工場
真夜中に目が覚めた。
僕は立てかけておいた槍をつかみ、ベッドから降りる。
スバルも起きていた。
「なにか……やばい感じがする」
僕は頷いた。
真っ暗な家の中を、音を立てないように歩き回る。
店に吊るされた干し薬草が月明かりを纏って、てらてらと輝いている。流し場の蛇口からポタポタと落ちる滴の音が、時計の秒針の音と共鳴する。
家の中には、なにもない。だが、嫌な気配は消えない。
「外か?」
スバルが玄関の戸に手をかけた。藍色の世界が目に飛び込んでくる。昼間よりも鋭さを増した冷気が家の中に押し寄せてきた。
_____っっ!
「危ない!!!」
とっさに僕はスバルの背後から、スバルに向かって槍を突き出した。
凍りついたみたいに固まるスバル。
その首筋ギリギリの小さな空間を、槍は貫いた。
「キェ……」
高いとも低いとも言えない、音波のような悲鳴をあげて、槍を正面から受けた「何か」が倒れた。
焦げ臭い匂いがする。
「な……んだよこれ」
スバルの額にはじわりと汗がにじんでいた。
コオロギだった。ただし、赤ん坊ほどもの大きさの。薄い体毛がビッシリと生えており、ギョロリとした虚ろな目を持っている。そして小さくすぼんだ口の中には深紅の半透明な牙が鋭くきらめいていた。あと少し遅かったら、スバルの肩に噛み付いていた。
「ブラッドです。小型の」
そんなに強いブラッドではなかったのだろう、もう動かなくなっている。
スバルは呟いた。
「これが本物かよ……」
僕は槍を振って、構え直す。月明かりの下、他に何匹も、飛び回る影が見えた。
「こんなに集団で……」
まるでノスタルジアと同じだ。
恐れていたことが起きてしまった。僕の力を取り戻す前に、この日が来てしまったのだ。
「このままじゃ、この国が滅びてしまいます!」
その前に、止めなきゃ。
雪の降りしきる街に、踏み出そうとする。
――だけど、どうやって。僕にそれができるのか?
頭の中で響く声に、手足を支配されそうになる。
「ああ、行くぞ!」
スバルはいつのまにか小さなリュックサックを背負っていた。
「この日のために、俺は色々と準備してたんだ」
頭の中の声は、槍を強く握って振り払う。
勇ましいスバルと一緒に、街へ繰り出す。
迷ったけれど、おばあさんとノエルは家に置いていくことにした。連れていくにはあまりにも危険すぎる。
*
虫、獣、鳥……。
小さくて、すばしっこい型のブラッドが、街中を飛び交っていた。
建物の陰から、看板の裏から、マンホールの中から……。
倒しても倒しても、ブラッドが出てきた。
槍を長めに持って、体をめいいっぱいに使って振り回す。多数を相手に戦うときは、自分の行動範囲をなるべく広く保っておかないといけない。
「……っっ!」
気付くと一匹のブラッドの顔が目の前にあった。
「危ない!」
ボッ、と真っ赤な光と熱い風が目の前を駆け抜ける。怯んだブラッドにとどめを刺す。
「……助かりました」
僕はスバルにお礼を言った。スバルは手に酒瓶とマッチを持っていた。スバルは僕の方は向かず、苛立ったように呟く。
「それにしてもこいつら、どこから入ってきたんだ? 国の防壁は蟻一匹通さないんじゃなかったのかよ」
相手はブラッドだ。どんな能力を持っているかわからない。国防設備を突破してきた可能性は捨てきれない。
しかしスバルの言う通りだとするならば、ブラッドは外部から入ってくることは出来ない。
それに、研究し尽くされたというこの国の防壁を容易に突破するほど、このブラッドたちは強くはないように思える。
ならば、最初から、この街にいた……?
右側と左側から同時に飛びかかってきたブラッドを、かがんでかわす。2体のブラッドは頭をぶつけ合って地に落ちる。猫と犬のような大きさと形のブラッドだった。
動かなくなったブラッドの、体毛に覆われた首元に、僕の視線は吸い寄せられる。
「なに……これ……」
数字の羅列が刻印されている。まるで、誰かに管理されているような。
僕ははっとした。パズルのピースの、繋がってはいけない部分が繋がってしまった。頭の中にパッと浮かんだ光景は、昨日図書館で机の上に開いた、『怪物と紅』というあの 本のページだった。
作者が実際に行った実験のページ。
あそこには、なんて書いてあった?
