第一部 黒界 帝都動乱篇 第二話 空中楼閣の女主人 終幕ー後ー
我々は、奪われた
我々は、奪われた
我々は、全てを奪われた
親を、兄弟を、夫を、妻を、子を、全ての家族を
知人を、友人を、その他大勢の知り合いを
我々は、我々の尊厳のすべてを踏みにじり、奪いつくした彼の者を許さない
たとえ本人が死んでいたとしても、たとえ数百年たったとしても、
我々はあの腐った大樹と、それに繋がれた全ての接ぎ木を切り倒す
我らの血と涙と憎しみで、黒く染まったこの戦斧で
―黒き戦斧の決起文より抜粋―
「・・・・・・う、皆、無事!?」
天井を突き破って降ってきた巨大な拳の直撃こそ避けたものの、拳が床板を砕いた衝撃で吹き飛ばされたアベルは、ふらふらと立ち上がると周囲を見渡した。慣れ親しんだ部屋は半壊し、あちこちには瓦礫が突き刺さり、その周りでは衛兵がうめいているのが見える。
「アベル、こちらは大丈夫だ!! 私もコールも、他の皆にも怪我らしい怪我はない。ウエッジ、そちらはどうだ!?」
「は、はい。私は大丈夫です。ただ数名ほど直撃こそ受けなかったものの、衝撃で吹き飛ばされたり、振ってきた瓦礫に当たって負傷しています」
「ヒャハハハッ、どうだ、これで分かっただろうがっ!! 俺は単なる陽動なんだよ。ま、一番いいのはその陽動で雌蜘蛛の評判を落とせることだったんだが・・・・・・とにかく火事も、井戸の毒も、そして襲撃も、全部“こいつ”から目を離させるための「喋りすぎですよ、イワン」おっと、いけねぇ」
小さな破片がかすったのか、額に小さな傷を負ったウエッジが報告する横で、イワンが狂ったように笑いだした時、彼を“上”からたしなめる声がした。その声に反応したアベルが上を向くと、床板をぶち抜いて地下に埋まった拳がゆっくりと引き抜かれた。天井に開いた穴から見えたのは、顔を覆う巨大な鉄仮面とそれを被った身の丈八メイルはあるだろう巨人、そしてその巨人の左肩に乗っている侵入したイワン同様、黒いフードをすっぽりとかぶった男だった。彼の顔も見えないが、それはフードを被っているからではない。彼の顔が見えないのは、
その顔に、憤怒の表情を浮かべた仮面を被っているためである。
「あれは・・・・・・間違いない、巨人族だ」
「巨人族って、たしか帝都より南西にある大国、ヨトゥンヘイムの支配権をめぐって有翼族と戦争をしてる種族ですよね、それがなんだって遠い帝都近郊にいるんですかっ」
巨人族、それはクレアの横にいるコールが恐怖のあまり叫んだとおり、帝都より南西にある黒界七王国の中で三番目に広大な国土を持つ強国、ヨトゥンヘイムに生息する種族である。この国は面積こそ広いものの、国土の半分は生活するに適さない湿地帯であり、残りの半分の領地をめぐって同じくヨトゥンヘイムに住む翼ある種族、有翼族と熾烈な戦いを繰り広げていた。彼らは帝都にある家をはるかに超す巨体と、それに見合った腕力と体力の持ち主ではあるが、その代わり繁殖能力は低く、そのことが原因で自分たちと比べて弱いものの繁殖能力が高い魔族とは膠着状態に陥っていた。
「さあな、だがここに巨人族がいるのは事実だ。そして駐屯所を破壊した以上、私たちの敵なのだろう・・・・・・まさか、今回の事件の黒幕というのは巨人族なのか?」
「いや、それはないんじゃないかな」
愛用の黒鋼の槍を構え、巨大な敵の間合いからじりじりと後退するクレアの疑問に、同じように腰の鞘から細剣を引き抜いたアベルが首を振った。
「なぜそう思う?」
「昔本で読んだのだけれど、巨人族というのは大きさで偉さが変わるらしい。つまり大きければ大きいほどえらいんだ。平民でも十メイルは軽く超すと聞く。けどこの巨人は確かに大きいけれど、それでも八メイルほどだ。恐らくは放逐されたか、それとも自分から国を出奔したかのどちらかだろうね」
「おや、お見事です。どうやら話に聞いていたほど無能ではないようご様子・・・・・・ですがまだまだですね、どちらも違います。この巨人は、私がヨトゥンヘイムの奴隷商人から買い取ったものですよ」
「買い取った? まさか・・・・・・先々代の皇帝、“聖樹帝”セフィロト陛下により奴隷制度は廃止されているはず、なのに人の売買はできないはずですっ!!」
「ええ、確かにセフィロト陛下により奴隷制は廃止され、帝国から奴隷という身分はなくなりました。ですがすべての国が奴隷制の廃止に賛同したわけではない。特にヨトゥンヘイムは、彼の“獅子国”同様強固に反対しており、現在も彼ら巨人族の基準に満たない小柄な者や魔族との戦いに敗れ逃げ帰った者をその地位を剥奪して奴隷にし、湿地帯の開墾や他国に売り飛ばしているのです。“これ”もその一つでしてね。安く売られていたのを我々が買い取ったのですよ」
悲鳴に近い声を出したコールに応えるように、巨人の方に乗った仮面の男はゆっくりと頷いた。
「“我々”ですか。つまりあなたは単独で行動しているのではなく、何らかの組織に属しているという事になりますが・・・・・・もしや、最近噂になっている革命団とやらですか?」
「我々をあんな無粋な連中と一緒にしないでいただきたいものですね。私も帝国臣民として、皇帝陛下には忠誠を誓っております。ですが、それは“現皇帝陛下”に対してです」
冷静にしようと努めつつ、それでも決して隠し通せない怒気と憎しみを込めた声で話すと、仮面を被った男は背中に背負っていた物を右手で取り出した。それは男の身長ほどの長い柄を持った、黒く染められた斧だった。
「我々は“黒き戦斧”!! 腐った大樹にすべてを奪われた復讐者である!! 大樹に寄り添い、腐った果実を孕む全ての接ぎ木を我が斧にて打ち砕かん!!」
絶え間なく鳴り響く鐘の音の中、僅かに開いた厚い雲の隙間から覗く三日月の光に照らされ、男の持っている戦斧の刃が一瞬きらりと光った。
「あらあら、ようやくのお出ましね」
駐屯所から聞こえてくる鐘の音に、ハチの巣をついたような騒ぎになっている集落の様子を水晶玉で眺め、グレイプリーは薄い笑みを浮かべた。
「グレイプリー様、緊急事態ですっ!!」
「あら、どうしたのシリエラ」
その時、ふと階段をどたばたと駆けあがってくる音が聞こえてきた。軽くため息を吐いて彼女が水晶玉に映った景色を消すのとほぼ同時に、彼女の側近であるシリエラがほぼ体当たりするような勢いで扉を開けて入ってきた。
「は、つい先ほど駐屯所より緊急を知らせる鐘の音が聞こえてきました。さらには駐屯所付近に住む住民から、巨大な人影を見たという報告が多数寄せられています。今は部下に非常呼集をかけていますが、この後どういたしましょうか。指示をお願いします」
「その巨大な人影の正体が分からない以上、下手に自警団を動かすわけにもいかないわ。今は相手の正体を見極めましょう。黒紫商会の武器庫を開いて団員に武装させ、広場に集結させなさい。銃を出すことも許可します」
帝都郊外にある集落を守る自警団は武装自体は許されているものの、銃の所持は本来許可されていない。グレイプリーが銃を持っているのは、盟友であるセフィリアから特別に許可をもらっているためだった。
「畏まりました。広場に集合させ、その後すぐに駐屯所に向かいます」
「そうね・・・・・・いえ、ちょっとまってちょうだい。広場に終結後はその場で待機、こちらからは仕掛けず敵を迎え撃ちます」
「は? お、お待ちください、それではアベルたちを見殺しにすることになります、お考え直しください!!」
「あらシリエラ、貴女はアベルがたかだか“巨大な人”なんかに敗れると、本気で思っているのかしら?」
「い、いえ、そういうわけでは・・・・・・分かりました、団員が集まった後は、広場で待機させます」
「ええ、そうして頂戴」
自分の言葉にまだ納得がいかない顔をしながらも、しぶしぶ頷いて部屋を飛び出していくシリエラを見送り、グレイプリーは再び水晶玉に向き直り、さっと手を翻した。すると水晶玉の中に、先ほど同様半壊した駐屯所と、建物から出て必死に巨人を食い止めているアベルたちの姿が映った。
「ふふ、さあがんばってアベル。これを乗り切ったら、貴方はきっと成長できるから・・・・・・それにしても“黒き戦斧”ね、あの男が死んで数百年たつというのにいったいいつまで過去に捕らわれているつもりかしら。いえ、それは私も同じかもしれないわね、あんな夢を見るぐらいだもの」
水晶玉を眺めてしばらく物憂げな表情を見せていたグレイプリーだったが、やがて小さく首を振って立ち上がると、先に出ていったシリエラに合流するため部屋を出ていった。
「くそ、どうするアベル、このままでは埒が明かんぞっ!!」
「分かってるっ!!」
時間は少し遡る。巨人の肩に乗った男が自分の正体を明かすと、巨人はゆっくりと右腕を挙げ、もう一度振り下ろした。その一撃を何とか避けたアベルだったが、なにせ駐屯所となったことで多少ではあるが補強された屋根から床下までぶち抜くほどの破壊力だ。衝撃で吹き飛ばされ、さらに三名の衛兵が負傷した。このままでは直撃を受けるのも時間の問題だろう。仕方ないか、一瞬苦渋の表情を浮かべると、アベルは息を吸い込んだ。
「命令っ!! 現時刻をもって駐屯所を放棄する。外に脱出後は巨人を足止めして時間を稼ぎ、自警団の到着を待つ・・・・・・各員負傷者を先頭に外に脱出せよっ!!」
「「は、はいっ!!」」
いつもは優しい隊長が発した厳しい大声に背筋を伸ばすと、ウエッジやコールを始めとした衛兵は破壊された壁の隙間から外へ飛び出していった。といっても我先に逃げるような醜態は晒さない。アベルの指示通り負傷者に肩を貸して規律正しく脱出していく。
「やれやれ、この集落に来ておよそ二年、ようやく慣れ始めた拠点だというのにな」
「うん。愛着もあるし破壊されるのはとてもつらいけど、物だからね。壊れたのなら直せばいい。皆のほうが大切だよ」
「・・・・・・まったく、そういう言葉を大勢の前で言えるようになればもっと人気が出るのだがな。しかし巨人が相手となると、ビックスが負傷して集落を離れているのが痛いな。“でかぶつ”を相手にするのは、奴の得意分野だろうに」
衛兵たちが外に退避する時間を稼ぐため、アベルと共に殿を務めるクレアはひょいと頭を下げ、ついでとばかりに逃げ遅れた衛兵の背中を蹴って外まで弾き飛ばしたその直後、今まで自分の頭があった場所を大きめの破片が飛んでいき、逃げ遅れた衛兵がいた場所に突き刺さった。
「今ここにいない人の事をとやかく言ってもしょうがないよ。まあビックスには明日から苦労してもらおうとして、そろそろ僕たちも外に出よう」
「おや、外に逃げますか。賢明な判断です・・・・・・ふむ、彼らは目標ではないため正直無視をしてもかまわないのですが、後々妨害されると面倒ですね。ここで始末しておきましょうか」
「おいおい待てよダンナ、俺を置いていく気か? 助けてくれよっ!!」
部下が全員外に逃げたのを確認し、最後に建物から飛び出していくアベル達を見て男は面白そうな笑みを浮かべたが、巨人の足下から聞こえてきた声に、眉間に僅かに皴を寄せた。
「イワンさん、貴方が陽動をしてくださったおかげで、私はスムーズに動くことができました。そのことには大変感謝しています。ですが襲撃に失敗し、それを口封じしようとしてさらに失敗したのはいけません。もちろん助けますよ。助けますが、それは私の仕事が終わってからです」
両手を縛られ、大きな瓦礫に足を挟まれたイワンが必死に助けを求めるのを一瞥してから、男は巨人の首筋を軽く蹴った。鉄仮面の中で低く唸って答えると、巨人はアベル達を追うためゆっくりと進み始めた。
「今だ・・・・・・発射ぁっ!!」
「おや?」
アベルの声とともに矢が飛んできたのは、家の瓦礫を跨ぎながら巨人が庭に出た時だった。外は先に脱出した衛兵によりかがり火が焚かれたためかかなり明るく、巨人とその肩に乗っている男に向かって十数本の矢が飛んでいく。もっとも銃弾なら話は別だが、矢では強靭な肉体を持つ巨人に対しては足止めにすらならない。彼らもそれは分かっているのだろう、飛んできた矢は巨人よりも自分の方に向かってきた。確かに巨人がどれほど強力といっても、それを操る自分を倒せば無効化できる。だが
「甘いですねぇ。私だって自分の身を護る程度の訓練はしているのですよ。それにこの仮面も服も、防刃と防弾性に優れています。たかが矢程度が貫けるとは思わないことです」
男が持っていた戦斧を横に払うと、彼に向かっていた数本の矢がまとめて切り払われる。その一撃を潜り抜けた残りの矢が当たるが、それは彼の言葉通り、仮面や服に弾かれて刺さることはなかった。巨人に命中した矢も相手の堅いゴムのような皮膚を貫通することはできず、巨人が身を揺する度ぱらぱらと落ちていく。
「くそっ、やはり矢は効かないか。銃があればよかったんだがな」
「ないものねだりを言っても仕方ないよ。銃は黒羊騎士団では第一大隊にしか支給されていないんだから」
弓を射る衛兵の指揮をしながら、自分も矢を放っていたクレアが愚痴をこぼすと、武器庫になっている納屋から補充の矢を運んできたアベルは僅かに肩をすくめた。
「それはそうだが・・・・・・ならどうやって倒す? 矢が効かぬのであれば接近戦を仕掛けるしかないが、動きは遅いといってもあの大きさだ。何の策もなく突撃すれば殺されに行くだけだぞ」
「そうだね、矢で少しでも足止めできるようなら自警団が到着するまでもたせることもできたけど、こうも効果がないのなら別の手段が必要になるか・・・・・・ん?」
矢を放っている衛兵のそばに補充の矢を置いていたアベルは、放たれる矢をものともせずこちらに向かってくる巨人を困った表情で眺めていたが、ふと何かに気づいたかのように首をかしげた。
「なんだ、良い策でも見つかったか?」
「うん、ちょっとね・・・・・・ウエッジ、ちょっといいかい?」
「何ですか隊長、今すごく忙しいので話は後にしてほしいんですが」
「ご、ごめん。ウエッジなら鉄仮面のスリットの部分狙えるかな」
「ああ、目をつぶすんですか? まあやってみる価値はありますね」
指から血が流れるほど矢を撃っていたウエッジはいら立ちの声で答えたが、アベルの言葉に目を細めて巨人が被っている鉄仮面を眺めると、だいぶ少なくなった矢筒の中から矢を四本取り出して、巨人が被っている鉄仮面、そのスリットの部分めがけてまず二本、それからわずかに時間をおいて同じ場所に二本立て続けに撃った。かつて帝国軍近衛師団弓兵大隊に所属し、一流のスナイパーといわれながら事情により軍を抜けた彼にしかできない芸当である。最初の二本は巨人が振るった腕に払われたが、次の二本はシュッと夜の闇の中を風を切って飛び、見事にスリットの中に入った。だがその矢じりが眼球を傷つけることはなかった。どういうわけか、カンっと小さな音を立ててスリットの中から落ちていったのである。
「駄目・・・・・・ですね。おそらくスリットの中を、目を守るため鉄か何かで塞いでいるのでしょう。さすがに全部塞いでしまうと見えませんから、網目状にしているのではないですか? 多少の隙間はありそうですが、矢を通すほどではないでしょう」
