ドッペルゲンガーは囁く
何も起きない物語です。
ただただ不安になってください。
思い出せば大していい思い出はなかった。
それでも俺は生きている。
それがちょっとした自慢だった。
「ばかばかしい」
得居は吐き捨てるように言った。
「サムヤマは言うこともうすら寒い」
「サムヤマって名前も大概だよな」
俺は自嘲しながら、グラスをあけて手酌でビールを注ぐ。
「辛さはひっくり返してしまうしかないだろ。マイナスもひっくり返したらプラスになるんだよ。俺の抱えきれない幸運に乾杯」
ビール瓶にかちんとグラスをあてて、俺は一気に飲み干した。ビールが苦い。疲れているせいもあるだろう。
「不謹慎だな」
得居は呆れるが、今はそれさえも心地いい。自虐が軽くしてくれるものもあるのだ。ひどく眠いが、まだ寝るわけにはいかなかった。
「サムヤマ!」
後ろから名前を呼ばれて振り返ると同僚の上野がいた。スーツ姿で息を切らしているところを見ると、駐車場から走ってきたのだろう。
「大丈夫か」
上野が眉間に皺を寄せてそう言った。
「全然大丈夫じゃないな」
と呟くように得居が合いの手を入れる。
「お前、」
上野は小走りにやってくると、声を潜めて、
「明日は葬儀だろ、大変だろうが頑張れよ」
と囁いた。沈痛そうな上野の顔を見ながら、俺が無言でうなずいた。
上野はすぐに俺のそばを離れると、六畳間に設けられた簡素な祭壇へと大股で向かった。白木の棺の中に横たわる親父に手を合わせ、またすぐに大股で戻ってくると、ポンっと俺の肩を叩いた。
「仕事抜けてスマン」
他に言葉が思いつかない。
「身内の不幸はお互い様だよ」
「徹夜になりそうか?」
「気にすんなって」
それだけ言うと玄関先に俺を残して上野は急ぎ足で帰っていった。
「上野、律儀だな」
得居がぽつりと言う。
「仕事抜けて駆けつけてくれるとはな」
「なんで繁忙期に死ぬんだろうな」
「予約できたら苦労しねえよ」
得居の悪態を聞きながら、俺はぼんやりと四畳半の壁に掛けられた小さな額を眺めていた。
蓬髪の人間が二人、墨で描かれている。
生前、親父がえらく気に入っていたものだ。
それは今や形見になった。
親父は突然、亡くなった。
いつもどおりに会社に向かったはずが、途中の川で死んでいるのが見つかった。
橋の手すりが破損して転落し、入水した時点で心臓発作を起こしたらしい。
警察では事件性はないとして事故死で処理された。
警察がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。
ただ、親父は最近変なことを言っていた。
自分に似た人間をよく見かけると。
「何言ってるんだと聞き流してたんだけどな」
「自分の分身?」
「会社の人間からも心当たりがない場所で見かけたと言われたらしい」
俺はスマホで分身について調べてみる。
「ドッペルゲンガー、か」
「ドッペルゲンガー?」
「自分の分身のことだよ。ドッペルゲンガーを見ると死ぬと言われている」
「幻覚なのか」
「でも、会社の人にも見られている」
「集団幻覚かな」
「同じ場所で見たんならそういうのもあるんだろうけど」
わけがわからなかった。
通夜とは不思議なものだと思う。
もはや息をしなくなった身内と一晩をともに過ごすのだ。
此岸でもなく彼岸でもない、この曖昧な領域はいったい何なのだろう。
六畳間と続きの四畳半に布団を敷いて寝る。
白木の棺はひっそりとしていた。
ひどく不思議な感覚に駆られて、棺をそうっと覗き込む。
口を半開きにして眠っている親父は生前と変わらず、今にも起き上がりそうだった。
