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夏の日差しというものは容赦がない。そもそも自然というものは人間にとって都合が良くできているものではなく、それらに順応して生きてきたのが人間なのだ。だから今日、真はこの暑さに順応すべく、サーフィンに打ち込んでいた。
広大な世界に入り浸り、時には波に乗り、時には波に流されながらも、現実での苦悩を少しばかり忘れさせてくれる魅力が“ここ”には詰まっている。そしてそれは、契約したプロバイダの電波を介することで何処からでもアクセスする事ができるのだ。この時ばかりも真は、この現代に生を授かった事を心から感謝していた。
そう、真は今、ナギサ書林のレジカウンターに腰を預けながら、スマートフォンを片手にネットサーフィンに夢中になっていた。
それは良く言えば情報収集、悪く言えば暇つぶしなわけであって。
本を読む者の界隈からしたら、多くの本に囲まれたこの状況で本を読まないと言うのは、いささか考えられないことであるだろう。しかし真からしたら、それらはほとんど興味の無い物であって、それよりも現代っ子らしくネットサーフィンに打ち込むことの方がよっぽど価値があるものだと感じていた。
それはある種、屁理屈のようなものであるかもしれないが。
今日もここナギサ書林は平常運転。午前中に数人の客を迎えてから、昼過ぎになって客足はぱったりと途絶えていた。いつも通りの落ち着きを見せる店内で、ぬこは相変わず読書に夢中になっている。
暫くしてからぬこは本を閉じて足台の上に立ち上がると、書棚の隙間にそれを押し込んだ。スーッと表紙が擦れる音がしてから、ストンッと小さく音を立てて棚の奥に本が当たる。それからぬこは背表紙に添えた手を降ろして、コクりと頷きながら「これはなかなか面白かったな」と呟いた。
ぬこは光の差し込むガラス戸から店の外を眺めた。
街を歩く人々は皆、小さく薄っぺらな端末を片手に、俯き気味にそれを覗きながら歩いている。中には、すれ違う人と肩をぶつけてそれを落としそうになっている人もいた。彼らは互いに軽く会釈をしてから、また俯いて歩き出す。
それからぬこは視線を店内に戻し、書棚を通り越してカウンターに座る真を見上げる。先程から石像のように固まって視線と指先だけを動かす真に、ぬこは声をかけた。
「ねぇ真。あの人達が持ってるのも、それと同じスマホってやつなの?」
それから一間置いて、真の返事を待った。しかし真は微動だにしない。
「真っ! 聞いているのかい?」
「えっ、何? 呼んだ?」
「呼んだと言うか、訊いたんだけどね」
そこで真は初めて、丸まっていた背筋を少しばかり伸ばしてぬこへと顔を向ける。
「あ、ごめん聞いてなかった……。もう一回言って」
ぬこは一息ついてから、また視線を店の外へと向けて訊いた。
「あの人達が夢中になってるあれも、真の持ってるスマホって物なのかい?」
それを聞いて真は、ぬこの奥、ガラス戸の先へと視線を流し、街を行き交う人々を見た。俯き気味に歩く人々の様子を一見しただけで、真はそれが歩きスマホと言うやつだなと悟る。
「あ~うん、あれも多分スマホだね。あーやって歩きながらスマホを見ることを歩きスマホって言うんだけど、あれ“前が見えなくなる”から危ないんだよね。私もたまにやるけど……」
「前が見えなくなる、か……。前が見えないのに歩けるなんて、人間は器用なんだね。あ、またぶつかった」
読書の合間の小休憩とでも言うように、ぬこは足台に腰を降ろしたまま両手を突いて外の様子を眺めていた。異世界から来たぬこにとって、歩きスマホをする人々の姿は不思議な光景に見えているようだ。
真はその様子を見て、佇まいは違えど、窓辺で外を興味津々に眺める猫の姿を連想して少しばかり頬を緩めた。
――カシャッ。
ふと意識の外から届いた音に、ぬこは耳をピクリと震わせてから音のした方向、真の居るカウンターへと顔を向けた。しかしそこには特に変わった様子はなく、先程と同じようにスマホを眺める真の姿だけがある。
それから一間置いて、また同じ音が店内に響く。その音の発生源は真の持つスマホからだった。
「何をやってるんだい?」
ぬこは、スマホを眺めて微笑を浮かべる真の顔を覗き込んで訊ねた。それに真は手を翻し、スマホの画面を見せながら応える。
「こんなこともできるんだよ」
その画面には、物思いに耽る人間のように座って、外を眺めるぬこの姿が写っていた。
「わっ、すごいね! 真は絵がうまいんだね」
真にとってはスマホで写真が撮れるということは当たり前のことだが、そもそもスマホを知らないぬこにとって、それは魔法の類にすら思えているようだ。それにその言葉からして、どうやらぬこは写真という物の存在すら知らず、スマホに映ったそれを真の描いた絵だと思っているらしい。
真はスマホの画面をぬこに向けたまま、左手の指を画面上に滑らせて次の写真を表示させる。そこに写るのは、カメラ目線のぬこの姿。ぬこは画面の中にいる自分と目を合わると、二、三度瞬きをして前のめりにそれを覗き込んだ。
「二枚も描いたのかい?」
「違うよ。これは私が書いたんじゃなくて、スマホのカメラで撮った写真だよ」
そう言って真はさっきとは逆向きに指を滑らせて、過去に撮ってきたいくつもの写真を画面に映し出す。
