3‐1
相変わらずの夏の日差しは休むことなく天から降り注ぎ、それを浴びた空気はむんむんと揺らめいて、街に立ち並ぶ新緑の木々とともにこの夏を彩っている。
街を行き交う人々は、この季節ばかりは太陽を嫌い、手を翳して日差しを遮りながら歩いていた。
そんな季節もここナギサ書林は、この街に流れる時間からはちょっぴり置いてかれて、ひっそりと営業を続けている。
今日もナギサ書林の店内には、だらしのない声が木霊する。
「ひま~」
真はカウンターテーブルに頬杖を突きながら上の空に言った。ぬこは相変わず書棚の下の足台に座り、視線を上下に素早く動かしながら本を読んでいる。
真は頬杖を突いたまま、ぬこへと視線を向けて口を開く。
「ぬこ、暑くないの?」
それにぬこは、本へと顔を向けたまま、涼しげな面持ちで応える。
「べつにー」
「いや絶対暑いでしょ?」
「……暑くないよ」
真はテーブルから少しばかり身を乗り出して、ジト目でその顔を覗き込んだ。
「あれ? おでこに汗が滴ってるよ?」
ぬこはその言葉に、サッと手を額に当ててゴシゴシと拭う。それを見て真は頬を緩ませると、「うっそ~」と言って笑った。ぬこは額に当てた手を止めると、瞬時に爪を伸ばして、フードの影から覗かせる眼光と共に真に向けた。
その時、ガラス戸に提げられた鈴の音が店内に響く。真は頬から手を離し、少し大きめの紙袋を提げた、しわの深い年配の女性へと体を向けて出迎えた。
「いらっしゃいませ――
――――――――――――
――ありがとうございましたー」
ナギサ書林に訪れた客をレジカウンターから見送った後、テーブルの上には何冊かの絵本が積まれていた。その本一冊一冊に目を通し、テーブルの隅に置かれているノートパソコンと睨めっこをしている真に、ぬこは香箱座りからムクッと上体を起こして覗き込む。
「真、それはなんだい?」
「ん? これは買い取った絵本。うちは買い取りもやってるからね。たまにこうやって本を売りに来る人がいるんだよ」
そう言いながら真は、本を片手に持ち、表紙をぬこに向けながら言った。ぬこは眉根を寄せて、その本を見ながら応える。
「……転売ってこと?」
「何その物騒なの……。違うよ。一度読んで、もういらなくなった本をこうやってお店に売るの。そうしたらそれをお店に並べて、またこの本を読みたい人が買いに来る。そうやって、本は色んな人に読まれていくんだよ」
所々表紙の傷んだ、年季の入った絵本のページを徐にペラペラと捲りながら、真は応えた。
ぬこは相槌を打って二、三度頷くと、「本を売っちゃうだなんて勿体無いなぁ」と呟きながら、また足を放り出して台に座り込む。すると、懐の下に隠していた円環の栞が、仄かに光を纏い始めている事に気が付いた。
レジカウンターで買い取った一冊の絵本へと目を通す真。その目の前に、円環の栞を片手に、テーブルの上に飛び乗ってきたぬこが声を掛ける。
「真! その本ちょっと見せて!」
「わっ! ちょっとぬこ! テーブルに上がらないでよ本が汚れるでしょ!」
突然目の前のテーブルに飛び乗ってきたぬこに驚き、真は本を庇うようにぬこから遠ざける。
「よ、汚れるって、ちょっと傷つくなぁ……」
思いもよらず突然真に叱られたぬこは、耳を僅かに垂らしてしょげた。しかし、反応の強まる円環の栞を横目に一瞥すると、真の持つ絵本を指差して言葉を続ける。
「真、円環の栞がその絵本に強く反応しているみたいだ」
ジト目でぬこを見つめる真は、差し出された円環の栞の放つ光りを見てから、ハッとして手に持つ絵本のページを改めて覗いた。
その絵本のタイトルは『ひみつのオモチャ箱』。しかしその絵本の中を覗く真は、そこで不思議な現象を目の当たりにする。
「え、なにこれ……?」
真の広げる絵本の中には、可愛らしい子供とオモチャ箱の絵、隅に添えられた大きな文字があった。
しかし次の瞬間、それらは貼られたマスキングテープを丁寧に剥がすかのように、ページからひらひらと浮かび上がっていくではないか。そして、それを不思議そうに見つめている真が、絵本から浮かび上がる絵に触れようとした時、それらは音も無く光の粒となって、霧散した。
後に残ったのは、白紙の続くページ、表紙の大きなタイトルに、オモチャ箱の中を漁る子供の絵だけだった。
まるで、誕生日にサプライズでもしてもらったかのように唖然とする真に、ぬこは強い光を纏う円環の栞を、その本のページに添えながら声を掛ける。
「どうやら、この絵本の世界の入口が完全に開いたみたいだねっ」
「あ……」
真は、既にこの短い時間の間にいくつもの不思議な光景を目の当たりにしていた。けれども、絵本から文字や絵が浮かび上がるだなんてファンタジックな現象は、再び真の至って常識的であった感性を刺激した。
「真、どうしたんだい?」
「あっいや、やっぱりなんか夢でも見てるみたいだなって」
ぬこはその言葉に、「そうだろ?」と応えて、ニコッとはにかんだ。
「真、今度は君がやってごらん」
「え?」
「目を閉じて、頭の中に扉をイメージするんだ」
