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『と、まぁこれも僕がそう呼んでるだけなんだけどね。この空間をどう呼ぶべきかまでは、書物には書かれていなかったし』
ぬこの言葉が、直接心に響いてくるような不思議な感覚を覚えつつ、真は「ここは何処なんだろう?」と心の中で囁く。
『ここはね、数多の世界と繋がる、エントランスのようなものだよ』
真は、ぬこが今自分の心の声に答えたような気がして、ぬこを見つめる。思えば、さっきからぬこの声は聞こえるが、口元が微動だにしていない事に気づいた。
『あぁ、真の心の声は全て聞こえているよ。この空間では実体は認識でしかない。自分の中の意識だけがこの空間に存在し、ここを渡る事ができるんだ。とは言っても、実は僕もここに来るのは二度目だから、あんまり偉そうには言えないけどね』
真の中にあった常識からは、理解の遠く及ばない現象と、その空間を目の前にして、ぬこの言葉を頭の中で反芻する。
『世界と繋がる……?実体は認識でしかない……?意識だけの……そんざい?』
頭の中に思い浮かべたその言葉も、今の真に理解するのにはあまりにも複雑過ぎた。次第に痛くなってきた頭を真は抑える。どうやら自分の体に触れることは出来るようだったが、これが実体では無く認識でしかないという言葉の意味は、未だ分からなかった。
『真?』
ふと真は顔を上げる。すると、目の前にいるはずのぬこは徐々にピントがズレていくように残像が広がり、その姿が段々と曖昧になっていく。ふと自分の手を見てみると、同じように残像が広がっていった。
『真、僕はここにいるよ。僕の目をしっかりと見つめて。意識をしっかりと持つんだ。自分を見失ってはいけない。君の名前は?僕の名前は?』
『私の名前は……渚真。あなたの名前は……ぬこ?』
『あぁ、そうだ。君は真。僕はぬこ』
薄れゆく曖昧な意識の中で、目の前のぬこの姿は徐々に鮮明になり、自分の手もはっきりと視えるようになってきた。気が付けば、頭の痛みも無くなっていた。
『今僕達はね、この世界の狭間と、意識が強く繋がっているんだ。それ故に、考える必要は無い。ただ目の前にある物、頭の中に聞こえる言葉を認識するだけで良いんだよ。そうすれば自ずと理解ができるようになるさ。思考は認識を著しく阻害するからね。だからここでは、僕から目を逸らさないように』
するとぬこは、『それじゃあ場所を移そうかっ。ここは忙しなくて落ち着かない』と言って、空間に尻尾を漂わせてふわふわと飛んでいく。少しして振り返ると、小さな肉球をチラつかせて手招きをしてきた。真は同じように空間の中をふわふわと漂って、ぬこの後を追った。
『僕達は今、円環の栞によってこの空間に招待されているんだよ。本来は本の中にある世界を繋ぐアイテムだけど、“力”を注げば円環の栞はそれに応えてくれる』
『その“力”って、何?』
『僕らケットシーの種族には不思議な力が宿っているんだ。分かりやすく言えば、“魔法”のようなものかな』
『へ~、ぬこって魔法が使えるんだ!』
『残念だけど、真が想像しているようなものでは無いよ。手から炎が出たり、魔法陣から使い魔を召喚したりできる訳じゃないんだ。それは、心に宿る想いの強さみたいなものさ。君達人間にだって、似たもの、いやそれ以上のものが宿っているはずだよ』
『ん~……?』
『ま、直に理解できるさ』
暫くすると、先程までの忙しなく光が行き交う空間とは違って、随分と落ち着いた空間へと出た。そこには、四方八方に散乱する扉のような形をしたものが、いくつも見て取れた。扉は向きも大きさもバラバラで、それを見ていると平衡感覚が乱れて目が回ってしまいそうだ。
『この扉は世界への入口のようなもの。この空間では僕らの最もイメージしやすい形で可視化しているに過ぎないけどね。それに、この扉を渡るには本という媒体が必須だ。今の僕達は、ただの傍観者だから触れることすらできないよ』
