は肝心なことを忘れていた。
僕は海に入ったことがなかったのだった。
体のあまりの重さにぞっとする。手足に鉛のおもりがついているみたいだ。こんなので、僕はブラッド相手にちゃんと動けるのだろうか。
ぐるりとあたりを見回す。
深緑色の海水が、ブラッドが暴れまわっているせいでぐるぐると渦巻き、暴風のように吹き荒れている。踏ん張ることもできず、僕はだんだんとその水流に流されていく。
「――っっ!!」
来た。
左手に黒い影。
ブラッドが、大きな口を開けてこちらに突進してきていた。
早速僕を見つけたらしい。
身をよじって避けようとしたけれど、体がうまく動かず、今いる場所からほとんど動けない。くそ。心の中で悪態をつく。紅石の力で身体能力は人一倍のはずなのに。
仕方なく槍を縦にして突っ込み、ブラッドの口が閉じないようにする。
ガッッ!!
ブラッドの口内で、槍が突っ張る鈍い音。
幸い、口が閉じきることはない。
だけどすごい力だ。紅石の効果にひるんだブラッドがすぐに口を開けて退いたからよかったものの、そうじゃなかったら槍は折れていただろう。
――まずいな……。
僕は唇をかむ。
右の肩口が焼けるようにうずいている。ブラッドの牙が触れてしまったのだろう。血が出ている。
僕の血液は水に混じって、水の中にどす黒い模様を描く。
その血の模様が見えるのか、はたまた、においでわかるのか。
ブラッドはさっきよりも的確に僕の居場所を狙ってくるようになった。
これじゃ時間の問題だ。
それに、ミチをまだ見つけ出せていない。あの子は無事だろうか。
水流がまた激しくなる。
おそらく流される先に、魚のブラッドが口を開けて待っている。そういう魂胆だろう。
どうせ思うように動けないのだ。流れに身を任せる。
――当たりだ。
ブラッドが近づいたタイミングで、体を一回転させて勢いをつけ、一撃をたたき込む。
魚がボコッと泡を吐いた。
確実に効いている。
しかし、まだ急所には当てられない。
苦悶に身をくねらせた魚のブラッドが、そのまま尾ひれで僕を薙ぎ払う。
――避けられない!!
左手に、ダイレクトに衝撃を受ける。
――しまった。
尾ひれにも針のような鋭利な棘がついていたのだ。
左腕が大きく切り裂かれる。水中に溶け出す赤黒い模様がまたひとつ増える。切り裂かれた刹那、がり、とくぐもった衝撃が腕を震わせた。攻撃がちょうど左腕の紅石に当たったのだろう。鋭い痛みと不快な感覚に思わず顔をしかめる。
反射的に、止めていた息を吸い込んでしまう。濁った海水が口の中に流れ込んでくる。
苦しい。
ツンとする鼻の奥の痛みをこらえ、また呼吸を止める。
――だけど、なにかがおかしい。
ノエルの力で、息が続くはずなのに、どんどん苦しくなる。
――ノエルの力が、効かなくなってきてる……!?
まさか、またノエルが力の使い過ぎで倒れているんじゃないだろうか。
とにかくまずい。息が続くうちに、はやく片を付けないと。
魚のブラッドが、今度はゆっくりと近づいてくる。
体は先ほどにも増してうまく動かないから、せめて必死で目を凝らす。
目に飛び込んできたものを見て、僕はまた、息を呑みそうになる。
ばっくりとあいた魚のブラッドの口の中。格子のような鋭く細長い牙の向こう側に、ぐったりとした少女――ミチの姿があったのだ。
動けない僕の目の前で、魚のブラッドは静止する。
あの日の記憶が呼び起こされる。
目の前で食べられていった、エリル。
また、あの日みたいに……?
――やめろ。やめてくれ……。
今度こそ。ミチこそ、救いたいのに。
目の前が真っ暗になりそうな僕の前で、魚のブラッドは、ミチを飲み込むわけでもなく、僕を襲うわけでもなく、ただ、ミチの首筋に鋭い歯を触れさせながら、こちらの様子をうかがっている。
まさか、ミチを囮にしている……?
ブラッドは、ぎょろりと大きな目をきゅっと細めて、ニタ、と笑った。
そんな気がした。




