暗闇の猫
等間隔に備えられたウォールランプと窓から差し込む碧い月明かりが、赤と碧のコントラストで屋内の空気を彩っている。そこをひそひそと物陰に隠れながら進む小さな影が、三角耳を揺らして尾を引く軌道を描きながら、月明かりを遮った。
左手側、壁沿いに並ぶ窓の外。そこから見下げるような位置に広がる城下町は、夜中になっても賑わいを見せているようだ。その光景はまるで、昼間のまま時間が進んでいる事を忘れてしまったかのようにすら思える。
それとは対照的にこの城は、この国に流れる時間そのものにおいてけぼりにされたかのようにとても静まり返っていて、街で日夜開催されているパレードに人員を割いた影響もあり、見張りの数も随分と少ない。
広く長い廊下を物陰に隠れながら進むそれは、真直ぐ続く壁の右手側にある、やや広いスペースへと繋がる曲がり角の壁際からゆっくりと顔を覗かせた――
「あの部屋の奥に、“円環の栞”が保管されている禁書庫があるはずだ……」
廊下の壁際から広間を覗いたその先には一際大きな扉が見て取れて、両側の壁に提げられたランプがその影をゆらゆらと灯している。その明かりを辿って扉の下へと視線を移すと、部屋の見張り番が、手に持つ警備用の槍を抱きながら座ってぐーすかと眠る姿があった。
ゆっくりと、見張りを起こさないようにゆっくりと、一歩一歩その扉へと近づいていく。
見張りは時たまムニャムニャと寝言を言ってはいるが、熟睡しているようで起きる様子は無さそうだ。難無く扉の前まで辿り着くと、ランプから届く明かりを基に扉を開けるためのドアノブを探す。
「あれ、この扉どうやって開けるんだ……?」
しかし扉を隅々まで見渡してはみるが、それらしき物が見当たらないどころか、この扉を開ける方法すら検討もつかなかった。扉を少し押してみてもビクともしない。
周りの壁や廊下には華やかな備品が飾られているが、それらにはそぐわない年季の入った重厚な木造りに、異様を体現したとも思える紋様が扉には浮かび上がっている。
そしてその紋様が集約した中心部、少し見上げた位置に見える、扉に取り付けられた物に視線を落とした。
「これは何だ……? ドアノッカーなのか?」
そこには、口を開く獅子の顔を模した、銀色のドアノッカーらしきオブジェが取り付けられていた。しかしドアノッカーだとするならば、一般的に見られる口に咥えられたドアを叩くための輪っかが見当たらない。そもそもここが禁書庫へと続く部屋の入口だとするならば、ドアノッカーなんて必要があるのだろうか。
しかし他にこの扉を開ける手掛かりがある訳でも無く、疑問は残るもこの獅子のオブジェが扉を開く鍵になるのであろうと見当を付けて、思考を巡らせながら辺りを見渡す。
「ニャガガァ……! ゲフッ……」
一際大きな声にサッと身構えて見張りへと顔を向ける。どうやらただの寝言のようだ。「随分と紛らわしい奴だな」と安堵の溜息を一つついて姿勢を戻し肩の力を抜く。
「ん……?」
ふと視界の隅に入った物が気になりもう一度見張り番に視線を戻す。壁に寄りかかって両脚をぐでっとだらしなく広げて座り込み、槍に回していた右腕はだらっと垂れ下がっている。そしてその腕の影に、首から提げられた銀色の輪っかが見て取れた。
ハッとして扉に付いた獅子のオブジェを見上げる。恐らく、いや間違いない。
この獅子のオブジェは禁書庫へと繋がる扉の“鍵穴”であり、見張りの首から提げられた輪っかがそこに填める“鍵”だ。そうと分かれば話は早い。見張りの首から輪っかを外さなければならない。
そっと、起こしてしまわないようにそっと、首から提げられた輪っかに手を伸し、指先がその輪っかに触れようとしたその時。
「……!」
サッと身を翻して明かりの届く扉の下から離れ、壁に寄り掛かり息を殺す。壁際からゆっくりと顔を覗かせて、ここへ来る時に通った廊下の奥へと目を向けた。すると、廊下の奥から二つの影がこの扉の方へと向かって歩いてくるのが見えた。
「見張りが集まると動き辛いな。ここを通り過ぎることを祈ってやり過ごすかな……」
廊下を歩く見張りからここまでの距離はまだあるが、無闇に動いて万一にでも気づかれることを避けるため影に身を落として息を殺し、この場をやり過ごすことを決める。
