雪の街
「はぐれても知らないからな。ついてこい」
低い声で小さく言って、スバルは大股で歩き出した。十八歳の大股は、十二歳の駆け足だ。僕はノエルの手を引っ張って、必死でついていかなければならなかった。
ノエルの目には白いガーゼの眼帯がついている。昨日の晩ご飯の後におばあさんがくれたものだった。「絶対にとっちゃいけないからね」と念を押された理由は、昨日の経験上、なんとなくわかるような気がする。そのほかにも、ノエルは厚手のコートと毛糸のマフラーを、僕は破れたシャツの代わりに新品の暖かいシャツと上着をそれぞれ貸してもらった。
厚みのある黒雲が街の頭上をすっぽりと覆っていた。そこからぽぽぽぽ…と面白いくらいの勢いで量産される雪の粒が、通りに、家の屋根に、そして僕たちの頭の上に降り積もる。先端にスコップのついた大型車が通りをこまめに動き回っているおかげで歩きやすいが、そうでないところには腰の高さほどまでも雪が積もっている。こんなに小さな粒が、ここまで積もるなんて。いつかこの街が埋もれてしまうんじゃないだろうか。
「わあ、ユーマ、みて!」
ノエルが歓声をあげた。
「道から水が出てる!」
「わ、ほんとだ」
スバルが背中越しに解説してくれる。
「この街は雪が多いから、雪解けに困らないように水を出してるんだ。ほっとくと、ガチガチに固まっちまうからな」
なるほど……。
なかなか良く考えられた仕組みだったのだ。
「ほら、家の屋根も、全部三角屋根になってるだろ?あれも、上に雪がたまって、重みで家が潰されないようにするためなんだ」
「へえ……」
たしかに、温かみのある朱色で統一された家々は、その屋根のほとんどすべてが可愛らしい三角形になっている。
ひとつ、角を曲がると、三角屋根の建物がひとまわり大きくなった。ところどころにショーウィンドウも見える。大通りに出たようだった。今までの道よりもずっと混雑しているのにも関わらず、スバルは相変わらず早足だ。
スバルを追いかけて人混みをすり抜けていくたび、僕たちにちらちらと視線が集まるのがわかる。昨日のような、敵意の眼差しではない。人間離れしたノエルの容姿に目を奪われているのだ。眼帯で顔は隠れているが、むしろ彼女の儚さや神秘的さは増している。僕はノエルの手をぎゅっと握る。はぐれないように、スバルについていく。
印象的なのは、あちこちに貼ってある、ポスターや新聞記事だった。建物の壁はもちろん、電柱やポストにも貼られている。マンホールの数よりも掲示板の数の方が多いような気がするし、十歩歩くごとに号外が配られている気さえする。しかも、街の人々はそれを興味津々といった様子で見ている。ショーウィンドウを備えた可愛らしいお店は、すべて本屋や、印刷屋だったりする。
「この国は山に囲まれてるから、他国に遅れをとりやすい。必然的に、昔からこの国の連中は他の国との結びつきを大切にするようになった」
スバルは少し、歩く速度を緩めた。
「ブラッドが現れるまでは、貿易が盛んだったんだが、ブラッドが現れてからは行商人の行き来がなくなって貿易は停滞しちまってる。そのせいで、隔離されたこの国はさらに世の中の情報に敏感になって、今は広いネットワークを活かして情報収集をしてる。古今東西の情報をかき集めて本とか、新聞にするようになったんだ」
「行商人の行き来が止まっているのに、どうやって情報をやりとりするんですか」
「最新機器だよ。電話だ、電話」
スバルはやや得意げに言った。
「デンワ……?」
「この国で開発されたんだ。前は工業が発展してたからな。簡単に言うと、電波を使って遠くにいる人と会話できる道具だ。地下にアンテナが埋め込んである」
「へえ……?」
何を言っているのかいまいちわからないけれど、とにかくすごいものなんだろうなと思った。
「つまり、この国は情報量が多いんだ。当然、ブラッドに関する情報もな。だから警戒して、警備も頑丈になるんだ、あんな風に」
少し顔を上げると、雪を載せた山脈と要塞のような壁が街全体を覆うように連なっているのがわかった。
「あの防壁には砲台がくっついてて、さらに電気網が張り巡らせてある。だから、山脈と、この防壁を突破して、何かが侵入することは限りなく不可能に近い。おまけに上空には縦横無尽にセンサーが張り巡らされてるから、異物が飛んできたらどんなに小さくても撃ち落とす。もちろん、対ブラッド用に徹底的に研究し尽くされた最強の武器でな。だから、この街にブラッドがそうそう簡単に入ってくることはないと思うぜ。まあ、だからこそこの街はこんなに長く生存しているんだろうけどな」