友達との何気ない日常風景や、カフェで食べたパンケーキの写真などが次々と流れていく。
画面を横から覗き込む真は、スマホをスワイプさせながらもぬこの反応を窺った。するとぬこはまた驚いた様子でそれを見つめ、画面の外から外へ流れていく写真を目で追って、やや大げさにも思える程に首を左右に振っていた。それを見た真は、いつの日か動画サイトで見た、猫じゃらしを目で追って首をリズミカルにぐるぐると降る猫の姿を思い出し、クスッと微笑を洩らした。
それから真はスマホの画面を自分に向けて、今度はビデオモードに切り替える。画面の丸いボタンを親指でタップすると、ポンッと可愛らしい音がしてから画面上にタイムコードが流れた。
「スマホは動画も取れるんだよ~」
そう言って、スマホのカメラを書棚へと向けた。画面には、いつの間にか足台から降りてこちらを覗き込むぬこの姿が映し出される。それから右へカメラを振って、書棚と、カウンターの前に山積みにされた書籍を通り越し、児童書コーナーを映した。
「あれ?」
真は画面越しに映る書棚の一点に、仄かな青い光りが溢れている事に気がついた。それを注意深く見つめていると、画面にぬこが割り込む。ぬこは右手に、光を纏う円環の栞を持っていた。
ふとスマホから視線を先へ伸ばし、書棚へと顔を向ける。しかし肉眼では書棚の光を確認する事ができなかった。
「真。円環の栞が反応してる。恐らくこの棚にあるはずだ」
真は、円環の栞を棚へかざすぬこを一瞥してから、視線の間にスマホの画面を挟んだ。画面越しには、確かに棚の光を確認することができる。
「あ、その上の段の……もうちょっと右……そこ!」
その声に、ぬこがピタリと手を止める。それとほとんど同時に、円環の栞が強い反応を示した。
ぬこは児童書コーナーの棚に並べられる一冊の本へと手を伸ばし、それを抜き取る。
本のタイトルは『優しい王様』。
それは、児童書の中でも小学生高学年向けに刊行されている単行本だった。
ぬこは徐にその本のページをパラパラと捲ると、やや驚きを見せるようにして目を見開いた。
「うん、確かにこの本で間違いないね……。どうして分ったの?」
本のページを開いたまま、ぬこは顔をしっかりと向けて訊ねる。真は画面のボタンを再度押して録画を停止させると、席から立ち上がってぬこの元へと向かった。
「ほらこれ。スマホで撮ると光が浮かんで見えるの」
真はしゃがんで、動画を再生させながらスマホをぬこへと向けた。動画の中では、ぬこが歩いている所の少し上にある書棚の本が、仄かに青い光りを纏っているのが映し出されていた。それを見たぬこは、鼻先が着くのではないかというくらいに顔を寄せて、まるで画面の内側を覗き込むように前のめりになる。
「わっ、僕が動いている! これすごいね!」
どうやらぬこには光が見えたことよりも、スマホの中に動く自分が映し出されていることの方が、よっぽど興味を唆られているようだ。
ふと視線を落とすと、ぬこの持つ本のページは白紙になっている。それを見た真は、今回はこの本の世界に入るのだと悟り、それを指差した。
「その本、表紙には何が描かれてるの? タイトルは?」
そう言って、真は手に持つスマホのスリープボタンを押してからそれをスカートのポケットに仕舞う。ぬこはスマホの行方を少しばかり目で追ってから、そのまま視線を本へと戻し応える。
「あぁ、うん。これは『優しい王様』ってタイトルだったよ。表紙は……」
ぬこは開いたページを閉じ、今一度本の表紙を確認する。
その本は、よく小学校の図書館に並べられるような、子供が触れても折れにくい作りの単行本だった。とは言ったものの、所々に傷が見え、ハードカバーの角は適度に色あせて剥げている。ある程度使用感のある古本だ。
そしてその表紙の上部には、柔らかい角の落ちた字体で“優しい王様”というタイトルが印字され、中央には簡素で装飾の少ない玉座と、その上に寂しげに置かれた王冠が描かれていた。
それを見た真は、あっ、と声を上げる。
「これ、王冠だよね? でもこれ誰の王冠なんだろう? “優しい王様”の……?」
本のタイトルにもあるように、優しい王様と言うからにはこの世界にその人物が登場するのだろう。しかし、表紙には意味深な玉座とそこに置かれた王冠だけがあった。背景には何も描かれておらず、真っ白な空間にポツンと、タイトルと絵だけが浮かんでいる。
ぬこもその表紙の絵を確認して、少しばかり一考するように首を傾げた。それから一間置いて、また本のページを捲りながら顔を上げる。
「まっ、実際に行ってこの目で確認しよう」
真はその言葉に頷いて、ぬこの持つ本を両手で支える。そしてぬこは右手に持った円環の栞をページの間に挟み込んだ。それを待ってましたと言わんばかりに、円環の栞の放つ光りが本へと伝わり共鳴する。
ぬこは小さく口を開いて息を吸い込むと、その光へと語りかけるように囁いた。
「円環の栞よ、僕達をこの本の物語へと導いてくれ……!」
その言葉に応えるように、円環の栞から光の環が広がって二人を包み込む。その光は煌々として、薄暗い店内を照らしたかと思うと一気に中心に向かって収束した。
ゴトンッと音がして、床に本が落ちる。その本は独りでにパラパラとページが捲られていき、いずれ傷ついたハードカバーを固く閉ざした――
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