「そう。ねぇクレア、二つほど確認したいことがあるんだけどいいかい? まずクレアから見て、巨人の被っているあの鉄仮面、簡単に脱げそうかな。それとクレアの槍なら、巨人の肌を貫いて心臓まで届くかい?」
「一つ目の問いに対する答えは“無理”だ。首の部分が鬱血しているが、あれは小さな鉄仮面を無理やり被っているため首の肉を締め付けているせいだろう。数人がかりで壊すように外さない限り脱げることはない。そして二つ目の問いだが・・・・・・正直やってみないと分からん。お爺様なら素手であっても肌の上から一撃で巨人の心臓を破壊できるだろうが、私は巨人が無防備の時、この黒鋼の槍を渾身の力で突き刺すことで、ギリギリできるかできないかといったところだな。何かいい策でも思いついたのか?」
「うん、まあ上手くいくんじゃないかなって程度だけどね。さて・・・・・・これより隊を二つに分ける!! 足の速い人からから八名は僕と共に巨人に接近戦を仕掛けるから、できるだけ身軽な格好になって。他の皆はそのまま弓を撃ち続けるように。それからコールとそこの二人、ちょっとこっちに来てくれる?」
「は、はい。何でしょう隊長」
「何ですかい、隊長さん」
「・・・・・・」
自分の命令で足の速い衛兵たちが準備を始めるのを見た後、先ほどまで自分と共に武器庫から補充の矢を取り出していたコールとその近くにいる二人の衛兵に声をかけると、アベルは三人の耳に何やら耳打ちをした。
「・・・・・・ってわけなんだけど、お願いできるかな」
「は、はい。私の方は大丈夫ですけど」
「なるほど・・・・・・まあこっちも任せてください。何とか間に合うと思います」
「うん、じゃあコールはウエッジと協力してお願いね。他の二人もなるべく急いでほしい。それからクレア、この作戦の要は君だ。頼んだよ」
「ああ、任せておけ」
アベルがコール達に作戦を説明し終えてクレアに声をかけると、その間に準備をしていたのだろう、先ほどまで使っていた弓を置き、愛用の黒鋼の槍を構えると、クレアはそっと目を閉じ静かに呼吸を始めた。
「隊長、準備できましたっ!!」
「よし、では行くよ皆、あの巨人を存分に引っ掻き回してやろうっ!!」
「「「了解っ!!」」」
「おやおや」
アベルの号令に力強く返事をして、足の速い衛兵が八名彼と共に巨人に向かっていく。こちらに走ってくる彼らを見下ろすと、男は仮面の中でせせら笑った。
「少しは賢いと思いましたが、過大評価でしたか。まさか自暴自棄に向かってくるとは・・・・・・いいでしょう。目的はあの女ただ一人ですが降りかかる火の粉は払わなければなりません。それほどまでに死を望むのであれば、拳で叩き潰されるかそれとも足で踏みつぶされるか、好きなほうを選ばせてあげましょう」
男が巨人の首を軽く叩くと、巨人は自分に向かってくるアベル達を見下ろし、左腕をゆっくりと挙げた。顔よりはるかに小さい仮面を被せられ、さらに目を守るためにスリットの中に鉄を網目状に入れているためかなり視界が悪いが、直撃せずともかすっただけで、それどころか近くにいるだけで衝撃で相手は吹き飛ぶ。そのため巨人がすることは、振り上げた拳を地面に叩きつけるだけでよかった。
「散開っ!! 頭上に注意してっ!!」
そしてそのことはアベルにも重々分かっていた。頭を挙げて巨人が拳を振り上げたことを確認した彼が腰に差した細剣を引き抜いて叫ぶと、彼と共に巨人に向かっていた八人の衛兵はパッと敵の周囲に散らばったが、その直後、巨人の振り上げた拳が衛兵の近くの地面に叩き込まれた。
「ぐわっ!?」
「く・・・・・・このっ!!」
直撃は受けなかったものの、衝撃で衛兵が弾き飛ばされる。それにとどめを刺そうと右足を挙げた巨人を見て地面についている左足に近付くと、アベルは足首めがけて渾身の力を込めて細剣を突き刺した。彼の持っている細剣は片刃で、切ることもできるが彼のような非力な者でも扱うことができるように剣身が細く作られており、本来はこのように突き刺して使うのだが、渾身の力で突き刺したというのに切っ先が僅かに硬いゴムのような皮膚を貫き、巨人の肉を刺しただけだった。それでも虫に噛まれた程度には痛みを感じたのだろう、巨人は仮面の下でアベルをじろりと睨むと、衛兵を踏み潰そうと上げていた右足を彼の上に移動させ、一気に振り下ろした。
「く・・・・・・うわっ!?」
「ちょ、大丈夫ですか分隊長っ!!」
「う、うん。ありがとう、僕よりさっき吹き飛んだ人の救助をお願い。他の皆は引き続き巨人を引き付けておいて。けど絶対に無理はしないように。相手の攻撃を避ける事だけを考えてっ!!」
アベルは巨人の振り下ろされた足を何とか避けるが、近くの地面に巨人の足がめり込んだ衝撃で片膝をついた。近くにいた衛兵が助けようと駆けよってきたが、その衛兵に先ほど吹き飛ばされた衛兵の救助を頼むと、彼は右手に持った細剣を見下ろした。支給されて間もないその剣は、だが半ばからぽっきりと折れてしまっている。これでは、また副団長に叱られるなと苦笑しながら立ち上がった。そんな彼の前では、逃げ続ける衛兵に焦らされた巨人が、鬱憤を晴らすためか地団太を始めていた。
「ふむ、僅かな痛みを与え続けて巨人を疲れさせ、自警団の到着を待つ作戦ですか。なかなか考えました・・・・・・といいたいところですが、巨人の体力はほぼ無尽蔵です。あなた方の体力のほうが先に尽きると思いますがねぇ」
男の言う通りだった。弓を放っている衛兵たちは遠くにいるためあまり影響はないが、巨人の近くにいたアベル達のうち、さらに二人の衛兵が吹き飛ばされた。しかもそのうちの一人は引き飛ばされた時に武器庫として使っていた納屋の角に左足を強打し、起きる気配はなかった。さらに足踏みを止めた巨人が、拳を振り下ろすのではなく地面を薙ぎ払う攻撃に切り替えたことで、逃れようとした衛兵のうち二人がついに背中に攻撃を受けた。幸い速度が遅かったことと、直撃ではなくかすっただけのため死んではいないが、そのうちの一人は背中が不自然に曲がっている。早急に処置をしなければ命に係わるほどの重傷だ。さらに悪いことに、動ける人数はアベルを含めて四人だけである。しかも彼らは満身創痍で、もう一歩も動けそうになかった。
「おやおや、もう立っているのもやっとという状態ではないですか。よろしい、今楽にして差し上げましょう」
動かない彼らを見て仮面の中で冷笑を浮かべる男を肩に乗せ、巨人は両方の拳を合わせ、ゆっくりと空に向けた。巨人自身ちょこまかと逃げまどい虫が噛んだような痛みを与えてくる彼らに、いい加減苛立っていたのだ。自分が両腕を挙げたのを見て、彼らの中央にいる、虫のように小柄な男が諦めたかのように両膝をつく。それを一撃で粉砕しようと、さらに両腕を伸ばした時、
両目に突然襲ってきた熱さと激痛で、巨人は何も見えなくなった。
「な・・・・・・なんなんだこれは」
「・・・・・・どうやら、上手くいったようだね」
「隊長、今のうちにこっちに来てください。皆、隊長を連れてきてっ!!」
両目に襲い掛かるあまりの激痛にもがき苦しみ、辺り構わず暴れまくる巨人の肩から飛び退き、倒壊した詰所の僅かに残った屋根に降りた男が呆然と呟くと、自分の作戦が成功したのを悟ってほっと息を吐いたアベルは、ただでさえ常人より少ない体力を巨人との戦闘で大量に失ったためか、ふらりと体を揺らすとそのまま後ろに倒れこんだ。後方にいたコールがそれを見て叫ぶと、両脇にいた衛兵が慌てて彼を支え、そのまま弓を放っている衛兵のところまで引きずっていった。
「・・・・・・やあコール、ただいま」
「何がただいまですかっ!! 隊長、お願いですからもう無茶しないでくださいっ!!」
「ご、ごめんコール、謝るから泣かないで。そうだね、ちょっと無理しすぎたかな。けど、皆を死地に向かわせるんだ。僕だけ後方にいるわけにはいかないよ・・・・・・そうそう、改めて礼を言うよコール、それからウエッジも。巨人があんな状態になっているのは君たちのおかげだよ」
「お礼の言葉はまだ早いですよ隊長、まだ奴を仕留めてないんですから」
「そうですっ!! ちょっと失礼しますね、傷の具合を見ますので・・・・・・って、隊長、胸当てがかなりへこんでいるじゃないですかっ!!」
アベルの言葉通り、巨人が苦しんでいるのはコールとウエッジのおかげだった。先ほどウエッジが放った矢がスリットの中に入ったのに巨人の目に届かなかったのを見たことと、巨人の襲撃が興る前眠っている衛兵を起こすためにコールが使用した黒唐辛子がまだ残っているのではないかと考えたアベルの脳裏に今回の作戦、すなわち僅かに衝撃がかかっただけで簡単にほどける袋の中に黒唐辛子の粉末を大量に入れ、それを矢の先端に括り付け、隊の中で一番弓の扱いが上手いウエッジに頼んで巨人のスリットの中めがけて射ってもらったのだ。この作戦は成功する確率が極めて低かった。まずコールが黒唐辛子を持っていなければならなかったし、夜の闇の中、巨人のスリットの中に矢を命中させられるだけの腕前の者がいなければならない。しかも巨人は頭に向かってくる矢は腕で払っていたため、何とか腕を使わせる必要があった。そのためにアベル達が接近戦を挑んだのだが、その成果はというと巨人が我を忘れているという事は、目論見通りスリットの中の網目状の鉄に矢が当たり、その衝撃で袋がほどけ、中に入っていた大量の黒唐辛子が巨人の目を焼いたのだろう。
「あはは、ちょっと胸が苦しいけど、大丈夫。怪我なんてしてないよ」
「胸当てがこんなに潰れているんですよ、そんなわけないでしょうっ!!」
多少医術の心得がアルコールは、彼が身に着けている大きく潰れた胸当ての留め具を小型のナイフで切って外し、その下に着込んでいる騎士に支給される黒い戦闘用の服の胸元を切り開くと、戸惑うことなくその中をまさぐった。大きな痣はあるものの、その部分に触れてもアベルは特に痛がったりはしなかった。
「よかった、本当になんともないようですね・・・・・・駄目ですよ隊長。もう少し体力をつけておかないと。そうだ、隊長も黒唐辛子を食べますか? 少しなら疲労回復にいいんですよ」
「い、いや、遠慮して「隊長、お待たせしましたぁっ!!」・・・・・・よかった、間に合ったようだね」
心配させたことに対する仕返しのつもりか、顔いっぱいの笑みを浮かべて黒唐辛子が入った袋を見せるコールと、まだ痛みと熱さに暴れまわる巨人を見て顔をひきつらせた時、背後の闇から馬のいななきと、それに乗った男の声が響いた。
「ホース、ライドっ!! よかった、ちょうどいいタイミングだよ」
体力がまだ戻ってきてないのか、弱々しく手を振る彼の下に馬に乗ってやってきたのは二人の衛兵だった。黒毛の大きな馬に乗り、大柄な体格と濃い髭を蓄えているのがビックスの班に所属するホースという衛兵で、彼の隣で茶色い毛の馬を器用に操っている細身ながらホースよりも背の高い衛兵がライドである。ホースは元々馬を使って物資の輸送を行う一種の馬借をしていたのだが、蒸気馬車が開発されて馬借の需要がなくなり、安酒場でくすぶっていた時に知り合いのビックスに誘われて衛兵になった男で、ライドの方はというと帝都とその周辺の出身ではなく、中央平原より遥か北に広がる北方平原の高原地帯に住む遊牧民の生まれで、年老いた両親とまだ小さな弟妹を養うために帝都に出稼ぎに来たものの、盗賊団にそうとは知らずに仲間になったのだが、この盗賊団が女子供問わず皆殺しにする残酷極まりない集団であることに気付いたため夜の闇に紛れてアジトから逃げ出したところ、ちょうど裏路地にいたアベルに出会い、盗賊団の逮捕に協力、そのことが縁になって彼の部下になった過去を持つ。そんな彼らの腕には、それぞれ大人の胴回りほどの太さをした縄の端が巻かれていた。
「そいつはよかった。後は俺たちに任せて休んでくだせぇ。行くぞライド」
「・・・・・・了解」
体格に見合った豪放な性格をしているホースがガハハッと笑うと、それに続いて無口でほとんど表情を変えることのないホースが微かに頷いた。この二人は正反対の性格をしているが、意外と馬が合う。そのため普段は農耕馬として貸している馬の世話や伝令などを二人一組になってやっていた。
ホースの声に頷くと、ライドは自分の身体に巨大な縄を巻き付けた。それを見て、ホースも同じように縄を巻き付けると巨人めがけて馬を飛ばした。左右から巨人を挟むように駆ける馬の間にはピンと張った縄があり、二頭の馬が巨人の脇を駆け抜けると、縄は巨人のすねに思いっきりぶち当たった。
「ぐっ、こりゃ大物だ。行くぜ・・・・・・せえのっ!!」
「・・・・・・っ!!」
巻き付いている縄のせいで身体が持っていかれそうになるのに必死に耐えながら、ホースとライドは馬を全力で前に走らせた。途端に縄がぶちぶちという嫌な音を立てるが、元々森に生えている古い巨大な樹を何本もまとめて運ぶための縄である。完全に千切れたりはせず、二人が操る馬が前に進むたび巨人はバランスを崩し、とうとう巨大な音を立てて仰向けに倒れた。
「クレア、今だっ!!」
「・・・・・・・・・・・・ああっ!!」
巨人が仰向けに倒れたのを見て、アベルが槍を構えて精神を研ぎ澄ませていたクレアの名を叫ぶと、彼女はカッと目を見開き巨人ではなく武器庫になっている納屋へと駆けだした。壁を蹴って屋根まで上がり、そこから巨人めがけて跳躍すると、その胸に黒鋼で出来た槍を渾身の力で突き刺した。
「はぁあああああっ!!」
いくら硬いと皮膚といっても、さすがに鋼は防げなかったようだ。クレアの叫びと共に槍は巨人の胸を貫いていく。しかし、血しぶきが飛び散り巨人の絶叫が周囲に飛び散る中、槍の動きはいきなり止まった。皮膚も肉も貫いたのだが、鉄ほどに硬い巨人の肋骨に阻まれたのである。
「ぐ・・・・・・うっ」
「クレア、こっちに下がってっ!! 巨人が仮面を外そうとしているっ!!」
作戦の失敗を悟ったのか、遠くで自分を呼ぶアベルの声が聞こえる。彼の言う通り、巨人は胸から大量の血を流しながらも、自分の頭部には小さすぎる仮面を、首の肉ごと外そうとしていた。巨体に違わず無尽蔵の体力と強い再生能力を持っている種族だ。首の肉が多少抉れても問題はないのだろう。もし仮面を外すのに成功したら、次はこんな目に合わせた自分たちに復讐しようとするに違いない。作戦が失敗した以上、彼の言う通り下がるのが得策だろう。だが
「作戦が・・・・・・失敗する? ウエッジやコール、ホースやライド、他の皆だけでなく、アベルでさえふらふらになりながら自分の役目を立派に果たしたんだぞ。なのに、なのに寄りにもよって一番重要なところを任された私のせいで作戦が失敗するだと!?」
自分に降り注ぐ赤黒い血のせいか、それとも悔しさで知らず知らずのうちに涙を浮かべたせいか、滲む視界の中、クレアはふと、幼少のころ祖父と話したことを思い出していた。
「おいクレア、お前さん、相変わらず武器に使われてんな」
「武器に使われている・・・・・・ですか?」
