ノスタルジア
果物商人の台車が立てる気ぜわしい音で目が覚めた。
僕は道のど真ん中でうつ伏せになって寝ていた。
まだ頭はぼんやりしている。
立ち上がって、ぶらぶらと街を歩いてみる。あの悪夢が嘘のようにいつも通りだった。大通りには商人のカートや屋台がぎっちりと立ち並び、かごを提げた人々が行き交う。幼い子供が歓声を上げて駆けていく。みんなこの街でひっそりと、でも確かに生きている。
見慣れたノスタルジアの景色が広がっていた。
もしも本当に、僕たちが時間をさかのぼって過去に来ているならば、この街は、やがて僕を殺そうとする。そうと知っていても、なぜかうまくこの街を嫌いになれなかった。
大通りは一直線で、見通しがよく、その先にある高台がよく見える。その高台の頂上に、僕らのギルドがある。
足は自然とそちらへ向いた。通い慣れているからだろうか。
ギルドのそばの、あの東屋で、僕の足が止まる。
「やっぱりここにいた」
振り向いた真っ白な髪の少女は、紅い宝石の埋まった目で、僕に微笑みかける。
*
ギルドのある高台の斜面には、武器屋、防具屋、薬屋、道場、宿屋、そして食堂やちょっとしたカフェなどがみっしりと立ち並んでいる。路地は複雑に入り組んでいるのでまるで迷路のようだ。僕たちはこじんまりとした喫茶店で一番安い紅茶をひとつずつ頼んで、小さな木のテーブルに向かい合わせて座っていた。時計は昼前を指していた。
「こういう、『お店』って入るの初めてかも」
ノエルはどこかそわそわしながら紅茶を飲んでいる。その様子に僕はくすりと笑ってしまう。
「何笑ってるの?」
「いや、なんでもないよ」
穏やかに時間が流れる。こんな時間がずっと続けばいいのに。僕は心からそう思った。
それでも僕は尋ねずにはいられなかった。
「全部…夢じゃ、なかったんだよね」
わかりきったことなのに。もしも全部が夢だったのなら、僕たちは出会ってすらいないはずなのに。
ノエルはカップを静かに皿に戻した。そして悲しそうに、申し訳なさそうに、頷く。
「そうだよ。私がちょっとだけこの世界の時間を巻き戻したの」
ノエルにそんな顔をさせてしまう自分が情けなかった。
「そうだよね、ごめん」
紅茶の水面に映る、不安そうな自分の顔を、鋭く睨み付ける。
「この世界の時間を……。自分で頼んでおいてなんなんだけど、そんなことが本当にできるんだな。すごいや」
「実は私も、本当に成功するとは思ってなかったの」
ノエルは照れたように笑った。
「人の体とか、建物とか、そういう一部分だけの時間を巻き戻すことはいつでも簡単にできるんだけど、世界全体を巻き戻す、自分が旅するってことになると、とても大きなエネルギーが必要なの」
「『時の旅人』って名前だけど、自分たちが旅できるわけじゃないんだね」
ノエルは顎に手を当てて少し考え込む。
「うーん、そうだね。サヤトでは、昔はあの神殿に村人みんなで協力して力を集めてから、訓練した大人が旅をしていたみたい。だけど、最近はそれすらも全然やってなかった」
紅石の力が、おそらくその大きなエネルギーの源になったのだろう、とノエルは言う。自分でもどのくらいエネルギーを使っているのかわからないため、どれだけ時間を遡ったのかもわからないらしい。
「ともかく、私たちの使命は、ここでブラッドを倒すこと」
ノエルは真っ直ぐに僕を見つめた。
そうだ。今がいつであろうと、必ずいつか、この街にブラッドが来る。それまでに準備を整えておかなくちゃ。僕はノエルを安心させるように、笑ってみせた。
「今度こそこの街は、僕が守るよ」
「……おうおう、威勢がいいねえ、兄ちゃん」
耐えきれなくなったというように誰かが吹き出した。
隣のテーブルでドンブリをがっついていた中年の男性だった。どうやら僕の最後の言葉を聞いていたらしく、やがて豪快に笑う。その髭面には見覚えがあった。何度か顔を合わせたことのあるブラッドバスターだったのだ。
彼は僕を見て「んん?」と目を細めて、それからポンと手を打った。
「ああ、見覚えあるなぁ。えーっと、ユーリ君、だっけ?」
「ユーマです」
僕は少し驚いた。
彼は僕のことを知っている。ということは当然ながら、「僕」が過去に来る前から、この時間軸に「ユーマ」が存在しているということになる。
僕はノエルに耳打ちする。
「……これって、この街には僕が二人いるってことになるの? それ、大丈夫なの? もし僕が過去の僕に出会っちゃったらどうなるの……?」
僕はノスタルジアで、「もう一人の僕」に出会ったことはない。
「わかんない……」
ノエルは小さく首を振る。
「何も起こらないかもしれないし、何か起こるかもしれない……。今のユーマの記憶が書き換わるのかもしれない。それだけならいいけれど、最悪の場合、どっちかのユーマの存在が消されちゃったり……?」
僕はぞっとした。
突拍子もない話だが、今実際に「世界が終わる前のノスタルジアにいる」という突拍子もない体験をしている以上、もうなにが起こってもおかしくはない。
「こっちの僕には出会わないようにしよう……」
ノエルは硬い表情でこくこくと頷いた。
そうそう、ユーリ君じゃなくてユーマ君ね、とガハハと笑っていたおじさんは急に真剣な顔をして、僕の顔をまじまじと見つめてきた。そしてとんでもないことを言った。
「でも確か…お前さん、討伐に行ったんじゃなかったか…?」
「えっ」
僕は凍りついた。ノエルもまん丸に目を見開いている。
討伐に? ということは……。
そんな僕らの気も知らず、彼はぱっと顔を輝かせた。それから椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がる。
「いまだに討伐に成功したやつは聞いたことがねえ…。おい!みんな!ユーマが帰って来……」
ダンッ!