お袋を早くに病気で亡くして、男手一つで育ててくれたが、決していい父親じゃなかった。幾度となく殴られた。家を閉め出されたこともある。俺は自分を守ることに必死だったが、親父も親父で精一杯だったんだろう。
生まれてこのかた、ずっと親父と過ごしてきた家は、俺一人の家になった。
天涯孤独という言葉が頭をよぎる。
なんだかひどく悲しくなって、布団にもぐると声を押し殺して泣いた。
親父の死が悲しかったのか、一人になった我が身が悲しかったのかはわからない。
死者は生者を走らせる。
慌ただしい中で葬儀は終わった。
葬儀が終わっても俺は寝る暇さえなかったが、気持ちが紛れてかえってよかったかもしれない。
おそろしいのは日常が戻ってからだ。
死者が去った後、初めての一人暮らしが俺を待っていた。
会社からは一週間の休みをもらっていた。初七日を終えてから会社復帰するつもりだった。
俺は初めて尽くしの喪主に難儀しながらも、親父の遺品の整理に明け暮れた。
「思い出せば大していい思い出はなかった」
「そうだな」
「それでも俺は生きている」
「そうだな」
この日の得居は妙に従順だった。
「元気ないな」
「お前がだよ」
返す言葉もなくて、さすがにそれ以上茶化す気にはなれなかった。得居とは子供の頃からの付き合いで、親父のこともお袋のこともみんな知っている。俺の複雑な心境はきっと察しがついていただろう。
「ドッペルゲンガーのことだけど」
親父の溜め込んだ紙屑や雑誌の束をまとめてゴミ袋に入れながら、俺はもはやどうでもいいことを持ち出す。
「芥川龍之介もドッペルゲンガーに悩まされていたらしいな」
「そうなのか」
「うん」
親父の死は事故死で解決している。亡くなる直前の異常行動は今更何の役にも立たないのはわかっていたが、それでも自分の中で解決しておきたいことがあった。
「親父がいつも持ち歩いていた小さなスケジュール帳には走り書きがあった」
「走り書き」
「”ドッペルゲンガーは囁く”って」
「何だろうな。やっぱり幻覚なのかな」
「だが、同僚が目撃している点が引っかかる」
「じゃあ、二重人格は?本人には自覚はないが、別人格で行動しているところを見られれば、ドッペルゲンガー現象はできあがる」
「なるほど」
それはありそうに思えた。
もっとも考えたところで何の意味もない。確かめようにも本人はもうどこにもいなかった。
「解決するなら生きているうちだな」
俺は不幸な人間だったが、それでも生きていてよかったと思う。生きていれば解決できることもあるだろう。不幸が不幸のまま完結するのはどうにも嫌だと思った。
翌日、親父の同僚を名乗る若い女性性がやってきた。
「今は別の支社ですが」
入社当時は親父が教育係で、とても世話になったという。
「久々に本社を訪れたら亡くなったと伺って」
せめて手を合わさせてほしいと訪ねてくれたのだった。
外面がよかった親父らしいと苦笑したが、嫌な気分はしなかった。仕事には真面目な親父だったから、評価してくれる人がいてよかったと思った。でもそれは別に親父のためじゃない。きっと俺の犠牲も無駄じゃなかったと思ったんだと思う。
お茶を出したものの特に話すこともなく、ずっと親父と二人暮らしで、といった雑談をすると、
「これからお寂しいですね」
鈴木さんは俺に同情してくれて、なんだか救われる思いがした。いや、俺は寂しいんじゃない。これはきっと解放感だ。
「亡くなられる前、しばらく欠勤されていたとも聞きました。知らなくてお見舞いにも伺えず、それが心残りで」
鈴木さんはそう言った。
欠勤?
