旅立ち
晴れ渡って気持ちよかった空は雲に埋め尽くされていた。真っ黒でのっぺりとした雲の天井に、街の色彩が吸い取られているみたいだ。
生ぬるい風が吹いた。重たい空気が、血の匂いを運んできた。
「ユーマ……」
仰向けに倒れた僕を、ノエルが覗き込んでいた。泣きじゃくっているノエルの涙がいくつもいくつも、頬の上に落ちてくる。
そっと上半身を起こしてみる。どこも痛くない。手を開いて閉じて、繰り返す。ちゃんと、ある。腕も、指も。投げ出された自分の体。そのどこからも血は出ていない。服すら破れていない。
僕は死んだはずなのに。
*
ノスタルジアに、ブラッドが来た。
おびただしい数だった。
一匹ですら、見たことのある人は少ないのに、ブラッドは数え切れないほどいた。
三階建ての建物を踏み潰すほどの大型のものから、犬ほどの大きさの小型のものまで。
獣、鳥、虫……。この世界に今いるブラッドが、一同に介したみたいだった。
僕はまた、神殿で見た壁画を思い出した。様々な形をしたブラッドは、なんの躊躇いもなく戦士たちをを切り裂き、突き刺し、投げ飛ばし、食らった。
すべてのブラッドに羽がついていて、縦横無尽に飛び回る。城壁なんて意味がなかった。
誰もがその数に、迫力に、圧倒されていた。
みんな足が震えるのをごまかして突っ込んでいった。
仲間の死を目すると同時に、自分の死を悟り、気が狂いそうになって、考えるのをやめて。
そして、戦うことを、戦って死ぬことを選んだ。
誰も、敵わなかった。
僕も槍を握りしめ、高く飛び上がった。目の前には、首が二つもある、コウモリの羽を持った、巨大な白い馬がいた。
僕が飛びかかる、その瞬間、コウモリの羽がにゅっと伸びた。わけがわからないうちに羽が風を切る。まるで、なぎなたの刃みたいに。僕の右から、黒い羽が迫ってくる。空中で、身動きの取れない僕の脇腹に、触れる。
熱い。
そう感じた時には僕は地面に崩れ落ちていた。喉からひゅっと、鳴りそこねた笛のようなおかしな音がした。
僕のまわりに、血の水たまりができていく。
ノエルが何か言っている。
なんて言ってるの?
ノエルの声はくぐもって聞こえない。まるで、海の底に溺れていくみたい。
そこで、意識が途切れた。
*
「僕がいたって何も変わらなかった……」
僕は死んだ。あの時。あの瞬間。ブラッドにやられた。そして、多分ノエルに時間を巻き戻してもらって、生き返った。
そばで泣きじゃくっているノエルの涙を、そっとてのひらで拭う。
ごめんね。怖い思い、させちゃった。
あたりを見渡す。家も店も看板も城壁も、何もかもなくなった街の上には、がれきの山しか残されていない。遮るものがないから遠くの山まできれいに見渡せる。ああ、世界はこんなにも広いんだ。
「また、僕はみんなの帰る場所を守れなかった……」
拳を、振り下ろしてみる。地面にめいいっぱい叩きつけてみる。大地はこれっぽっちじゃ、ぴくりともしない。この世界は僕には大きすぎる。
「僕がもっと、強かったら……」
自分の声が思いのほか低く重いことに驚く。
振り下ろした僕の拳を、ノエルが優しくすくい上げる。
「大丈夫だよ。ユーマは強い。何度だって、やり直せる」
なんだか今度は、すぐに頷き返すことができなかった。言葉がぽつりぽつり、と口をついて出てくる。
「やり直したところで、僕が強くなるわけじゃない。何回やり直したって、きっと同じだ。何度も何度も、みんなが死んでいくのを見るのは、もう辛いや」
「そんな……。諦めちゃうの」
ノエルは気の毒そうに僕を見つめた。僕は首を横に振る。違うよ。僕は諦めるつもりなんてない。僕は許せない。何人もの人の命を奪ったブラッドが、許せない。あいつらを僕の手で、全部殺してやるまで、僕はやめたりなんかしない。
だから僕は考える。
もう、このがれきの山の中、ひとりでも誰か生きている人を見つけよう、という気にはなれなかった。
そうじゃない。ひとりじゃ、意味がないんだ。
この街を、この世界を救わないと、意味がない。母さんも、エリルも。今までブラッドに殺された人みんなを、救いたい。だから。
「ねえノエル。ブラッドはどこから来たんだろう。いつどこで生まれて、これからどこへ行くんだろう。人間を殺し尽くした後は、いったいどうするんだろう」
僕は空を仰ぐ。すっかり平らになった街の上を、風の音だけが走り抜ける。静かだ。あんなにたくさんいたブラッドは、この街の人間を殺し尽くすと、そそくさとどこかに行ってしまったようだ。人が動く気配も、ない。
「ブラッドは五年前、突然この世界に現れて、人間を滅ぼし始めたって言われているんだ。だったら5年前のどこかに必ず、ブラッドが生まれた場所があるはずだよね」
自分の言葉にハッとする。思いついた。視線を戻し、ノエルを見つめる。
「そうだ!ブラッドがいつどこで生まれたのか、それを突き止めて、ブラッドが生まれる原因を、断ち切ればいいんだ!」
ノエルは何も言わず、ただ僕の顔をじっと見つめ返して話を聞いてくれていた。
ブラッドが生まれる前からこの世界をやり直せば、みんな、元通りの生活を送れる。みんなを救える。
「僕はブラッドが許せない。あいつらを全部、この手で殺してやる」
きっと、この時の僕は怖い顔をしていた。
「うん……」
しばらくの沈黙の後、ノエルは口を開いた。
「ユーマなら、そう言ってくれると思ってた」
それでもノエルは花が咲いたようにパッと笑ってくれた。
「うまくいくかわからない。どのくらいの時間がかかるのかわからない。だけど私は、ユーマが行くところについて行く。ユーマが行きたいところへ連れて行く」
世界を救う。果ての見えない、長い旅になりそうだ。
それでも、僕はどこにだって行ける気がした。だって、僕は、僕たちは、ひとりじゃないから。