その日、ナイトロード流槍術の幼少部の試合で優勝したクレアが屋敷の庭で堅い木で作られた練習用の槍を使って鍛錬をしていると、この屋敷の主人であり、ナイトロード侯領を治める侯爵であり、さらにはナイトロード流武術の総主であり、そして自分の祖父でもあるレオンハルト・フォン・ナイトロードが声をかけてきた。彼の言葉にムッとしつつ、彼がいる庭に備え付けられたガゼボ(東屋の事)に近付き向かい側に座った。すでに千八百歳を過ぎた祖父は、筋骨隆々とした体格はさすがに失ったものの、痩せ衰えたというよりは柳の葉のようにしなやかな身体つきになっていた。また、若いころの獣のようなどう猛さは年齢を重ねるごとに鳴りを潜め、両目に宿る光は、武術の頂点に立つものにふさわしく威厳に満ちあふれていた。
もっとも、口の悪いのは相変らずだけど
「で、ですがお爺様、私は今日行われた槍術の試合で優勝しましたっ!!」
「そりゃしなきゃおかしいだろう。お前は俺の孫だからな。他の餓鬼共より鍛錬している期間が長い。加えて侯爵家の令嬢だからな。皆遠慮して本来の力を発揮できなかったのさ」
「な・・・・・・て、訂正してくださいお爺様っ!! 私は鍛錬の時も試合の時も、相手には絶対に手加減するなと言っていますっ!!」
「おめぇが手加減するなと言っても、ガキ共の親が言うんだろうよ、あの方はご領主様のお孫様だ、かすり傷一つ負わせるんじゃねえぞってな。その証拠にクレア、おめぇは今日の試合でかすり傷の一つでも受けたか?」
「・・・・・・・・・・・・して、いません」
「そうだろうな。クレア、はっきりと言ってやる。おめぇの槍は、実戦では何の役にも立たねぇ。所詮“ままごと”なんだよ」
「・・・・・・」
長い沈黙の後、絞り出すようにようやく答えたクレアであったが、さらなる追い打ちをかけられて涙目になって押し黙った。だが、追い打ちをかけたレオンハルトの方は内心でほっとしていた。彼女の腕前は実際にはままごとどころではない。並の兵なら五十人分に匹敵する腕前だ。兵十人に匹敵する騎士ならば五人と同時に戦って勝てるだろう。いまだ幼い身でありながらこれほどの実力を持っているならば、成長すれば武術に置いて一つの頂に達することができるかもしれない。それは帝国武術の総本山であるナイトロード家にとって一つの悲願と言ってもよかったが、総主であるレオンハルトは複雑な気持ちであった。理由はただ一つ、彼の長女でありまたクレアの母親でもあるシレーヌの事である。幼少のころから武芸に対して娘であるクレア同様、否それ以上の実力者であった彼女は、広く自由な世界にあこがれて外に飛び出したのだが、戻ってきた時は腹を大きく膨らませていた。こうなれば外に出すことができず、今は離れで静かに暮らしている。そんな母として子供にも会うことのできない女としての苦しみを味わってほしくない、女としての幸せをつかんでほしい。それが、レオンハルトのただ一つの望みであった。
「・・・・・・なら」
「あん?」
「なら、どうすれば“ままごと”から抜け出せますか?」
「おめぇ・・・・・・」
顔を挙げたクレアの言葉に、レオンハルトは傍若無人な彼にしては珍しく、呆然として孫娘を見た。
「確かに、私の武術はお爺様から見ればままごとなのかもしれません。ですが、私は私は本気で、武術で身を立てたいのですっ!! どうすれば先に進めるか、道をお示しください、お爺様っ!!」
「・・・・・・」
泣きたいのを必死に我慢しながら叫んだ孫娘が己の発言を撤回するのを待っていたレオンハルトは、だがクレアの真剣な表情を見て覆すのは無理だと悟ったのか、やがて小さく息を吐いた。
「・・・・・・殺しに慣れろ」
「え? 殺しに、ですか?」
自分の祖父が喉まで出かかった制止の言葉を、奥歯を強く噛むことで何とか押し止めながら呟いた言葉を聞き、クレアは両目を数度瞬かせた。
「ああ、最近巷で活人剣やらなにやらが持て囃されているが、俺に言わせりゃそんな物は、すべて金が欲しい奴が流す嘘っぱちよ。武術とは等しく相手を殺すために習う物だ。いくら綺麗ごとを並べても、殺人剣であることに変わりはない。クレア、最後にもう一度だけ確認する。お前は本当にそんな修羅の道を歩みたいのか? 自分が殺した相手の血と汚物、絶望と苦悶で塗装された道を」
祖父のほとんど脅すような最後の問いを聞き、クレアは体を強張らせて暫く瞑目していたが、やがて微かに、だがはっきりと首を縦に振った。
「分かった、なら今日限りで道場はやめてもらう。代わりにそこのお岩を、一日一万回鉄棍で叩け、むろん全力でだ。それと並行して一日一回、生き物を殺してもらう。まずは夕飯用の動物、最初は鶏から始めても
らうぞ。次に羊、豚、牛と来て、それが終わったら縛った狼を相手にしてもらう。その次は中庭で、縄を解いた狼だ。殺すことに段々慣れていったら、次はいよいよ人の番だ。まずは死体、次は死刑囚、最後には捕らえた盗賊や山賊の相手をしてもらう・・・・・・言っておくが、一言でも泣き言がその口から飛び出したら、その時点で修行は終わりだ。こちらで選んだ婚約者と結婚してもらう。その代わり、俺が言ったことを全部やったら、まあ」
これぐらいはできるだろうよ
レオンハルトが言ったその瞬間、ここから優に十メイル以上離れている大岩に一本の棒が根元まで突き刺さった。口を開けて大岩を呆然と眺めるクレアの目に、先ほど彼女が使っていた練習用の槍が映る。だが彼女にはわからなかった。祖父がいつ、自分の横にあった練習用の槍を取り、あの岩に投げつけたのか、そして、いくら重くて頑丈だといっても、それでも木製の槍で、どうやって大人数人が手をつないでやっと囲めるほどの大きさを持った大岩に音もなく突き刺すことができたのか、その時の彼女には全く分からず、ただ茫然と、茶をすする祖父を見つめるしかなかった。
「それからは大変だった。大岩を一日一万回も叩くと、まめができるどころか皮が破れて肉が避け、その中にある骨まで見える始末だ。しかもその後に生き物を殺させられるんだからな。豚や牛はともかく、狼を相手にしたときはこちらの攻撃は軽く避けられるわ、集団を相手にした時など相手の動きに振り回されてあちこち噛まれるわで・・・・・・しかもそれが終わったら人が相手だ。何せ喋るからな、命乞いなどされてやりにくいことこの上なかった」
当時の事を脳裏に思い浮かべると、クレアは両目に溜まった涙を左腕でごしごしと乱暴に擦り、僅かに赤く染まった眼でもがき苦しむ巨人を見下ろすと、野獣のように獰猛な笑みをうかべた。
「それに比べればこの程度・・・・・・苦境のうちにも入らんっ!!」
笑みを浮かべたまま吐き捨てると、クレアは鉄のブーツをはいた右足で、巨人の胸に半ば埋まっている槍の柄の先端を渾身の力を込めて踏みつけた。途端にバキリと音がして右足に激痛が走る。恐らく折れたのだろう、だが彼女が踏みつけた槍は、突き刺さっていた巨人の肋骨を砕き、彼女が今度は両手で柄を握ってさらに押し込むと、肋骨の中にある巨人の心臓に深々と突き刺さった。巨人は一度大きく絶叫を挙げて仮面を外そうとしていた手を天高く伸ばして震わせると、次の瞬間その手をだらりと地面に落とした。巨人が完全に事切れたのを確認すると、クレアは一度大きく息を吐き、地面にゆっくりと倒れこんだ。
「クレアッ!!」
「ん・・・・・・アベルか」
だが、クレアの身体に地面に衝突した痛みは襲ってこなかった。彼女がぶつかる寸前、駆け寄ったアベルがその身を彼女と地面の間に滑り込ませ、その身体を受け止めたのである。
「お疲れ様。大丈夫かい、クレア」
「ああ・・・・・・と言いたいところだが、右足の感覚がない。どうやら折れたようだ。それに槍も“おしゃか”だろう。気に入っていたのだがな・・・・・・まあいい、少し眠る。後は任せたぞ」
「うん、ゆっくり休んで」
自分の膝に頭を乗せて目を閉じた少女の、血に濡れた金色の髪を優しくなぜながら、アベルは先ほどクレアが殺した巨人を眺め、ふと思った。
これからは、クレアをあまり怒らせないようにしよう、と。
「隊長、どちらですか、隊長っ!!」
「・・・・・・ん? コールか。こっちだよコールっ!!」
アベルがクレアの髪を撫ぜていると、背後の暗闇から自分の名を呼ぶ少女の声が聞こえてきた。こちらの位置を知らせるために叫ぶと、すぐにどたばたと足音がし、闇の中から念のため退避させていたコールやウエッジ、その他見知った部下の姿が現れた。
「すいません隊長、私達だけ先に退避してしまって」
「謝る必要はないよコール、そう指示したのは僕なんだからね。それより、先ほどの戦闘で負傷者はどれぐらい出た?」
「は、はい。重傷者が四・・・・・・いえ、副長を入れて五名ですね。後は軽症の者が十名ほど、無傷なのは私とウエッジさん、他数名です」
「隊員の半数以上が負傷、か。倒壊した家屋の事も考えると、頭が痛くなってくるよ」
「はい。ですが巨人を倒すことはできましたし、残っているのは戦闘能力の低い相手だけです。勝利は間近だと思いますが」
「いや・・・・・・気を抜くのはまだ早いよ。相手が本当に負けたと思っているなら、巨人が生きてるときに撤退しているはずだ。それをしていないという事は、まだ何か策があるという事だからね」
「そうですね。皆、矢はまだ残っているか?」
「はい、何本か残っていますっ!!」
アベルの言葉にもっともだと頷くと、ウエッジは倒壊した家屋の上に立ち、“奴隷”である巨人の死体を眺めている仮面の男に矢を向けた。
パチ、パチパチ、パチパチパチパチッ
「なっ!?」
だが、矢を向けられている男から聞こえてきたのは、悲鳴でも命乞いでもなく、大きな拍手であった。
「いやぁ、お見事でした。標準サイズより劣っている体格の“うすのろ”といえど巨人は巨人、自分達より何倍も身長があり、無尽蔵の体力を持つ敵をこうも簡単に殺すとは・・・・・・正直言って感服いたしました」
「・・・・・・簡単ではありませんでしたし、死者が出てもおかしくはありませんでした。第一」
厚い雲の隙間から笑う紫色に光る三日月が覗く下、今まで死闘を繰り広げた相手を嘲笑しながら拍手をする男を、膝の上に頭を乗せたクレアを隣にいるコールに任せて立ち上がったアベルは、温厚な彼にしては珍しく怒りとわずかな憎悪を込めて睨みつけた。
「第一あなたがここに連れてこなければ、僕たちは戦わずに済み、巨人は死なずに済んだ・・・・・・あなたを集落及び騎士団所有建物襲撃、帝国憲法で禁止されている奴隷売買、および殺人未遂の現行犯で逮捕しますっ!!」
彼の言葉に、弓を構えているウエッジの近くで無傷の衛兵や、比較的軽傷で済んだ衛兵が武器を構えて男にじりじりと近づく。
「く・・・・・・くくっ、くぁっはははははっ!!」
「テメエッ、何がおかしいっ!!」
武器を向けられ、それでも笑い声をあげた男をホースが睨みつける。その刺すような視線を受け、拍手を止めた男は胸に右手を当て、ゆっくりと一礼した。
「いや、これは失礼。あなた方がすでに勝った気でいるのが最高におかしかったもので」
「どういうことだよそれ・・・・・・まさか、まだ巨人がいるっていうのか!?」
「いや、それはないよ。もし複数いるのなら最初から出てきているはずだし、第一中央平原、少なくとも帝都とその周辺に複数の巨人を連れてくるのは難しい。数千年前、巨人族に寄る帝都襲撃事件があったらしいからね。だいたいこの大きさだ、禁止されている巨人がいれば、それだけで大変な騒ぎになる。恐らく一名連れてくるのが精いっぱいだったはずだ」
「ご推察の通りです。ご安心ください、私が連れてきたのはこの一頭だけですよ。なにせ巨人という物は奴隷の中でも高価な代物ですからね。いくら援助があるとはいえ、一頭買うのが限界なのです」
「・・・・・・なら、おとなしく投降されたほうがいいんじゃないですか?」
「例え敵であっても礼節を忘れることのない貴方の態度には感服いたしますよアベル隊長。ですが腐った大樹に寄り添う接ぎ木をすべて切り倒すまで、我々は敗れるわけにはいかぬのです・・・・・・いい機会です、自己紹介でもさせていただきましょうか」
アベルに穏やかな笑みを向けながら、男は懐に手をやり紫色をした液体を取り出した。
「私は復讐集団“黒き戦斧”の三大幹部が一人、“屍使い”アルファと申します。以後、お見知りおきを」
「・・・・・・屍使い? まさかっ、やめろっ!!」
アルファと名乗った男の言葉にアベルが顔を青ざめた時である。瓶の蓋を親指で器用に開けると、アルファと名乗った男はその中身、即ち紫色の液体をすでに事切れている巨人に振りまいた。
「クリスタルまで昇りし魂よ、我が邪法によりて今一度地に落ち、死した肉体に宿り不死となって蘇らん・・・・・・“魂よ、穢れたまえ”」
アベルの制止の声が夜の闇に響く中、巻かれた液体が巨人の巨躯に吸い込まれていく。そして、瓶の中身がすべて巨人の中に吸収された時、
完全に事切れているはずの巨人の指が、ピクリと動いた。
「し、屍使いって、確かグールパウダーとかいう粉末を使って死者を蘇らせて操るっていう、邪教徒じゃないですかっ!!」
「・・・・・・・・・・・・ああ、他の宗教や文化に寛容なアスタリウス教が、いけにえを捧げる宗教と共に邪教として認定し、弾圧する数少ない例外の一つだな」
紫に変色した肌をした巨人がゆっくりと立ち上がるのを見たコールが震えるその膝の上で、この騒動で眠りから覚めたのかそもそも眠っていなかったのか、若干青ざめた顔でクレアが目を開いた。立ち上がった巨人の胸、心臓の部分に自分が先ほど突き刺した愛用の黒鋼の槍が落ちていくのが見える。槍は先端が完全につぶれてひしゃげていた。もう武器として使うのは不可能だろう。
「ふ、副長、実は私今まで不死者にあったことがないんですけど、どれぐらい強いんでしょうか」
「私も過去に数回遭遇したことがあるぐらいだが、かなり厄介だ。確かに思考能力は皆無だし、戦闘能力も生前のものとほとんど変わることはない。だが斬っても叩きのめしても何も感じないかのように向かってくるし、猛毒の体液を垂れ流すからな。はっきり言ってやってられん」
クレアの言葉通り、槍が刺さっていた巨人の胸からは毒々しい色をした体液がしたたり落ちていた。その体液が付着した倒壊した家屋から散らばった木材がしゅうしゅうと音を立てて溶けていくのを見て、コールはヒュッと息を呑んだ。
「えと、た、倒せるんですよね」
「準備をしっかりとしておけばな。さっきも言ったが、不死者というのは思考能力が皆無だから、動きはかなり鈍い。一番確実なのは、鈍器を使って腰骨を砕いて動けなくしてから油をかけて火で燃やし尽くす。ここまでやってやっと倒せるんだ・・・・・・だが巨躯を持つ巨人がそのまま不死者になったんだ。生半可な火では通用しないだろう」
クレアの言う通りだった。彼女の視線の先では、ウエッジを始めとした衛兵たちが篝火の火を利用して矢に火をつけ、それを巨人に放つが、まったく効いていないようだ。そのうち巨人は先ほどと同じようにアルファを肩に乗せ、向きを変えてのろのろと集落の中心部に向かって歩いていき、ホースたちと何事か話していたアベルも、最後にこちらを見た後心配させないように笑いかけてから、巨人の後を追いかけていった」
「えと・・・・・・もしかして私達、見捨てられたんですか?」
