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逃亡

 ぶつん、と風の音が乱雑に途切れた。意識をハサミで無理やり切断されるような不快な感覚に襲われ、続いて何も見えなくなる。


 エリルの夢を見た。ねえ、お兄ちゃん、どうしてエリル、死んじゃったの。どうしてお兄ちゃん、助けてくれなかったの。そう言ってエリルが泣いている夢だ。ごめんね。僕は何度も言う。守れなくてごめん。 独りにしてごめん。僕だけが生きていて、ごめん。いつもの夢と違ったのは、そこでエリルが、ふっと笑ったこと。お兄ちゃん、助けてね。


 そこで、夢から覚めた。


 途切れた時と同じように、音が戻ってくる。何か話し声が聞こえる。

 目を開ける。頬に触れているのは黒くて冷たい地面だった。ガキン、と、目の前に鋭い爪のようなものが刺さった。危ない。しかし逃げようにも、動いたら僕に刺さってしまう、などとぼんやり考える。人の声がする。


「化け物だ!!」


 ハッとする。近くにブラッドがいるのだろうか。まさかこの爪は、ブラッドのもの……? しかしどうも様子が違う。回らない頭を必死に覚醒させて、ようやく、僕は五人くらいの大人に囲まれて寝転がっているようだということを理解した。

 鋭い爪のようなものは、さすまた、というんだったっけ、先がUの字になった、不審者や害獣を捕らえて動けなくするためのあの武器らしい。

 それがなぜか僕に向けられている。声はまだ、「化け物だ!」と騒ぎ立てている。


「その石を壊せ!」


 誰かが言った。反射的に僕は投げ出されていた自分の左腕を、素早く体に近づけて庇おうとした。しかし、がっちりとさすまたで両手足を押さえつけられていて、動けない。


「こ、こいつ、生きてるんだ!」


 声が言う。彼らは動揺しているが、僕を捕らえるさすまたは微動だにしない。

 まさか、化け物って、僕のことなのか?


「おい、殺したら危険じゃないか!? なにが起きるかわからん!」

「あっちの女はどうする!?」


 僕の身が危ないことは確かだ、ということだけはわかった。

 それに、女、というのはノエルのことだろうか。ノエルにも、危険が迫っているのか。

 寒い。とても寒い。手足の先が痺れて感覚がない。特に、手はゴムボールにでもなってしまったみたいだ。指先は赤く腫れている。頭がぼーっとする。


 ええと、僕は何をしていたんだったっけ。


 脳裏をよぎった映像には、差し出されたノエルの手。僕はノスタルジアで、その手を取った。そう、この世界を、二人でやり直すためだ。

 じゃあここはどこで、今はいつだ? 気づいたら僕と、おそらくノエルも、謎の集団に襲われている。状況はさっぱりわからないけれど、とりあえず逃げなければ。だけど、どうすれば……?


「うおっ!?」


 声がさらなる動揺を見せた。

 次に、どかっ、と鈍い音と咳込む声。僕の腕を押さえつけていたさすまたが、カランコロンと地面に落ちる。

 な、なんだ…?


「おいお前!!」


 ぐい、と手を掴まれた。


「逃げるぞ!」


 乱暴に引っ張り起こされると、僕は薄暗い路地裏にいることがわかった。生ゴミの匂いが鼻をつく。僕をとらえていた、警官のような制服に身を包んだ男たちは、五人揃って地面に膝をついていた。

 僕の手を掴んだ男性は、そのまま僕を引っ張って、駆け出そうとする。


「ノエルっ!」


 僕は叫んだ。男性は足を止める。

 ノエルがいたのは路地のさらに奥まったところだった。別の警官に囲まれている。


「この左目……忌々しい……」


 警官はノエルの顎を掴み、まじまじと観察するように持ち上げていた。ノエルはまだ目覚めていないのだろう。ぐったりとしたまま動かない。我慢できずに、僕は叫んだ。


「待て!!」


 別の警官がものすごい形相でこちらを振り向く。


「……あーあ、気づかれちった」


 男性がぼそりと呟くのを最後まで聞かないうちに、僕の体は動き出していた。怒りでお腹の底が熱くなる。


「その子から、離れろっ!」


 なぜか男性も動いていた。僕は警官のひとりの後ろに素早く回り込み、後頭部を蹴って起き上がりざまに今度は拳で殴る。体の小さい僕に油断していたのか、無防備だった警官はあっけなく昏倒した。男性が相手をした警官が倒れたのは、それとほぼ同時だった。

