守りたいもの
あの日と同じ言葉で、ばっちゃんは俺を止めた。
「スバル……本を、燃やしちゃ……いかん……」
ハッとした。
あいつ――ユーマの姿が見えなくなってすぐだった。小さくうずくまって街の人の暴力に必死に耐えていたばっちゃんが、人混みのすき間からまっすぐに俺を見ていた。
か細いけれど確かに届く声だった。
俺のしようとすることなんて全部お見通しというわけらしい。
「なんだよ……。自分が死にかけてるってのに……」
こんな時にまで、本の心配してやがる。
俺は拳を握りしめる。
実体を持たない書のブラッドを倒すためには、その容れ物となる書物をこの街からすべてなくしてしまえばいいのではないか。
工場からの帰路でユーマと話したことだった。
書のブラッドのことはあいつに任せ、それまでの間、俺が何とかしてここからばっちゃんを助け出すか、それができなくてもせめて時間を稼ごうというのが俺の計画だった。じきにあいつが街じゅうの書物に火をつけ始めるだろう。
ばっちゃんは掠れた声で繰り返す。
「知識は……力だからじゃ。叡智は……尊い、力じゃ……」
「今はそれどころじゃねえだろ!!それに、今度はあの時とはちげえんだよ!」
母が死んだことへの怒りに任せて火をつけようとした、あの時とは違う。
「こいつらを操ってる、書のブラッドを倒すために、必要なことなんだよ!街を守るために、必要なことなんだよ!」
かなり強気にユーマを送り出したものの、今の俺はほぼ丸腰だった。
俺が作った対ブラッド用武器はあくまで、工場で研究されていた、ブラッドに効くとされる特殊な石を武器の形に加工しただけのものだから、石の効果が効かない相手に対しては、殺傷力も耐久性も、おもちゃに等しいものなのだ。
ひょっとしたら「ブラッドに操られている人間」に対しては効果があるんじゃないかと思い、先ほど一人に向けて銃型のものを使ってみたが、無駄だった。弾丸はそいつの上着すら貫けなかった。
対人戦に使えそうなのは、ポケットに入っているナイフだけ。マッチを使えばばっちゃんに群がっている奴らに火をつけることもできなくはないが、その場合、火の海の中にばっちゃんを巻き込まないようにするのは難しい。
だから、書のブラッドに操られているこいつらを止めるための最も手っ取り早い方法は、あいつ――ユーマがこの街にある本を燃やして、書のブラッドを倒すことなのだ。
「このままだとみんなブラッドに取り憑かれてこの街は滅んじまう!人の命に比べたら、本燃やすくらい別にどうってことねえだろ!」
今はひたすら人の輪に体当たりを続けるしかない。後ろから掴みかかって、振りほどかれて、吹っ飛ばされるを繰り返す。無駄だということは薄々、いや、はっきりわかっている。それでも。
俺はばっちゃんに——たった一人の「家族」に向かって、手を伸ばし続ける。
「本なんて、あとからいくらだって書き直せるだろ!?物知りのばっちゃんがいたら、そんなの余裕じゃねえか!俺も手伝うからさ!な!そうだろ!?」
喉の奥がぎゅっと熱くなる。
本当は知っている。ばっちゃんが、どれだけ書物を大切に思っているか。
俺たちがそれを燃やしたら、どれだけ悲しむのか。薄々、いや、はっきりわかっている。
それでも。
「俺、ばっちゃんには生きててほしいんだよ!!」
頷いてほしくて、ばっちゃんを見る。
ばっちゃんは微笑んで、首を横に振った。
やめろ。そんな顔するな。
そんな、悟ったような。
あれからどれだけ時間がたったのかわからないが、まだ、ユーマが火をつけた様子はない。こうしているうちにも、ばっちゃんの体力はどんどん奪われていく。早く、この状況だけでも何とかしないと……。
俺はゆっくりと息を吐きだす。
腹の底に、何かがすとんと落ちた感覚がした。
俺は、決めた。
ばっちゃんが、本を守りたいと願うなら。それが、死を差し出してまでも守りたいものならば。大切な家族がそう願うなら、俺はそれを叶えたい。
だけど、ばっちゃんには、死なないでほしい。だから。
俺は覚悟を決めた。
先ほど俺を吹き飛ばした細身の女に、もう一度後ろから掴みかかる。俺を組み伏せようと身をよじってきた女のその脇腹に、忍ばせていたナイフを刺し込む。対ブラッド用ではない、普通のナイフだ。人を殺めることのできる武器は、これ一つしか持っていない。
皮膚と肉を貫く時の、嫌な手応え。女は馬鹿みたいな力で俺を引きはがそうとしてくる。
俺は女にしがみつく。ナイフに力がこもった。
「スバル……」
ばっちゃんがうわごとのように呟いている。
ごめんな。「孫」が人を刺してるところなんて、見たくないよな。
でも、それでも俺は、もう家族を殺されるのはごめんだから。
深く沈んだナイフを引き抜くと、女は崩れ落ちた。
やるじゃん俺、という思いと、やってしまった、という思いが交錯する。
落ち着け。こいつらは、この街の奴らは、母ちゃんを死なせた奴らだ。復讐できたと思えばいいんだ。別に「やってしまった」なんて思う必要はない。
自分に言い聞かせる。
その一方で、ブラッドに操られているだけの罪のない人を殺そうとしている自分の姿が頭の中に何度も大写しになる。
ばっちゃんは何と言うだろうか。きっと怒るに違いないし、悲しむに違いない。この人だかりの中にはばっちゃんの薬屋の常連客もいるのだ。ウチからばっちゃんを連れ去った人たちがそうだった。
だけど、こうしなければそのばっちゃんが死んでしまう。
そうだ。それに、この人たちはもう正気を失ってるんだ。工場で見た作業員みたいに、ブラッドに乗り移られている。こいつらが正気に戻ることは、多分ない。じゃあ、やっぱり仕方ないことじゃねえか。これ以上被害者を出さないようにするためにも、必要なことだ。
凍えているはずなのに汗だくだった。息が上がっている。
顔を上げると、今までばっちゃんに夢中で俺には見向きもしなかった人々が、動きを止め、一斉にこちらを振り返っていた。数十もの虚ろな瞳が俺に突き刺さる。
「へへ……やっとこっち見たな……」
俺はナイフを構える。これは、南の大国の本を読んだときに覚えたものだっけ。
人々は、心なしか少し動揺しているように見えた。動作がぎこちなくなったり、互いに顔を見合わせたりしている。
「んだよ、ビビってんのか……?」
震える頬を無理やり吊り上げて笑みの形をつくる。
「俺は、やるぞ」
独りごちて、ぬかるんだ地面を蹴る。
全滅させる。
ばっちゃんは、俺が助けるから。
ナイフを振りかざす。その時。
視界が真っ黒に塗りつぶされた。
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