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その時、馬車の後方で影が動いた。それを視界の隅に捉えるが、構わずぬこは国王を見つめる。
民衆は皆唖然とした。最早驚嘆の声すら上げられず、ただその顔を凍りつかせている。そしてそれは槍を地に突く憲兵も同じ。ぬこはこの広場に居る大衆の視線を一手に浴びて、それでもなお威風堂々と胸を張ってみせた。
それを遠目に窺う真も同じく、その突拍子も無い“願い”に声を失い、踏み込んだ足をピタリと止めていた。しかし、大衆の浮かべる顔色は真のそれとは違う。この国の民、この国の王に仕える者は、眼前の状況がどれほど重大な意味を成すかを瞬時に理解した。
この静まり返った場で、黒猫が放った言葉が、何に遮られることもなく王の耳に届いたことの意味するものを。
「ふむ……」
その低くしわがれた声に、一同の視線が流れる。その先に佇む国王の顔には不穏な陰りは無く、むしろ清々しい寛容な意をもってぬこに応えた。
「御主の願い、しかと耳に届いたぞ」
自然、民衆の口は顎が外れそうな程に開け放たれる。しかしそこから一切の音が漏れることはない。黒猫の願いが国王の耳に届いた今、それを覆すことはできず、ただ目の前で起きている事の成り行きを凝視することしか許されなかった。
国王が王冠を譲る。それが意味するものは、言うまでもなかった。
国王が頭に被る王冠へ手を伸ばした瞬間、
「おお、お待ちくださいまし国王陛下ッ!!」
それを引き止めるように馬車の後ろから一人の辛気臭い男の声が届いた。男はカツカツと踵を鳴らしながら、焦りに顔を強ばらせて国王の座す馬車の足台に登った。
国王の側近とも言える立場の人物なのだろうか。その男は周りのお堅い憲兵とは打って変わって、身なりの整った正装に身を纏い、分かりすいくらいに目尻鼻先口先を尖らせた、“悪役貴族”と名札を提げていそうな見た目をしていた。
真は民衆の合間からその男の様子を覗き込んだ。男は馬車の足台から体を伸ばして、国王に何やら耳打ちをしている。
「……?」
ぬこは僅かに顔を傾けて、ピクリと震える耳元に神経を集中させた。
言伝を終えたのか、男は馬車から降りて傍に逸れると、民衆に向かって裏返りそうな程に甲高い声を張り上げた。
「此度の聴納はこれにて閉幕とする!」
その途端、堰を切って民衆の間から困惑と不満の声が上がった。それに意を介せず、馬車は折り返される憲兵のレールを辿ってアーチを潜って行く。
今までに無い唐突な国王一行の撤収に、せめて最後にこれだけでも、と言わんばかりに民衆はその後を追ってごった返した。その濁流を懸命に押し止めながらも、憲兵は馬車が通るレールを先へと伸ばしていく。時折また、裏返りそうな甲高い声で「うるさい! 黙らんか!」「ええぃ邪魔だ!」という声が真とぬこの耳に届いた。
「ぬ、ぬこ。前から思ってたけど、あんたってすごい度胸あるよね」
馬車を追って逸れていく人集の中から開放された真は、レールの行く末を見届けるぬこへと歩み寄った。ぬこは平然とした態度でその場に立ち尽くしていたが、眉間を寄せるその顔には、僅かばかりの疑念の色が浮かんでいた。
ぬこは顎に手を当てて、何かを反芻するように視線をいくらか左右へ傾けた。
「真、ついてきて!」
「え??」
突然、ぬこが走り出す。一瞬、民衆と共に国王一行の後を追うのかと思ったが、アーチへと向かう道を逸れ、建物の間の小道へと駆けていった。何を考えているのかさっぱり検討のつかないぬこの後を、真はただ追い掛けることしかできなかった。
――――――――――――
「ちょっと痛いって! 爪立てないでよ!」
「仕方ないだろ? 真がふらつくのが悪いんだよ」
塀の内側に植えられた木々の伸びる先。そこから飛び移れるくらいの距離にある石レンガの壁面の縁で、ヒソヒソと声を潜めて言い合いをする二人が居た。
二人は肩車をするような形で、ぬこが真の肩に乗って、壁にピタリと体を張り付けている。一歩大きく後ろへ下がれば、足を踏み外して下に落ちてしまいそうだ。
ぬこは真の上から体をいっぱいに伸ばして、窓から部屋の中を覗き込んだ。
必要以上に広い部屋。しかしその中は簡素で、床一面に敷かれた質素なカーペット、そこを縦断する薄い赤絨毯。その先に居るのは、
「今回の聴納で聞き届けた願いは以上となりますぞ、国王陛下」
「うむ。ではそれを区画毎に纏め、順を追って手配をしてくれ」
「かしこまりました」