その言葉通りに真は目を閉じて、一つの扉をイメージした。
それは、何処にでもあるような木造りの、丸いノブが付いた扉。それをイメージしながらも真は、以前次元の書庫で見た無数の扉を思い返す。ふわふわと無機質に浮かんでいて、それを覗く者には無関心でいるような佇まいながらも、どこか誘われるような魅力を放つ、重厚な扉。
すると、それらをイメージする真の持つ本は、徐々に光を纏い始める。それを確かめると、ぬこは続けた。
「そして、こう言いながら本を閉じるんだ。円環の栞よ、”僕達をこの本の世界へと導いてくれ”……ってね」
「う、うん。……円環の栞よ」
ぬこは円環の栞から広って二人を包み込み、ゆっくりと回転を始める光の環を一瞥して、真の傍に今一歩歩み寄る。
本を持つその手に自然と力が入るのを感じながら、真は最後の言葉を放ち勢い良く本を閉じた。
「僕達をこの本の世界へと導いて”きゅ”れ!」
「「あっ」」
真が最後の言葉を噛んでぬこと目を合わせるのと同時に、高速で回転する光の輪は円環の栞へと収束した。目を点にする真とぬことともに――
――――――――――――
――円環の栞の放った強烈な光に目が眩み、ぐっと瞼を閉じていた真は、ゆっくりと目を開ける。先程まで居たナギサ書林の残像が薄らいでいき、視界が徐々に周りの風景を映し出す。
するとそこは、子供部屋のような空間だった。
棚の上にある倒れたぬいぐるみ達、落書きだらけの壁、オモチャの詰まったオモチャ箱。
それらを一望した真はそこである違和感を覚えた。
「あれ……逆さま?」
仰向けで横になる真の見る光景は、全てがひっくり返っており、棚やオモチャ箱が天井に吊り下げられているように見えた。
しかし真は、自分の身に掛かる重力を感じてすぐに気付く事になる。
体が宙に浮いている事に。
「うわぁあ!!」
それに気付いて真はジタバタと体を捩るが、身に伸し掛る重力は、容赦なく真を顔面から床に叩き付けた。子供部屋の床に不時着した真は、うつ伏せになりながらも床に手を突いて、上体を上げながら鼻っ面を抑える。
「あいたたた……グヘッ!」
「おっとごめんよっ」
それに遅れてぬこも宙から落ちてきて、横たわる真の背中に着地した。
意気消沈したように、顔を突っ伏してうつ伏せになる真の背中から、「ごめんごめん」と言いながら、ぬこはぴょんと床に飛び退く。
真は再び床に手を突いて体を起こすと、あひる座りで鼻と背中を摩りながら目尻に涙滴を浮かべた。
「何でいきなりこんな痛い目に合わないといけないのぉ……」
「真、最後にイメージを怠ったろう」
ぬこは、乱れた毛を整えながら横目に言った。それに真は、目尻に浮かんだ涙を拭いながら応える。
「うー……。だってなんか緊張しちゃって……」
「ま、別にあれ言わなくても良いんだけどねっ」
「えっ!?」
真はズキズキと疼く体はそっちのけで、ぐるんと首を回して身繕いをするぬこへと顔を向けた。涼しげな顔をするぬことは正反対に、床にへたり込む真の顔は次第に熱を帯びて赤く染まる。
「じゃ、じゃあ何で言わせたの!?」
「決めゼリフがあった方が分かりやすくて良いだろ?」
「き、決めゼリフって……」
身繕いをしながら横目に一瞥すると、真はあひる座りのまま両膝に手を突き、唸り声を上げながら眉根を添えて、睨みを効かせる。その様子を見たぬこは、ジト目でニヤッと口角を上げ、徐に掌を上に向けて両手を前に翳す。そして、わざとらしく普段よりもか細い声で言った。
「この本の世界へと導いて”きゅ”れぇ~」
「……!?」
「きゅれぇ~」
「恥ずかしいからもうやめてえぇぇぇ!!」
顔を真っ赤にしながら蹲り耳を塞ぐ真に、ぬこは「さっきのお返しだよ~」と言いながらも、満足気な表情でケラケラと笑った。
よっぽど恥ずかしかったのか、涙滴を浮かべていた目尻からダラダラと涙を流す真を見て、ぬこは「ごめんごめん少しやり過ぎたね悪かった」と言いながら、真の背中を肉球でポンポンと叩いた。
「おねえちゃんだぁれ?」
まるで王が、絶望に打ちひしがれる民を労わるような姿の二人に、幼げのある少年の声が転がってきた。
その声に二人は顔を上げて振り向くと、そこには綺麗な金色短毛の髪を提げる、可愛らしい男の子が真ん丸な目で、二人を覗き込んでいた。
真は見覚えのあるその容姿に、上体を起こして口を開く。
「あ、君は……」
子供部屋に佇むその少年は、真がナギサ書林で見た、『ひみつのオモチャ箱』の絵本の中に描かれていた少年そのものだった。
キョトンとして首を傾げる少年に、真は優しい笑みを浮かべて目線を合わせて応える。
「私は真って言うの。君の名前は?」
「僕はジャンだよ!」
真が自己紹介をすると、健気な明るい笑顔で元気に応えるジャンに、痛みも恥じらいも吹き飛んだ真は頬を緩ませて「よろしくね」と添えた。
こうして真とぬこは、思ひ寄らずこの物語の主人公に出会った。
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