あの日
鬱蒼と茂る森の中を、枯葉を踏みしめながら僕はひたすら歩く。足を取られて歩きにくい。できるだけ体力を温存するため、足元の一点をひたすらに見つめながら、無心で歩く。
ノスタルジアを出たのは、昨日。エミリーから例の紙をもらってわずか一日後に、僕は二年ぶりに外界へ出た。
おととい、僕が渡された紙きれは、『ブラッド討伐依頼』だった。
数あるブラッドバスターの仕事の中でも最上級の仕事だ。
調査や護衛とはわけが違う。
調査隊から得られたブラッドの目撃情報をもとに、街の外でうごめき、暴れまわっているであろうブラッドをたった一人で倒しに行くのだ。
この仕事は、普通、ベテランのブラッドバスターにしか与えられない。難易度が恐ろしく高いからだ。実際のところ、命を落としたバスターも少なくないらしい。
けれど、この仕事を受けられることは、僕らにとって、名誉にほかならない。
踏み出す一歩にぐっと力を込める。
何にせよ、今まで自分たちを苦しめて来たやつらに、復讐ができるのだ。すべてのブラッドバスターは、この仕事をするために日々特訓していると言っても過言ではない。
そのような危険な任務を、普通ならギルドは十二歳の子供には任せない。普通なら。
僕は、背中に背負った槍をぎゅっと握りしめた。穂先が血のような朱色をした、僕の身長以上ある大ぶりの槍だ。昨日ノスタルジアの武器屋で、なけなしのお金をはたいて買った。
――「ユーマくんは、槍を使うのが上手だよね」
かつてそう言ってくれたのは、ブラッドバスターの訓練をしている僕を見ていたエミリーだったか。
美しい装飾もなく、ただ赤黒くて、普通より大きな穂先が目を引くこの槍は、僕の手にすっと馴染む。
この槍は普通の槍ではない。ここ数年のうちに開発され、ノスタルジアの市場に出回っている、対ブラッド用の槍だ。
穂先を形作るのは、研ぎ澄ませた真紅の石。ブラッドは、この石に弱い。その効力は、触れるだけで、ブラッドに致命傷を与えられるほどだ。
普通なら、ブラッドバスターはこのような武器を、ありったけ持って討伐に行く。普通なら。
僕は「普通」ではない。
武器は槍一本のみ。ナイフも欲しかったが、お金が無くて買えなかった。
重たい盾や鎧もいらない。これも、買えなかったというのもあるけれど、僕には必要ないのだ。
今身に着けているものは、布地のシャツに、厚手のジャケットとズボン。槍の他に持っているものはバックパックひとつだけ。ノスタルジアを出るとき、警備の人に遊びに行くんじゃないんだぞと怒られた。
僕は、人よりも体が強い。
いや、正確に言えば、強くなった。
あの日から――。
*
あの日。
忘れもしない、四年前の秋。
ブラッドに、僕の故郷が襲われた。
それは突然だった。
僕が住んでいたところは自然豊かな小さな村だった。とても小さいし、人口も少ないけれど、みんな優しい人ばかりだったし、とてもいいところだった。今思えば、僕はあの頃、僕はとても幸せだった。
僕はその村で母さんと父さんと、妹のエリルの四人で暮らしていた。父さんは仕事で家を空けがちだったから、僕たちは三人で多くの時間を過ごした。
ある日、
「ねえ、ユーマ、エリル、二人で北の森に行って、薬草採ってきてくれない?」
母さんが言った。
四年前の時点でブラッドはすでに世界中で暴れまわっていた。しかし僕の村は田舎だったこともあり、住人達はみんな、楽観的だった。防壁をつけたり食料を蓄えたり、武器を集めたりは何ひとつしていなかった。
――まさか自分たちの村が。
――そのうち誰かが倒してくれるだろう。
――半年後には、元通りの世界になっているだろう。
みんなそう思っていたに違いない。
しかし、幸せは長くは続かなかった。
僕とエリルはあの日、言いつけ通り、村を出て、北にある森へ行った。普段は様々な植物が生い茂り、鳥や動物たちが暮らす、平和な森だった。
普段は。
「ねえ、お兄ちゃん」
エリルが僕の服の袖をひっぱった。
その時のことは、今でも鮮明に覚えている。
「鳥さんとか虫さんがね。ないてないの」
ハッとした。
エリルの勘は、昔から冴える。
水晶玉のようなエリルの目が、
「お兄ちゃん、怖いよぅ……」
僕を見る。その時だった。
世界を砕くような、音がした。
それは実際に、世界を砕く、音だった。
ビリビリと大地が小刻みに震えていた。
地面が揺れているのか、はたまた僕の足が震えているのか、わからなくなる。
「お兄ちゃん! ママが! パパが!」
エリルが叫んだ。涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
僕も泣き出しそうになるのをこらえて、エリルの手を取る。
大丈夫。大丈夫だよ。
きっとうちでママが待ってる。
さあ、家に帰ろう。
僕たちはそのまま、来た道を引き返し、村へと戻った。最初はエリルを落ち着かせるため、小さなエリルの歩幅に合わせてゆっくり歩いていたが、知らず早足になっていた。
村まであと、何歩――。
木々の隙間から、見慣れた村の入り口の門が見える。
あと少し。あと少し。急げ。
門に書かれた歓迎の言葉がくっきりと見える距離にまでたどり着いた頃には、僕もエリルも息を切らしていた。
僕たちは立ち尽くした。
そこに、僕たちの村の面影はなかった。
まさか。そんな。
もうすでに、あの地を揺るがすような音も聞こえなければ、人々のにぎやかな声も聞こえなかった。
なにも、聞こえなかった。
僕は右手に力を込める。エリルがそれをもっと強く、握り返す。
一歩一歩、進んでいった。
一歩一歩、うちに近づいていった。
商店街「だった場所」を通り過ぎ、友達の家「だった場所」を通り過ぎ、隣のおばさんの家「だった場所」を通り過ぎた。
うち「だった場所」に着いた。
母さんはどこだ? さっきまで、ご飯の支度をしてたはずだろ?
「ママ…」
エリルはまるで、わかっているかのような声で呟いた。
僕だって、わかっていたさ。でも、探さずにはいられなかった。
僕らの村「だった場所」は、もう、ただのがれきの山だった。
僕はがれきの山から、もうあるはずのない命を探していた。
あっ。
僕は思わず声をあげた。同時に、こらえていた涙がとめどなく溢れ出した。
「どうしたの?」
エリルががれきの山を乗り越えてこちらに来た。エリルも泣き始めた。
そこにあったのは一本の手だった。
一本だけの手だった。
その手には指輪が付いていた。母さんがいつもしていた、結婚指輪だった。