亡くなるその日まで親父は毎日、会社に出かけていたはずだ。
だが、鈴木さんは別の支社なら、聞いた話でしかないだろう。
ひとしきり彼女の話を聞いてから、俺は弔問客を見送った。
「解放感?」
得居は合点がいかないようだった。
「俺は気づいてしまったよ。罪悪感もないではないが、親父に囚われてた気がするわ」
「なるほど」
鈴木さんが帰った後、俺は遺品生理の作業に戻っていた。親父の遺品のほとんどは俺には関心の持てないものだった。むしろ全てが嫌な思い出を思い出させるものでしかなかった。
「あんなに悲しかったのにな」
何だろう、この気持ちは。
「親との決別だな」
「そうかもしれない」
親父の死は、親父の暴力や理不尽な怒りから俺を解放するものでもあった。親父がもう少し俺を人間扱いしていてくれたら、きっと違った感慨があったはずだ。そう思うとなんだかひどく切なかった。
「人間関係ってうまくいかないな」
「家族でも相性あるよな」
「親子ともなると、もうどうしようもないよな」
親父が極悪人だったとは思わない。後輩だった鈴木さんが感謝するほどには常識も良心もある人間だったことは頭ではわかっているが、俺はその恩恵を受ける機会はなかった。
親父のPCを立ち上げる。
「データ消すか」
「写真くらいは取っておけばいいんじゃないか」
「写真?」
俺は笑った。
「まずい写真が残ってたらどうするんだ」
「そりゃそうだけど」
とはいえ、もはや本人が気まずい思いをすることもない。
親父スマンな、と思いつつ、画像をチェックする。
「風景写真?」
最新画像は風景写真ばっかりだった。しかも同じ風景。同じアングル。どこだ?
「橋の欄干だな」
「ああ」
俺は合点する。
「この写真撮ろうとして橋から落ちたのか」
同じように見える写真だが、日付も時刻も見事にバラバラだ。
手前に橋の手摺。
蛇行して流れる川。
その畔の遊歩道に写る小さな人影。
「こいつを撮りたかったのか」
それは、親父そっくりの背格好の人物。
「ドッペルゲンガー?」
「いや、他人の空似だな」
隣には同じくらいの年代の女性が寄り添うように写っている。
「どこかの老夫婦が散歩しているんだな」
川べりの遊歩道を散歩する老夫婦に親父は気づいたに違いなかった。
どれも背中を向けていて顔は写っていないが、背格好は親父そっくりで、女性もお袋によく似ていた。
「かつての自分がいると思っちゃったか」
まさにドッペルゲンガーは囁いたのだろう。
お前はなぜそこにいるのかと。
本当の自分は橋の向こうの川べりにいる。それなら、ここにいる自分はいったい誰なのだろう。
もし、そんな気持ちになったのだとしたら、親父の死はもしかしたら自殺かもしれない。
より自分らしく生きている自分が別にいるのなら、ここにいる自分は生きている意味がないじゃないか。
「でも、」
と得居が首を傾げる。
「おかしくないか。同じ日にちの朝と昼過ぎの写真がある」
確かに二枚の写真は同じ日に撮られていた。
一枚は通勤途中に撮られたものとみられる。
もう一枚は午後三時を過ぎた時刻だった。
数時間の時間差があるが、ほとんど構図は変わらない。
「この夫婦、数時間もずっと同じところにいたのか?」
言われてみればそれも奇妙な話だった。
そもそも午後の三時は親父は会社にいる時間のはずだ。通勤途中にある橋だが、会社のすぐ側にあるわけでもない。抜け出して撮ったわけでもないだろう。だとすれば、親父は一日、ここで時間を潰していたのだろうか。欠勤していたのだとしたら、それとも符合する。
「一番不思議なのは人の気持ちだな」
結局、パズルのピースははまらない。
次の日の弔問客は親父の同僚を名乗る初老の男性だった。
「生前は大変お世話になりまして」
深々と頭を下げては、長期出張中で葬儀に参列できなかったことを何度も悔やんで謝られ、こちらが恐縮するほどだった。
豊川と名乗る男性はひとしきり差しさわりのない言葉で生前の親父の人徳を褒め称えると、