『二体のブラッドをひとつの部屋に置き…』
「スバルさん、あの本に書いてあった研究者って……」
ブラッドをリュックサックで薙ぎ払いながらスバルが怪訝な顔をした。
「いったいどうやってあの『二体のブラッド』を手に入れたんですか。まさか、自分の住んでる国から出て、ひとりでブラッドを捕まえに行ったんですか」
スバルは目を見開いた。
あの本の作者が研究活動として行っていたのはあくまで、各地にあるブラッドの死骸の採集だ。実験に使っていたのは、生きたブラッド。
世界中の国々をものすごいスピードで破壊している怪物を、訓練を積んだブラッドバスターが集団でかかっても倒せなかった怪物を、研究者ひとりやふたりがそう簡単に捕まえて、しかも飼育までできるとは思えない。それができたら世界はあんなふうに滅びてはいない。
「この国の工場だって、同じです。ブラッドに関する実験をしているんなら、実験台が必要なんじゃないんですか。だとしたら、みんな、一体どうやって実験台のブラッドを手に入れているんですか」
僕はなんとなく、スバルはすでにその答えを知っているのではないかと思っていた。いや、むしろ確信していた。
長い沈黙のあと、やっと、スバルがぽつりと口を開いた。
「俺が昨日お前らに出会った時……俺は工場に忍び込んでた。工場でどんな研究がされているのかは、政府がでたらめな情報を流して誤魔化しているから、一般市民には知らされてないんだ。俺はそれを確かめようって昔から企んでて、昨日がその実行日だった」
あのまま何事もなかったかのように退散するつもりだったのに、お前らに出会っちまったから大変なことになった、と皮肉を言われる。
「あそこでは、ブラッドのクローンが作られてる」
「クローン……?」
「ああそうだ。新しく、イチから作った、人工的なブラッドのことだよ。どこかのブラッドの死骸から血液を採取して、そこに含まれている成分を分析して、培養して、新しく人工的にブラッドを作る研究らしい。完成したそれを使って、いろんな実験を行なってる。多分、あの本の作者もそうしてる」
「それって危なくないんですか?」
「ひとつずつ大きい水槽に入れられて、割としっかり閉じ込められてた。それにまだ未完成なのか、体も小さくて、弱そうな感じだった。……けど」
「けど」のあとで、スバルは口をつぐんだ。
もしそれが暴走したらとか、研究者たちや政府の人たちは考えなかったんだろうか。国の周りにはあんなに頑丈な城壁を築いているくせに、国の中にブラッドを飼っているんじゃ全然意味がないじゃないか、と、不安になるというよりむしろ腹が立ってくる。
みんな、「本物」を見たことがないからだ。自分の村は大丈夫、と根拠もなしに信じていた、昔の僕みたいに。
だから、こんなことになるんだ。
「とにかく、工場に行ってみましょう!」
スバルは苦々しくうめいた。
「ああ。まさかそんなに適当な管理じゃないと信じたいけど……」
僕たちは昨日も走った道を、今度は反対方向へ駆け抜けた。
目の前にそびえる工場には夜間用の明かりが灯っている。満点の星空がそのまま切り立つ壁になって、迫ってくるみたいだった。照らされた雪の粒が光る羽のように舞う中、束ねられた血管のような無数の鉄パイプが相変わらず不気味な存在感を放っている。
工場の中には、意外とすんなり入れた。夜だからなのかとも思ったが、スバルは
「やっぱりなんかおかしい」
と言った。
「警備が誰もいないなんて……。この入り口も、普段は鍵が閉まってるのに、ほら」
スバルのいうとおり、入口の重厚な扉はわずかに隙間が空いている。
そこから忍び込んで、スバルについていく。
「これだ」
一枚の観音開きの扉を前にして僕たちは足を止めた。
僕は息を飲む。
近くに人の気配はない。ただ、唸るようなモーターの音が、背筋を冷たく撫でるだけだ。
「入るぞ」