そう言いながらぬこは、空間に漂う扉の間を縫って、更に奥へと向かう。すると程なくして、無数の扉達に囲まれた中心に聳える、大きな螺旋階段が眼前に広がった。
『わぁ……これは何……?』
螺旋階段の麓でそれを見上げるぬこに追いつき、真も天高く伸びるそれを見上げながらぬこに問う。
『すまない、これに関しては僕にもまだ分からないんだ』
ぬこはそう言いながらも、ふと真へと振り向いて言葉を続ける。
『でも、上に登れる階段という形で僕達の前に現れているという事は、頂上には何かがあるのかもしれないね』
そう言ってぬこは、好奇心旺盛な子供のようにニコッとはにかんだ。
『上へ行ってみよう』
『う、うん』
そしてぬこと真は、引き付けられるようにして階段に足を着くと、一歩ずつ登り始める。
『ここは飛んでいけないんだ』
『どうやらそうみたいだね。階段は嫌いかい?』
先を登るぬこに少し遅れて、真は辺りの景色を眺めながら、階段を一歩ずつ登っていく。
この螺旋階段には、手摺や壁と行った類の物は見当たらず、半透明の段差だけが螺旋状に天高く続くのみ。しかしどれだけ登っても、周りの空間と高低差を感じる事は無く、まるで下りのエスカレータを昇っているかのように、いつまでもそこから動いていないような、不思議な感覚があった。
螺旋階段の周りには、尚もその空間に張り付くようにして、不揃いな向きの扉が無数に広がっている。その更に奥に視線を伸ばすと、夜空に浮かぶ星々のように瞬く、小さな光の粒が散見された。
それらを眺めていると、ふと前方からぬこの声が響く。
『真は本は好きかい?』
頭に響いたその声に振り向いて、真は応える。
『ん~好きか嫌いかで言うと、嫌いかなぁ……』
『ん、どうしてだい?』
『どうしてって……どうしてだろ?』
『どうしてだろって、自分のことだろう?』
ぬこは足を止めて振り返ると、真はバツが悪そうにその場に俯いていた。そんな真を、ぬこは暫く見つめると、また向き直って階段を登り始めながら言葉を続ける。
『僕は本が好きだよ』
『え、どうして?』
『どうしてって、本を読んでいるとね、今までに味わったことの無いような感覚に包まれるんだ。まるでその物語の世界の中に吸い込まれて、自分がその中で生きているかのような、不思議な感覚』
ぬこはまた足を止め、尚も立ち止まる真へと振り返り視線を向ける。
『それはね、僕の生きてきた世界の退屈な日常を変えてくれたんだ。僕は元の世界でとある書物を見つけて、本の持つ力、その中に広がる無限の世界、それを渡る事のできるアイテム、そしてこの世界の事を知った。僕は確信したよ。あの時に感じたものはただの想像や妄想なんかじゃなかったんだ、その中には本物の物語が広がっているんだ! ってね』
真は口を開けたまま、聞き入るようにしてぬこの言葉を頭の中に響かせた。何故なら、この空間に来て、ぬこの想いがはっきりと心に伝わるような気がして、それと同時にその想いと似た感情を自分も抱いた事があるような気がしたからだ。
しかしそれは未だ視界がボヤけたように不鮮明でいて、スーッと音を立てて薄れ行ってしまう。まるで思い出す事を望まない、心の隅に仕舞い込んでしまった記憶の欠片のように。
『そして事実今、僕達はここに居る。この世界の狭間に……』
ぬこはこの空間を見上げて、胸の中にある想いを噛み締めるようにして言葉を続ける。
『真。僕の想いと円環の栞の力、そして君の中に秘める創造力を以て、ナギサ書林にある数多の本の世界へと渡り、僕と一緒に王冠を探して欲しい』
『私の創造力……?』
そう言うとぬこは、何かに思いを馳せる様にすっと瞳を閉じてから改めて顔を上げると、階段を降りて真の前に立った。
『すまない、少し長居が過ぎたかな。真にとっては初めてのこの空間はあまり居心地の良いものじゃなかったろう』
