第一部 黒界 帝都動乱篇 第二話 空中楼閣の女主人 終幕ー中ー
帝国の首都である帝都パンデモニウム、その中心に位置する黒鳥城の中は、昼間だというのに薄暗く、異様な静けさの中にあった。
その静けさの中を、一人の少女が顔に怯えた表情を浮かべて歩いていた。裸体の上に薄い絹服しか身に着けていないその姿は、まるで今から怪物に捧げられる生贄のようである。もし彼女の様子を見た者がいれば、欲情を催す前に憐れみを浮かべていただろう。だがここには彼女以外生きている者は誰もおらず、廊下の両脇に佇む巨大な金の彫像だけが、黙したまま彼女を見下ろしていた。この場所に彼女以外誰もいないのには、二つの理由がある。一つはここが黒鳥城の第二城壁、即ち皇帝の居住区域であること、そしてもう一つ、先に起こった皇帝の勅命で、城内にいる者のほとんどが謀反の疑有りとして“虐殺”されたのだ。そのため、今城にはほとんど人がいない。特に第三城壁から内側、つまり皇族の居住空間は全くの無人といってよかった。
ただ一人、黒き城の主とそして、彼に呼ばれたものを除いて
自分を見下ろす彫像に怯える少女も彼に呼ばれた者の一人だった。いや、正確には呼ばれたのではない。辺境の子爵家の当主である父親が、皇家との繋がりが欲しくて末娘である自分を差し出したのだ。この帝国に絶対君臨する皇帝の中で、最も狂気と残忍さに満ち溢れた皇帝に。
北方三ヶ国との国境沿いにある小さな領地から一般氏民にとっては豪華だが、貴族としては貧相極まりない馬車に乗ること一ヶ月、花の帝都という噂と違い静まり返って閑散とした帝都の一角に小さな家を借り、城に入る許可を得るまでさらに半月、一月半もの恐怖に怯える日々を過ごし、少女はこの日ようやく城の中に入るのを許されたのだ。そして黒き城の門から皇族の住まいであるこの第三城壁まで、ズルズルと何かを引きずるようにして歩く黒い布で身体をすっぽりと覆った案内人に案内された彼女は、すでに逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。だがそれはできないことだった。直前で逃げだしたり、元々招きに応じなかった貴族には兵が差し向けられ、領地に住む人々はこの世のありとあらゆる汚辱と責め苦に合い、老人から赤子に至るまでそのすべてが残酷なやり方で殺された。そのためどれほど恐ろしくとも少女は逃げるわけにはいかなかった。自分を皇帝に売ったといっても家族仲は良かったし、故郷には数少ない友人たちがいる。そんな彼らを殺されるのは、心優しい少女にとっては自分の身体を切り刻まれるよりもつらいことだった。
先に嫌なことが待っている時こそ、時間は早く進むものなのだろう。気が付くと、少女は巨大な扉の前に立っていた。扉の周囲にある一際巨大な二体の戦士像が、石造りの顔でこちらを無表情に見下ろしている。それに怯えつつ、巨大な扉を恐る恐るノックする。来客者を知らせる特殊な構造になっているのか、少女の小さな震える手でノックしたにもかかわらず、扉は巨大な音を立てて来訪者の訪れを告げた。
巨大な音が来訪者の訪れを告げて数秒、開かないことを望む少女の願いも空しく、目の前の扉はギギッと大きな音を立てて左右に開いた。扉が完全に開ききる前に、少女はひざを折り、頭を地面に擦り付けた。以前不用心にも顔を挙げ、手打ちにされた挙句、一族郎党皆殺しにされた貴族を思い出したためである。
「ようこそ、子爵家のご息女殿」
「ご、ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます。この度、陛下にお招きいただいたこと、誠に嬉しくございます」
「ああ、そう固くならずとも好い。さあ、頭を上げるがいい」
「は、はい。失礼いたします」
皇帝の声に顔を上げた少女の目に飛び込んできたのは、巨大な部屋の中に乱立する石像であった。どれも美しい少年少女を模したもので、どれだけの名匠が腕を振るえばこれだけのものが出来上がるだろうというほどに完璧な仕上がりだった。彼らはダンスの格好や、椅子に座って談笑する格好をしており、まるで本当に生きているようであった。その美しい姿に見惚れつつ視界を動かした彼女の目に、夫となる人物の姿が映った。
彼は少女の正面にある壁の上、そこにある巨大な店外付きのベッドに座っていた。長身痩躯、痩せた体に薄い絹の服一枚を羽織り、顔は長く垂らした金髪と娼婦が被るような薄いヴェールを被っているため見えないが、贈られた姿絵を見る限りは随分と美形なのだろう。
「ふむ。良き顔だな、これからが楽しみだ」
「お、お褒めの言葉、ありがとうございます。どうかいつでもお呼びください」
