ひとり
もう母さんはいない。
そのことに打ちのめされていた僕に、絶望の神様はさらに微笑むことになる。
*
それから僕とエリルは、とりあえず隣の村へ行くことにした。この場所にいては、またブラッドが来るかもしれない。それに、とにかく安全な場所に行きたかったのだ。
隣の村は、僕の村から見て森を隔てた北にある、やっぱり小さな村だった。二つの村は互いに助け合って生活しており、僕も向こうの友達が何人かいた。
不幸中の幸いというべきか、隣の村は無事だった。
人々の明るい笑顔、賑わう商店街。
見覚えのあるこの村を見て、見覚えのない僕の村を思い出す。また涙が流れる。僕の涙腺はもうヘトヘトだ。
友達の家に着くと、おばさんが出て来た。
「どうしたの!さっき地震だったけど大丈夫だったの。っていうか、なんで泣いてるの!! 二人で来たの? ママは?」
おばさんは僕のぐしゃぐしゃの顔を見て次々と質問を浴びせて来る。
僕が全部話すと、おばさんは顔を引きつらせ真っ青になった。
「中に入ってて」
低い声で静かに言うや否や、どこかへ走り去っていった。村の人たちに知らせに行ったのだろう。
結局その日は、ヤツは来なかった。
僕たちはその家に泊めてもらい、眠れない夜を過ごした。
*
そして朝が来た。
ドスン、ドスン、ドスン、ドスン
朝は足音を連れて、やって来た。
朝焼けを背に、死がそこまで迫っていた。
人々の悲鳴と怒号、そして逃げ惑う足音が、気持ちのいい晴れた秋の朝を追い立てていった。
僕は外に出て、東の方角へ、目を凝らす。
踏みしめる大地が揺れる。心臓が張り裂けそうなほど大きく脈打ち、耳鳴りがする。
手のひらを見つめた。
僕はこの手で何ができる? 何を守る?
「お兄ちゃん!」
寝ていたエリルもさすがに起きたようだ。僕のそばに駆け寄ってくる。
僕は東から目をそらすことができなかった。それは恐ろしい姿だった。
それは、真っ黒な塊みたいに見えた。
大きな1つ目と、ぽっかり空いた口をもつ、得体の知れない、塊。
口にはナイフのような細くて鋭い歯がびっしりと生えており、山のような巨体のあちこちから無数に生えた脚を、器用に柔らかく動かしている。そのシルエットは、いつか図鑑で見たことのあるタコを彷彿とさせた。
節のある脚が、にゅっと長く伸びる。そして、いとも簡単に家のひとつをがれきに変えた。ブラッドは、縦にも横にも、二階建てのその民家三つぶんほどの大きさがあった。
逃げなきゃと思うのに、地面が足にへばりつく。そうしているうちに僕たちの体はブラッドの影にすっぽりと包まれていく。
無数の脚それぞれが別の動きをしている。
カサカサカサカサ……。しゅるしゅるしゅるしゅる……。
今、そのひとつが口もとに何かを運んできた。それは動いている。自分を掴む脚から逃れようと必死でもがいている。
おばさんだった。
おばさんはそのまま口の目の前に到着して、
ぽとり。
あっけなかった。
人の命ってこんなにも儚いんだ、と思った。
「ああ……」
エリルがため息とも悲鳴ともつかない、絶望にまみれた声をあげる。今思えば、僕は、妹の目を塞いでやることもできなかったんだ。まだきれいなものしか見なくていい、幼い可愛い妹の目を。
僕は、諦めかけていた。僕らももうすぐ食べられるんだと考えたら、動けなかった。
ブラッドはもう、手を伸ばせば届くくらい、近くにいた。
エリルが僕の腕にギュッとしがみつく。
はっとして、僕はエリルを体の後ろに隠す。そうだ、せめて、エリルだけは守りたい。もう大切な人を失いたくない。
まるで触手のような脚が伸びてくる。それ自体に意思があるかのように、まっすぐ、迷わず。
瞑りたくなる目をこじ開け、僕はそれをにらみつける。
願った。
もう僕はここで死ぬ。だけどせめてエリルにだけは、どうか生きていて欲しい。
カサカサカサカサ……。しゅるしゅるしゅるしゅる……。
もう握手できそうな距離だ。僕は目を瞑る。
その時、
突然誰かが僕の前に飛び出した。
エリルだった。
――何をする気だ……!