「そんなわけあるか馬鹿者・・・・・・しかしアルファとか言ったか、知恵者を気取っているようだが、襲撃した集落にアベルがいることすら知らんとはな。無能極まる」
「え? あの副長、どうして隊長がいることが、相手が無能なことに繋がるんですか?」
「・・・・・・そういえば、お前はまだ不死者と対峙した際のアベルを見たことがなかったな。アベルは不死者を、というよりも死者を蘇らせて使役する屍使いを蛇蝎のごとく嫌悪している。あの心優しいというよりは甘い男が、一切の慈悲を見せずに殺すほどにな。奴は巨人であろうと不死者と化したならどんな手を使っても必ず倒し、あのアルファとかいう屍使いは間違いなく殺すだろう。私たちが懸念する必要はないという事だ・・・・・・さて、休憩は終わりだ。コール、軽傷者のうち動ける奴を集めろ」
「は、はい。それは構いませんが、何をするんですか?」
「そんなことは決まっている、この騒ぎで今朝方捕らえた襲撃者たちが逃げ出すかもしれん。特にあのイワンとかいう馬鹿者は要注意だ。確認し、必要なら容赦せず叩きのめす。お前にも手伝ってもらうぞ」
どこか不安げなコールの問いに答えるように、彼女を安心させるためか、それともさらに不安にさせるためか、彼女の膝に頭を乗せたままそう言うと、クレアは獰猛な笑みを浮かべた。
「駄目です隊長、あの“デカブツ”、火矢がほとんど効きませんっ!!」
時間は少し遡る
不死溶かした巨人が起き上がるのを見たウエッジは、それを防ぐため火をつけた矢じりを巨人めがけて放った。彼は今まで不死者と対峙したのは軍に所属していた一度しかない。だがそのたった一度の戦闘で、彼は不死者の厄介さを嫌というほど思い知らされた。何せ死んだ肉体に汚した魂を入れているため、倒すには完全に叩き潰すか、灰となるまで燃やすかのどちらかしかないのだ。
「ですがこれほどの巨体では完全に叩き潰すのも、そして焼き尽くすのも不可能・・・・・・どうします、隊長」
矢を射ながら、彼はこの場で唯一、この巨大な不死者を倒せる手段を思いつきそうな自分の上官に目を向けた。だが、頼みの綱であるはずのアベルは、ただ茫然と不死者溶かした巨人を眺めているだけだった。
「・・・・・・ホース、隊長の様子がおかしいんだが」
「そりゃおかしくもなりますよウエッジさん、巨人だけでも厄介なのに、それがさらにゾンビになっちまったんだ。気の弱い隊長なら、呆けてもしょうがないでしょう。待っていてください、今俺とライドで何とかもう一度あいつを転ばせてみますんで・・・・・・うおっ!?」
太い縄を括り付けた馬の手綱を引いたホースが、巨人に近付こうとした時である。クレアが突き刺した槍が抜けた穴から、紫色に変色した巨人の体液がホースのすぐ前に落ちている駐屯所の壁だった石材にこぼれ落ちた。体液が付着した石材が、しゅうしゅうと強烈な臭気をまき散らして溶けていくのを見て、豪胆なホースもさすがにうわずった声を出した。
「こいつの体液猛毒だっ!! 迂闊に近寄れねえぞっ!!」
「隊長、どうすればいいんですか? 指示をください・・・・・・隊長っ!!」
悲鳴を上げたホースのすぐ横で、いつも無口なライドが珍しく大声を上げてアベルの肩を揺さぶっていた。
「・・・・・・・・・・・・いち、ど」
「・・・・・・隊長?」
ライドに肩を揺すられていたアベルは、それでもつかの間呆然としていたが、ふと小さくつぶやいた。
「一度死んだ者は絶対に蘇ってははならない、蘇らせてはならない。それは生者と死者、両方に対しての冒涜だ。そうだろ・・・・・・ん」
そして彼は、左目から一筋だけ透明な雫を流すと、目を閉じて大きく顔を横に振った。
「ごめんライド、心配かけた」
「い、いえ・・・・・・それより、大丈夫ですか?」
「ん? ああ、大丈夫だよ。それよりも今はあの巨人を何とかしないとね・・・・・・命令っ!!」
次に目を開けた時、泣いたためか、それとも怒りによるものか、アベルの両目はまるで血のように赤く染まっていた。
「これより不死者と化した巨人の殲滅作戦を開始する。まずは自警団と合流するため、街の中央にある広場に後退しつつ散発的に攻撃をして巨人を誘導する。ホース、ライド。君たちは先行してグレイプリーさんに僕たちと巨人が行くことを伝えてくれ」
「・・・・・・は? あの隊長、確かに自分たちの数では太刀打ちできませんから自警団と合流するのは賛成なんですが。巨人を誘導するとなると奴の向かう先にある建物がただじゃすみませんよ? グレイプリー会長、怒るところじゃないと思うんですが」
「しょうがないじゃないか、さっきの巨人戦では助けに来てくれなかったんだから。“少しぐらい”の損害は被ってもらわないとね。それと負傷した人はここに置いていく。彼らの標的は僕たちじゃないから、逃げれば彼らは放っておかれるはずだ・・・・・・さあ、きびきび動いてっ!!」
「・・・・・・ああもう、どうなっても知りませんからねっ!! 会長殿にはあとで隊長の方から謝っといてくださいよ、行くぞライド」
「・・・・・・了解」
戸惑いの表情を浮かべたホースが、それでも同僚のライドと共に馬を操って集落の中へ駆け出していく。それを見送り、アベルは傍らに落ちていた誰の者とも知らぬ剣を拾い上げると、こちらを不安げに眺める部下を見渡した。
「これより集落に後退しつつ、弓兵隊を中心に遅滞戦闘を開始、巨人を集落への中心に誘導する!!」
「分かりましたっ!! 皆、聞いたな。このまま巨人に矢を浴びせつつ後退するっ」
命令を聞いたウエッジが、数人の部下と共に矢を放ちつつじりじりと集落の中心に向けて後退していく。それを確認してから、クレアたち負傷者の方に振り返り安心させるように笑いかけると、アベルもウエッジに続いて駆け出していった。
「おやおや逃げますか、まあいいでしょう。私の目的は彼らではありませんからね。邪魔をしないというのであれば放っておいてあげましょう。さあ、行きますよ」
アベル達が逃げ出したのを見て仮面の中で冷笑を浮かべると、男は周囲を腐らせる体液を流しながらぼんやりとその場に立ち止まっている巨人を移動させるためにその首元を蹴った。しかしかなり強めに蹴ったいうのに、巨人はその場に立ち止まっているだけである。
「・・・・・・不死者というのは、どうも魯鈍でいけませんねぇ。一度死んだため痛覚がないからですが、それはこれからの課題という事にしておきましょう。まあ、明け方までには目的を達成できますからいいのですが」
何度か蹴り飛ばし、それでも動かない巨人に業を煮やした男が手に持った斧を何度か首筋に叩きつけると、痛みというよりもその衝撃に反応したのか、巨人はようやくアベル達が逃げ出した方向、即ち集落の中心に向けてゆっくりと歩き出した。
「来たぞ、射撃開始っ!!」
「ふむ、迎撃ですか。無駄なことを」
それから三十分ほど後、周囲の建物を破壊しながら集落の中心地に向け歩みを進める巨人は苛烈な迎撃を受けていた。近くの建物の屋根や陰から、百を優に超す火矢が巨人に向かって飛んでくる。だがその攻撃も、巨人の歩みを僅かに遅らせるだけで、完全に止めるまでにはなっていなかった。中には銃を撃ってくる者もいたが、巨人に命中した弾はその腐った肉の中にめり込むだけだった。
「銃ですか、生きていればそれなりに効果はあったでしょうが、不死者と化した巨人には何の痛痒も与えることはできません。物資と労力、二つの意味で無駄という物です」
不死者と化して思考能力がなくなっても、身体がわずかに覚えているのだろう。前に進み続ける巨人は、自分に向かってくる矢や銃弾を払いのけるように時折緩慢な動作で両腕を振り回す。そのたびに周囲の建物が破壊されていくのを、巨人を操る男は仮面の下で冷めた表情で眺めていた。
「・・・・・・足止めにもならない攻撃を繰り返し、結果として被害を増大させていく。私の目的はあくまでも一人だけだというのに、愚かとしか言いようがありませんね」
巨人の振るった腕が石造りの家屋を直撃し、壁として使って石材が巨人の体液でドロドロになっていくのを冷笑を浮かべながら眺めていた時である。目的の場所まであとおよそ半分という場所に来た時、不意に前方から赤い煙が立ち上った。それを見て巨人の迎撃に当たっていた男の一人がサッと右手を挙げると、最後にこちらに向かって矢や銃弾を放ってから、それまで迎撃にの任務に就いていた者たち、すなわち無傷でいた数名の衛兵とその三倍はいるであろう自警団の団員たちは、皆そろって巨人に背を向けて四方に逃げていった。
「ようやく逃げますか。賢明な判断と言いたいところですが随分と遅かったですねぇ。まあ凡人だから仕方ないのですが・・・・・・さあ。目的まであと少し、日が明けるのも近いですし、さっさと終わらせてしまいましょう」
肩に乗る男の声が聞こえたのか、それとも歩くという行為は覚えているのか、巨人は周囲に体液をまき散らしながら、ゆっくりと前に進んでいった。
巨人が集落の中心にある広場に到着したのは、それから三十分ほど後の事だった。すでに黒鳥城の頂にあるクリスタルが微かな光を放ち始めているが、周囲はまだ暗く広場を囲むように火が焚かれている。その篝火の光に照らされ、数十人ほどの男達が弓や銃をもって巨人を待ち構えていた。
だが、巨人の肩に乗る男の目に彼らは映っていなかった。彼の目に映っている者、それは広場を挟んで自分の正面に立つ、左右に自警団の団長を務めるシリエラと、帝都から派遣された黒羊騎士団の分隊を率いる分隊長であるアベルを従えた、黒紫商会の会長にしてこの集落を実質的に支配しているグレイプリーただ一人であった。
「ああ、ああっ! ああああっ!! この日をどんなに待ち望んでいたことかっ!! 会いたかった、会いたかったですよグレイプリーさんっ!!」
「・・・・・・ああそう」
喜びのあまり両手で身体を掻き抱き震える男とは対照的に、グレイプリーはどこか疲れたような、うんざりした表情で彼を見上げた。そのことにいささか気分を害しつつ、男は巨人の肩の上で転げ落ちんばかりに身を乗り出した。
「おや、どうしたのですか? 今日は記念すべき日なのですよ、泣き叫び、地に頭をこすりつけて命乞いしてください。そうでないと盛り上がらないじゃないですか!!」
「そう・・・・・・“どうでもいいわ”」
「どうでもいい? どうでもいいと言いましたか!? 腐った大樹に底知れぬ憎悪を燃やす我々の復讐を、どうでもいいと!?」
「ええ、心底どうでもいいわ。あのね、私が今まで一体どれだけの暗殺者に狙われたと思ってるの。集落の利権を狙う商人や、なんだか知らないけど義憤にかられた貴族や騎士が送り込んだ暗殺者の数は千を超すわ。それを私は雇った相手ごと叩き潰してきた。そんな私にとっては貴方は・・・・・・下から数えたほうが早い小者ね」
「小者・・・・・・小者ですかっ!! だがその小者に今からあなたは殺されるっ!! いけ、あの女を叩き殺せっ!!」
「・・・・・・ああ、やっぱりどうしようもない小者ね。だから」
自分の言葉に激昂し、巨人を前に進ませる男を見て、グレイプリーが心底どうでもよさそうに呟いた時、
ズッ
「なっ!?」
「だから、こんな単純な罠にも気づかない」
広場の中に一歩足を踏み出した巨人の身体は、いきなり沈み込んだ。
「くそ、いつの間にこんな大穴をっ!!」
巨人の巨体の実に二倍以上はある大穴の底で、巨人の肩にしがみつきかろうじて落下しするのを防いだ男は、暗闇の中、篝火に照らされた顔でこちらを面倒そうに見下ろすグレイプリーを、両目を憎悪でギラギラと光らせて見上げた。
「いつの間にって・・・・・・貴方がこちらに来ている間に決まっているでしょう」
「だ・・・・・・だが、いくら何でも一時間かそこらでこれだけの大穴を、しかも男手の半分が我々の迎撃に当たっている状態でだ。しかも“地表部分を残して掘る”など、どう考えても不可能だろうっ!!」
「そこで答えに行きつかないのが、貴方が単なる“凡人”である証拠よ。ところで暢気に話していていいのかしら? 私ならすぐに穴から出ようとするのだけれど・・・・・・もっとももう終わりだけれどね」
「終わりですって!? 馬鹿にするのもいい加減にしろ、こんな穴すぐに抜け出して・・・・・・なんだこれは?」
「・・・・・・言ったでしょう? もう貴方は終わりなの。そうでしょう、アベル」
「ええ、その通りです」
二十メイルほどの深さの穴に落ち、それでも男は諦めずに巨人を這い上がらせようとしたが、立ち上がった巨人は、次の瞬間ずるりと滑り落ちた。理由はすぐに分かった。穴の中には、巨人の膝までたっぷりと油が浮かんでいたのだ。
「これは・・・・・・貴方の策ですかっ!!」
まるで沼のような油に足を取られて滑り続ける巨人の肩にしがみつきながら、男はいつの間にかグレイプリーの隣で心の底から悲痛な表情を浮かべているアベルを見やった。
「策というほどのものではありません・・・・・・僕は不死者を、そして何より死者の眠りを妨げその魂を汚し、使役する屍使いを絶対に許しません。確かに僕は腕力も体力もないし、特別な能力なんて元々持っていない。でも、他の人と同じように考えることはできます。弱い自分でも不死者を倒せるようにするにはどうすればいいか考えて考えて必死に考え抜いて、何とかたどり着いたのがこの方法です」
悲痛な表情のまま、アベルは右手をサッと挙げた。すると自警団に所属する男達が二人一組となり樽を持ち、中身を大穴の中に注ぎ込んだ。べったりとして強い臭気を放つそれは、足下に溜まっている液体と同じ油だった。
「うぐ、ま、まさかこの後は」
「ふん、ようやくわかったようだな。弓隊火矢を準備・・・・・・狙う必要はない、撃てっ!!」
油を注がれ、これから何が起こるのか悟ったのだろう、男が仮面の中で顔を蒼ざめると、いつの間にかアベルの隣に来ていたシリエラの命令で弓を持っている男達が火矢を構え、大穴の中に発射した。別に巨人を狙う必要はない。そんなことをしなくとも、大穴に溜まった油に命中すれば一気に燃え上がるのだ。そして狙い通り、油に火が付き、穴の中は一瞬で燃え上がった。
「うわ、うわぁああああああっ・・・・・・あ?」
瞬く間に巨人にを包み込んだ炎が肩にいる男にまで燃え移ろうとしたちょうどその時、男は自分の身体が、空中に浮きあがるのを感じた。
「あれは・・・・・・」
「弓隊・・・・・・く、間に合わないか。銃を持っている者は奴を撃ち落とせっ!!」
「あらあら」
地獄の大釜のように燃え続ける穴の中から上空に飛び上がる男を、アベルとシリエラ、そしてグレイプリーは三者三葉の表情で眺めた。アベルは呆然と、シリエラは怒りで顔を赤くし部下に命令を出し、そしてグレイプリーは苦笑して見送った。シリエラの命令に応え、銃をもって近くの家の屋根に上っていた男が、慌てて狙いを定めようとした。だが、
「おっと、さすがに銃はいかんの」
だが、暗い夜の闇の中で狙いを付けるのが難しいのか、何とか狙いを定めようと四苦八苦している男の足下に空から無数の銃弾が撃ち込まれ、男は倒壊した屋根と一緒に家の中に落ちていった。
「あれは飛行船・・・・・・しかも装甲船っ!?」
