血
「うーん、そうだな。研究者界隈でも、その説はわりと、有力な方だな」
スバルは腕組みをする。
僕たち三人は、読書スペースである大きなテーブルに移動して、『怪物と紅』の本を囲んでいた。
――ブラッドは、ブラッドを倒すことで力を得る。
僕たちの知らない、新しい事実だった。
最初にこのページを読んだ時、世界にはこんなにもブラッドの研究が進んでいる国があったんだ、と驚いたものだ。ノスタルジアでも多少の研究はされていたはずだが、ここまで本格的なものではなかっただろう。
僕は本のページに目を戻す。
「僕、これを読んで、この法則が僕とノエルの紅石の力を元に戻すのに使えるかもしれないって思ったんです」
「どういうことだ?」
口にしてしまうには、あまりに恐ろしいことのような気がするけれど、仕方ない。吸い込んだ息を勢いまかせに吐いてしまうように、口を開く。
「僕たちの体にある、紅石と、ブラッドの体に埋まっている石はそっくりなんです」
僕は左腕にそっと触れた。
「もし、これがブラッドのものと同じなんだとしたら、ブラッドを倒して、紅石を破壊することで、僕たちに生命粒子が移動して、僕たちの紅石の力が戻ってくるんじゃないかって、思ったんです」
ブラッドを倒した時、体の底で焚き火が燃えるような、血潮が洪水を起こすような、そんな力がどこからか湧き上がってくるのを僕は確かに感じた。あの力がもし、ブラッドを倒したことによるものだったなら。
スバルは目を見張っていた。
彼はもう、昨日のように、「お前ら、やっぱりブラッドなのかよ!!」などと言って僕たちをなじってくることはなく、かわりに、あらゆる感情を顔の上でごちゃ混ぜにした結果相殺されて無表情になった、みたいな真剣な顔をした。
「さすがに、ブラッドに襲われた奴、なおかつそれでいて生きてるやつなんか、この国にはいないから、そんな研究はされてないけど……」
「やってみる価値はあります」
もしも、この街にもうすぐブラッドが来るのなら、僕がそれを倒せばいい。力はないけど、槍はある。準備さえ整っていれば、勝てるかもしれない。この街を救うことと、僕たちが力を取り戻すこと、それから、世界を救うことにもつながる。一石三鳥だ。
だけど。二回目のノスタルジアでの記憶がよみがえった。あんな惨めな思い、もうしたくなかった。僕は勝てるだろうか。こんな、力のない僕が。今の僕には紅石の力はない。槍一本しかない。
「ユーマ、大丈夫だよ、心配しないで」
つい考え込んでしまう僕に、ノエルが微笑みかけてくれる。
「スバルさんが助けてくれるって。ね?」
スバルは困惑したように「えっ!?」と声を荒らげる。
しかし、彼はまたノエルのキラキラした瞳に負け、そっぽを向いて頭をがしがしとかいた。
*
それから僕たちはスバルの買い物に同行して、街を散策することにした。
野菜や果物、干し肉を山盛りに積んだ露店がずらりと立ち並ぶ賑やかな通りに出ると、スバルは迷いのない足取りで次々と食材を買い込んでいく。
「作るのはばっちゃん。俺は、買い出し担当だからな」
ノエルは見るものすべてが珍しいのか、辺りにあるものをあれこれ指さしながら、「あれは何?あれは?」と僕に次々と質問してくる。
しばらく街を歩いていると、どこからか声が聞こえてきた。
「なにあの子、白い髪よ…」
「噂に聞く、魔女じゃないか?人を獣に変えてしまうって言う…」
「気持ち悪い…」
軽かったノエルの足取りが、少し重くなる。
それでも知らないふりをして、歩き続けようとしたところに、かつーん、と音がして、僕たちの一歩先の地面に、小石が転がってきた。
ノエルはついに足を止めた。
「行くぞ」
スバルはノエルの手首をぐいと掴んで、歩調を早めた。慌てて、僕も遅れないようについて行く。
ノエルは少しうつむいていた。手からはケーキの紙箱がぶらりとぶら下がっていた。
「俺は、あいつらとは違うからな」
前を見つめたまま、誰に言うともなく、スバルは言った。
薬屋の小さなドアを開けると、奥からおばあさんがひょっこり顔を出した。
「おかえり。楽しかったかい?」
スバルはもう一日、僕たちを家に泊めてくれると言うので、ありがたく、そのご厚意に甘えることにしたのだ。
ノエルは曖昧にうなずいた。
「うーん。半分、半分くらい」
晩ご飯を食べながら今日あったことをおばあさんに話すと、おばあさんは
「そういうことだろうと思ったよ」
と苦笑いを浮かべた。
「懐かしいねえ。私も昔は熱い洗礼を受けたもんだ。よそ者は怪しい、気持ち悪いって虐げられたよ。この国のそういう風潮は、昔から変わらないね」
おばあさんは手にしていたスプーンを静かに置く。
「だけどね、わかってくれる人もいたんだよ。あの子のおじいさんみたいにね」
「あの子って、スバルさん…?」
スバルは、することがあるからと言って、帰って来てからずっと部屋にこもっている。晩ご飯は後で食べるらしい。おばあさんは頷いた。
「そう。わたしに優しくしてくれてね。これをくれたんだよ」
おばあさんは服の胸元に下がっていたチェーンをそっと引っ張った。涙のような形の紅い宝石がこぼれ出た。
「嬉しかったねえ。特に、私たちの村では、大切な人には、紅い宝石をあげるっていう風習があったから。私たちの村では、紅色は血の繋がり、運命を表すんじゃよ」
ノエルもそれを聞いて、うっとりしたような表情で大きくうなずいた。その顔には、笑顔が戻っていた。
「スバルさんのおじいさん、とってもロマンチックで素敵な人ですね」
おばあさんの作る晩ご飯を食べて、ストーブの前でお茶を飲んで、熱いお風呂に入る。
同じ屋根の下に誰かがいる暮らしって、こんなにも温かかったんだ。嬉しくなるけれど、同時にそれが母さんやエリルじゃないことに胸が苦しくなって、それから、僕だけがこんなに幸せな思いをしていいんだろうかという気持ちになる。
静かな夜だった。
眠ろうと目を閉じると、今日読んだ本に書かれていたことが次々と脳裏をよぎって眠れなかった。
静寂の中で、鼓動の音がやけによく聞こえた。とくん、とくん、とくん、と僕の心臓は規則正しいリズムを刻んでいる。 血潮が身体中に送り出されて、僕の体を温めている。
まだ、止まっていない。僕の鼓動はまだ、止まっていない。
身体越しにベッドに伝わる鼓動の音に、僕は息を潜めて、聞き入っていた。