ただいま?
このおはなしをみているみんなは、ねすごしたらちゃんと乗り越し精算をしようね。キセル乗車は、やめようね。
居酒屋をようやっと出て秋津と別れた。学生としては大分遅くまで飲んでいたので、帰って寝るより他は無かった。渋谷神南の街も夜の9時半になるとやや灯りが落ちて、車もやはり淡水に片足を突っ込むような音を立てて走っている。小雨の降った後らしかった。路面は街灯よりギラギラした、気味の悪い光を跳ね返していた。銀座線のホームに着くころには、電車は行ったばっかりで、10分待って来た新しい電車に座ることができた。どうせ寮の最寄りは田原町である、寝過ごしても浅草だ、眠いので帰る前に寝るかと思って寝た。
丁度人の声で起きた。人の声ではなくアナウンスだった。…まもなく高尾口、高尾口、終点です。乗り換えのご案内です。豊田線、小作町線、東西線、JR相模湖線、相急寒川線はお乗り換えです。お忘れ物に…と聞こえたので、まったくそんな駅も路線もあるものか、趣味の悪い夢だ、と目を閉じると瞬く間に駅員に叩き起こされた。終点だからだという。表から見ても裏から見ても、駅名表示板には高尾口と書かれている。俺の知らない間に銀座線も大規模な工事をして分線したのだろうか、それとも間違えて半蔵門線に乗っただけなのか。てっきり知らない地名だと思い、ホームに立っている地下鉄路線図のパネルを見た。
探しても探しても田原町という駅は見当たらず、代わりに浅川や八王子や南大沢や東羽村という駅名が書いてあった。お前達は東京の西にある田舎の地上駅のはずだろう、まさか俺が酔って渋谷の変な路線に、と首を傾げた。高尾口は八王子駅の2駅ふもとにある駅なので、間違い無くこの高尾というのは高尾山の高尾なのだ。しかし渋谷に中央線は通っていないので、意味不明だと思いつつようやく改札の方に相談しに行った。手許の腕時計はすでに11時30分である。急がねば終電を逃すころだ。
「浅草の近くまで帰りたいのですが」
「浅草って、どこですか?あの海苔の浅草?」
おもむろに駅員は東京都の地図を取り出し、確認した。
「浅草村?のことかね…あそこ電車通ってないですし、今の時間ならとっくに終バス出てるでしょ。ここでホテル探してください」
「え」
浅草は村でないし、電車が通っていないなどということは無い。たぶんこの駅員は聞き間違いでもしているのだろう。住所を見せようと思い、慌てて自分は鞄から学生証を取り出した。
「ん?大戸ならここから3駅です、5番線から。」
「大戸」
自分の学生証を見ると、住所が違うのだった。
薄々と感じていた恐怖が殻を破るようにして出てきた。俺は妙な世界に迷い込んでしまったのかもしれない。この東京都は俺の知る東京都では無く、ちょうど田舎だったところが都会に、 都会だったところが田舎になっている東京都なのではなかろうか。次第に濃くなりつつある疑いから逃げるようにして5番線に行くと、電車のベルが鳴っていた。駆け込んでちょうど間に合った。
酷い目に遭った、もう寝ないぞ、と目を見張った。山東駅を過ぎ、恩田上水駅を過ぎ、大戸駅に着いた。どこの出口かも考えず地上に出て、すぐさまタクシーを待った。大戸の路面も、渋谷と同じように不気味に光っていた。タクシーを捕まえて住所を伝えたと思ったら、もう家に着いていた。家は前の東京と同じ、大学の寮だった。ワンメーター分の料金を払ってタクシーを降り、寮の階段を登っていたら、ふとスマホの地図を頼っても良かったなと思った。
部屋の表札が自分の名前であることを確認し、ドアを開け、誰もいないのにただいまと叫んだ。そして疲弊のあまり、玄関にくずおれるようにして倒れた。