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歪に顔を引き吊らせて座り込む真を、心配げにぬこは覗き込む。
「君、顔が真っ青だよ。大丈夫かい?」
「あ、え……ええ、あ……ね、ねこ……が……」
真は声にならない声を漏らし、突如として日常に現れた非日常を目の当たりにして、尻餅をついたまま体が固まってしまっていた。その様子にぬこは、「困ったなぁ」とでも言わんばかりに耳の後ろをポリポリと掻く。
「ほらっ」
ぬこはそんな真に差し伸べた手を、「掴まって」と促すように更に顔の前まで差し出して見せた。真は差し出されたその小さな掌を見ると、恐る恐る震える手を伸ばす。すると、ぬこは躊躇う真の腕を両手で引っ張って、半ば強引に真の上体を起こさせた。
「はうっ」
その小さな体からは想像出来ない強い力で腕を引っ張られた真は、一瞬ふわっと上体の持ち上がる浮遊感に襲われ膝立ち状態になるも、力の入らない足は体を支えきれず、すぐにその場にへたり込んでしまう。
真は、ごちゃごちゃにこんがらがる制御不能になった思考回路の運転再開を放棄し、ただじーっと、目の前に居る喋る黒猫を見つめていた。
脱力状態でへたり込む真と、器用に二足で立つぬこの目線は、今丁度同じくらいの高さにあり、真のよく知る“ねこ”よりも少しばかり大きい“ぬこ”は、放心状態でいる真の表情を尚も心配気に伺っている。
「おーい、大丈夫かーい。しっかりしなー」
真のおでこをツンツンと啄いたりしながら、ぬこは語りかける。しかし真からの応答は無い。ぬこは「やれやれ」と一つ大きな溜息を着くと、真の背後へと回り込んで背中を押した。
「そんなとこにいつまでも座ってないで早く立ち上がりなよ!人間は高い知能と判断力で高度な文明を築き上げているんだろ?君はそれでも誇り高き人間かい?」
ぬこはそう言いながらも、真の背中を、よいしょ、と押し上げて立ち上がらせようとする。しかし真は、まだボーッとしているようで、力の入らない体はふわっと持ち上がり前のめりになると、四つん這いの姿勢になった。
ぬこはその様子を見てから、僅かばかり目を逸らす。
「あ、えーっと……。パンツ見えてるよっ」
「へっ……?ひゃあぁ!!」
真はぬこのその言葉に振り返り赤面すると、正気を取り戻し、翻ったスカートを抑えるようにお尻に手を当てて、ぬこの方へと素早く向き直る。
お尻を着いて床に座り込んだままぬこに正対し、過剰に意識するように今度は上からスカートを抑え込みパンツを隠すと、サササッと後退りしてレジカウンターに背を当ててあわあわと口を開いた。
「ねねねねね、猫が喋ってるー!?」
「お、やっとまともなリアクションが聞けたね」
真は、ニコッと笑顔を見せるぬこにビシッと鋭く指先を突きつけながら、叫んだ。
書棚に囲まれた狭い店内で見つめ合う二人の間に、一瞬の沈黙が訪れる。
片手を腰に当てて、休めのポーズで真に笑顔を送るぬことは正反対に、まるで幽霊でも見るかのように、引き吊った面持ちを浮かべる真。そんなぎこちのない二人の仲を嘲笑うように、遠くから聞こえる蝉の鳴き声が店内に届いた。
尚も二人の間に流れる沈黙を先に破ったのは真だった。
「て、て言うか何で絵本が、え??絵が動いて、何か出てきて??猫が、え??」
頭の中に抱え込んだ疑問を整理できていない真の支離滅裂な一言一句に、大きな耳元に手を添えて「うんうん」と頷きながらも、ぬこはそれに応えるために口を開いた。
「あまりにも突然だったからビックリさせちゃったね。僕はこの“円環の栞”を使って、こことは別の世界からこの世界に渡ってきたのさ」
そう言ってぬこは腕を挙げて、手に持っていた栞を真に見せる。
「僕の世界で古くから受け継がれて来たこの円環の栞には不思議な力が宿っている。本という媒体を通して、そこに描かれた物語の中の世界へと渡る事が出来る。それがこの円環の栞の力」