「まったく、あんな物までもっているなんて・・・・・・随分と裕福な支援者がいるようね」
大穴の中でまったく衰えることのない炎に照らし出された、夜の闇に潜ませるためか船体がすべて黒く染まった飛行船を見て、アベルは驚きの声を上げた。一年前に開発されたばかりの船体を鋼鉄で完全に覆った装甲船は、帝国でもそのほとんどが軍で管理されており、後は皇帝であるパールの専用艦と上級の騎士団の騎士団長用に少数が配備されているだけであり、その数は三十隻に満たない。テロや戦争に使われることを恐れた元老院の命令で、専用の工廠以外での製造が固く禁じられているためだ。露呈すれば、たとえ公爵クラスであっても反乱を疑われて処刑される。
「まったく、とんだドジを踏んだものね“アルファ”。あんたのせいで、私達は貴重な戦力を一つ失ったのよ?」
「ほっほっほ、そう言ってやるな“ガンマ”よ。気が急いての独断行動は誰にでもある物。しかしなアルファ、おぬしは本来裏方。危ない真似はしてくれるなよ?」
「す、すいません、“ベータ”、“ガンマ”」
飛行船の船首に備え付けられたアンカーの先についている杭に繋がれて飛行船まで“飛んできた”男は、自分と同じく仮面を被ている二人の同胞にすまなそうに謝罪した。彼の前にいる二人のうち、一人は筋骨たくましいがもはや老齢であろう白髪の男で、両腕には見たこともないような巨大な銃を持っている。彼の隣にいるのは、随分と露出度が高い黒いドレスを着た女だ。そのドレスによく似た艶やかな長い黒髪をもっているが、仮面には男達と同じ怒りの表情が刻まれていた。
「・・・・・・あなた方も“黒き戦斧”とやらですか」
「さよう、儂はベータ。黒き戦斧の戦闘隊長じゃ」
「・・・・・・同じくガンマ。この装甲巡空艦“ブラックアクス”の艦長よ」
「そして私が参謀役のアルファです。さてベータ、ガンマ。仕切り直しと行きましょうか」
「いや、それは無理じゃ。どうやら勘付かれたらしい」
「・・・・・・なるほど、これが本当の狙いでしたか」
アンカーから降りた自分の言葉に、老翁が首を振って帝都の方を指さした方を見て、アルファは地上にいる怨敵を見下ろした。大穴の中で燃え盛る炎が見えたのだろう、光を放ち始めたクリスタルとは別に、帝都は眩いばかりの灯に包まれ、さらに帝都上空には四大騎士団の一つであり、帝都の防空を一手に担っている黒翼騎士団に配備されている高速装甲巡空艦“スワロー”が二隻、専用の飛行場から離陸したのが見えた。
「ふん、どうやら時間切れのようね。“ブラックアクス”は速度に優れた艦だけど、さすがに“スワロー”相手じゃ分が悪い。このまま逃げるわよ・・・・・・まったく、だから言ったのよ。巨人なんか使わず、最初からこの艦を使って空中楼閣を砲撃すればいいって」
「それでは被害が大きすぎます。我らの目的はあくまで一人、他の方々を殺傷するのは極力避けるべきです」
「ふん、そのせいで失敗したら、元も子もないじゃないの!!」
「いい加減にせぬか、二人とも」
「・・・・・・そうね、艦を退避させるよう、指示を出してくるわ」
言い争いを始めた仲間を見て、老翁は呆れたように叱咤した。年長者の言葉には素直に従うのか、ガンマが艦の中に入ってすぐに、黒い巡空艦は艦首を帝都とは逆の方角に向けた。
「く、逃がすかっ!!」
「あ、待ってシリエラさんっ」
先ほど屋根から落下した男を助けに行っていたシリエラが、落ちていた銃を拾い意趣返しと言わんばかりに艦に銃口を向けた。だが
「ほっほう、甘いのう」
「きゃっ!?」
こちらを狙う銃口に気づいたのか、老翁が右手に持っている巨大な銃をシリエラに向けて撃った。銃口から無数の銃弾が飛び出し、シリエラの前の地面を抉って砂埃を巻き起こす。その砂埃にまみれ、シリエラは思わず銃を手放してしまった。
「あれって・・・・・・もしかして自動回転銃?」
老翁が発射した、一分間に三百発もの銃弾を発射可能な巨大な銃の名を、アベルは呆然と呟いた。だがそれであるはずがない。なぜなら“褥”の中でセフィリアに聞いた話によると、本来飛行船に設置する兵器であるそれは、まだ帝国総合研究所で“開発中”なのだ。
「さて、それでは今宵はこれで失礼させていただきます、我らが怨敵殿。せいぜいその首を、我らに断たれる綺麗にしておいてください」
最後に負け惜しみともとれる言葉を口にし、いまだ燃え広がる大穴の近くにいるグレイプリーとアベルに向かって一礼するアルファ達を乗せ、黒き戦斧所属の巡空艦は、クリスタルが放ち始めた光を避けるように、闇の中へとその姿を消していった。
「愚か者っ!!」
「・・・・・・・っ」
その日の朝の事である。帝国軍元帥にして東部方面軍司令長官、“東方元帥”の異名を持つマクバードの右腕と噂される帝国軍中将、東の要であるガストレイル要塞の副司令を務め、さらに軍の特別犯罪捜査部隊司令を務めるオーダインは、黒鳥城にある執務室で副官であるメリア上級大佐を睨みつけていた。
「私がガストレイル要塞に出向していた十日の間、貴官らは何をしていた? 真実かどうかもわからない情報に踊らされ、“夜鷹”ふぜいの正体を知るために躍起になっていたのか? その結果がこれだ」
直立不動の姿勢を崩さない部下の前で、オーダインは執務机に一枚の紙を放り投げた。それは帝都新聞発行の新聞で、一面にデカデカと集落を襲う巨人と、中央で発生した巨大な炎の事がかかれている。
「本来帝都近郊に巨人族はいないことになっている。しかも巨人が目撃されたのと同じ日に、集落で巨大な火災と上空を飛ぶ正体不明の飛行船が目撃されている。さらにこの新聞の見出しには、特別犯罪捜査部隊をあげつらう内容がかかれている。“特捜”は惰眠を貪っているだけなのか? となっ!!」
「・・・・・・申し訳ございません。すべて私の責任です」
「当然だ。だがそれを責めて終わりにできることでもない。メリア大佐、貴官はこれより部隊を率いて事件の発生した集落に急行し全容を把握、集落で確保されている犯罪者を引き取りに向かえ。必要な書類はこちらで用意しておく、飛行船の使用を許可する。処罰の内容は、その時の働きを見て決めさせてもらう」
「はっ!! 寛大なご処置ありがとうございます。ただいまより任務を遂行いたします」
厳しい表情を解かない上官にさっと敬礼すると、メリアはこちらに背を向け扉から廊下に出ていった。それを見送ったオーダインが、ほっと息を吐いて机の上にある紅茶に手を伸ばした時である。
『・・・・・・随分と、甘い処置ですな』
「貴様か」
彼の背後から微かに男の声がした。座っている椅子の背後には外と中を隔てる壁しかなく、壁と椅子の間もほとんどないといっていい。だがオーダインは全く驚くことなく、そしてほとんど聞こえないその声に振り返ることもなかった。
『確かに彼の“女狐”にしてやられたとはいえ、彼女自身の責任も重いのではないですかな? 降格か・・・・・・あるいは解雇など、何らかの処罰が必要かと存じますが』
「彼女は貴族をだいぶ恨んでいるからな。彼らを出し抜けるチャンスが目の前に転がってきたとなれば罠にはまるのも仕方なかろう。まあ、命令されたことを着実にこなせる能力があるから今のところ手放すつもりはない・・・・・・それより何のようだ、接触は最低限にするつもりではなかったのか? それとも、貴様の雇い主に何か命じられてきたのか」
『これはこれは、随分な言い方。あなたが若年でありながら中将まで上り詰められたのは、我が主の口添えがあったからですよ。どうかくれぐれもお忘れなく』
「分かっている。だからこそ今までも貴様等の頼みを聞いてやってきたではないか。それに今回の件についても、すでに準備は終えている・・・・・・む?」
オーダインが姿の見えない何者かと話していると、ふとクリスタルの光が途絶えた。立ち上がって窓から外を見ると、特別犯罪捜査部隊所属の半装甲飛行船が二隻、離陸準備に入っているのが見えた。
『随分と急ぎますな・・・・・・よいですか、主が貴方様を支援しているのは利があるからです。そのことをお忘れなさいませぬよう』
「・・・・・・言われずとも分かっている」
『そうですか、なら結構です・・・・・・ああ、そういえば今回の件であなた方の評判が多少低下しましたね。よろしい、こちらで掴んでいる情報を一つお教えいたしましょう。以前質問がありました、“奴ら”のグループの一つの居場所が判明いたしました』
「奴ら・・・・・・革命団とやらか。分かった、詳しく聞こう」
飛行船が飛び去り、再びクリスタルの光が差し込んだというのに、どこか暗く感じる部屋の中、オーダインは姿の見えぬ男の報告を、静かに聞き入っていた。
集落に臨まぬ来客があったのは、昼時を少し回った時だった。
クリスタルから発せられる光が輝きを増し始め、空が乳白色に染まる中、夜に集落を襲った巨人との戦闘で被った被害を聞いたアベルは、先ほど食べた昼食を吐き出すかと思うほどげっそりと息を吐いた。それほどまでに集落が、そして分隊が被った被害が大きかったためである。奇跡的なことに死者は出ていない。だが事前に集落から非難させていた住民や水を運んできてくれた獣人達に怪我はなかったが、自警団の中には負傷した者が多数いる他、巨人が集落の中心にある広場まで歩いてきた道の両脇にある家屋はほとんど倒壊している。だがそれでも巨人と直接戦った分隊と比べると軽微だと言わざるを得ないだろう。アベルとクレア、そしてコールを始めとした分隊に所属する二十名の衛兵のほとんどが負傷、その中で特に重傷を負った者はクレアを始めとして帝都にある黒羊騎士団が契約している病院に朝のうちに搬送されたが、そのうちもう衛兵の仕事を続けられないほどの重傷を負い、今も目が覚めない重体者は五名もいた。さらにはこれまで詰め所として使っていた建物は全壊しており、今のままでは分隊として機能することは不可能だろう。それでも今日はグレイプリーの屋敷を詰め所代わりに使わせてもらい、午前中のうちに帝都の病院から戻ってきたビックスをリーダーとして、他の比較的軽傷だった衛兵たちで、何とか集落の巡回を行ってもらっていた。
「随分とひどい状況ね」
「ええ、死者が出なかったのが不思議なくらいです・・・・・・最初から助けに来てくれたら、もっと結果が変わっていたと思いますけど」
手伝いに来てくれた集落の男衆や、昨日来た獣人達と共に全壊した詰所の瓦礫を片付けているアベルに声をかけてきたものがいた。昨晩の騒動の原因と言ってもいい人物、グレイプリーである。
「それはごめんなさい。けれど逆に考えてみて? あの時広場で待機していたからこそ不死者と化した巨人を迅速に倒すことができたのよ・・・・・・まあ、これは結果論ね。今回の襲撃で出た被害は、すべて私が補填させていただきます、もちろん衛兵を続けられなくなった方々に対しても、こちらで生活を保障させていただくわ。それと新しい詰め所ができるまでは、私の屋敷をそのまま詰め所として使ってちょうだい」
「お心遣いありがとうございます。すいません、愚痴をこぼしたりして・・・・・・そうだ、話は変わるんですが、僕はこれから帝都に向かいます。昨日捕縛した容疑者達を帝都にある黒羊騎士団本部まで輸送しなければなりませんので」
「そう、分かったわ・・・・・・ところで人手は足りているのかしら。それと、帝都までの輸送手段はちゃんと確保してる?」
「ええ、朝ホースに頼んで早馬を出してもらったので、そろそろ帝都から迎えが来るはずなんですが「隊長っ!!」ああ、来たようです・・・・・・ね?」
グレイプリーと話しつつ集落の中心にある広場、明け方に巨人を燃やし尽くした広場まで歩いていたアベルの耳に、帝都まで行ってもらったホースの声が響いた。頼んでいた応援は来たのかな、そう思いながら帝都の方を見たアベルの目に、こちらに向かって帝都から飛んでくる飛行船の姿が映った。鈍色をした鉄に覆われた船主には、囲む炎からクリスタルを守るように二つの手が描かれている。大きさは駆逐艦ほどだが、船全体に針ネズミのように火砲が搭載していた。
「あれは・・・・・・特別犯罪捜査部隊の飛行船!? なぜ彼らがここに」
「・・・・・・あらあら、ようやく来たのね」
「えと、グレイプリーさん、何か知って・・・・・・うわっ!?」
グレイプリーが呟いた言葉に首をひねりながら聞き返そうとした時である。二隻のうち、着陸しようと高度を下げた一隻の生み出す風に煽られた砂をもろにかぶり、アベルは思わずせき込んでしまった。その間にそう大きくない飛行船は広場になんなく着陸すると、船体の横にある出入り口が横に開きし、中から昨年軍に配備されたばかりの三輪軽装甲車と、それを囲むように武装した十数名の兵士が出てきた。兵士達は飛行船から降りると周囲に散らばり、手に持った銃を構え周囲を油断なく見張る。それまで穏やかな空気が流れていた集落は、いつしか緊迫した雰囲気に包まれていた。周囲に問題がないことを確認したのか、武装した兵士の一人がサッと右手を挙げる。すると飛行船の中から四人の武装した士官と、彼らに守られた軍の上級士官ようの軍服を着た浅黒い肌をした女が出てきた。彼女は呆然としているアベルとその隣にいるグレイプリーを素早く見咎めると、左手に紙を持ったままつかつかと二人のほうに歩き、数歩先で立ち止まってから、右手を軍帽の脇に添えて敬礼した。
「突然の来訪失礼します、貴女がこちらの集落の最高責任者でしょうか?」
「はい、この集落の長であるグレイプリーと申します。お初にお目にかかりますわ・・・・・・メリア上級大佐様」
「・・・・・・名と階級を名乗った覚えはありませんが」
「ふふ、胸元に名札が付けっぱなしですわよ。どうやら随分急いでこられたようですけれど、いったいどのようなご用件でしょうか」
「・・・・・・御見それいたしました。我々が今回こちらに伺ったのは、早朝こちらの集落で発生した火災についてです。集落で捜査を行う許可と、捜査への協力をお願いしたいのですが」
「そう、火災について・・・・・・でも」
内心はどうあれ、素直に感服したメリアを見て微笑を浮かべたグレイプリーは、だがふるふると首を横にに振った。
「勘違いさせて申し訳ないけれど、あれは焚火なの。井戸が使えなくなりましたので、別の集落から水を購入したのだけれど、それを運んできてくれた人々を招いて広場で宴会をしたときに焚いたもので、火災とかではないわ」
「では集落のこの惨状についてはどうお答えされるのですか!?」
はぐらかすような彼女の言葉にさすがにむっと来たのか、メリアの言葉に少々怒気が混ざった。それを聞き、彼女の隣にいる士官の背負った小銃がかちゃりとなった。
「ああ、これですか? 宴会の熱気に誘われたのか“ちょっと”大きな方が混ざろうと来られまして、もちろん丁重にお断りして去っていただきましたわ。けれどおかしいですわねぇ、私も帝国市民。帝都の近くに大きな方がいていい事にはなっていなかったように思いますが・・・・・・それで? ほかに何かありますでしょうか?」
「・・・・・・匿名の情報によると、井戸が使えなくなったのは人死にが出たためという事ですが、犯人はもう捕らえられたのですか?」
