第八十話
「今日は、今の狼男さんで終わりかな……」
その日、夜遅くまで訪ねてくるモンスター達の傷を治した後、ふぅと一息吐く。
「狼男を送った後、もう一人連れてくるって慧が言ってたよ。」
「分かった。今日はずいぶん遅くまで来訪者があるんだね。」
美華は私の返事を聞き流し、パタパタと忙しそうに客間を用意している。
もしかしたら、エルザさんでも遊びに来るのかな……
天鼠部長の叔母に当たるエルザさんは、時々食料品を持って島にやって来る。ただ持って来たワインは、泊まった日にほとんど飲み干して行く。
今夜も賑やかになるかな……
そんな事を考えながら天鼠部長が戻って来るのを待っていると、バタン!と勢いよく扉が開く。そこには、月の光を反射して妖しく輝く絹糸のような銀髪を持つ男性が立っていた。
その男性は信じられない者を見るような目で私を見ながら、少しずつ近付いてくる。誰が見ても見惚れる程整った顔立ちが、泣きそうに歪んでくる。
「……紫……本当に、生きておったのだな……」
えっ?この人は……?
その男性の腕が、私を捕らえようと伸びてきた時、天鼠部長がサッ!とそれを遮る。
「瞬さん、先程話したとおりです。詳しくは後程……」
「……そうであったな。」
私には分からない会話だったけど、瞬さんと呼ばれた男性は納得出来たらしい。私へと伸ばしていた手を下ろして、ギュッと拳を握り締めている。
何だろう……何も覚えていないのに何故かドキドキと心臓が高鳴りそうな、何故か泣きそうなくらい切なくて胸が締め付けられそうな……
こんなにも感情を揺さぶられるなんて……
微妙な空気を察したのか、美華が明るく私に男性の紹介を始める。
「紫、この方は私と同じ一族の方で、昔は当主もされていたの。今はもう隠居されているけどね。」
「あ、そうなんだ……」
「不眠症で悩まれていらっしゃって、日本からわざわざ来られたの。」
美華が客間の準備をしていた理由が分かった。
「えっと……初めましてで宜しいでしょうか。日向紫と申します。」
瞬さんに目を向け、軽く頭を下げる。だけど瞬さんは、嬉しさと寂しさを無理矢理押し留めるような複雑な顔をして、私を見つめている。
もしかして、私と同じ……?
私が忘れているだけで、会った事があるのかも……
「あの……」
疑問に思った事を聞こうとしたけど、その前に美華が瞬さんに話し掛ける。
「御隠居様、今日は長旅でお疲れでしょう。客間にご案内致します。」
「あ、あぁ……」
瞬さんは絞り出すような返事をすると、私をチラチラと見ながらも美華に促されるまま客間へ向かった。
それにしても不眠症かぁ……
心の病は私に治せないのを知ってる筈だけど、何で美華と天鼠部長は瞬さんを連れてきたんだろう……
寝る前に、カモミールティーでも持って行ってみようかな……
わざわざここへ連れてきたのには、何か訳があるんだろう。それに、何とも言い表せない複雑な感情を知りたい気持ちもあった。
他に不眠症に効きそうな物がなかったかを思い浮かべながら、ティーセットを準備して客間へ向かう。
「瞬さん、宜しいでしょうか。」
客間の扉をノックして、中にいるだろう人に話し掛ける。だけど、返事は無い。
不思議に思いながら、そっと扉を開けてみる。部屋の中はまだランプさえ灯されておらず、誰かがいる気配は無い。
シャワーかな……いや、トイレかも……
仕方なくベッドサイドにティーセットを置き、一言だけでも伝えておこうと、瞬さんを探して家の中を歩く。
ふと通り掛かった天鼠部長と美華夫婦の部屋から、話し声が漏れ聞こえてきた。
『もう紫の記憶は戻らぬのか?』
あれ……?これは瞬さんの声?私の記憶って……
立ち聞きする事に罪悪感を覚えながらも、その場で耳を傾けてしまう。
『私の記憶操作はかなり強力です。もう一度操作となると、紫さんの心が壊れる可能性もあります。私の術よりも想いが強い場合は、自力で思い出すかもしれませんが。』
『そうか……』
『ここへ来たばかりの頃、紫さんは瞬さんへの罪悪感で押し潰されそうでした。自分の身勝手な願いで瞬さんを深く傷付けてしまったと……』
『あの日紫と愛し合った事は、我の意思でもある。』
『紫さんは、そう思わなかったのでしょう。精神を病みそうな程自分を責めていましまので、私が記憶操作を……』
……どういう事?時々勝手に出てくる言葉は、消された記憶って事?
それよりも、瞬さんが私と愛し合ったって……
全く身に覚えの無い話に、頭が混乱してくる。
それ以上は聞く事が出来ずに、混乱したまま自室へ戻った。
自分の知らない記憶、自分の知らない過去を、自分の知らない人が知っている。しかもさっきの話だと、私と瞬さんは恋人だった可能性がある。
いくら考えても、彼氏はお金を持ち逃げした顔だけクズ男しか思い出せない。しかも、身体を許した覚えは無い。
天鼠部長が言ってた記憶操作って……何?時々美華が取り繕ったように話題を変えるのは、単に年月を重ねて忘れているだけで無くて、記憶を操作されている事を思い出させない為?
私は瞬さんの事を忘れているの?
灯りも灯さずに、頭の中で記憶をぐるぐると思い起こす。だけど、思い出そうとすればする程混乱が増してくる。
その時、トントンと扉をノックされる音が聞こえた。
マズいっ!こんなに混乱しているところを見られたら、立ち聞きしていたのがバレちゃうじゃん!
そう思い、返事をする事無くベッドの中へ潜り込み狸寝入りをする。暫くするとカチャリと静かに扉が開く音が聞こえ、誰かが部屋の中へ入ってくる気配がした。
部屋の中へ入ってきた人は、ベッドサイドに腰を掛けたようで、スプリングが少し沈む。
「紫……」
その人は、ゆっくりと優しい手つきで私の頭を撫で始めた。
瞬さんだ……この感覚、何故だか懐かしい気がする……
「我を知らぬ頃に戻ったのだな……」
瞬さんは手を止める事無く、私の頭を撫で続ける。その大きくて温かい手と少し掠れながら切なく紡ぐ声に、目の奥がじわりと熱くなる。
何で……何も覚えていないのに、何故こんなにも切ない気持ちになるんだろう……
「紫が生きておってくれただけで……それだけで良い。例え我を忘れておったとしても……」
瞬さんの声が涙混じりになると、頭を撫でていた手が止まる。
「紫……愛しておる……今でもずっと……」
額に柔らかいものが触れ、口付けを落とされた事が分かった。そして静かに部屋を出ていく音がした。
瞬さんが部屋を出ていくと、そっと口付けられた額に手を当てる。
……なっ!なっ!あ……愛してる?!?
マジだ!マジで恋人だったんだっ!
じわりと熱くなった目の奥の熱は引っ込み、代わりに頬が熱くなってくる。
明日からどうすれば……どんな顔をして会えばいいのっ!
この夜私は中々寝付けず、いつまでも頬に集まる火照りを冷ませずにいた。