ぬこは徐に、右手を真の前に差し出す。そして手の中から光が溢れ出して来たかと思いきや、次の瞬間にはその光が円環の栞へとカタチを変える。
真は、その胸に届く確かなぬこの想いを感じながらも、少しばかり困惑した表情を浮かべて口を開いた。
『え、でもこれって、夢……なんだよね?』
『僕も初めは夢かと思ったよ。でもね、これは現実だ。僕はぬこで、君は真。どちらも今こうしてここに存在している。もしかしたらこれも誰かが創った物語の中なのかもしれない。でもね、今僕達が名を持ってここに居る事は事実だ』
ぬこは最後に、『尤も、今は意識だけの存在だけどね』と添えて、ニコッとはにかんだ。そして『さぁ、ナギサ書林に戻ろう。手を』と言って円環の栞を持つ手を真の前に差し出す。真はそれを見つめ、ゆっくりと手を添える。
『ナギサ書林の中、書棚に囲まれている空間を強くイメージして』
『う、うん……』
円環の栞から溢れる光が二人を包み込み、真は頭の中にいつもの日常の風景をイメージして、ゆっくりと瞳を閉じた――
――――――――――――
――全身を包み込む、生ぬるい温度を感じる。重力を取り戻した体は、確かな重みを纏う。僅かに響く蝉の声が耳に届き、真はゆっくりと目を開いた。
「戻って、来た……」
周りは狭い店内に並べられる書棚達に囲まれ、そこが日常の風景、ナギサ書林の店内なのだと気づく。いつもと変わらないその風景を眺めていると、先程までの出来事が夢だったのではないかと疑ってしまう程だった。
「やっぱり夢……だったのかな?」
店内をボーッと眺めながら、真の脳裏にはそんな思いが過ぎった。すると、視界の中にひょこっとぬこが顔を出す。
「やぁ、お目覚めかい?」
「わぁっ!」
突然視界に飛び込んできたぬこは、腰に手を当てて仁王立ちしている。既に真の中では、今までの出来事、目の前に居るぬこの存在がとても現実味を帯びていて、これが夢だなんて到底思えないでいた。
「そんなに驚かなくたっていいだろ?まるで夢に見た化け猫が出てきたみたいに」
そして真は悟った。目の前で起きた事、この目で見た物、これから起ころうとしている事。それらは全て、事実なのだと。
「それじゃあ改めて……」
そう言うとぬこは、腰に当てた片方の手を口元に運び、「コホンッ」と咳払いをして一呼吸置くと、ゆっくりと手を差し伸べて口を開いた。
「真、僕と一緒に王冠を探してくれないかい?」
真はぬこを見つめ、その想いを噛み締めるように微笑んで。
「……うん。私で良ければ」
そして真はゆっくりと手を差し伸べ、ぬこの小さな掌に添えた。ぬこはとても嬉しそうにはにかんだ。
しかしぬこは、ややもどかしそうにして目を泳がせる。
真は、「照れてるのかな。かわいいな」なんてことを思いながらも、その顔を覗き込んだ。するとぬこは、真の目線よりもやや低い所へ目を向けながら応える。
「あ、えーっと……。パンツ見えてるよっ」
「へっ……?」
真はゆっくりと視線を降ろして、今の自分の姿を確認した。大胆に脚を広げて尻餅をつく、淫らな姿を。
次の瞬間、開いた脚を閉じてスカートを抑える真の顔はスーッと赤く染まる。
「ぬぬぬ、ぬこのバカ! アホ! ヘンタイ!!」
「いやいや、僕は何もやってないからね? 真が見せてくるんでしょ?」
「うるさぁーい!! てか見せてなーい!!」
「まぁまぁそんなに怒らないでよっ。じゃあ早速王冠を探しに……」
「絶対に行くもんかあああぁぁぁーー!!!」
いつもは静かなナギサ書林には一際騒がしい声が木霊し、それが今後訪れる、壮大で突飛な物語の始まりの合図になろうことは、まだ二人は知る由も無かった。
次回 第2話 ――『行商人のねこ』――
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