「もちろんですとも。先ほど話したちょっと大きな方のせいで駐留されている騎士団の方々の詰め所が壊れましたので、私の屋敷に隣接する倉庫に捕らえていますわ。もちろん常時見張りがいますので、逃亡される心配はありません」
「そうですか・・・・・・先に言っておきますが、放火犯や井戸に毒を投げ込むなどのテロリストは我々に尋問の優先権があります。引き渡していただけますね?」
「え? ちょ、ちょっと待ってください」
「・・・・・・貴官は?」
メリア大佐の、半ば確認するような言葉に、それまで黙って二人の会話を聞いていたアベルは思わず口をはさんだ。
「も、申し遅れました。ぼ・・・・・・自分はこの集落の治安維持のために帝都から派遣された、黒羊騎士団団長直轄分隊の分隊長をしているアベルと申します。確か捜査の優先権は、捕らえた側・・・・・・今回の場合黒羊騎士団にあると考えてますが」
「アベル? ああ・・・・・・貴官が」
突然会話に割って入った青年を見てメリアが不愉快そうに眉を顰めると、彼女の隣に立っていた兵士が素早く耳打ちした。それでこちらの正体が分かったのだろう、微かに眉を顰めると、彼女は左手に持っていた紙をアベルに差し出した。
「こちらは特別犯罪捜査部隊指揮官マクバード中将、そして総代騎士クリスティア様連印の命令書になります。これを持っているという事は、即ち捜査及び犯人尋問の優先権は我々にあるという事です。お判りいただけますね」
「・・・・・・・・・・・・はい、分かりました」
「よろしい、それではグレイプリー殿、犯人を収容している倉庫まで案内していただきましょう」
「はいはい、分かりました。こちらです、大佐殿」
長い沈黙の後、微かに頷いた自分を見て満足そうに頷いたメリアや彼女の部下の兵士と共に、グレイプリーはイワンを含めた数名が収容されている倉庫に向かって歩き出した。俯くアベルにとって救いだったのは、彼女がすれ違いざま、小さくごめんなさいと謝罪をしてくれたことだろう。彼女の謝罪の言葉に小さく頷くと、先に歩き出したグレイプリー達を追うように、ゆっくりと歩き出した。
「では、この者達はこちらで連行させていただきます」
「分かりました。それでは帝都まで彼らをよろしくお願いします」
それから数分後、グレイプリーの屋敷に隣接する倉庫から手を拘束された男達が部下の兵士に両腕を抑えられて飛行船まで連行されるのを見届けたメリアは、アベルの敬礼に笑みを浮かべることなくさっと軽く返礼すると、そのまま部下達と共に飛行船の止めている広場まで歩き去っていった。やがて、広場の方から爆音が響き、メリア達を乗せた飛行船が浮かび上がると、そのまま帝都に向けもう一隻の飛行船と共に飛び去って行った。
「あの・・・・・・大丈夫ですか、隊長」
「ん、大丈夫だよビックス・・・・・・まあ正直、これで肩の荷が下りたってところかな」
メリア達を見送り、疲れたように大きな息を吐いたアベルを見て、集落の巡回を終えたビックスが声をかけてきた。いつも豪快な彼が心配するほど疲れた顔をしていたのだろう、誤魔化すように咳ばらいをしつつ、アベルは彼と共に間借りしているグレイプリーの屋敷へと入っていった。
それからは特に問題はなかった。集落の巡回を終えたビックス達と共にがれきの撤去などをしていると、クリスタルの光はだんだんと弱まっていき、アベルがふと顔を上げると、周囲はすでに夕刻となっていた。
「・・・・・・ああ、もうこんな時間か。ビックス、今日の作業はおしまい。皆にもそう伝えて」
「了解っす。おぉい、今日の作業は終了っ!! 各自道具の点検を忘れるな」
アベルに言われたビックスが、大声で作業の終了を告げると、衛兵や集落の男衆、獣人達が顔を上げ、長時間の作業で痛んだのか、皆そろって腰を伸ばした。
「所で分隊長、今夜どうですか? 久しぶりに」
「久しぶりにって・・・・・・ああ、酒場に行くのかい? ごめん、今日はちょっと“バイト”なんだ」
アベルが男達が道具を倉庫に戻すのをぼんやりと眺めていると、隣にいるビックスが片手を握って口に運ぶ動作をした。飲みに行こうという誘いである。アベルは酒が嫌いではないため、よく彼やほかの部下と共に酒場に行くが、最近は火事や何だで忙しくいく暇がなかった。そのため誘ってくれるのは嬉しいが、残念なことに今日は先約があった。
「バイト・・・・・・ああ、“あれ”ですか。まったく、同じ男からしてみれば羨ましいというか同情するというか、まあがんばってきてください」
「うん、ごめんね、せっかく誘ってくれたのに。これ、少しだけど皆で飲む酒代の足しにして」
「や、これはどうもすいやせん、確かにお預かりいたします」
誘ってくれたビックスに申し訳なさそうに謝ると、アベルは懐から財布を取り出し、中から数枚の銅貨を取り出して彼に渡した。それを押し頂くと、最後に一礼したビックスは、道具を片付けて戻ってきた男達と共に酒場に向かって歩いて行った。
それを微笑して見送るアベルの脳裏で、何かの歯車がカチリと動いた。
その建物は、集落の北のはずれにあった。
集落の他の建物と違ってかなり古ぼけており、木造の壁は所々腐食し、茅葺の屋根は半分ほどが風で吹き飛ばされたのかなくなっている。その廃屋と言っても過言ではない建物の前に、クリスタルの光がほとんど消えた逢魔が時、アベルは、否、アベルの姿形をした“彼女”はやってきた。
「・・・・・・」
その“彼女”は、しばらく廃墟同然の建物を眺めていたが、やがて小さく首を振るとその建物に近付いた。中に通じる扉の脇には、見張りである複眼種と呼ばれる獣人の一種である百目族の女が、体中に付けた目で退屈そうに本を読んでいた。
「ちょっと遅刻だよ」
「・・・・・・」
「だんまりかい・・・・・・ふん、相変わらず無愛想だねぇ。旦那とは大違いだ」
本を読んでいる目とは別の目で彼女が来るのを見たのか、女が少々咎めるように言った言葉に彼女は無言で返した。それを見て、女は少々皮肉気に呟いた。百目族は体中にびっしりと生やした目のせいか他の獣人族からも気味悪がられてあまり良い職に就けない。見張りをしている彼女も以前は集落で人の秘密をその百個の目で覗き見て、それをネタに脅して金品を奪っていたのをアベルに逮捕されたという過去を持つ。その時偶然にもアベルが彼女に“変わってしまった”ため、口封じの意味も兼ねてここで見張りの仕事をグレイプリーに命じられた。もちろん“彼女”の正体を発しないように、グレイプリーにより体内に仕掛けを施されており、もし何か話そうとしたその瞬間、女の身体は爆散するようになっている。まあ、それさえしなければ給金は高いし、他の待遇もよいから彼女は満足してはいたが。
「ま、早く入りなよ。いつも通り着替えて、早く姐さんの屋敷に行きな」
「・・・・・・」
結局、“彼女”は女の言葉に一言も発することなく、小屋の中へと消えていった。
その部屋は、小屋の地下にあった。部屋の中は薄暗く、中にあるのは大きなベッドとその横にあるタンスと小物入れだけである。薄暗い中服を脱ぎタンスに近付くと、下着の身になった彼女はタンスを開け、中から夜の闇に溶け込めるように、鎖帷子の上に薄い黒色の獣の剛毛をなめした革を張った服を取り出し身にまとうと、服の傍らに置いてあるベルトを手に取り腰に巻き付け、さらにタンスの中に手を伸ばしかけたところでふと手を止めた。本来其処にあるべきものが今はなくなっているためである。代わりに其処にあったのは豹の顔を模した仮面だった。
「・・・・・・舞踏会に行くわけじゃないんだぞ」
仮面を手に取り、部屋に入って初めて声を出すと、彼女は顔の上半分を覆う大きさをした票の仮面を付けた。耳に引っ掛けて固定させるその仮面は、目の部分がちょうど穴になっており、本来の仮面同様に視界に問題はない。呆れたように頭を振ると、今度はタンスの脇にある小物入れに近付き、一段目の引き戸を開けた。中には鞘に入ったままの短剣が一本入っている。それを取り出し、柄を握って鞘から引き抜き刃の状態を確かめると、若干顔を顰めながらもベルトに差し、小物入れの二段目を開け、忌々しげに舌打ちした。なぜならそこには、携行している武器の一つである龍のそれを思わせる鉤爪が、どこにもなかったためである。
「百目の仕業か? いや、奴が何かしたとなるとすでにこの世にはいないはずだ。となると腹黒女の仕業か・・・・・・まあ、短剣はともかく爪の方は私と気づくものもいるだろうから仕方がないかもしれんがな」
少々乱暴に引き出しを閉めると、アベルの格好をした彼女、現在貴族街で皇帝に弓引くことをたくらむ貴族を次々に暗殺している筆頭執政官セフィリア子飼いの暗殺者である夜鷹は、豹の仮面の下でい顔を怒りに歪ませると部屋を後にした。
「おや、戻ってきたね・・・・・・へぇ、なかなか似合ってるじゃないか」
「・・・・・・」
「人をそう睨むんじゃないよ。言っとくけど、それを準備したのは姐さんだからね。それじゃあさっさと馬車亭に行きな、お待ちかねだよ」
小屋から出てきた夜鷹が仮面の下で自分を睨んでいるのも気にせず軽口を叩くと、見張り役である女は集落の方を指さした。クリスタルの光はすでになく、周囲にはすでに夜の帳が落ちている。黒一色の服を纏っているヨタカなら、確かに誰にも気づかれずに馬車亭まで行けるだろう。女に一言も話すことなく、“彼女”は周囲の闇に溶け込むように、小屋から離れていった。
「遅かったじゃない・・・・・・あら、似合ってるわよ」
それから数分後、誰にも見つからないように暗闇の中を通って馬車亭にたどり着いたヨタカは、停車している蒸気馬車に近付いた。馬車は黒く塗られており、扉のところには葡萄を模った紋章が描かれている。その紋章の前に立ち、無造作に扉を開けると、中で退屈そうに編み物をしていたグレイプリーは全く驚くことなく出迎えた。
「・・・・・・この意味不明な仮面は貴様の趣味か?」
「別に趣味というわけではないけれど、いつもの仮面よりはいいわね。だっていつもの仮面だと、すぐ“あなた”だと分かってしまうもの。さ、そろそろ行きましょうか」
その言葉に仮面の下で納得しかねる表情をした夜鷹であるが、それでも仕事は仕事だと己に納得させ、後ろ手で馬車の扉を閉めてグレイプリーの向かい側に座った。すると、二人の乗る蒸気馬車は運転するものもいないのに、ゆっくりと進み始めた。
「完全な自動馬車か。開発が噂されていたが、いつ出来上がった?」
「それは秘密。さすがに“切り札”の一つをおいそれと話すわけにはいかないもの」
それからしばらく、二人を乗せた馬車はガタゴトと音を立てながらゆっくりと街道を東に進んでいった。窓からは、帝都付近に点在する集落から漏れる灯がいくつも見えるが、それらはグレイプリーの支配している集落と比べて明らかに少なく、そして随分とか細く見えた。
「東に進んでいるな・・・・・・東部平原まで出るのか?」
「いいえ、あくまでも中央平原に力を持つ四者が集まるのだから、会合も中央平原で行うわ。まあ東寄りなのは間違っていないけど・・・・・・そろそろ“入りましょう”か」
ヨタカが発した質問にさりげなく応えると、グレイプリーは右手をサッと振った。その途端、外の景色が揺らぎ、次の瞬間、馬車の窓から見える景色は、先ほどとは打って変わって田園風景となっていた。
「・・・・・・空間を移動したか」
「ええ、少し遅れそうだったし、さすがに会合場所まで全部の道順を教えるわけにもいかないわ。さ、もうすぐ着くわよ」
グレイプリーの言う通り、それからしばらく街道を走っていた馬車はゆっくりと速度を落とし、ある館の前で停車した。周囲は鬱蒼とした森に囲まれているが、風に乗って微かに濃い水の匂いが漂ってくる。
「水の匂いが濃いな、近くに大きな湖でもあるのか。中方平原東部でこれほどの大きさを持った湖となると・・・・・・ここはカスピア湖の近くか?」
「ふふ、それはもちろん秘密よ」
カスピア湖というのは、中央平原の南東にある七王国の中で二番目に大きな湖である。全面積は二十平方マイルを超し、漁業が盛んで岸辺には大小の漁村や港が点在している。二人が馬車の中から見上げるこの館は、その湖の北西にある深い森のはずれにひっそりと建っていた。館のすぐ裏には、周囲を一望できる小高い丘がある。
「さて、そろそろ出ましょうか。他の三人はもう到着しているころでしょうし」
「それはかまわんが、私の獲物は短剣だけだ。これでは有事の際貴様を守り切れるかどうかはわからんぞ? もし危険が迫るようであれば、私は主を守ることを優先させてもらう」
「随分な言い方ね。でも確かに短剣一本で大立ち回りをしろというのは酷かしら・・・・・・ならこれを差し上げるわ、ちょうど“総研”からもらったの。護身用にどうぞって」
ヨタカの言葉に左の眉をピクリと動かしてから、グレイプリーは脇にあった小包を彼に差し出した。彼がその小包を開けると、中には先端に筒状の装置がつけられた、それでも手のひらにすっぽりと収まるほど小さな銃と、銃弾が入っている小袋だった。
「サプレッサー付きのデリンジャーか」
「ええ、私も使えない訳じゃなけど、貴方の“本来”のお仕事用にピッタリでしょう? それに小さいから、こういった会談の場所でも問題なく持ち込めるわ。ま、何もないとは思うけど、一応ね。じゃあ行きましょうか・・・・・・ああ、それと」
「それと・・・・・・なんだ?」
受け取ったデリンジャーとその弾を上着の内側に縫い付けられたポケットの中にしまうと、夜鷹は先に降りたグレイプリーの言葉に豹の仮面の中で顔を顰めながら馬車から降りた。そんな彼をいつの間にか付けた鳥の面の下で笑いながら、彼女は屋敷に向かって歩き出した。
「屋敷から無事に出たかったら、私から離れないことね」
「なるほど、迷宮回廊か」
グレイプリーと共に屋敷に入った途端、周囲の景色が歪んでいくのを見て、だが夜鷹は慌てずもせず納得したように微かに頷いた。迷宮回廊は空間を歪ませて侵入者を防ぐ魔術的な要素を持つ防衛装置だが、工業技術が急速に発達している現在においては廃れつつある技術の一つであり、黒鳥城など一部の重要拠点でしか見かけることはない。それがあるという事は、この館も重要拠点の一つという事なのだろう。そう思いながら、歪み捻じれていく空間の中を戸惑うことなく進むグレイプリーの後に続いてしばし歩くと、不意に左右にドアがいくつも並ぶ廊下に出た。
「さ、ここからはもう大丈夫。早くいきましょう」
「分かった。しかしこんな仕掛けがあるという事は、今回の会議に出る者達、貴様も含めてかなりの重要人物のようだな」
「あら、言ってなかったかしら」
護衛である彼女の言葉にグレイプリーは形の良い顎に人差し指を当て、しばし考え込んでいたが、やがてゆっくりと頷いた。
「まあいいわ、歩きながら少し説明しましょう。今夜の会談に来る私を含めた四人は、中央平原に多大な影響力を持ち、平原にすむ人々の暮らしを支えているの。ま、私たちの支持にたいてい従ってくれるから、平原を支配しているといっても過言ではないわね」
