第七十六話
「……紫?どうしたのだ?」
はっ!と我に返り、私の顔を覗き込んでくる瞬に目を向ける。
翔さんから瞬は何も聞いていないのか、いつもどおりと変わりない。
「う、うん……仕事が忙し過ぎて、疲れてるかも……引き継ぎもあるし……」
「そうか。急かしてしまって悪かったな。紫の安全を考えての事であったが……」
今週末、もののけの世界へ行く事を拒んだ。結論を出したものの、決意が揺らぎそうで、瞬と顔を合わせたくなかったからだ。退職する為に仕事の整理が溜まっていると言って、お迎えにきた陸さんに断りを入れたが、瞬はわざわざアパートまでやって来た。
「紫が忙しいと聞いたので"こんびに"とやらでおにぎりを買って来たぞ。紫は好きであっただろ?」
そう言って瞬は、おにぎりが入っているビニール袋を少し上げる。
「ありがとう……」
手渡されたおにぎりをの包みを剥がして、一口噛る。
よく考えたら、翔さんと会った日からまともにご飯をたべていない事に気付いた。
口の中に広がる瞬の優しさに、思わずじわっと目が潤んでくる。
「ゆ、紫?不味かったのか?嫌いな具でもあったか?」
瞬があたふたしている。
「ご、ごめん……会社のみんなとも会えなくなると思ったらつい……」
「そうか……」
瞬は、咄嗟に誤魔化した私の肩を抱き寄せて、ヨシヨシと頭を撫でてくれる。
その腕の温もりに気が緩んだのか、またしても涙が溢れてきた。
「うっ……うぅ……ごめん……」
「泣きたい時は好きなだけ泣けば良い。悪いが紫が泣いたとしても、我は手放す事が出来ぬ。これくらいしか出来ぬが許せ。」
この温もりを手離さないといけないなんて……この優しさを諦めないといけないなんて……
拭っても拭っても、次から次へと涙がこぼれ落ちて、瞬の作務衣を濡らしていく。
この日は瞬の胸に顔を埋めて、涙が枯れるまで泣きつづけた。
翌朝、瞬は迎えに来た陸さんに、予定の変更を頼み込んでいる。陸さんは渋々ながら了承し、瞬は昼まで私の傍へ居てくれる事になった。
私はベッドへ背を預け、泣き腫らした目をタオルで冷やしている。
「あぁ~、こんなに泣いたのって、子供の頃以来だわ……」
ボソッと呟くと、瞬はタオルをチラッと捲ろうとしてくる。
「ちょっと!変な顔なんだから見ないでよっ!」
顔を背けて抗議するものの、瞬はお構い無しに私の肩を抱き寄せて、額にキスを落としてきた。
「仕方無いであろう。どんな顔でも愛しく見えるのだからな♪」
「ば、バカ……」
こんな時でも可愛らしく無い反応しか出来ない自分が恨めしい。瞬は肩を抱き寄せたまま、私の頭を撫でている。
「はぁ……早く夫婦になりたいな……夫婦ならば、帰る場所が一緒になる故、ずっと紫の傍におれるのだが……」
「そうだね……」
分かっている……私は今、残酷な返事をした……添い遂げる事は出来ないって分かっているのに……
「そうだ!」
急に瞬が何かを思いついたのか、楽しそうな声を上げた。
「来週は、旅行に行かぬか?もののけの世界に常夏の島があるのだ。一年中泳げる、人間界で言えば"りぞーと"という場所だぞ。」
「本当?」
「そこならば何の危険も無い。島の周りには、水妖族の人魚達が常駐して侵入者を防いでおるからな。紫も気分転換になるであろう。」
常夏の島に、人魚……ちょっと行ってみたい気が……
私の顔が緩んだ事に気付いたのか、瞬は更に話を進めていく。
「ならば予約しておく故、楽しみにしておけよ。」
「分かった。瞬に任せるよ。」
その旅行で最後にしよう……最後くらい、楽しい思い出作りをしても許されるよね……
「では、紫の水着を楽しみにしておるぞ♪」
「み、水着?!」
そ、それは考えて無かった……
泳げない癖に水泳部だった頃の水着ならあるけど、色気もクソも無いものだ。
「あ……買わないと無いかな……」
「新しく買うのであれば、紐のものを頼む♪」
「ば、馬鹿だろっ!そんなの着る訳無いじゃん!」
結局本質は、エロ狐のままかよっ!
じっと目を細めて軽蔑の眼差しを送ると、瞬は極上真面目な顔付きで訴え掛けてくる。
「何を言うのだ!惚れた女の扇情的な姿を見たいと思うのは、当たり前の事であるぞ!」
ほ、惚れた女……扇情的……
こんな時なのに、ほだされてしまいそうになる自分が恨めしい。
「ま、まだ寒い季節なんだから、水着は売って無いかもしれないよっ!」
ぷいっ!と真っ赤になっているであろう顔を背け、いつもどおり可愛くない反応を示す。
それが瞬にはツボだったのか、ギュッ!と抱きついてくる。
「そんな可愛い顔をするでない。我慢が出来なくなるではないか。」
瞬の顔が傾きながら、近付いてくる。キスの予感に瞼を閉じると、唇に柔らかいものが触れた。
「紫……愛しておる……」
「も、もう……こんな時に……」
出てくる言葉とは裏腹に、そっと瞼を閉じる。クスッと微かに笑うと瞬は再び唇を重ねてくる。
陸さんが再び迎えに来るまで、柔らかな触れ合うキスを何度も重ねた。
旅行へ行くその日、もののけの世界の海へと連れて来られた。常夏の島へは、海ガメの背中に乗って行くらしい。
荷物はお迎えの水妖族の人が届けてくれるそうだ。その人は私達の荷物を持つと、空いている片手を水面にかざす。
すると、あっという間に渦巻きが現れ、そこへ躊躇いもなく飛び込んで消えた。
「す、凄い……」
瞬には当たり前の光景だったのか、驚く事も無く見送っている。
「あの方法なら一瞬で島まで行けるのだが、人間にはキツイようでな。」
「そうなの?」
「気を失うようだ。」
「……うん。止めておこうか。」
どれだけの苦行なんだか……
そして二人で海ガメの背中に乗り、のんびりと常夏の島へ向けて出発した。
「いらっしゃいませ。妖狐族の当主様と奥方様ですね。」
常夏の島の砂浜に到着すると、すぐに出迎えの人達に丁寧な歓迎を受ける。
「我ら水妖族の当主もお待ちかねでございます。ささ、どうぞこちらへ。」
一族を束ねる立場なら、出迎える人も同じ立場なのね……流石だわ……
感心しながら、差し出された瞬の手に手を添えて砂浜を歩く。暫くすると東屋のような建物が見え、その下に人影が見えた。
瞬は知り合いなのか、その人の姿が見えるとすぐに声を上げる。
「潤!久しぶりであるな♪」
「おう。やっと来たか。」
振り向いて瞬に応える見覚えのある顔に、驚きを隠す事なく声を上げてしまった。
「あ……蒼井先輩っ!」
瞬が話し掛けたのは、高校時代、泳げないクセに水泳部に入部したきっかけになった、憧れの先輩だった。