「そう気張らずともよい。余とそなたは確かに夫婦となるが、そなたはまだ幼く未熟だ。寝所に呼ぶような無粋な真似はせぬ。今は多くの事を学ぶがいい。もし希望するならば大学への推薦状も書いてやろう」
「だ、大学で学べるのですか? ありがとうございます。一生懸命勉強して、必ずや陛下のお役に立ちます・・・・・・そうだ。あの、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ふむ、何かな」
目の前の夫になる人物が、噂とはかけ離れた性格であることに胸をなでおろし、少女は子供特有の好奇心が働いたのか、周囲に乱立している石像に目をやった。
「周囲に立っているこの医師の像は、どのような名匠が作られたのですか?」
「・・・・・・なに?」
「ひっ!?」
その瞬間、周囲の空気が一変した。穏やかな雰囲気は跡形もなく消し飛び、部屋の中が突き刺さるほどの憎悪と怒気で満たされる。
「も、申し訳ございません、何か粗相をいたしましたでしょうか」
「粗相だと? 自分が何を言ったのかもわからぬかっ!! 未熟な餓鬼だと思っていたが、まさかここまで無知蒙昧で惰弱だとは思いもしなかったぞ。まさか、我が皇妃の作品を其処らの名匠と同等とみなすとはな。その罪、万死に値する」
「も、申し訳ございません、知らなかったのです。どうかお許しください」
「いいや許さぬ。さて、どの様な罰を与えようか。犬どもに犯させた後、体中の皮を剥いで海水に浸し、その後四肢を切断してから触手の苗床にでも使うか」
残酷な刑罰の内容を薄く笑みを浮かべながら呟くと、彼はゆっくりと立ち上がった。その動きで、彼が纏っていた毛布が落ち、ベッドの上で彼と同衾していた者達の姿が露わになる。そこにいたのは皆、南部三ヶ国の一つ、エルフヘイムの奥地に住まう儚い美しさを持った妖精と見間違えんばかりの美しい姿をした少年達だった。しかし美しい顔は皆恐怖と苦痛、そして絶望に歪み、その胸はぽっかりと開き、穴の周囲には乾いたおびただしい血がこびりついている。その少年達を、幸か不幸か床に頭をこすりつけて平伏している少女は見ることはなかった。そんな少女に向かって、皇帝が右手をゆっくりと伸ばした時である。
「あらあら、お戯れもほどほどになさいませ、我が君」
ひれ伏す少女の頭上で、妖艶な女の声が周囲に響いた。
「だがな皇妃よ、この無知蒙昧な餓鬼は君の事を馬鹿にしたのだぞ?」
「あら、私のために怒ってくださるなんてとても嬉しいですわ。ですが私は別に馬鹿になどされておりません。ただこの小娘が無能だっただけです」
「ふむ」
自分の頭上で、自分を貶す声がしている。だが少女はなんら反論することなく額を床に擦り付けていた。そんな少女の姿を皇帝はしばらく無表情に見下ろしていたが、やがて興味を失ったかのように小さく頭を振った。
「・・・・・・まあ、無能に育ったのはこの餓鬼に教育を施さなかった親の責任でもあるか。それは後で追及するとして、おい小娘、貴様に一つ教えてやる。ここ、すなわち余の部屋に飾っているのは単なる石像ではない。これは元々は生きている男や女、しかも世の寵愛を受け、それが当然と思って高慢になった愚か者共だ。例えばこの小娘」
ゆっくりと音もなく床に降りると、彼は脇にある両手のない笑う石像に近寄り、笑みを浮かべるその顔を撫ぜた。
「これは数年前に余の下に嫁いだとある貴族の娘でな。多少は器量が良いため傍においてやったのだが、そのうちにこの娘、それが当然だと思うようになってこの城の主のようにふるまい始めた。それゆえに皇妃に命じ、意識を保ったまま石にしてやったのだ。しかしあまり出来は良く無くてな。腕が太すぎるのに加え、
顔が恐怖で歪んでしまっていた。ゆえに職人に命じて太すぎる腕を切り落として残りを細くし、恐怖に歪む顔も笑みにしてやったのだ。この娘も感謝しているだろうよ。なにせあれほど欲しがっていたこの城の調度品という名の一部に慣れたのだからな」
最初、平伏している少女は頭上で彼が話している内容が理解できなかった。だが、それを理解した途端、彼女の身体は再びガタガタと震え始めた。つまりこの男は、意識も感覚もある娘の身体を石にしてその両腕を切り落とし、顔を削いで無理やり笑顔にしたというのだ。娘に襲い掛かった苦痛がどれほどのものであったか想像もできない少女は、ただ身体を縮こませて震える事しかできないでいた。
「あらあら、大丈夫よ兎ちゃん、貴女が傲慢にならなければよいだけなのだから」
「そういうことだ。顔を挙げよ小娘、そして未熟極まりない貴様の助命を余に請うた皇妃に挨拶と礼を述べるがいい」