話しながら廊下を歩いていくと、すぐ突き当りにたどり着いた。彼ら目の前には、見事なバラの彫刻が施された扉がある。グレイプリーが獅子の頭を模ったドアノッカーを持ち上げて軽く二度叩くと、扉が中から開き、燕尾服を着た猫人が顔をのぞかせた。
「お待ちしておりました、“大女将”様、皆さますでにお越しになっておられます」
「ありがとう、随分と待たせてしまったようね」
「いいえ、それほどでもありません。どうぞ護衛の方と共に中へお入りくださいませ」
「ええ。さ、入りましょうか」
髭の先が白くなっている、随分と老いた猫人の家令に微笑みながら頷くと、グレイプリーは部屋の中に入った。それに続いて夜鷹が中に入ると、部屋の中は随分と広く、様々な調度品に囲まれたその中央に大きな円形のテーブルが置いてあり、その四隅にある椅子のうち三つはすでに埋まっていた。
「お待たせいたしました皆様、遅れまして申し訳ございません」
「ほっほっほ。なに、構わんよ。娘の準備というのは、古来より長くなると決まっておるもんじゃ」
唯一空いている椅子の脇に立ち、グレイプリーが遅参したことを詫びると、彼女と向き合って座っている、薄汚れた白髪をして、顔に梟を模した仮面を被った小柄な老人がからからと笑った。腰が随分と曲がっていることから察するに、かなりの高齢のようだ
「けっ、娘という年でもあるまいに」
「それに今回の会談を発案したのは貴女だ。それが遅れるとは少々たるんでおられるのではないか?」
だが、左右の椅子に座る二人は辛らつな言葉を発した。左側にいるのは鉄を加工するときに飛び出す火花から顔を守るための分厚い面を顔に張り付けた、肩幅はだいぶ広いがグレイプリーの胸元にかろうじて届くぐらいの背しか持たない、声の調子から中年の男と思わしき人物で、反対側に座っているのは同じように鉄仮面を被ったがっしりとした体格の大男だった。
「“鍛冶頭”に“戦士長”よ、その辺にしておかんか。さ、座りなされ、“大女将”殿」
「それではお言葉に甘えさせていただきます、“ご老公”」
そんな二人をなだめつつ、着席を促す老人の声に応え、グレイプリーは開いていた椅子にゆっくりと腰かけた。すると入り口付近に控えていた先ほどの猫人が音もなくするりと隣に控え、いつの間にか持っていた盆の上にある、冷たい紅茶の入ったカップを彼女の目の前に置いた。
「あら、ありがとう」
礼を言ってカップに口を付けるグレイプリーの右後方に立ち、夜鷹は部屋の中を何気なく見渡した。椅子に座っている三人の後ろには自分と同じ護衛である顔を隠した者がそれぞれ控えているが、彼らを見ているうち、彼女はふと眉をひそめた。確かにご老公と呼ばれた老人や鍛冶頭と呼ばれる低い背をした男の後ろにいる護衛はなるほど、確かに何らかの武術を学んだ腕だと即座に判断できるが、戦士長と呼ばれた男の後ろに控えているのは、どんなに贔屓目に見ても完全な素人だった。身に着けている鉄仮面や全身を包む鎧は宝石や金で無駄に装飾がされており、まったく実用性がない。さらにその重さに負けているのか完全にふらついている。さらには目立ちたがり屋な性分なのか、落ち着きなく辺りをきょろきょろと見渡し、足で何度も床を叩くなど、まったく落ち着きがなかった。“あんなもの”で本当に護衛が務まるのか? そう思って視線をずらした時である。
「・・・・・・」
ある一点に目をやった時、彼女はすっと目を細めた。ここには招待された四名とその護衛しかいないはずである。だが其処には確かに何者かの気配がした。さすがに護衛対象であるグレイプリーに入ったほうが良いだろう、そう考えた夜鷹が口を開きかけた時、
「さて、此度の集まりは“大女将”殿が招集したのじゃったな。それで、どのような議題かの?」
「そうですわね、それでは発表させていただきます」
茶を飲み終えた老人の言葉にグレイプリーが応えたことで、開きかけた口を閉ざした。
そして彼女は、後にこのことを後悔することになる。
「今回皆様方に提案させていただきますのは来る三万年祭の際、中央平原住む六千万の住民全てを祭りの警備員として雇うことです。どうでしょうか皆様、とても魅力的な提案だと思うのですが」
「ふむ、確かに三万年祭では大変な混雑が予想される。帝都を守護する騎士や衛兵、軍だけでは到底人手が足りんだろう。ならば中央平原に住む民草を頼るのも無理はないか・・・・・・お二方はどう思う?」
「・・・・・・私は反対させていただきます。三万年祭まで日が無い。それに六千万全員を雇うとおっしゃいますが、中には老人や子供もいるのですよ。実際に犯罪があった場合、彼らに犯罪者を取り押さえろというのですか?」
「実際に取り押さえる必要はありません。常に複数で動いていただき、もし犯行を見かけた場合は近くにいる騎士や衛兵に知らせていただければ結構です。こちらとしては、彼らの動向を管理できさえすればそれでいいのです」
「だが中央平原がどれほど広いと思ってやがる、“端”の方に住む連中が帝都に着くのは三万年祭終了後になるぞ?」
「それは大丈夫です。三万年祭の期間中は飛行船を手配しますし、その間の運賃は無料となりますので。たとえ端からでも、帝都までは半日で着けます」
難色を示す鍛冶頭や戦士長に穏やかな笑みをして説明するグレイプリーだが、あまり旗色はよくなかった。
「だいたい、六千万の中にはレフィロスの野郎のせいで帝都に住めなくなった獣人達も含まれているんだぜ? そいつらが帝都に来ると思ってるのか?」
「・・・・・・それ、は」
鍛冶頭の静かな問いに、グレイプリーは初めて言葉を濁した。のちに虐殺帝と称されるようになるレフィロスが至高の玉座に着いてから初めて発した命令は、帝都にいる獣人達の調査であった。叔父であるセフィロトの奴隷解放令により奴隷の身分から解放され、晴れて帝国臣民となった獣人達が、その地位に見合う働きをしているかを調べるという名目で行われたこの調査により、国が定めた働きをしていない獣人達は財産をすべて没収され、文字通り身一つで帝都から追放されたのだ。この調査と追放は、むろん帝都内外の獣人から激しい批判を浴びたが、逆に奴隷解放令に反感を持っていた貴族などの上流階級や、そもそも解放令を支持しなかった国からはもろ手を挙げて賛成された。自分達が、近い将来財産だけでなく命すら奪われることも知らずに。
「まあまあ鍛冶頭殿、そのことは今追及しても仕方ないじゃろう。大女将殿が獣人を迫害したわけではあるまい。逆に今回の件を通して、獣人達のわだかまりが少しでも解ければよいと儂は考えておるよ・・・・・・そうじゃ、大女将殿」
「は、はい。何でしょうご老公」
四人のリーダー格である老人が苛立つ鍛冶頭をなだめて穏やかな声で自分に話しかけるのを見て、グレイプリーはほっと息を吐いた。
「そなたの“御友人”は、今回の警備の代金に一体いくら支払われるつもりかの?」
「はい、まず三万年祭の間帝都への出入りの自由、指定された店での飲食の無料化、そして一人につき金貨一枚が報酬として支払われます」
「ほう、金貨一枚、全員に支払うとすると全部で六千万枚か。随分と大盤振る舞いじゃの」
「帝国政府の方では、三万年祭による経済効果を金貨八億枚と試算しております。六千万枚という金額は、決して非現実的な話ではないかと」
「そしてそれは人や獣人の区別なく支払われるか。のう鍛冶頭殿、そう悪い話ではないと思うがの」
「・・・・・・今年の冬はいつもより厳しい。確かに金貨一枚もありゃ、問題なく越冬できるか」
「うむ。さて・・・・・・だいぶ意見が出たようじゃし、そろそろ採決と行こうかの。三万年祭の警備に、中央平原に住む六千万の人々が協力するか否か。賛成される方は右手を、反対される方は左手を挙げていただきたい」
ご老公の声に、まず今回の発案者であるグレイプリーが右手をさっと挙げた。続いて腕組みをしていた戦士長が、しばらく考え込んでいたものの、背後で護衛の戦士がいら立ちを込めて足を鳴らすと、やがて首を振りつつ左手を上げる。他の三人の視線が自分に集まるのを見て、鍛冶頭は仮面の下でううっと唸り声をあげた。
「・・・・・・この際はっきりと言ってやる。大女将、俺は貴様が全く気に食わん。前回は俺の提案を見事にこき下ろしてくれたしな。だが金貨一枚もあれば、少なくともここ中央平原で食い物や薪を買えないやつは出ないだろう。本当に忌々しいことだが、今回ばかりは賛成してやる」
唸るような声でそう言うと、鍛冶頭は心底嫌だという風に、だがしっかりと右手を挙げた。不意に、グレイプリーの後ろにいた夜鷹の耳に、ぎりぎりと何かをかみしめる音が聞こえてきた。それは、戦士長の背後にいる護衛が歯ぎしりをしている音であった、
「よろしい。いつも通り儂は手を挙げぬ・・・・・・では賛成2、反対1により、今回の議題は可決された。今後は三万年祭の警備に向け中央平原の人々をどう訓練し、どう帝都まで移動させるか、大女将殿を中心に動いていくことになろう。以上、解散」
そう話して老人がゆっくりと立ち上がると、他の三人も同じように立ち上がって軽く一礼した。その後、ご老公、鍛冶頭、そして戦士長が護衛と共に部屋を出ていき、部屋の中にグレイプリーと夜鷹だけになったところで、彼女は大きく息を吐いた。
「はぁっ!! ああ嫌だ、本当にこの会談は嫌いよ。疲れるったらありゃしない」
「そうか・・・・・・だが良かったではないか、無事決まって」
「ま、とりあえずはね。でもここからが大変よ、三万年祭まであまり日が無い。発案者である私が主導して動かなければ、決定されたとはいえ反故されることもある・・・・・・まあ、そんなことは実際にほとんどないけどね」
「そうか。ところで先ほどまで部屋にいた奴らだが、どういう素性の者だ?」
「どういう素性って言われてもねぇ」
夜鷹の問いに適当に答えながら、グレイプリーは懐から黄金色の液体が入った小瓶を取り出すと蓋を開けて一気に呷った。こちらまで主性が漂ってくるのを見ると、随分と度数の高い酒のようだ。
「まず鍛冶頭は名前の通りよ。中央平原に住む職人たちを纏めているわ。以前は職人たちに商売もやらせようとしてこちらの管轄に手を出してきそうだったから対立したけど、今回は何とか賛成に回ってくれたようね。そして戦士長は中央平原や帝都にたむろする傭兵や自称戦士のまとめ役よ。平原のどこかで闘技場を経営してるから、闘技場の主とも呼ばれてるわね。それで」
そこでいったん言葉を切ると、グレイプリーは小鬢の中に二怒っているはちみつ色の酒を一口飲んだ。
「最後にご老公だけど、彼は帝都と中央平原に住む掏摸や泥棒、盗賊の親玉よ。だから盗賊王の異名でも呼ばれてるわ。加えて帝都の裏路地はほとんど彼の縄張りね。彼が行っている裏市には、貴方も言ったことがあるんじゃないかしら」
「ああ、奴が裏路地の支配者か。以前主が裏市に情報を求めに行った時、裏路地の治安がやけに良いことに驚いていたが・・・・・・なかなかの手腕のようだな」
「そりゃそうよ。虐殺帝レフィロスが死んで混乱していた帝都が、さらに“偽帝”のせいでにっちもさっちもいかなくなった時、帝都が崩壊しないよう支えたのが当時帝都知事だったヴォーダン卿と裏社会を纏めていたご老公だもの。二人のおかげで帝都は何とか崩壊を免れ、現皇帝陛下をお迎えすることができたのよ。二人がいなければ、“あの国”に少なくとも東部平原と中央平原の東側は制圧されていたんじゃないかしら」
「それほどの人物か・・・・・・だが、なぜ彼は先ほどの採決に参加しなかった? 彼が採決に参加すれば、鍛冶頭とやらが反対しても二対二で同数になったはずだが」
「同数にならないようによ。彼は案を出すことがあっても、決して採決に参加しないわ。四人の中では彼がリーダーだもの、もし同数なら、彼が手を挙げたほうが決定となる。それでは採決を取る必要などないでしょう? だから彼は採決には参加しないで、その結果を公表するだけ・・・・・・話が長くなったわね。そろそろ戻りましょうか」
「・・・・・・ああ、そうだな」
自分の言葉に頷いた夜鷹を見てほほ笑むと、グレイプリーは廊下に続く扉を開け、外で控えている猫執事に話しかけると重たい袋を取り出し彼に渡した。猫人が受け取ると、ジャラリと金属がこすれる音がする。その音からしてかなりの金額が入っているのだろう。袋を懐にしまうと、猫執事は彼女に恭しく一礼した。
「さ、行きましょう」
彼女に促され、夜鷹が廊下に出ると、来たときはラビリントスの術によってあれほど歪み、ねじれていた廊下が今では普通の廊下に戻っており、外へ続く扉との距離も十メイルもなかった。
「・・・・・・大した魔術だな」
屋敷を出て蒸気馬車に乗ってから、夜鷹はふと呟いた。
「そうねぇ。確かに迷宮回廊は、本来なら今でも有効な侵入者除けよ。実際黒鳥城の第三城壁より奥では今も使われているし・・・・・・でも、今ではもう他の魔術同様廃れてしまった過去の遺物よ。“あの鉱石”の出現でね」
「そうか・・・・・・ところで、話しは変わるが」
「あら、なにかしら」
「今回の件、いったいどこからどこまでが貴様の手の中だ?」
「あら、“ようやく分かった”のね」
巨人さえも殺せるほど強烈な殺気を受けて、だがグレイプリーは涼しげな顔で微笑んだ。
「私と違って主は最初から・・・・・・それこそあの火事の時から貴様の仕業だと気付いていたぞ。空間を切り裂き、自由に操ることのできる貴様だ。集落の中で起こっている出来事など、たとえ主との情事の中でも手を取るように分かるだろう」
「あらひどい。じゃあ今更気づいたことに敬意を示して、種明かしと行こうかしら。どこから話して欲しい?」
「最初からすべて話せ。今回の事件で、主は軽くない傷を負った。話の内容によっては、今ここで貴様を討つ」
「そうね、なら最初から話そうかしら」
喉元にいつの間にか、ここに来る前夜鷹に与えたデリンジャーの銃口が押し付けられている。脅しではない、殺すと決めたら夜鷹はためらいなく自分を殺すだろう。
「私が集落で娼館を多数経営しているのは知ってるわよね。その娼館で働いている娼婦の何人かは、私の“目”でもあるのよ。旅人というのは各地を旅しているためかいろいろな噂を知っていてね。お酒を飲むと自然と話すようになるの。まあほとんど他愛のない話ではあるのだけれど、極稀に有益な情報を持ってくるのもいるから重宝していたんだけれど・・・・・・一月前に気になる報告があったの。いつもは銅貨数枚しか持たず、十分ほどの短い逢瀬しかできないイワンが、どういうわけか大量の銀貨をもってやってきて、娼婦数名を一晩中抱いて行ったってね」
「なるほど・・・・・・それでその男が何者かに雇われた事を悟ったのか。しかしそのイワンとかいう奴はどこまで馬鹿なのだ? 普段はした金しか持たぬ奴が急に散財するようになったら、何かあると周りに教えているだけだが」
「まあ、昔から自制心という物が全くなかったからね。怪我をしたのも自分の不注意が原因だし・・・・・・それじゃあ話を戻すわね。報告をしてきた娼婦に、とりあえず可能な限り情報とお金を落とさせるように命じた結果、彼はさる大貴族から三つの手段で私を貶めるよう命じられていたことが分かったの。まず火災、次に井戸に毒を投げ込み死者を出す、そして最後に集落を“黒き戦斧”に襲撃させる。これらを実行し、その後軍の特捜に知らせることで調査させ、私に集落を管理する資格なしとして更迭させる・・・・・・そんな夢物語を、泥酔しながら話してくれたそうよ」