 へえ、と男性が感嘆する。


「チビのくせに、やるじゃん」


 すかさず僕は地面に落ちたさすまたを手にする。僕がさすまたを向けると、その男性は両手を挙げて顔をしかめた。男性、というよりは、青年、という方が正しいような、手足のひょろ長い、若い男だった。まあ、若いと言っても僕よりは年上なのだろうけれど。

 彼は工場作業員のような出で立ちで、そしてなにより、丸腰だった。


「失礼なガキだな。俺は助けてやったんだっつーの」


 僕が沈黙を決め込んでいると、青年は派手な茶髪をぐしゃぐしゃとかき乱して、ぐったりしたままのノエルを背中におぶった。


「ちょっと……なにするんですか……!」


 僕を一瞥して青年は吐き捨てるように言った。


「お前みたいなチビにはこの子は背負えねーだろうが。……ほら、とっととずらかるぞ!」


 うめき声をあげながら、警官たちが動き始める。


「ほら早く!」


 怒鳴るような青年の声に急かされ、納得いかないながらも、僕は路地裏を抜け出した。





「あの、助けてもらったみたいで……ありがとうございます」


 走りながら、一応お礼を言うと、青年は「ああ」と素っ気なく返事をした。

 相変わらず感覚のない指先を、吐く息で温めていると


「霜焼けか。しかも、けっこうひどい」


 と気にかけてくれる。霜焼け、というのがどんな状態のことを指すのか、僕には分からなかったけれど。


「えっと、あなたは…?」


 男性は僕をちらりと見て、「スバル」と答えた。どうやらそれが彼の名前らしい。

 僕のことが気に入らないのか、さっきから仏頂面を崩さない。しかし、顔だちは整っていて、女の子に好かれそうな見た目だなとは思った。僕とは多分十歳も違わない。十八歳くらいだろうか。


「お前、なんであんなところにいたんだ。あそこは工場街って言って、一般人は入るだけで牢屋行きだぞ?」


 僕はなんというべきか迷って、「知らなかったんです」と答えた。


「あなたは、その工場街の作業員の方なんですか?」

「いいや」


 スバルは短く否定した。じゃあなんであなたはあそこにいたんですか、と喉元まで出かかったけれど、それはやめた。相手に自分のことを詮索されたくなければ、こっちからも踏み込まないのがいちばんだ。

 かわりにこう尋ねる。


「あの、今はいつですか?」

「今日は九月二十日だよ」

「日付じゃなくて、何年ですか?」

「年号…?」


 スバルは怪訝な顔をする。


「お前、記憶喪失にでもなったみたいなこと聞くなよ」


 そう言いながらスバルが教えてくれた年号は、ノスタルジアの崩壊から、二年前のものだった。

 時間が戻っている。


「あの、じゃあここはどこですか? ノスタルジアじゃないんですか?」

「ノスタルジアぁ?」


 いよいよスバルは顔をしかめた。


「それはあれだろ、ブラッド被害の生き残りたちの集落。どこにあるのか知らないけど。……お前、本当にやばいのか?」

「いや、大丈夫です。やばくないです」


 なるべく平然を装って答えると、スバルは「ふうん、」と前方に向き直った。

 ちらちらと雪が降っていた。地面にもそれは積もっていて、とても走りにくい。細い路地をいくつも曲がる。両脇の建物の壁には、血管のように縦横無尽にパイプが張り巡らされていて不気味だ。曇り空の下、薄く霧のようなものがかかっていた。なにか焦げ臭い匂いもする。

 路地を抜けて少し広い道に出る。人通りはない。道の両脇にある建物のどれからも、煙突がぽこぽこと飛び出しているのが見えた。

 僕たちの目の前に川が現れる。一本の橋がかかっていた。


「あの橋を渡るぞ!」


 橋を渡ると、三角屋根の家々が見えてきた。まばらに人通りもある。


「ここまでくれば大丈夫か」


 やがて、店の看板が立ち並ぶ通りに出た。ついてこいと言わんばかりに、スバルは店と店の間の薄暗い隙間に入っていく。僕は少し迷って、その後を追った。


「話は後でたっぷり聞かせてもらう」


 スバルは振り返った。

 突然、意識が飛んだ

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