「は、はい。あの、私は子爵家の娘で・・・・・・ひっ!?」
いつまでも頭を下げていたかったが、皇帝にそう命じられた以上頭を挙げないわけにはいかない。恐る恐る顔を上げ挨拶をしようとした彼女の頭上で、何か巨大な物がズルズルと這うような音がしたかと思うと、彼女の右頬に何か柔らかい物がポトリと落ちてきた。恐る恐るそれに手をやり、目の前に持ってきた時、彼女は小さく悲鳴を上げてガタガタと震え始めた。なぜならそれは、
それは、半分噛まれたようにつぶれた、小さな一つの目であったから。
「あら、ごめんあそばせ。私としたことが食事中にはしたなかったわ」
もはや話すことも震えることもできず、顔面が蒼白になった少女の上の方でからころと明るく朗らかな声が聞いたと思うと、彼女の目の前に、いきなり顔を下にした女が現れた。
この時、話すことができなかったことは彼女にとって幸運だった。そうでなければ彼女は絶叫を挙げ、不敬という事で粛清されてしまっていただろう。なぜなら彼女の目の前にいるのは、美しい顔をしているものの、その脇腹などにびっしりと鈍色の鱗を持ち、下半身が蛇のそれと化している獣人族の一種でありながら必要もないのにいたぶりながら他の獣人族や人を喰らうその残虐性から、遥かな昔此処帝都の前身である黒深き森に入ることを許されず放逐され、そのため他の種族に対し並々ならぬ怨みを秘めている種族、即ち蛇腹族であった。
「さて小娘、我が正妃を紹介しよう。蛇腹族が長の娘であり、一族の中で最も美しく聡明で、なにより残忍極まりない我が妻、メデューサだ」
「メデューサと申します。お見知りおきを・・・・・・しかし残念だわ、あなたが私の姿を見て一言でも悲鳴を上げたら、その小さな顔を食いちぎってやろうと思ったのに。まあでも、そんな貧相でガリガリに痩せた小便臭い小娘なんて、食べても味気ないけれど・・・・・・あら?」
何かを感じ取ったのだろう、蛇腹族の女はすんすんと鼻を鳴らすと、やがて少女に近付き、その端正な顔を顰めたと思うと、馬鹿にし尽くしたような顔をして溜息を吐いた。
「あらあら、小便臭い小娘だと思ったら、本当に漏らしているとは思わなかったわ」
「なんだと? ふん、子爵が送ってきたのは小娘ですらない、躾のなっていない馬鹿犬だったか・・・・・・おい馬鹿犬、床を汚した貴様の顔などもう二度と見たくはない。大学でもなんでも好きなところに行って、もう二度と余の前に顔を見せるな」
「あらあら陛下、そんな事を言ってはかわいそうですわよ。それとも・・・・・・ねえ子犬ちゃん、貴女も参加してみる? 私達の謝肉祭に」
「い、いえ、失礼いたします」
濡れた下着の気持ち悪い感触を下半身に感じながら、少女は自分の尿で濡れた床に額をこすりつけると、脱兎のごとく部屋を後にした。背後に、皇帝と皇妃、二人の嘲笑する笑い声を聞きながら。
それは、“虐殺帝”と称される皇帝レフィロスが謎の死を遂げる、そのわずか十年前の出来事であった。
「・・・・・・ん、何かしら、うるさいわねぇ」
アベルが駐屯している集落に本拠地を持つ黒紫商会の主であり、同集落を実質的に支配しているグレイプリーは、下から聞こえる振動とどたばたという足音により自分の部屋にある豪華な寝台の中で目を覚ました。彼女の眠りは不規則であり、三日の間一睡もしないことがあるかと思えば一週間惰眠を貪ることもある。そして眠っている所を起こされた彼女はひどく不機嫌になるため、彼女が睡眠をとっている間はだれも彼女の部屋のある場所、つまりここ空中楼閣の最上階には近づかないようにしていた。だがいくら近づかないといっても建造されてからもう百年は経過している古い楼閣である。そのためか下の喧騒はここまで伝わり、そのせいで彼女はひどく不機嫌になっていた。しかも中途半端に起きてしまったためか、随分と嫌な夢を見てしまったようだ。アベルと出会ってから随分と忘れていた、とある過去の夢を。
さすがにこの喧騒の中では再び寝ることはできない。諦めたように溜息を吐くと、彼女は寝台の横にある小さなテーブルの上に置いている葡萄酒の瓶を手に取り、近くに置いてあった小さなグラスに注ぐと一気に呷った。葡萄酒といってもそれほど強いものではなく、逆に知り合いであるスプリングス教授が調合した眠気覚ましの薬草が入っている。徐々に鮮明になっていく頭を振りつつ、少し崩れた髪の毛を手串で整え愛用の白い帽子をかぶると、グレイプリーは部屋の片隅にある紫色の水晶玉のところへと向かった。水晶玉の前にある安楽椅子に深々と腰かけ、紫色に光るそれにそっと手をかざす。すると水晶玉は淡く光り始め、やがて彼女の前にどこかの部屋の光景が浮かび上がった。