「まて・・・・・・なら貴様は、ずっと前に知っていたというのか? 火事も、毒も、そして襲撃も。それなのに主を大変な目に合わせたというのか!?」
「ええそうよ、それがなにか?」
こちらを睨みつける夜鷹の問いに軽く応えたグレイプリーは、首に軽い痛みを感じた。首に当たっている銃口が、さらに深く食い込んだのだ。
「言葉はもう少し慎重に発することだ。下らん理由なら、すぐに引き金を引いて貴様の頭をザクロのように吹き飛ばしてやる」
「短気は損よ。私が黙っていた理由は、今回の採決にかかわることなの。中央平原南部にある湖の周囲に住む獣人は、湖を利用して生計を立てているのだけれど、今年は不漁で・・・・・・だから彼らから水を購入することで鍛冶頭の印象を良くし、採決で賛成の票を入れてくれるように仕向けたの。結果としては見事成功したのだけれど、二つ分からないことがあるのよね。まず私を狙っている黒き戦斧とどうやって繋がりを持ったのかという事。まあこれは背後にいる大貴族とやらが斡旋したのだろうけど、肝心なのはもう一つ、彼がどうやって“竜呪の実”なんていう最悪最低な呪いを手に入れられたかという事よ」
「・・・・・・それも背後にいる大貴族とやらの仕業ではないのか?」
「そんなわけないでしょう。実が保管されている場所は、皇族しか入ることを許されない第一城壁内の、十を超すラビリントスと鍵穴のない厚さ五十セイルを超す扉を少なくとも百枚開け、さらに気が狂うほど長い階段を下へ下へ降りていった先にある深淵よ。私ですら話に聞いていただけで、実物を見たことはないというのに・・・・・・それを“単なる大貴族”がいったいどうやって手に入れられるというのかしら」
「・・・・・・・・・・・・ふん、どうやら闇の中で、何かが不気味に蠢いているようだな。それが人か化生かまではわからんが、主に仇名すというなら始末するだけの話だ」
「そうね。ところで首の“これ”、そろそろどかして欲しいのだけれど」
一歩間違えば頭を吹き飛ばされるという状態だというのに、グレイプリーは笑みを浮かべたまま、首に押し付けられている銃にそっと手を触れた。
「・・・・・・まあいいだろう、主を害そうとしたわけではないようだからな。今回の報酬を三倍にすることで許してやる」
「三倍というと・・・・・・金貨百五十枚? 帝都の上流階級が一年は遊んで暮らせる金額よ。流石に厳しいわね」
「ふん、なにが厳しいだ。貴様にとっては厳しくも何ともないだろうが。“商人ギルド”の親玉が」
「・・・・・・」
首から銃口を離して呟いた夜鷹の言葉を聞いて、グレイプリーの顔をからふと笑みが消えた。
「・・・・・・そこまで気づいたのかしら」
かつて帝国には公認非公認含め、大小千を超すギルドがあったという。だが統廃合を繰り返し、セフィロトの代には二百のギルドが覇権をめぐって争っており、流血騒ぎになるほどであった。そのため皇帝となった彼はすべてのギルドの頭目を黒鳥城に招き、彼らの言い分を聞いた後、二百のギルドを四つに分け、それらを帝国公認にしたという。彼らの協力もありセフィロトの治世は大いに栄えたが、次の皇帝であるレフィロスはギルドが私腹を肥やしているとして公認を外し、解散を言い渡した。そのため以前はギルド狩りと呼ばれる傭兵や賊によるギルド関係者に対する襲撃が行われ、現在でも表立ってギルドを名乗ることは許可されていなかった。
「よくよく考えればわかることだ。セフィロトの治世に四つに分けられたギルド、そして今回集まった連中は盗賊、職人、戦士に商人と来た。これでギルドと関係ないというほうがどうかしている」
「そう・・・・・・それで? あなたはどうしたいのかしら。現在も帝国ではギルドは非公認ですもの。軍にでも知らせれば、さぞ謝礼金がもらえるでしょうね」
「ふん、そんなことをしてどうする? はした金の謝礼より、貴様とつるんでいたほうがよほど主の利益になる。告げ口をされたくなければ、せいぜい主に媚びることだな」
「・・・・・・ふふ、そうさせていただくわ。さ、そろそろ出発しましょうか。そうしないと護衛の“坊や”が何をしでかすかわからないからね」
「なんだ、気づいていたのか」
「当然じゃない。あんな自制心も何もない坊や、気づかないほうがどうかしているわ」
そう言うと、グレイプリーはくすくすと笑った。ぞっとするほど、冷たい笑みで。
「この・・・・・・愚か者がっ!!」
夜空で月が嗤っている。
その下で、地面に跪く“戦士長”は罵られつつ暴行を受けていた。彼に暴行を加えているのは、グレイプリーの乗った馬車の二倍の大きさと豪華な金細工を施した蒸気馬車に乗った、先ほどの会議で彼の護衛をしていたはずの男だった。会議が終わったためか鉄仮面を脱いでいるが、その下の素顔は端正ではあるものの、今は怒りと憎悪で醜く歪み切っていた。
「・・・・・・申し訳、ございません」
「申し訳ございませんで済むかっ!! あのクソ女狐の案を可決させやがって・・・・・・貴様がもっと声高に反対していたら否決されていただろう。つまりは全部貴様のせいだっ!!」
罵声と共に、まだ青年と言ってもいい年齢の男は馬を討つときに使う鉄製の鞭で容赦なく戦士長を打ち据えた。鞭が当たる度、彼の肌が裂け、血が周囲に飛び散る。だが跪く男は言葉一つ発することはなかった。
「大体、主人であるこの僕に立たせるというのがどうかしている。貴様、自分の身分をもう忘れたのか。あの肥溜めから家族もろとも拾ってやったのは誰だと思っている・・・・・・まあ、その家族とやらももうこの世にはいないがな」
「な・・・・・・それはどういうことですかっ!!」
かつて闘技場で上級闘士として働いて家族を養っていた男は、妻と娘が重い病にかかって高額の薬が必要となり、膨大な金と引き換えに自分の主となった青年の言葉に思わず顔を挙げ、その顔を青年の靴で思いっきり踏まれた。
「なんだ、知らなかったのか? 貴様の妻と娘は預かったその日のうちに浮浪者共に犯させて、気が触れたところを犬の餌にしてやったのだ。むしろ感謝してほしいものだぞ。重荷だった者どもがこの世からいなくなったのだからな」
「あ、あ・・・・・・ぁああああああああっ!!」
「ひっ!?」
青年の言葉に、男は叫びながら立ち上がり、腰に差した大剣の鞘に手を掛けた。だが、剣を引き抜こうとしたその瞬間、男の頭は身体から離れ、天高く舞い上がった。
「・・・・・・南無」
「ふ、ふん。この僕に剣を抜こうとしたんだ。当然の報いだな・・・・・・それにしても、潜んでいることすら気付かせずに殺すとは、さすがだな“ムメイ”」
「・・・・・・このぐらい、造作もないことでございます」
今はもう事切れている男の激高した姿に怯え、二、三歩下がった青年は、自分を怯えさせた男の“影”から現れた“本当の護衛”に称賛の声をかけた。ムメイと呼ばれた男は、黒一色の服と黒い服面を身につけており、月明かりの下でもぼんやりとしか姿は見えなかった。彼の得物は、先ほど男の首を刎ねるときに使用した刃が途中で変に曲がっている短刀だけである。だが青年は知っていた。この黒一色の男が、かつて自分の領地で増税に耐えかねた住民が暴動を起こした時、屋敷に押し寄せた彼らを自分を守りつつ皆殺しにしたことを。
「ま、まあいい。しかしもったいないことをしたな、一撃で首を刎ねるとは・・・・・・生きながら肉を少しずつ削いでやりたかったのに」
「致し方ありません・・・・・・この男もなかなかの腕前でした。一撃で殺さねば反撃されていたでしょう」
「ふん、その辺りは腐っても上級の闘士というわけか。それにしても気に食わん・・・・・・どうしてくれようか」
「ならばこの死体、我にお預け願えませんか? ちょうど配下に“屍使い”がおります。その者にこの死体を不死者として、しかも不完全な状態で復活させれば、長い間苦しめることができるかと」
「ほう、それはいい考えだ。いいか? 極力戦いには出さず、可能な限り苦しめ続けろ。しかし、くそ忌々しいのはあの女狐だ。奴のせいで一体いくら金を無駄にしたことか・・・・・・そうだ、奴は今馬車で集落に戻っている最中だったな。ムメイ、あの女狐を襲撃しろ」
「・・・・・・否、それは難しいかと」
「なぜだ? 貴様ほどの腕前ならば、誰にも気づかれずにあの女狐を傷つけるどころか、殺すことすら誰にもわからずにやってのけるだろう」
自分の提案をいとも簡単に却下された青年は、怒りで顔を歪ませたが、その怒りを受けている方はと言うと、顔は覆面に隠れて見えないが、まったくおびえた様子はなかった。
「あの女だけならどうとでもできます。誰にも知られずに殺すことも可能でしょう・・・・・・ですが彼女の護衛を務める男、奴は得体が知れません。会議の際、影に潜んでいた我に気付いておりましたんで」
「お、お前に気付いていただと!?」
会議の際は、それに出席する四名の他に各自護衛が一人だけ許されているが、複数の護衛を連れてくることは許されていない。もしムメイが潜んでいることが公になれば、間違いなく糾弾されるだろう。
「ええ、おそらく異様に勘が良いのでしょう。ですが何を考えているかは分かりませんが、奴は何も言いませんでした。護衛が許されているのが一人だけなのを知らないのか、はたまた別の理由があるのかは分かりませんが、迂闊に仕掛けるのは危険かと」
「・・・・・・ちっ、まあいい。仕掛ける機会は今回だけではないからな」
ムメイの言葉に苦虫をかみつぶしたような表情をしながらも、青年は何とかそう呟いた。
「話は変わるが、例の計画は順調なのだろうな」
「は。すでに相手方とは話が付いております。また、警備員と整備員の何名かも抱き込みました。決行の際は、滞りなく行うことができるかと・・・・・・ただ、少々金をばらまきすぎました」
「それぐらいどうということはない。親父はすでに病に侵されている身だ。金など金庫からいくらでも持っていけ・・・・・・まったく、我が父ながら厄介な奴だよ。なあ、もう少し“毒”を増やすことはできんのか?」
「いえ、これ以上服用する毒を増やせば勘付かれます。あくまで少量の毒を盛り続け、体調不良からの病死という形にしませんと」
「そうか。まあ三万年祭まであまり日が無い、今は例の計画を急がせろ。それから・・・・・・分かっているな?」
「御意・・・・・・すべては、我が主のために」
「それでいい。しっかりと頼むぞ」
ムメイの言葉に満足そうに頷き馬車に乗ると、青年はそのまま馬車を走らせ、ゆっくりと遠ざかっていった。
「やれやれ、何もなくてよかったの」
「はい」
グレイプリーを乗せた馬車が走り去るのを館近くの小高い丘の上で見送ると、ご老公と呼ばれた盗賊ギルドの長は仮面の下でにこやかにほほ笑んだ。
「しかし、大変なのはこれからじゃ。三万年祭を無事終了させるために、力を尽くさねばな」
「・・・・・・あの」
「ふむ、なんじゃな」
そんな老人に、彼の護衛は後ろから恐る恐る声をかけた。まだ若い青年の声である。
「あの、どうしてこんな回りくどいことをするのでしょうか。閣下」
「ふむ、回りくどいか? アラン」
青年の言葉に、老人はにこやかに彼の名を呼び、ゆっくりと腰を伸ばした。わざと曲げていたせいか少々痛む腰をさすりつつ、仮面を外して“ふけ”に見せかけるため埃まみれにした髪をサッと撫ぜると、髪はいつもの光沢のある銀髪を見せた。するとそこにはもうご老公と呼ばれる老人の姿はなく、元老院議長ジャン・ヴォーダンという、彼本来の姿があった。
「今回の提案は、明らかに帝国にとって利するものです。ならば閣下も採決に参加して速やかに可決させれば、もっとスムーズに事が運んだと思うのですが」
「確かに私が採決に参加すれば、鍛冶頭殿が賛成に回らずとも二対二、そして進行役である私の権限で可決させることは可能だろう。しかしそうなると採決した意味がなくなる。さらに権限で強引に可決させるという事は、四人の間に少なからず軋轢を生じさせ、それがやがては大きな亀裂となる。それだけは避けたいのでな。それに」
「それに・・・・・・なんでしょうか」
「それに、私がすべて取り仕切ってしまっては、娘の友人が成長するせっかくの機会を失ってしまうのでね」
「成長する機会ですか・・・・・・あの、前にもお伺いしたと思うのですが、閣下が宰相になられるのが、一番帝国のためになるのではないでしょうか」
「おや、それに対する答えは前に話したと思うがね。私は宰相になる気はないよ」
仮面を脱ぎ、整った顔を露わにした自分の護衛であり、教え子でもあるアランがおずおずと発した言葉を聞いて、ジャンは穏やかに、だがきっぱりと首を横に振ると、近くにある平たい岩に腰を下ろした。
「それはなぜなのですか? 閣下を支持する方々は元老院や貴族院にたくさんいます。特に“東方元帥”閣下やナイトロード侯爵閣下は御友人でしょう。お二人の支持があれば、貴族筆頭たるブランヴァイク公も、閣下が宰相に就かれることを反対できないはずです」
「私が宰相にならない理由は、大きく分けて二つある。まず私自身宰相になりたいと思う気持ちが全くないことだ。帝国には“大空位時代”以前何人かの宰相がいたが、その半分もの人物が、自分の権利を皇帝に等しいものと錯覚して私利私欲に走ったという記録がある。これは帝立図書館に記録として今も残っているから、後で読んでみるといい。そして読んだ感想をレポートとして提出するように・・・・・・これはいかんな、大学で教鞭をとっていたころの癖が抜けていない。もう数百年も前の事だというのに。まあとにかくだ、私自身権力に魅了されてしまうかもしれないし、宰相に就いたことで他者からそう思われるのも嫌だ。これが一つ目の理由だね。そして二つ目として・・・・・・おっと」
「どうかされまし・・・・・・ああ、御者さんですね。どうやら我々が遅いので様子を見に来られたようです。申し訳ございません、ちょっと行ってきます」
「何、構わんよ。彼が心配しないように行ってやりなさい。私もすぐに行くから」
「はい、お待ちしています」
丘の下に泊めていた馬車(蒸気式ではない、昔ながらの馬が引くタイプ)のほうから長年雇っている初老の御者が心配してこちらに向かってきたのを見て、しまったという顔をして頭を掻くアランを笑って許し、彼が丘を下りていくのを見送り、立ち上がって丘を下りかけ、ジャンはふと月を見上げた。
「そして第二に、決して許されることのない大罪を、三つも犯しているからだよ・・・・・・なあ月よ、いつも笑っている三日月よ、君は一体、何がそんなに面白いのかね?」
こちらを見下ろして笑っている、紫色の三日月をしばし見上げていたジャンは、やがて小さく首を振ると、丘を静かに下りていった。
帝国の未来を憂う者
自らの欲望で汚そうとする者
そして見守る者
三日月は、彼らを区別なく見下して嘲笑う。
それはまるで
そうまるで
そのすべてが、単なる児戯に等しいと
そう言っているかのように
ケタケタ、ケタケタ、ケタケタと
続く