真はぬこの持つ栞へと視線を向けて、その表面に浮かび上がる美しい模様と、ラメのように瞬きながら輝きを放つそれに見惚れていた。
「わぁ……綺麗……」
真の見つめる円環の栞の奥からチラッと顔を覗かせて、ぬこは安心した様子で真の顔色を伺う。
「うん、少し落ち着いたみたいだね。それじゃあ改めて自己紹介をしようか!僕の名前は“ぬこ”!」
「え?……“ねこ”さん?」
「いやいやねこじゃなくて、“ぬこ”だよ。ケットシーの王様さっ!」
そう言うとぬこは「えっへん」と腰に手を当てて、堂々と胸を張って見せる。
「ぬこ……?」
真は、ぬこと名乗る、絵本から突如として飛び出した黒猫の姿を見つめた。
外見は真のよく知る黒毛の猫そのもの。だが一つ、その見た目で決定的に猫と異なるものは、二本足で立っているということだった。それは真の知る猫がたまたま可愛らしく立ち上がったような姿では無く、まるで人間のような振る舞いで、それが当たり前の事であるかのように、目の前に二足で佇んで毛繕いをしていた。
その片手に、器用に一枚の栞を持って。
真はぬこの姿を足先から猫耳の先端までじっくりと舐めるように観察すると、先程名乗った“ぬこ”という名前を反芻する。
「ぬこ……。ぷっ、あはは。何かちょっと可笑しい」
真はそう言うと、クスッと笑って頬を緩ませた。それを聞いたぬこは耳をピクッと震わせて、ジト目で真を一瞥する。
「君、今僕を笑ったかい……?」
「あっご、ごめんなさい。なんかちょっと可愛いなって思って」
「ムー……。それで、僕はまだ君の名前を聞いてないんだけどっ?」
ぬこは少し機嫌を損ねたように頬をぷくっと膨らませると、笑う真を指差して、まだ聞いていない名前を問う。それに真はハッとして口を開く。
「あ、私の名前は……真。渚真」
ぬこは真の名前を聞くと、それを咀嚼するようにして脳裏に刻み込んだ。
「真か……。うん、悪くない。ちょっと頼りなさそうだけど、今日から君には僕の相棒になってもらうからね。よろしくっ」
「あ、はい。よろしくお願いします……ってえぇ??ちょちょちょっと待って!相棒って……何それ?」
真は理解の及ばない所で話が進んでしまっている事に気付き、回復してきた思考回路で、今起こった、今起こっている出来事を整理する。
「えっと……、絵本の中から猫が飛び出して、そしたら喋りだして、違う世界からやってきたって言って、相棒になってもらうって……」
指折り数えながら、この一瞬で起こった数々の不思議な出来事を整理する真を、ぬこはやや呆れたような面持ちで覗き込む。
「あのねぇ真、さっきも言ったけど僕は猫じゃない。“ぬこ”って言う名前があるんだ。ちゃんと覚えてもらわないと困るよ。僕は威厳あるケットシーの王様だぞ!」
「ケットシー……」
ケットシー、それには確かに聞き覚えがあった。
元は何処かの国の民話だったか。今の時代ではアニメやゲームなんかで猫の妖精として登場し、それらは王様として王冠を被っているデザインの物が多い。まさか、今目の前に居るこの喋る黒猫が、フィクションの物語に登場するケットシーだとでも言うのだろうか。そう言えば、自分を王様だと言っている。しかし、ケットシーの象徴でもある王冠は、被っていない。
そんな事を真は考えながら、ある一つの答えに辿りついた。
「あぁ、これ、夢だ」
そうだ、これは夢に違いない。いや夢に決まっている。絵本から猫が飛び出して?その猫が喋りだして?ケットシーの王様だなんて自己紹介までして?有り得ない。いくら私が思春期まっさかりの妄想お盛んな年頃と言えど、こんな突飛な出来事を現実と見間違うはずが無い。そう、きっと私は今カウンターテーブルに突っ伏して寝てしまっているんだ。
うん、これは夢だ。
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