「さてと・・・・・・誰かいないかしら」
「・・・・・・あ、すいませんグレイプリー様、起こしてしまいましたか」
研究所で開発されたばかりの試作品であり、盟友であるセフィリアが送ってくれた水晶型の通信装置の向こう側で、自分の声が聞こえたのか大きなバスケットを抱えた若い女の姿が映った。彼女は最近この空中楼閣で自助として働き始めた娘で、ここに来る前は集落にある自分が経営している娼館で娼婦をしていた。といってもこれはそれほど珍しい経歴ではない。ここで働いている女たちのほとんどが、以前自分の娼館で働いていた娼婦だった.アベルと出会う前から年季の開けた行き場のない娼婦をグレイプリーは空中楼閣で働かせていたのだが、彼と出会う前と出会った後とでは意味合いが大きく異なる。彼と出会う前は彼女たちを苛め抜き、身も心も屈服していくのを楽しむためにそばに置いていたのだが、アベルと出会い、彼“を”愛人にしてからは行き場のない彼女たちの、本当の意味での再出発のために置いていた。実際、ここで働きながら勉強したり、金を貯めて別の集落でまっとうな生活をしている元娼婦も幾人もいる。
「構わないわ、それよりいったい何があったのかしら? 随分と騒がしいようだけれど」
「は、はい。それなのですが、少し前に手配していた水が届きまして」
「そう。けどそれは元々分かっていたことでしょう? ここまで騒ぐ必要はないんじゃないかしら」
「それが、結構量がありまして。衛兵の方々だけじゃ足りなくて、シリエラ様の指示で自警団の皆も手伝うことになったんですよ。それももう終わって、今は宴会の準備をしている所です」
「あらあら、それは大変ね、頑張って頂戴。後で一度様子を見に行くわ」
「はい、お待ちしています」
バスケットを持ったままぺこりと一礼する娘に笑みを浮かべつつかざしていた手を離すと、水晶玉に映し出された風景はだんだんとぼやけていき、やがて完全に消えた。それを確認すると、グレイプリーはゆっくりと立ち上がり窓のほうへ歩いて行った。空中に浮かぶ楼閣の最上階にあるこの部屋の窓からは、眼下にある集落とクリスタルの光が消えて星が見え始めた空、そしてこの時間になってもまだ昼間のように明るい帝都が見えた。
「・・・・・・まあいいわ。所詮は夢ですもの。さ、早くアベルのところへ行ってあげなくちゃ」
下界に降りるために部屋から出たグレイプリーの脳裏からは、先ほど夢で見た光景はもはや消え去っていた。
「ここでいい。世話になったな」
時間は少し遡る。水を運んでいる三台の馬車が目的の集落の入り口に到着すると、先頭の馬車に同乗していたクレアは御者台から飛び降り、隣りで手綱を握っていた水棲系の獣人族に軽く頭を下げた。
「いえ、とんでもございません」
「いや、世話になったのは事実だ。これは少しではあるが礼だ。運賃と思って取っておいてくれ」
「え? いや、こんなに受け取れませんっ!!」
クレアが謝礼として差し出した金を受け取った獣人族は、その金額に大きく目を見開き、慌てて首を振った。いくら何でも馬車に乗せただけで黒銀貨五枚は多すぎる。
「気にするな。それで帰りに子供らに菓子か玩具でも買ってやれ・・・・・・さて、そろそろ来るはずだが「クレアッ!!」ッ」
恐縮する獣人族に軽く笑みを見せたクレアが集落の方に目をやったのとほぼ同時に、そちらから聞きなれた声が聞こえてくる。彼女が一番聞きたい声の持ち主である青年は、まるで子供の様にぶんぶんと大きく手を振るとこちらに向かって駆けだしてきた。彼の後ろからは、先に集落に着いた衛兵が数人付き従っている。
「アベルか、今帰った」
「うん、お帰り。ごめんね、一緒に行けなくて」
「構わん、グレイプリー殿への報告もあっただろうしな。それにお前がいても足手まといになっただけだろう」
「う・・・・・・そ、それはその通りだけど、ちょっと言い方がひど痛っ?」
「ふん、私に黙ってネズに助力を頼むからだ」
「まあ、念には念を入れておかないとね。クレアに知らせなかったのは、知らせると馬車が偽物だと悟られるんじゃないかと思ったんだよ。クレアって顔や言動にそういうのが出やすいからね」
「なんだそれは、私が単純だとでもいうつもりか?」
「違うよ、正直な性格だって褒めてるのっ!!」
「そ、そうかっ」
自分の言葉に慌てて反論したアベルの鼻を、クレアは指で軽く弾いた。少し赤くなった鼻の頭を押さえながら弁明するアベルに頬を膨らませるが、彼の最後の言葉に機嫌良く笑みを浮かべる。
「それより、早く水の入った樽を降ろさないと。皆、樽を馬車から降ろすのを手伝って」
