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咄嗟に真はその音に反応すると、仁王立ちするぬこの姿を見せる訳にはいかないと、ぬこに慌てて振り向く。
「雅が降りてきた!ぬこちょっと静かに……」
しかし真の振り向いた先では、先程までのお喋りな猫の姿は無く、上品に腰を落として手で顔を洗う、何処からどう見てもただの黒猫の風貌をしたぬこの姿があった。
雅は階段を駆け降りると、コンビニのメロンパンを咥えたまま、肩に掛けたリュックサックのショルダーストラップに、忙しなく腕を通しながら、二人の横を通り過ぎて店の戸に手を掛ける。
「あ、ちょっと雅! パン勝手に食べちゃダメっていつも言ってるでしょ!」
「んーんー! パン食べていい?? ありがと!! じゃ、サヤちゃんち行ってくるねー!」
そう言って雅は、戸を開いて店の外へと駆けていった。
しかし店内に響く鈴の余韻が鳴り止まない内に、雅は再び店の戸を開く。
「あ、お姉ちゃん店番よろしくね!それと、“ぬこ”ちゃんも店番よろしく!」
そして今度こそ雅は、薄れ行く軽やかな鈴の音色と共に、太陽の差す青春の夏休みへと駆けていった。
店内に取り残された二人の元には、相変わず五月蝿い蝉の声が響いていた。
「もーっ……」
半ば呆れた様子と、店番に縛られずに早速夏休みを謳歌しているその姿への嫉妬心から、真は複雑な面持ちを浮かべて、重い溜息をついた。ぬこは、夏の日差しの中へと駆けていった雅の面影を追うように、ただじっとガラス戸の外を眺めて口を開く。
「あの子、雅って言うんだね。君の妹かい?」
「うん、そうだけど」
「良い子だね」
「んー……、そうだね」
「やれやれ」と片手を腰に突く真と、腰を落として上品に座るぬこ。二人はじっと外を眺めたまま、どこか優し気な表情を浮かべていた。
そしてぬこは、先程までの猫らしい姿からは打って変わって、ムクッと二本足で立ち上がると、ガラス戸から店内に届く明かりを背にして真へと向き直り、ひと呼吸置いてから、真剣な面持ちで口を開く。
「さぁ、本題に戻ろうか」
「え?あぁ、王冠を探しに行くんだっけ」
「うん。そうだけど、どうやら真はまだ僕の言ってる事の意味が理解出来ていないみたいだね」
ぬこのその言葉にドキッとしつつも、「ちゃんと分かってるって〜」とでも言うような表情を不器用に作りながら、真は顎に手を当てて思案顔を浮かべる。
「んー……。交番に落とし物が届いてないか聞きに行くとか?」
その検討外れの答えに、もはやツッコミを入れる気すら起きず、聞き流すようにしてぬこは応える。
「うーん、それも悪くないけど、せっかくこれがあるんだから、使わない手は無いよね」
そう言ってぬこは、手に持つ円環の栞を真へ翳した。それを見てもまだ理解に及んでいない様子の真を一瞥し、ぬこは続ける。
「言葉で理解しろと言う方が無理があったね、すまない。やっぱり実際に体験してみるのが一番早そうだ」
そう言うとぬこは、手に持つ円環の栞を真へ向ける。
「この栞に触れてごらん」
真は何の躊躇いも無く、言われるがままにそれに触れる。
「準備はいい?」
「え、な、何が起こるの?」
「まぁすぐに分かるって」
ぬこは、真の指先が円環の栞に触れたのを確認すると、徐に目を閉じ意識を集中させる。すると、二人の手に触れた円環の栞が、徐々に柔らかい碧い輝きを纏い始め、それが二人の体を包み込んだ。
「我等は時空を超えて世界を渡る者……」
ぬこの呼び掛けに応えるように、円環の栞からは見たこともない文字のような羅列が浮かび上がり、二人を包む光の周囲に、次々と映し出される。
「わっ!何これ……!?」
「我等は創造主の理と次元の奔流の傍観を望む者……」