城下町の広間で見た馬車に乗った国王と、色々尖った国王側近の男だ。男は玉座に座る国王の隣で、片手を腰の後ろに回して、バインダーのようなものを手にしている。
僅かに開いた窓の隙間から、ぬこは部屋の中に居る二人の会話へと聞き耳を立てた。
「あぁ、それと国王陛下。この国民の願いの中に一つ。王室にある金の時計が欲しい、という願いがありましたぞ」
「むぅ、そのような願いを聞いたかのう……」
「いやはや無理もございません。あれ程多くの民の声を一手に受け取れば、多少記憶に齟齬が生まれるものでしょうぞ。だからこそ、私がここに書き起こしているのですから」
「ふむ、そうか……では」
「これですかな?」
室内の壁に提げられた飾りへと目を向ける国王を尻目に、男は玉座の隣にあった棚の上から、アンティークの懐中時計を持ち上げた。それを見つめる男の目は、尖った口角とともに吊り上がる。
振り向いた国王は、男の浮かべた表情に気づくことなくその手に収まった懐中時計を見て目を剥いた。
「そ、それは……」
「国王陛下。これは国民の願いなのですぞ。それを聞き入れずして、叶えずしては、王の威厳が保てかねます」
国王の視線が向いた途端に、ふっと能面のように無機質な色を浮かべて男は言葉を並べた。品定めをするように傾けられるその懐中時計。所々に浮かぶ小さな傷口に、窓から差した明かりが反射した。その反射光が国王の目に届くと、バツが悪そうに目を逸らした。そして国王、いや、ただの老いぼれた農民のように力の無い声が室内に響く。
「本当にこれで良いのだろうか……。私は民の上に立つ者、国を統べる者としての、正しい行いができているのだろうか……」
落ち込んでいるのか、国王はがっくりと肩を落として項垂れるように俯いている。小さく開かれたその口元からは、老衰した今にも消えかかりそうな声が洩れる。
その声を受け取った、いや聞き流しているかのようにも見える男は、手中で転がす懐中時計を掴むと。玉座の傍へと歩み寄って、同情、慰めの感情で塗り換えられた顔を国王へと向けた。その口元からは、まるでミュージカルでも見せられているかのように、セリフ調でいて饒舌な文句がつらつらと並べれていく。
「国王陛下。これは天から陛下に与えられた、唯一無二の免罪符でもあるのですぞ。それに、陛下も御高覧になられたことでしょうに。願いを叶えられた民の目を。民はあなたを、この国の王を認めているのです。尊敬し、尊び――愛しているのですぞ」
薄く閉じられた国王の瞳がゆっくりと開かれていき、光を取り戻す。心なしか、落とした肩にも力が入っていくようにも見える。
それを見た男は、畳み掛けるようにして言葉を続けた。
「民の願いは絶対。“どんな願い”であろうと、それを聞き入れ、叶える。それが王としての、国の頂点に座す者としての、責務なのですぞ……」
それから男は、口元を隠すように手を当てて顔を背けた。その肩が僅かに震えていることを国王は知らない。部屋の扉から伸びる赤絨毯を見つめていた国王はゆっくりと背筋を伸ばし、喉に詰まっていた物を吐き出すように大きく息を吐くと、一つ、自分に示すを付けるように目を瞑って大きく頷いてみせた。
「うむ、そうだな。その通りだ。お前にはいつも、この老いぼれの愚痴を聞かせてしまいすまない。お前はわしの支えだ」
「有り難き御言葉……。それでは国王陛下。本日の聴納は不本意にも民衆に不体裁な姿を見せてしまいましたので、明日、折り返した第五居住区へと赴き、国王としての威を示しましょうぞ」
国王の瞳から承諾の意を受け取ると男は一例をして、その手に懐中時計をしっかりと掴んだまま、踵を返した。
男は赤絨毯の上を渡って部屋の扉の方へと向かっていく。
「真、向こうだ。向こうの窓の方に移動して」
そう言ってぬこは真の頭を叩き、壁沿いの縁を辿った突き当りの先にある窓を指さした。
真はブツブツと文句を言いながらも、ずり足で歩を進め窓辺へと辿りついた。
そこでぬこは窓枠へと手を伸ばすと、顔を僅かに覗かせて室内を見渡す。そこは廊下だった。そしてその奥から、さっきの男が歩いてきた。男はなにか独り言を言っているようだ。
――……な王様だ……
窓は完全に閉まっていたので殆ど聞き取れなかったが、その男の浮かべる愉悦に引き攣った顔は、とても国王側近の地位に就く人間の物には見えなかった。
男は王室から持ち出した懐中時計を見て満足気な表情を浮かべている。そして徐に、その懐中時計を前袖の短い上着のポケットへと仕舞い込んだ。
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