「分かりました。ああ、隊長は手を出さないでくださいね。樽の下敷きになるのが落ちですから」
「わ、分かってるよ。じゃあクレア、僕たちはグレイプリーさんのところに行こうか。無事に馬車が来たことの報告もしたいしね」
「了解した。そういえばビックスの姿が見えんな。馬車で移動している途中に少し見たが、水の入った樽はかなり重そうだったぞ。こういう時は力自慢の奴の出番なんだが・・・・・・槍で負った手傷、結構深かったのか?」
「うん。結構奥まで入っていたんだって。念のため帝都内にある病院に行ってもらってるんだ。ほら、僕がいつも行ってる大河近くの広場にある病院だよ。けどまあ、集落にいるお医者さんの話では内臓にまで届いていなかったから、二、三日安静にしていれば直ると思うけど・・・・・・そういえば、馬車で移動しているときは何もなかったの?」
「ああ。さすがに私が一緒のときは襲撃するのを控えたのだろう。私に手を出すという事は、それ即ちナイトロード家を敵に回すという事だからな。だが」
「うん・・・・・・おそらく“今夜”来るね。それが僕たちに対してか、それとも“彼ら”に対してかは知らないけれど」
クレアの言葉に僅かに頷いたアベルが、弱まっていく乳白色の光に照らされた街並みに目を向けた時である。
「うわっ!?」
「ど、どうしたの? 大丈夫っ!?]
「え、ええ。自分は大丈夫ですが・・・・・・分隊長、これ重いどころじゃないですよ」
背後で聞こえた声に慌てて振り返ると、水の入った巨大な樽を抱えていた衛兵の一人が、樽のあまりの重さに膝を崩しかけていた。それを見て、樽を地面に運び終えた仲間が二人、慌てて左右から樽を抱えて下敷きになりそうな同僚を助けた。
「怪我がなくて何よりだ。だがどうするアベル、このままでは終わるのは深夜になるぞ」
「うん、これ以上詰め所から人を出すわけにはいかないしね。捕縛した囚人の監視もしなければならないし・・・・・・しょうがない、もう家に帰っていると思うけど、シリエラさんに頼んで自警団の人達に手伝ってもらおう」
「ああ、それがいいだろうな。第一、樽の中の水を使うのは集落の住民なのだから、自分たちで運ぶのが普通だろう」
「そういうな、こちらもいろいろと準備に手間取っていたんだ」
その時、彼らの背後でどこか苦笑交じりに話す女の声が聞こえた。
「あ、シリエラさん」
「待たせたなアベル。男衆の中で手の空いている者をかき集めてきた。これだけいれば、日が落ちる前に樽を運び終えることができるだろう」
「そうですね・・・・・・では、五人一組になって一つの樽を運んでください。どうやら樽には見た目以上に水が入っているようです。皆さん、くれぐれも気を付けてください」
自分の言葉に、シリエラの背後にいた大柄な体格をした男たちがおおっと応えて馬車に近付いてき、衛兵に手を貸して共に樽を運び出していく。これならば夜までには終わるだろう。作業の様子を見ながら、アベルはほっと息を吐いた。
それから一時間ほど後の事である。
「やあ、飲みなされ飲みなされ」
「こ、これは、どうもすいません」
日が完全に落ち、夜空に笑う紫色の三日月が浮かび上がるその下で、集落の中央にある広場では巨大な焚火が燃え、それを大勢の人々が囲んでいた。広間といっても花が植えられている単なる広い空き地でしかなかったが、今夜はシリエラの指示で黒紫商会の倉庫から出された色とりどりの食べ物や飲み物が置かれ、それらを口に入れつつ皆宴を楽しんでいる。
その主役はもちろん水を運んできてくれた獣人たちだ。何せ井戸が使えなくなったため、彼らが水を運んできてくれるまで皆残り少なくなった水を戦々恐々としながら使っていたのだ。感謝してもしきれないのだろう。水を運んできた獣人族の周りには酒瓶を持った男たちが何人も集まり、空になった盃に次々に酒を注いでいる。
「皆楽しんでいるようだね」
宴会を楽しんでいる人々の様子を眺め、アベルは右手に持った木製のカップを揺らした。カップの中には半分ほどに減ったオレンジジュースが入っている。本当は酒を勧められたのだが、それは丁重に断った。これから起こるであろう、起こってほしくはない事態を考えれば、さすがに酔っぱらうわけにはいかない。
「そうね。ふふっ、貴方も楽しんだらどうかしら」
「グレイプリーさん!? 降りてこられたんですか」
「ええ。まあ今起きたばかりだけれどね」
宴会の様子を見守っていた彼に、ふと後ろから声がかけられた。美しい声に慌てて振り向いたアベルの目に、愛用の帽子をかぶったグレイプリーの姿が見えた。
「けど珍しいですね。グレイプリーさんが降りてこられるなんて」