「サムヤマさんは骨董の趣味がおありで、仕事以外の話でもよく盛り上がったものです」
と具体的なエピソードを語ってくれた。
「特にご苗字がサムヤマだからと仰られて、寒山拾得のものをお好みでした」
寒山拾得とは中国の禅僧のことだ。でも、サムヤマじゃない、かんざんじっとく、だ。親父から耳に胼胝ができるほど聞かされた話だった。
貧しい農家で生まれた寒山が妻にも疎まれ、家を飛び出し、禅僧となってたくさんの詩を残したという話。要は風狂だ。飄々とした生き様に親父は憧れていたが、俺という子供が親父を俗世に繋ぎとめるとぼやいていた。勝手に生んでおいて知ったことかと俺はずっと思っていたが、豊川さんにはそんな親父は風流人に見えていたらしかった。
「確かに親父は寒山拾得が好きでした。そこにかかっている絵も、」
と俺は四畳半の壁に掛かったままの小さな額を指差すと、
「寒山拾得がテーマだと聞いております」
墨で描かれた蓬髪の人間が二人。
一人が寒山、一人が拾得だ。拾得は寒山の分身のような存在だ。
物乞いのような生活をしながら、誰よりも学問に通じていた寒山と拾得はとてもよく似ていて、親父はこの絵が大好きだった。
ああ、と豊川さんは感嘆して、
「これはサムヤマさんがご自身で描かれたものですか」
と聞いたが、
「物心ついた頃からずっと壁に掛けてあったもので、どこかで手にいれたものかは自分にはわかりません」
そもそも親父が絵を描いているところを見たことがなかったが、豊川さんは親父に絵心があると思っているようだった。しかし、
「そうですか。新しい時代のもののようです」
と寸評しただけで、それ以上突っ込んでくることはなかった。代わりに、親父を亡くした俺にひどく同情してくれて、いつでも相談に乗るからと涙ながらに温かい声をかけてくれた。一人息子に十分な愛情を示さなかった親父だったが、間接的にその愛情は還元されているのかもしれない。
次の日、俺は親父が亡くなった橋へと出かけた。
信じているわけではなかったが、親父が撮った老夫婦の姿を見られるかもしれないと思ったからだ。
初七日を前に親父が最後に見た風景を見ておきたいというのもあった。
「考えてみれば俺たちは寒山拾得だな」
「お前がサムヤマで、俺が得居だからな」
「お前は俺の分身なんだな」
「そうだな」
得居は逆らわなかった。
「ほら、橋が見えてきた」
広い橋は交通量が多い。行きかう自動車は猛スピードで走り抜け、あっという間に視界から消えていく。
「これだけ車、走っているのにな」
早朝の通勤途中に川に落ちた親父が発見されたのは、その日の夕刻だった。
「もっと早く見つかっていたら助かったかもしれないな」
欄干はまだ壊れたままで、黄色と黒のテープが張られ、近づけないようになっている。
「運ってあるよな」
得居がぽつりと言った。
「すべては運か」
俺は橋の遥か彼方を見渡す。
親父が死ぬ数日前に何度も撮った光景が、そこにはそのまま広がっている。だが、川沿いの遊歩道には人影はなかった。
「いないな」
「いないな」
「だったら、あれは親父の見た心象風景で」
「よせ」
得居が否定する。
「心象風景は他人の目には見えない」
「でも」
「そんな非現実的なことは起こらないよ」
「だったら、あの老夫婦は、」
俺が言いかけた時、
「こんにちは」
後ろから声をかけられて振り向くと鈴木さんがいた。
「偶然ですね」
彼女はびっくりしたように目を丸くして挨拶をしたが、
「ああ、ここは」
すぐに気づいたようだった。俺は軽く会釈して、
「初七日の前に来ておこうと思いまして」
と言うと、涙もろいのか、彼女は目を潤ませて、
「今日はお一人ですか」
と聞いた。俺は笑顔で、
「はい」
と答える。
「どうぞお気をつけて」
心のこもった別れの挨拶をして彼女は橋を渡っていった。
「心象風景は他人の目には見えない」
得居がもう一度言った。
俺はうなずくしかなかった。
(終)
こういう話を読みたいのですが、なかなか見つけられなくて、自給自足の日々です。