カチャリと、一歩一歩こちらへ近づいてくる足音が徐々に大きくなってくる。カツカツと、槍を床に突く音も規則的に重なって響いてきた。恐らくは武装をした警備兵だろう。
じわりと額に汗が浮かび、今一度ゆっくりと深呼吸をして息を止めた。
「ニャンガアァガァ! フガッ! ォサカナァァ……!」
ビクッと肩を縮ませて扉の下で眠る見張り番を一瞥する。
「君ねぇ、もう少し静かにしてもらえないかな……?」
壁に寄り掛かる見張りは相変わらず熟睡しているようだったが、そのバカデカい寝言は広間を抜けて廊下の先に居る警備兵の耳へと届いてしまった。
「おいおいっ、あいつま~た寝てるんじゃにゃいか?」
「あ~この五月蝿い寝言はあいつしかいない。見回りのついでに叩き起して行くにゃ」
ピクリと聞き耳を立てると、そんな話し声が廊下の奥から聞こえてきたことに気付き、壁にぐっと背中を押し当てて緊張の糸をピンと張る。
「まずいな、こっちに来る……!」
扉の前には眠る見張り番、そしてそれを起こそうとこちらへ向かってくる警備兵。今この広間から飛び出して廊下の反対側に走っても増援を呼ばれて包囲されるだろう。だからと言ってここに居ても見つかるのは時間の問題。
何か打開策は無いかと思考を巡らせてふと顔を上げると、反対側の壁際、クロスの敷かれた木製の台の上に置かれた壺が視界に映った。
「イチかバチか、やるしかないかな……」
姿勢を低くして素早く壺の傍に移動すると、扉の下と廊下の奥を交互に見渡してからゆっくりと壺の側面に手を当てて、タイミングを見計らうかのように台の上から突き落とした。
「ニャニャニャンダァア!? 侵入者かにゃ!?」
勢い良く床に落ちた壺は物の見事に大きな甲高い音を立て、その破片を快音と共に辺りに撒き散らした。その音にビックリして飛び起きた見張り番が、口から垂れる涎を拭いながら槍を構えて辺りをキョロキョロと見渡す。
「おはよう。ぐっすりと眠れたかい?」
広間の隅の影からゆっくりと歩み寄り、槍を構えながら右往左往する見張り番の前に姿を現す。そして目が合った途端、見張り番が声を上げた。
「お前は誰だにゃ!? ここで何をしている!?」
「僕かい? 僕はね、ここにある“円環の栞”を奪いにきたのさ」
「なにゃ!? 円環の栞をだと……!」
僕は、戸惑った様子でこちらを睨む見張り番を指差すと、飽くまで余裕のある佇まいと軽快な口調で言葉を続けた。
「君こそ、ここで何をしているのかな?」
「お、俺はこの扉の……」
「おっと、それ以上は言わなくてもいいよ。うん、よ~く分かった。オネショに起きたら道に迷ってしまったんだろう?それでも尿意より眠気が勝ってまた寝ちゃうだなんて、とんだお寝坊さんなんだね。寝る子は育つって言うし、うん。僕は良いと思うよ」
「な、なななななっ……!」
「おや、起きたらまたオネショに行きたくなったのかい? 我慢する事はない。さっきここに来る途中にトイレを見掛けたから、この廊下を出て左へ行くと良い。さぁ急いでっ」
見張り番は顔を真っ赤にしてプルプルと震えだし、槍をへし折らんとばかりにその手に思い切り力を込めている。その様子をチラッと横目で一瞥すると、最後のひと押しに、俯く見張り番の顔を覗き込んで小さな声で囁いた。
「あぁそうそう。その“鍵”は置いて行ってくれよ。それさえあればもう君に用は無い。とっととオネショしてママの所へお帰り。それとも、もう漏らしちゃったかな?」
その声は身を震わす見張り番の耳に確かに届くと、堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに全身の毛を逆立たせてものすごい形相で睨みを利かせてきた。
「シャアアアァァァ!! 許さん!!」
「恥ずかしがることはないよ。お漏らしは誰にでもあることさっ!」
ブンッ!と横一線に振るわれた槍を後方に飛び跳ねて軽々と回避すると、宙で身を翻してから更に二歩三歩と後ろに跳んで見張り番との距離を取る。
僕はそこでチラッと後方、廊下の奥の方へと耳を立てて、ガシャリガシャリとこちらへ走って向かって来ているであろう警備兵の様子を伺った。そろそろ頃合だ。
「ふざけやがってえぇぇ……! ただで済むと思うにゃ!!」
「おや、槍術の稽古かい? 漏らしてご機嫌斜めなのかな?」
完全に頭に血が上った様子で全身の毛を逆立てる見張り番は廊下からこちらへ向かってくる足音には気づいていない様子で、もはやこの広間でも僕の事しか見えていないだろう。