「……じゃあ、僕がこの街の人間じゃないってこと、いちばん最初から気づいてたんですね」
「ああ。俺だけじゃなく、な」
スバルは怒ったように言った。
「この街の奴ら……特に工場のやつらは、侵入者だってわかったら容赦無く排除してくるぞ」
街並みの遥か向こう側では、昨日僕たちがいた工場街が、煙を吹き上げている。
「さっき言ったように、昔は輸出用の工業製品の製造が盛んだったんだが、ブラッドが現れてからは何もかも変わっちまった。あの場所は今は対ブラッド用兵器開発のための実験場兼研究所になってる。今でもあの場所が工場って呼ばれてるのは、昔の名残だ」
スバルがため息をつく。白くにごった息は工場が吐き出す煙にそっくりだ。
「俺の親父も、昔小さな街工場をやってたみたいだけど、その工場もあっけなく閉鎖しちまった」
「父さんは今?」
「あの中だよ」
スバルは工場をちらりと見やった。
「俺が小さい時に、俺を置いて出て行っちまった。今はたぶん、『工場』の研究員になってる。しばらく自分の工場を続けてたみたいだけど、もう生きてるのか死んでるのかもわかんねえな」
「そうだったんですか…」
「俺、ばっちゃんとは血は繋がってないんだけど、ばっちゃんが俺たちを引き取って、育ててくれたんだ」
この人も、意外と苦労しているんだなと思った。
「じゃあスバルさんは、お父さんを探すために工場に行ってたんですか?」
スバルは「ああ?」と一瞬眉間にしわを寄せ、それから薄く笑った。
「んなわけねえだろあんなやつ。もう父親とも思ってないよ」
「じゃあどうしてあそこにいたんですか?」
「それは言えない。けど、調べたいことがあったんだ。最近ブラッドについて研究してるからな」
「僕の力を抑制したっていう薬も、あなたが作ったんですか?」
「ああそうだよ」
「すごい、お医者さんみたい」
「ノエル、そこは感心するところじゃない」
目をきらきらと輝かせるノエルに、スバルはまんざらでもない様子だ。なんだか少しもやっとする。
「俺は医者なんて大層なもんじゃねえよ。ただ、人よりちょっと博識なだけだ」
それを自分で言うのはどうかと思う。
その時、通りの少し向こう側で歓声が聞こえた。
「脂肪と炭水化物を筋肉に変える!強靭な肉体を作る、魔法の薬だよー!」
「あの美人歌手の恋のお相手は、既婚者の演劇俳優らしいぜ!号外はこっち!」
一際大きな声の宣伝文句に、通りの人だかりが殺到する。
スバルは汚いものを見るかのように顔をしかめ、またため息をついた。
「印刷業が発展してるおかげか、この街の連中は、新聞とか雑誌とか、ゴシップとかそういうのが大好きなんだ。だけど…。いや、だからこそっていうべきか、この街には根拠のない情報とか、噂とかが多すぎる」
ノエルがそっと目を伏せた。
「みんな噂に踊らされてばっかりで、真実を探そうとはしないんだ」
人だかりを避けて、僕たちは進む。またどこかで別の声が聞こえる。
「ちょっと、聞いた? 酒屋の旦那さん、奥さんに逃げられたらしいわよ」
「あの子のおじいさんって元窃盗犯らしいわ。近づかないようにしないと」
スバルは呟く。
「知識は、化け物だ。本当に正しいことを知らないでいるなら、半端な知識は無知より恐ろしいんだ。真実の皮をかぶった嘘は、いつしか人を食っちまう」
スバルはまた、歩調を速める。僕たちは小走りでついていく。
「ブラッドのことだってそうだよ。国は防衛設備を強化するばっかりで、ブラッドが一体なんなのか、倒せないのか、考えるやつはいないんだよ。噂ばかりがでかくなってびびっちまったのか知らないけどな。みんな受け身なんだ。そんなんじゃ、俺たちが死ぬのは時間の問題だ」
……確かに、そうかもしれない。僕の心にも刺さる言葉だった。
「そう思って、俺がブラッドの正体を暴いてやろうと思ったんだ。だから俺はこの街の誰より賢くなるって決めたんだ」
僕はスバルの部屋を思い出す。あの部屋を埋め尽くすほどある本を見れば、彼のせりふは本気なのだということがわかった。彼はこう見えて、根は真面目なのかもしれない。
なんだか、つかみどころのない人だ。