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スバル

***


「こんな本なんか、燃やしてやる」


 四年前のあの日。

 泣きながらマッチ箱を手にした俺を、「いかん」とばっちゃんは止めた。


「それはいかん」


 決して、声を荒らげる訳ではなかったけれど、その目には有無を言わせぬ凄みがあって、俺はたじろいだ。

 

 それは露店で買える安い本だった。『化け物の正体に迫る』と書かれた表紙には、化け物____ブラッドの絵がでかでかと載っていた。とはいえ、ブラッドがこの世界に現れて間もない頃のことだ。実際にブラッドの姿を見たことがある人間なんて、まだこの街にはいなかった。あくまで、その絵は誰かの想像だった。そこには、顔も手も足も、むくむくと風船のように膨らみ、口は裂け、目は血走った、人間の姿が描かれていた。

 ページをめくると、ある病気がブラッドと深く関係している、と書かれていた。もっと言えば、その病気の病原体がブラッドを生む、と。その病気の患者が、ブラッドの正体だ、と。そう書かれていた。

 それは俺の母が患っていた病気だった。


 母は原因不明の病気を患っていた。体中が腫れる病気。体の感覚がなくなっていく病気だった。俺に物心がついて間もない頃に発症したようだ。

父は母の病気が酷くなるとすぐにどこかへ行った。

 母は、俺が小さい頃は歩くことも外へ出ることもできていたようだけれど、自分から進んで外へ出ることはあまりなかった。外へ出れば、その容姿を見た人に、後ろ指を刺されて、あらぬ噂を立てられて、虐げられる。そのことを、病気になってすぐに、身をもって知ってしまったからだ。

 母はベッドの上で毎日を過ごした。

 ばっちゃんの薬屋の収入だけで三人が食べていけていたとはとうてい思えないから、おそらく、俺が働けるようになるまでは父が何らかの援助をしていたのだろう。病気の妻とその子供を押し付けたことに対する、ばっちゃんへの罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。父の営む工場の場所は、ばっちゃんに教えられて知っていたが、父が俺や母の前に姿を見せることはなかったし、敢えて俺から会いに行こうとも思わなかった。


ブラッドという名前の怪物がこの世界に現れてから、この街は一変した。

 街を外敵から守る防壁と、警備システムを構築するために、中央の役人は街中から資材と技術と人材を募った。役人はあちこちにあった小さな工場の扉を叩いてまわった。その数日後には、工場は空き地に変わり、みんな中央の工場街に吸い込まれていった。父の工場も、気づいたらなくなっていた。

街には暗いニュースやデマが飛び交った。毎日、街のあちこちで騒ぎや争いが起こった。そしてある日、誰かがあの本を書いた。

本は売れ、俺たち家族三人が住む家の窓には、石が投げられるようになった。


 それまで朝日で目を覚ましていた母は、罵声と石が窓にぶつかる音で起きるようになった。病気のせいでうまく声にならない声で、悲鳴をあげて飛び起きた。それを見て心配する俺を、安心させるように無理に笑おうとした。

 街の人たちのナイフのような視線、罵声、嫌がらせが、過激になっていくにつれ、母の容体はどんどん悪くなっていった。

 次第にばっちゃんの薬が効かなくなってきた。熱も出るようになり、体の腫れもひどくなった。

 喋れなくなっても、歩けなくなっても、ベッドから起き上がれなくなっても、表情がわからないくらい顔が腫れても、毎朝必死に目を開けて俺を見て、笑いかけてくれていた母は、ついに起きていられなくなった。

ある真夜中、街の人から逃げ隠れるように、俺たち三人は引っ越した。もう陽の光が当たるところには、とても住んでいられなかった。母を負ぶって、湿った匂いのする路地裏の地下室のある空き家に逃げ隠れた。どうしてこんなことしなくちゃならないんだよ、と俺は吠えた。いくら吠えても何も変わらなかった。


 引っ越してまもなく、地下室の硬いベッドの上で、母は死んだ。静かな最期だった。


 父は消えた。

俺は食べていくために働き続けた。寒くて暗い探鉱も、下水道も、ゴミの処分場も、どこへでも行った。どこへ行ってもなぜかみんな俺の母のことは知っていて、病気がうつるから近づかないでとか、この街から出て行けとか、罵られたり、避けられたりした。ばっちゃんの薬屋の古くからの常連たちだけは、信頼するばっちゃんの同居人としての俺にも、挨拶してくれた。


 そんなある日、俺は市場であの本を見つけた。


 ぐちゃぐちゃの心に体が追いつかなかったのを覚えている。

 中身が全部根拠のない憶測、いや、嘘なのだということは子供の俺にも一目でわかった。誰かが暇潰しに書いたのか、それとも不安や恐怖を目に見えるわかりやすい何かにぶつけて安心したかったのか、どっちなんだよと思ったけれど、どうでもよかった。

 こんな本一冊で、母は死んで、俺たちはこそこそ隠れて暮らさなくちゃならなくなった。それは紛れもない事実だった。

 みんなバカだ。こんなものを書く人も、こんなものを信じる人も。

 こんな本なんか無くなってしまえと願った。この本だけじゃない。でたらめにまみれた書物が、いったいこの街に、この世界に、どれほどあるのだろう。そしてどれほどの人が、それに人生を狂わされているんだろう。

 なんの役にも立たない上に、人を不幸にする。

 そんな本なんていらない。心からそう思った。

 ようやく涙が出た俺は、マッチ箱を手に取った。



 あの日と同じ言葉で、ばっちゃんは俺を止めた。

「スバル……本を、燃やしちゃ……いかん……」


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