書
「入るぞ」
少し興奮したような声でスバルが言った。僕は扉を見つめる。
扉が開いた。
広い部屋だった。天井は高く、ドーム型になっている。
ここに、ブラッドのクローンが保管されていたとスバルは言う。
しかし、だ。
「何も……ないですね」
部屋は、文字通り空っぽだった。
スバルが言っていた水槽は確かにあるものの、中身はない。
「やっぱりここのクローンが逃げ出したのか?」
「でも、それなら普通、ガラスが破られたりしているはずですよね」
部屋の中は不気味なくらい静かで、最初から水槽の中には何もいなかったかのように、散らかってさえいなかった。
「じゃあ、誰かが逃したとか?」
「そんな必要、ありますか?」
「じゃあなんだよ」
「そんなこと僕にわかりませんよ」
ドンドンドン!!
急に物音がして、僕たちの体は同時にびくんと跳ねた。
僕たちが入ってきた扉が、力いっぱい叩かれる音だった。
「なんだ……?」
僕たちは顔を見合わせる。
「ブラッドかもしれません。僕が開けます」
「わかった。頼んだ」
冷たい取手に手をかけ、思い切って、引っ張る。
扉の向こうにいたのは、――ひとりの研究員だった。
「なんだ……」
背後でスバルが胸をなでおろすのがわかった。
研究員は走ってきたのか、うつむいて、肩で息をしている。だらしなく伸びた髪が前に垂れて顔を覆い隠しており、くるぶしの辺りまである白衣はすすか何かで汚れていた。
ただならぬ様子だった。勝手に入った僕たちをとがめようともしてこない。
「どうしたんですか。何があったんですか」
研究員が何かを訴えかけようとしてくるのがわかったので、顔を覗き込む。
「危ない!」
スバルが叫び声が耳に飛び込んでくるのと、研究員の目が紅く光るのは同時だった。
人間のものとは思えないスピードで、研究員のひょろ長い腕が僕の頭をめがけてしなるように飛んできた。
「な……!?」
紙一重のところで体をひねって回避したが、やっぱり紅石の力がないから、反応が遅れる。髪が一房分ほど宙を舞った。
彼は細身のナイフを持っていた。
「なにするんですか……」
僕の抗議に研究員は耳を貸さない。そもそも僕の声が聞こえていそうもない。長い前髪の隙間から一瞬見えた彼の目は、とても正気の人間のものとは思えなかった。
「気をつけろ!ブラッドが化けてるのかもしれねぇぞ!」
そんなことがありうるのか? わからないけれど、僕はスバルの言葉に小さく頷く。
もう一度攻撃を仕掛けてくるかと、僕は身構えたが、追撃してくる様子はない。その代わりに、僕を殴った腕を降ろさないまま、ぷるぷると震えている。
「おい、どうしたんだ……?」
スバルが言うのと同時に、「研究員」は石になったように硬直した。そのまま床に全身を打ち付けるようにばたんと倒れ込む。
「おい、大丈夫か!」
『この街の奴らは、知りすぎた…』
スバルの声に重ねるように、どこからともなく声が聞こえた。
「誰だっ!?」
あたりを見回すけれど、僕たちとぴくりともしない「研究員」以外は、なにもない。
コトン、という音が響いた。
研究員の手から、一冊の分厚い本が滑り落ちたのだった。ナイフを持つ手とは反対側の手にあったようだ。表紙に埋め込まれているのは、赤ん坊の手のひら大の紅い石。
本のページがひとりでに開き、にゅっ、と三日月型に、ページに黒いシミができる。それはまるで、笑みの形の口元のようだった。
三日月型の口は、不気味な声に合わせて動いた。
本が、けたけたと笑っていた。
『私は “書の使い魔”。この世に命を授かった使い魔のうち、最も賢く、最も強い使い魔だよ』
「本が、喋ってやがる……」
スバルが後ずさる。
「使い魔っていうのは、ブラッドのことか」
埋め込まれた紅い石は、ブラッドのものとそっくりだ。
本は『ああ』と肯定した。
『この世界ではそう呼ばれているね』
書のブラッドはやけに饒舌に話し始める。
『書、とはいってもね、私の真の姿が書物というわけではないんだよ。私はいわば知識……。実体を持たず、形を変えてうつろう、知識そのものだ。今はその容れ物である書物にこの身を宿している』
その声は、しわがれた老人の声のようでもあったし、赤ん坊の泣き声のようでもあったし、また、金属の擦れ合う耳障りな音のようでもあった。
『私の大好物は、根っこのない、宙ぶらりんの知識……。いともたやすく粘土細工のように歪めて自在に操ることができる。私を読んだ人間の頭の中にある知識を操れば、こんなことができるってわけさ』
本はひとりでに浮き上がり、そのまま空中でぷかぷかと左右に揺れ動いてみせた。それと同時に、動かなくなっていた研究員がぎこちなく立ち上がり、本の動きに合わせて右へ左へふらふらとよろめく。
「お前がこの人を操っているのか?」
『ああそうさ、この人間は身の程も知らず私を読んで私から知識を得ようとしたからな。人間はいつもそうだ。なんでも知りたがる。完璧な知など人間ごときの頭の中では構築できるはずがないのに。だから人間の知識はいつだって宙ぶらりんなのさ。特に、この街の人間は、便利だぞ……。頭の中は、嘘と欲望にあふれた、汚くて薄っぺらの知識でいっぱいだ』
「ごちゃごちゃうるせえ。結局お前は何がしたいんだ」
書のブラッドは苛立ちを隠せないスバルの言葉を鼻で笑い飛ばした。
『聞く前に少しは自分の頭で考えてはどうなんだね。わかるだろう、大したことはしていない。ただちょっと、彼の体を借りて、ここの鍵をすべて開け、水槽から可哀想な実験モルモットを解放してあげただけだよ』
「なるほどな……」
ぎりり、とスバルが奥歯を噛む。
「いったい、何の目的で……」
『君は懲りないな。なに、すべてこの街の者の自業自得ではないか。この街の者は知ろうとし過ぎた。いいかい、知識とはね、最大の武器であり、最悪の罪でもあるのだよ。知っていることと知らないことでは天地の差だ。無知も知も、世界を救い得る一方で世界を滅ぼし得る。知識を侮るものは、やがて破滅への道を辿ることとなる……』
動けない僕たちに、書のブラッドは囁いた。
『さあ、君たちも、もっともっと、 “知る” がいい』
それから、ぴたりと本は動かなくなった。もう声を発することもなかった。
「どこ行きやがった……。あいつ、確か、書に取り憑くとかなんとか言ってたよな」
スバルは悔しそうに顔を歪めて辺りを見回す。
「今は、本に取り憑いていると言っていました」
「今は、ねえ。ってことは、病原体みたいに空中を漂ってまた別のものに取り憑くのかもしれないな」
「この街には新聞とか雑誌とか、たくさんありましたよね」
僕は昨日見た大通りの様子を思い出す。スバルは頷いた。もしあの大量の媒体に、書のブラッドが取り憑いたら。それを街の人たちが読んだら。この街はどうなってしまうのだろう。
研究員はもう、動かない。無理な操られ方をしたせいだろうか、手足がおかしな方向に折れ曲がっている。
「まずいな。それに、ブラッドのクローンも早く何とかしないと」
「とりあえず、外に出ましょう。おばあさんやノエルが、危ないかもしれないです」
「ああ、行こう!」
僕たちは真夜中の工場を抜け出した。