尚もその光は輝きを増し、円環の栞から次々に広がり幾重にも重なる光の環が、二人の周囲をゆっくりと回り始める。そしてそれらは、徐々に回転の速度を上げ、それに同調するようにして映し出された文字の羅列も、強い光を放つ。
「円環の栞よ、我等を世界の狭間へと導き給え!」
次の瞬間、高速で回転していた光の輪は、ロックされたようにピタリと水平に揃って停止すると、中心に向かって急激に収束する。
その光の輪が完全に消えた時、ナギサ書林の店内には二人の姿は無く、日常と何も変わらない平凡な風景が広がっていた。
その店内に、僅かに届く蝉の声を響かせながら――
――――――――――――
――声が聞こえた。
私の体を、柔らかく包み込むように温かい、とても優しい声が。
今私は何処にいるのだろうか。
ふわふわと宙を漂っているようで、とても心地が良い。
ふと意識の中に、見覚えのある光景が薄ら薄らと浮かび上がった。
小さな女の子が、お腹の大きな女性の膝の上で、絵本を読んでもらっている光景。
あの女の子は誰だろう。
そして傍に居る女性は、誰なんだろう。
女性はとても、とても柔和な微笑みを浮かべ、小さな女の子の体に両腕を回して、絵本を読み聞かせている。
女の子は、女性の大きなお腹に優しく身を寄せながら、目の前に広げられた絵本を見ていた。
これは誰かの記憶の中なのだろうか。
その世界は薄らと淡い光を纏って、やや不鮮明に私の意識の中を流れていく。
あれ、あの女の子って、どんな表情をしてるんだろう。
喜んでるのかな?
怒ってるのかな?
哀しんでるのかな?
楽しんでるのかな?
それだけは分からない。思い出せない……?
ピントのボケた映像のように、そこは確認することが出来なかった。
ふと、お腹の大きな女性が、私の方を見てにっこりと微笑んだ。
――……と
何かを、言っている。
――……こと
私は無意識に、その女性に手を伸ばす。
――まこと
あぁ、私を呼んでるんだ。
気が付けば、膝の上の女の子は眠っているようだ。
とても気持ちが良さそうに。
『まこと』
はっきりと聞こえるその声は、
何度も何度も聞いたことのある、
優しい声。
私は力いっぱいに、薄れゆく女性の面影に手を伸ばした。
「お母さん――
――――――――――――
――真っ!』
そして真は目を開いた。
目の前には、心配気な表情で真の顔を覗き込む、ぬこの姿。ぬこは真と目が合うと、ホッと安堵の息をつく。
『うん、“ここ”と意識が繋がったみたいだね。あんまりぼーっとしていると、元の世界に戻れなくなるから気をつけてっ』
『へ……』
真は、虚ろな意識とぼやける視界の中で、ゆっくりと鮮明になるぬこの姿を捉える。
ぬこは、真の意識がしっかりと確立されてきた事を確認すると、ふわっと身を翻して、真と距離を取った。
『おめでとう!君は無事、この空間に繋がった』
そしてぬこは、大袈裟に両手を広げてみせると、すーっと息を吸って、
『ようこそ!次元の書庫へ!』
そう言って、盛大に真を歓迎する意を示した。
『でぃめんしょんらいぶらりぃ……?』
真は、徐々に視界に浮かび上がるこの場所へと意識を向ける。
するとそこには、今までに見たことのない不思議な景色が、真を出迎えていた。
例えるならば、“宇宙”。
真とぬこが今居るのは、場所と言うよりは空間と言った方が適しているだろう。走査線のように忙しなく走る光の流れが、異次元トンネルさながらの道筋をこの空間に浮かび上がらせる。
しかしその光がここにいる二人を照らすことは無い。それどころか、手を伸ばせば届きそうなようでいて、遥か遠くを流れているような、とても曖昧な空間。
ここに時間が流れているのか、自分達が時間の中を流れているのか、それを認識する事は出来ない。
ただ一つ、真がはっきりと認識できる物は、目の前にふわふわと浮かぶ、ぬこの姿だけだった。
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