今一度槍をドッシリと構えると、強引に振り回しながら勢い良く走り寄ってきた。
「そんな適当に振り回していても当たらないよっと!」
「ウニャアアアァァァ!!」
僕はその大振りな槍を軽い身のこなしで後方に移動しながら躱していく。そしてあと一歩で廊下に出るという所、廊下側からは壁の影になって見えない位置でストンッと脚を止めて、自分の頬を指先でトントンッとわざとらしく叩いてみせた。
「しっかりと狙いを定めて、ほ~らこの顔を狙ってごらん!」
「シャアアアァァァ!!!」
見張り番は渾身の一撃を繰り出そうと一際大きく槍を横に振りかぶると、思いっきり全身の力を腕に込めて僕の顔面目掛け槍を振り抜いた。僕はニヤッと口角を上げて、すれすれの所でさっと姿勢を落としてそれを躱す。
「さっきの音は何だにゃ!?」
「誰かいるのかにっ」
「「ブニャァア!!」」
「あっ」
「おっと、これは痛い」
僕の頭上を通り過ぎて振り抜かれた槍は、廊下から駆け寄ってきて顔を出した二人の警備兵の顔面に綺麗に横一線に直撃し、その衝撃に体を硬直させて後ろに倒れ込んだ。
意気消沈した様子で呆気に取られ、頭上にヒヨコを回す二人と手に持つ槍を交互に見つめる見張り番の肩を、後ろからポンポンと叩く。
「へっ?」
「お勤めご苦労さんっ」
と言うと右手の拳をその顔面に叩き込んだ。
「ブニャッ!」と汚い声を上げながら気を失って倒れこんだ見張り番の首から、扉の鍵を取り上げる。
「ごめんね。もう少しそこで眠っていてくれ」
そう言うと、取り上げた輪っかを指先でクルクルと回しながら扉の前へと歩を進めた。
壁に取り付けられたランプがゆらゆらと揺れる僕の影を縮め、すぐ足元に暗い影溜りを作っている。手に持つ輪っかと扉の獅子を今一度交互に見つめると、ゆっくりと手を伸ばして獅子の口元へとそれを填めた。
「あれ、うまく填らないな……」
軽く添えてみたり、少し強く押し込んでみたり、輪っかを差し込む向きを変えてみたりするが、扉は特に何も反応を示さない。それどころか、しっかりとそこに填ったという感覚も無く、手を離したら獅子の口から輪っかが落っこちてしまいそうだ。
「まさか違ったのか……いやそんなことはないはずだ」と、今一度いくらかの方法で輪っかを口の中に押し込んでみる。
ふと、挙げていた右腕が少し疲れてきて一度腕を降ろそうとした時、輪っかの内側が獅子の上顎の歯にカチッと当たった。その時、まるで逃げようとした獲物を捉えるように獅子の口が勢い良く閉じられ、輪っかにかぶりついた。
「なっ……!」
ただのオブジェだったそれが、まるで息を吹き返した動物のように動き出した事に驚いて、咄嗟に輪っかを掴む手を離して腕を引いた。これは過剰な比喩では無くその獅子は実際、口から鋭い牙を剥き出しにして外敵を威嚇するように強張った顔の筋肉を小刻みに震わせていた。
顔だけの銀の獅子のオブジェは尚も輪っかに噛み付いた力を緩める様子は無く、赤く血走るような眼光を輝かせて睨みを利かせてくる。
まさか、失敗したか。
その考えが脳裏を過ぎった時、獅子の強張った顔が緩み、眼光が赤から青へと変わっていった。次第に、まるで生きているかのようだった振る舞いは本来のオブジェらしい無垢な佇まいへと戻り、最後に、輪っかを強く噛み締める顎がカチッと音を立てて僅かに開いた。
固く顎に挟まれていた輪っかは固定されていた力から解放され、差し込んだままの状態から振り子のようにして垂れ下がり勢い良くドアを叩いた。
輪っかはガシャンと音を立てて扉に打ち付けられ、獅子のオブジェは本来のドアノッカーらしい風貌となる。
その音が広間に響き渡るのとほとんど同時に、まるで水面に一滴の水を垂らしたかのようにオブジェから光の波紋が扉全体へと行き渡り、その波紋と扉の紋様が重なるとそれに同調して扉が仄かな青い光を放った。
扉の光が浮かび上がる紋様をなぞるように収束し、脈を打つかのように流れ続けている。
そして、重厚な扉は音もなく独りでに開いた。
中は真っ暗だったが、僕は覚悟を決めて大きな一歩を踏み出すと部屋の中へと踏み入った。
感想、評価にて、読者様方の声をお聞かせください。
作品のクオリティアップ、執筆活動の糧とさせて頂きます!
心よりお待ちしております∩^ω^∩