「あら、私もいつもではないといえこちらに降りてくるわよ。いくら普段支配人に任せているといっても自分の店ですもの。時々は己の目で点検しなければいけないですし・・・・・・例えば、丸々と太ったネズミが迷い込んでいないかどうかとか、ね」
「は、はあ、ネズミ、ですか・・・・・・そ、そういえば」
先ほどとは打って変わって冷たい声を出して、にっこりとほほ笑んだグレイプリーを見て困惑したように苦笑すると、アベルはきょろきょろと周囲を見渡して誰もいないことを確認してから彼女に近付いた。
「すいませんでした。頼まれたのに結局解毒方法を見つけることが出来なくて」
「あら、謝る必要はないわ。私が貴方に頼んだのは大学に行って毒の正体を聞いてきてほしいのと、“もしあれば”解毒剤をもらってきてほしいとは頼んだけれど、さすがに呪いを解除できる薬草はないものねぇ」
大学でスプリングス教授から聞いたことは、井戸に投げ込まれたものの正体が毒ではなく呪いだという事も含めて昨日戻ってきた時にグレイプリーにすべて話している。自分の話を着たグレイプリーは、特に驚くこともなく、いつも通り微笑を浮かべたままあら、困ったわね。と言っただけであった。
「はい。それでどうするんですか? もうあの井戸は使えないと思いますけど」
「そうねぇ、昨日貴方が言ったとおり井戸はもう埋めてしまいましょうか。その上に小さな慰霊碑でも建てれば、数百年後には呪いは消えているでしょう」
「・・・・・・そうですか」
「あら、何か不満そうね、話してごらんなさいな」
自分の言葉を聞きながら困ったような表情をして顔を伏せたアベルを見て、グレイプリーは柔らかく問いかけた。
「不満なんて何も・・・・・・いえ、分かりました。単刀直入に聞きます、井戸が完成するまでもつのですか? 今回運んできてもらった水の量で」
今回グレイプリーが獣人からかった水の量は膨大ではあるが、それでも集落全体を賄うとなるとおそらく半月も持たないだろう。そして井戸を新しく掘るというのは言うだけなら容易いが、実際にはかなりの手間がかかる。まず呪いの影響がない水脈を探さなければならないし、運よくそれが見つかっても掘り始めてから水が出てくるまで、そしてその水を飲めるようにするまでにはかなりの時間がかかる。とても半月では、それどころか一ヶ月や二か月では終わらないだろう。その間に水がなくなったらどうするのか、また彼らから買うのだろうか。
「あら、そんな心配はしなくても大丈夫よ。すでに場所の選別は終わり、今は掘り進める段階まで入っているわ。急げは十日ほどで掘り終えるでしょう」
「え・・・・・・ちょ、ちょっと待ってください。場所の選別って、いったいいつから行っているんですか? それにずっと気になっていたんですが、どうしてわざわざ遠くにある集落から水を買ったんです?帝都から買ったほうがずっと早いし安全じゃないですか」
「・・・・・・ふふっ」
アベルの問いに、グレイプリーは笑みを浮かべたまま沈黙で応えた。それからしばらく待ってみたが、何も話す気配はない。恐らく自分が知ってはいけないことだったのだろう。追及するように口を開きかけるが、結局アベルは口を閉ざした。彼女とは愛人関係にあり、何度か褥を共にするなど愛情を抱いているが、それでも相手は巨大な商会の長であり、この集落の実質的な支配者でもある。それに比べて自分は騎士団と言っても下級の、その中でも零騎士などと呼ばれる最低の実力しか持たない騎士だった。機嫌を損ねれば、たちどころに消されかねない。だいたい“この後”の事を考えれば、ここで話し込んでいるばかりもいかなかった。最後に失礼しますと言って一礼してから、アベルは分隊の駐屯所に向かってゆっくりと歩いて行った。
「あらあら、謙虚なのはいいけれど、たまには強気に来てもらいたいわね」
速足で戻っていたためだろうか、そんなことを呟きながらこちらの背中を見つめるグレイプリーの優し気な視線に、青年は気づくことはなかった。
それは夜が更け、宴会が終わり集落の人々や水を運んできた礼として無料で宿を提供された獣人達が深い眠りについたころだった。笑う紫の三日月が星々と共に厚い雲の中に隠れ、もはや一寸先もわからない闇の中を、足音を立てることなく歩く一つの影があった。姿形はわからない。それは周囲が暗いというだけでなく、その影自体が夜の闇に紛れ込むことができるように黒一色の服を着てさらに頭から肩まですっぽりと覆う黒いフードを被っているためである。腰には黒いベルトを巻いているが、そのベルトについている幾本もの細長い鞘のような物もまったく音を立てることはない。足音だけでなく道具や服のこすれる音すら立てることなく歩くその姿は、闇の中を自由に歩くことができる何かしらの技術を習得しているのは間違いなかった。