僕は手を伸ばす。
でも、間に合わなかった。
細くて長い脚が、次々とエリルに絡みつく。小さな体を容赦なく締め上げる。
やめろ、やめてくれ。
頼むから僕の大切なものを、これ以上奪わないでくれよ。
僕は狂ったように走り出した。僕をも捕らえようとする脚を振り払い、エリルに必死でしがみついた。
行かないで。置いていくのはやめて。
一緒に行ってやろうと思った。一人で孤独に生きるくらいなら、いっそ自分も死んでやろうと思った。
願いは、届かなかった。
ばしゅっ!
一本の脚が、僕の左腕を殴ったのだ。あまりの痛みに手を離した僕は、そのまま地面に叩きつけられる。体の底から突き上げるような痛みに目の奥がちかちかする。
仰向けに大の字になる形で、僕は空を見上げた。
カサカサカサカサ……。しゅるしゅるしゅるしゅる……。
エリルは……。エリルはブラッドに飲み込まれていった。幾本もの脚に絡みつかれたエリルは、最後に僕を見て。
笑った。
どつしようもない。
守りたかったものに守られて、失いたくないものを失って。
ああ僕はどうしようもないやつだな、と、そう思った。
どうしたらいい。これからひとりで生きるのか。
そんなのできるはずがない。大切な人たちの死を抱えてひとりで生きるなんて無理だった。生きていることに耐えられないと思った。
だからもう、頼むから僕を殺してくれよ……。
カサカサカサカサ……。しゅるしゅるしゅるしゅる……。
今度は僕に近づいてくる。
僕はその時、負けたと思った。終わると、本気で思った。
終わらなかったけど。
「英雄」が来たんだ。僕のところに。
大きな武器で、あのブラッドを真っ二つに切り裂いて、僕に「生きる」という道を与えてくれた。
誰……?
目を凝らしてみるけれど、逆光でシルエットしか見えない。わかったことは、背の高い、男の人だということだけ。
その人は、「通りすがりに切っただけ」とでも言うかのように、ふらりと来て、ふらりと去って行った。僕は何か言おうと思ったけど、腕の痛みとショックで立ち上がることさえできなかった。
すっかり明るくなった空を見上げた。
僕はもうひとりなんだ。不思議と涙は出なかった。もう枯れてしまったのかもしれない。
ご飯を作る母さん、甘えてくるエリル。
こんなにもはっきり覚えているのに。全部僕の中で生きているのに。
もういないんだな。
そのまま僕は深い眠りに落ちた。奈落の底へ、ぐーんと落ちてゆく。
気付いた時には僕はノスタルジアにいた。救助調査団の人たちに発見されて保護されたようだった。街には僕と同じような境遇の人たちがすでにたくさんいた。
僕はこの街で、「ブラッドバスター」になることを決めた。
あの日助けてくれた「英雄」――僕は心の中でそう呼んでいる――のように強くなりたい。
そして家族の、村のみんなの仇を討ちたい。
*
これがあの日の全てだ。
僕の左腕。あの日ブラッドに殴られた患部は、僕がノスタルジアに来た時にはすでに大きなアザになっていた。その後何日かたつと、驚くべきことに、その部分にはアザとちょうど同じ大きさの、真紅の宝石が埋まっていた。
まるで、僕の槍に埋まっている、紅い宝石のような、不気味な光を放つ石が。
僕はこの石を「紅石」と呼んでいる。
この石が何を意味するのかは、わからない。
けれど、この石ができてからの僕は、なぜか、とても強くなった。
跳躍力も、武器を振り回す力も、走る速さや、治癒力だって。同年代の何倍もの、いや、人間離れすらした力を、突如手に入れたのだ。
僕は今あの「英雄」のようにブラッドを倒す者になれたことを誇りに思う。
いつか、「英雄」に会って、お礼を言いたい。
僕に生きる目的を与えてくれたのは、紛れもなく、あの人だから。