府中駅
起きると木曜日の朝の7時だったし、そこは前まで寝ていたベッドではなく、自分が倒れた場所だった。昨日見たものが夢でなく今ここで発生している現実だということがはっきりしてきたので、冷蔵庫からバナナを引き出し、朝食とした。スマホで時間割を確認したところ、ここに来る前と同じで、今日の授業は1限のみである。適当に教科書とノートを詰めて着替えを済ませ、家を出たけれど学校の場所が分からない。通っていた大学と学部とをネットで調べると、相原という場所にキャンパスがあることが分かった。大戸から東西線で2駅である。昨日は酔っていて駅から寮までどう帰ったのか覚えておらず、道順がさっぱり分からなかった。それで相原駅の地上出口まで、ずっとスマホを握って歩いた。
大学はA3出口の目前にあった。フェンスの向こうに見慣れた校舎があって驚き、やがて安心した。臨相大学理学部本館は1922年築の年季の入った建物で、中央入口のアーチ玄関は写真サークルの聖地となっている。こうして大学構内へ入り、本館の薄汚れた壁を通り抜けて講義室へ行った。
講義室には三宅がいて、こちらに手を振ってくれた。他の人はどうしたと聞くと、だってまだ1限開始まで30分はある、私も早く来すぎたけど、と言う。時計を見ると、8時だった。
三宅は1年前から俺に懐くようになった女である。彼女は挙動不審だが人一倍行動力があり、何気ない場所で時間を潰すのがおそらく非常に得意であるので、そういった部分を評価した上で淡々と交際をしている。肉体関係も持つには持っているが、忙しいと思われているのかあまり誘いを持ち掛けられることは無かった。
三宅と2人で話しながら30分待った。何人か知った顔の授業仲間が来た。そして見知らぬ先生が講義室につかつか入り、「教授ぎっくり腰につき本日急遽休講」と墨で書かれた長い半紙を貼った。
「遊ぶ?」と三宅が言った。
「今日はカイトリ町で1日楽器見て回りたいの」
「わかった」
実際は何も理解していないし、カイトリ町というのがどこにあるのかも全く分からない。三宅は俺の手を引いてキャンパスを出た。
再び東西線に乗せられた。三宅は席に座り、ここから3だか4だか駅だよ、と言ったのも束の間、寝て自分の方に身を預けてきた。彼女は早起きが苦手な女である。いつも切りがちな1限にせっかく今日は起きて行ったというのに、休講というのはなかなか辛かっただろう。普通なら奴の体を跳ね返すところを今日は受け入れ、眠った。
車内アナウンスで起きた。俺が体を起こしたことで三宅も目を覚ました。行先表示板を見ると、次は府中である。
「うわ!寝過ごし!まあいいや、府中はなんでもあるしここで遊ぼう」
三宅がそう言うと電車が止まった。彼女は俺を連れて府中を降りた。随分人の多いホームだった。天井には乗換案内の板が並び、板には路線のマークが所狭しと敷き詰められていた。
改札を出るまでが大変であった。まずホームの端まで行き、長いエスカレーターを上がるとまた別の路線のホームがあった。そこからさらに階段を上がると何らかの空間があったが、改札階ではなく乗り換えの連絡のための空間だった。そこをさらに1階上がって、ようやく改札だったのである。
乗換案内板によると、どうも府中駅は東京メトロの1路線の終点を担う他、同じくメトロの3路線が交差し、私鉄もあり、JR線も複数通っているという。どこの階段を上がっても人が一杯で、強くなった淡路町のような印象を受けた。数多の通路を通って地上2階程度まで上がり、地上を見た。西口はバスターミナルと道路しか無く、少し距離を置いて周りを中層ビルが取り囲んでいた。
「最近カラオケ行ってないし、突撃しちゃおうよ。安い店知ってるからさ」
商業ビルのデッキを15分渡り歩いて地上に下ると物静かな歓楽街だった。細い裏路地を黙々と進むと、突き当たりに古ぼけた雑居ビルがあった。2階にカラオケ屋があった。
「ここ、1時間10円でさ、一見さんお断りでね、限られた人しか知らない店なんよ。帰りがけにユーも会員にしてもらいな」
店に入ると内装はチェーン店のように整っており、感心した。我々はフリータイムを取って歌うことになった。時折、三宅のビブラートは金を取る価値があると思う。自分は大体聴き手に回ることしかできなかったが、それでも彼女の歌いぶりは十分に逞しいのである。
やがて三宅は歌い疲れ、落ち着いたところでこちらを向いた。つかれちゃった、と頭を俺の肩に置いたので、後頭部を優しく叩いた。
「今日何時まであいてるの?」
「終日だけど」
しばらくの沈黙があった後、三宅は個室の時計を見た。3時半を回っていた。結構遅くなったし、ここ出て、楽器屋見て夕ごはん食べて映画見よ。そう彼女がつぶやいた。言われた通り店を出た。それからは時間がすぐに過ぎていった。カラオケ屋のほど近くにある小さな管楽器店で、彼女の趣味であるオーボエを解説してもらった。夕食にタイ料理を食べた。朝から何も食わずなので一層おいしく感じた。腕時計を見ると、7時を回っていた。駅の反対側にこじんまりした映画館があるよ、と三宅が言うので、地下街を通って東口へ抜け、5分歩くと映画館に着いた。フランスの無名のフィルムを2時間半、2人だけで観た。
帰るか、と尋ねると、三宅は手を握ってこちらの瞳孔を見た。明日は大学なんだから早く帰って寝ないとあれだよと諭したところ、駅まで連れ戻してくれた。南北線はたまたま運転を見合わせていた。振替輸送まで使って帰るのも面倒なので西口のファッションホテルに泊まることにした。部屋は8階にあった。窓から駅と駅ビルとをドーナツ状に囲む光の帯が見えた。昼間あれだけ静かだったカラオケ屋周りも、夜行性の街だったのかもしれない。ふと、何かの会員登録をし忘れたことに気付いた。そうして我々は特に何もせずに眠った。