それから十分後、影は集落の端にある周囲の家屋より一回りほど大きな建物の前に立っていた。元々は裕福な土地持ちの農家の家であったが、“虐殺帝”レフィロスの治世の時に課せられた膨大な額の税を払うことができず夜逃げしようとした所を捕らえられ(他の住民からの密告があったらしい)、女子供や赤子に至るまで一族皆殺しにされたという曰くつきの家屋であり、近年まで住む者も整備することもなく荒れ放題だったのだが、皇帝パールの命により三年ほど前に黒羊騎士団が新設され、この集落にも分隊が一隊駐屯することが決まると、駐屯所となる施設を提供しなければならなくなり、当時まだアベルと関係を持っていなかったグレイプリーの指示でほとんど嫌がらせとしてこの建物が提供されたのだった(その後、紆余曲折を経て分隊は集落に受け入れられていくのだが、それはまた別の話である)。
閑話休題、黒羊騎士団分隊の駐屯所の前に立った影は、目の前にそびえる建物を見上げながらしばしの間動かずに周囲の気配を探った。夜の闇の中で建物とその周囲は静まり返っており、何かが動いている気配は全くしない。それを確認しフードの中で顔を僅かにゆがませると、影は家の裏手に向けて音を出さないようにゆっくりと歩き出した。駐屯所となっているこの建物には玄関と裏口の二つの出入り口があるが、どちらも内側からかんぬきがかけられているものの錠前などの複雑な鍵はかかっていない。事故や事件が発生するのは昼間よりも夜間のほうが圧倒的に多いため、錠前などの複雑な鍵をかけていると迅速に対応することができないためだ。その代わりに夜間の駐屯所には班長、牢番、連絡員といった最低でも三人の衛兵が待機することになっている。各自四時間ほどの仮眠時間はあるものの、それでも昼間の業務に加えて一晩中気を張り詰めているというのは体力的にも精神的にもかなりの疲労を伴うが、実はこの夜勤業務、衛兵たちの間でひそかに人気があった。給金に夜勤手当が上乗せされるし、緊急の事故や事件がない場合に限り、夜勤明けから丸二日は休むことを許されているためである。その休日をまだ若い衛兵は買い物やデートに、古参の衛兵は家族サービスや趣味などに利用していた。
さて、音もなく裏口までたどり着くと、影はベルトにいくつもぶら下げている細長い鞘の一つから、細長い木の棒の先に折りたたんだ薄い刃の付いた、小さなのこぎりのようなものを取り出した。その折りたたんだ刃を伸ばし灯一つない闇の中で指を使って壁と扉の間の僅かな隙間を探ると、影はしゃがみこみ、のこぎりの刃の先端を隙間に突き入れた。そのまま立ち上がり徐々にのこぎりを上に滑らせていく。途中で何度かつっかえはしたものの、刃は見事に扉を内側から固定しているかんぬきの下にたどり着いた。そのままかんぬきをゆっくりと持ち上げていくが、さすがに音がまったく出ないというわけにはいかなかった。ギ、ギギッと重い音が聞こえるが、それでも最小限に抑えつつかんぬきを持ち上げ、影は扉と壁の間にできた僅かな隙間の中にその身を滑りこませた。
建物の中は人の気配がせず随分と薄暗かった。だが外の闇の中でも灯一つ付けることなく迷わずにこの建物まで来た影にとってこの程度の暗さは何の障害にもならない。周囲の暗さに目を慣れさせるためにしばし佇むと、影はゆっくりと歩き出した。今いる場所は食糧庫なのだろう、水の入った大甕や食料の入った木箱、皿や調理器具の入った棚の間を滑るように移動すると、影は左に通路が伸びる廊下に出た。通路の奥には仮眠室のある二階へと続く階段があるが、影の目的はそちらではない。足音を極力立てないようにつま先立ちで進んでいくと、すぐに右側に開けっ放しの扉が見えてきた。扉の向こうは普段事務室として使っている大きめの部屋で、夜間は衛兵の待機場所になっている。部屋の四方と普段アベルが座っている机の上には蒸気ランプが置かれ部屋の中を煌々と照らしており、ランプの置かれている机の傍らと出入り口付近にある机の傍らにはこちらに背を向けてはいるものの、衛兵が二人座っていた。もし部屋の中に入れば、いや、扉に近付いただけでたちどころに彼らに見つかるだろう。
だが、影の動きは迅速で迷いがなかった。暗闇を移動して扉の死角となる場所まで来ると、影は右足で扉を僅かに揺らしてみた。鈍い音を出して扉が揺れ動いたが、それはまるで風に煽られているようである。しかし、本来ならば不審に思った衛兵が振り返るほどの音が鳴っているにもかかわらず、部屋の中にいる二人の衛兵は、こちらに背を向けたままであった。それを確認すると影はゆっくりと部屋の中に入り、まず部屋の中央にある机のそばに座っている衛兵に近付き、後ろからそっと覗き込んだ。彼が覗き込んだ今夜の夜勤の班長を務める古参の衛兵は、椅子によりかかり、両腕をだらりと下げて眠っていた。それは入り口付近にいる衛兵も同じで、彼らのすぐそばの床には木製のカップが転がており、其処から中に残っていた少量の液体がこぼれている。