豪快に張り上げたおじさんの声を遮って、僕は机を叩いた。衝撃でカップの中の紅茶が跳ねる。僕はおじさんに詰め寄った。
「おじさん、今はいつですか」
「え、ああ、今は……っと、十一時四十五分だけど…?」
「そうじゃない!何年の何月何日!?」
「え、えぇ……?」
周囲の人たちの視線が集まるのがわかったが、そんなの気にしていられなかった。彼は僕の剣幕に戸惑いつつも、答えてくれる。
彼の答えを聞いた僕は、心臓を握りつぶされた心地だった。
それは僕がエミリーから討伐依頼書を受け取った、一日後だった。
こっちの僕は今日まさに討伐に旅立ったのだ。
ノスタルジアにブラッドが襲来するのは僕が討伐に行っている間。ということは、
「もうすぐブラッドがここに……」
僕がサヤトからノスタルジアに帰るまで、数日。
ブラッドが来たのはこの数日間の何日目だったのだろう。
もしかしたら今この瞬間にでも、街が破壊されるのかもしれない。
「ユーマ」
ノエルが、僕を呼んだ。その声で、真っ白になりかけていた頭がどうにか現実に引き戻される。
みんなが、僕を見ていた。
「みんな……逃げてください…!」
僕は店の隅まで届くように大きな声で言った。
「もうすぐ、この街にやつらが…ブラッドが攻めてくる!だから今すぐ、逃げてください!」
行ったことはないが、確かノスタルジアには地下シェルターがある。危険を知らせれば、皆慌ててそこへ逃げ出すだろう。
そう僕は思ったし、それを望んでもいた。
街があんなことになると知っているのに、戦ってほしいなんて思えなかったのだ。難しいことかもしれないが、僕一人で相手したかった。みんなを危険にさらしたくなかった。
でも、みんなの反応は僕が望んでいたものとは違っていた。
一瞬、店内は水を打ったように静まり返る。そして、人々が慌てたようにざわつき始める。
「あんた、それは本当かい?」
「兄ちゃん、確か最年少ブラッドバスターの子だよな?」
「どうすんだよ…」
しかし、すぐに不安の声は熱気に変わっていったのだ。
「戦わなきゃな!」
「この日のために準備はしてきたんだぜ!」
「ああ! 望むところだ! 親父の仇を、この手で打てるんだからな!」
みんな闘志をみなぎらせている。どこかウキウキしているようにすら見えた。
僕は泣きたくなった。
ついこの前までの僕なら、彼らと同じように戦うことを嬉しく思っただろう。
だけど、ノスタルジアの結末を見てからここに来た今の僕には、みんなには戦って欲しいとは思えないのだ。
「だめだよ……!」
僕は精一杯の声を張り上げた。
「ブラッドはとっても強いんです! 誰もきっと敵わない! 真正面から相手したら、この街は全滅だ!」
僕の声は、熱気に満ちたざわめきとガタゴトと揺れる椅子とテーブルの音に、のまれてかき消されていく。
おじさんが僕の肩をそっと叩く。さっきとは打って変わって優しい声色だ。
「そうか……。君は任務に行ってブラッドを見たんだな。怖かったろう。でももう大丈夫だ。俺たちがいるさ!」
「違う! そうじゃないんです!」
誰も、僕の言葉になんて耳を貸さなかった。
ノエルの手を引いて店を出ると、多くの人が外に出ていた。不安そうにする者や、剣の素振りをする者、誰かと身を寄せ合う者など、様々だったが、みんな不思議とパニックになっているわけではなかった。
ノスタルジアの廃墟で見た人々の亡骸はあんなに、混乱の中で泣きながら殺されたように見えたのに。
突っ立っていると、追いかけてきたのか、さっきのおじさんが僕の肩を叩いた。
「ユーマくん、ありがとう。君が教えてくれたおかげでみんな、覚悟ができたみたいだよ」
僕は考えた。時を遡る前の世界では、ブラッドの襲来は突然だった。だからみんな、慌てふためいてパニックになったのではないか。
逆に言えば、今、みんなはブラッドが来ることを知っている。迎え討つ準備だって出来ている。
「勝てるかもしれない……」
僕の無意識のつぶやきを、彼は「あったりめえよ!」と笑い飛ばす。
「お前さんも戦うかね?」
僕は街のざわめきにしばし耳を傾けた。
ここは、僕が何もできなかった時間だ。どれだけ後悔しても戻らないと絶望したはずの戦いの場に、僕は今立つことを許されているのだ。
それなら、挑むしかないだろう。再び「僕に」与えられた、チャンスなのだから。
おじさんを見つめ返す。
「戦います」