「ふん、衛兵と言っても所詮はこの程度か。まあ無理もない、弱小騎士団の中で最も無能極まりない騎士なんぞに率いられる分隊に属しているのだからな」
眠り込んでいる衛兵を見下ろしながら、影はそう吐き捨てた。その声はもう若くない男の声であり、そして声には侮蔑のほか、怨みや妬み、憎悪など負の感情が最大限込められていた。彼らを貶すのに夢中になっていたためだろうか、影、即ち全身を隠した男は自分がアベルの事を罵倒した時、天井がいつもの彼なら絶対に聞き逃さないほど軋んだことに気付けなかった。
「ふん、まあいい。本音を言えば今この場で縊り殺してやりたいが、ここに忍び込んだ目的はそれではないからな。どうせ明日になればこいつや分隊だけでなく、騎士団そのものが消滅するのだから・・・・・・さて、こっちだったか」
彼らをさんざん罵倒して気が済んだのか、男は入り口に近付くと右にある細長い通路に入った。この通路の脇は牢屋になっており、そしてその前では見張りとなった衛兵が、やはり椅子から転げ落ちて高いびきをかいていた。そのいびきが癪に障ったのか衛兵の頭を少し強めに踏むと、男はしゃがみこんで衛兵のベルトについている鍵をむしり取り、牢屋にゆっくりと近づいた。
「さて、鍵は手に入れた。後は目的を達成するだけだ」
牢屋の中には今朝の襲撃で捕縛された襲撃者のうち、生き残った六名ほどが入っている。彼らは今夜一晩牢屋に入れられ、明日の朝一番に帝都にある黒羊騎士団本部で尋問を受けることになっていた。そのため男の“目的”を果たせる機会は、今夜以外にない。
鍵を錠前に差し込み軽く捻る。毎日欠かさず整備されているためだろうか、錠前は男の予想よりも早く外れ、ゴトンと大きな音を立てて床に落ちた。それは低いが部屋中に聞こえる音量で、眠っている衛兵が飛び起きるほどの物であったが、それでも囚人や衛兵が起きることはなかった。当然だろう、昼間先ほどの倉庫に合った水甕に男が混入したのは帝都の裏社会で五本の指に入るほど強力な睡眠薬だ。これを盛られたが最後、今夜一晩は音を立てたぐらいでは決して起きることはない。
床に落ちた錠前を足で退けると、男はゆっくりと牢の中に入った。牢屋の中にいる六人の囚人は、皆横になって眠っていた。彼らも薬入りの水を飲んだのか先ほどの錠前が落ちた音でも起きてこない。この暗い中では顔は判別できないが、どことなく据えた匂いがするのは、おそらく何日も風呂に入っていないからだろう。その臭気に、男はフードの中で顔をゆがませた。
「・・・・・・まあいい、どうせ消えてもらうだけだ」
自分の足下で横になっている囚人を見下ろすと、男はベルトに吊り下げている鞘からナイフを取り出した。それは手のひらにすっぽりと収まる小ぶりなナイフで、刃の所々が赤く錆びているのは男がこれを多用していることを意味していた。
「失敗した貴様たちが悪いのだ。もっとも眠っている間に殺されるのであれば、そう悪くない死に方だろう」
言葉を紡ぐと同時に、男はまず足元にいる囚人にナイフを振り上げた。狙いは相手の首である。そこを狙えば、たとえ殺しそこなって相手が目覚めたとしても大声でわめかれることはないはずだ。
「ではさらばだ、来世ではクリスタルの加護があらんことを」
葬儀の時、アスタリウス教の神父が祈る言葉と共に男は首めがけてナイフを振り下ろした。振り下ろした刃はすぐに首に刺さり、手に柔らかい血と肉の感触を与えてくれるはずであった。
だが
ガギギッ
「何っ!?」
「今だっ!!」
だが男の意に反し、手に伝わったのは固い感覚だった。予想外の出来事に男が呆然としている隙を突き、眠っているはずの囚人、いや、正確には分隊長であるアベルはごろごろと牢屋の床を転がって男から遠ざかると、天井に向かって大声で叫んだ。するとその声に応えるように牢屋の天井がパカリと開き、男に向かって川で漁をするときに使用する投網がいくつも被さった。落ちてきたのはそれだけではない。犯人を捕獲する際に使用するさすまたや長い木の棒、はたまた庭で訓練の際に使う等身大の木人形などが降ってきた。
「ぐぁあああああっ!?」
「確保ぉっ!!」
「ぐぇっ!?」
痛みと衝撃に耐え、何とか抜け出そうと網の中でもがく男にむかって、最後にクレアが降ってきた。百七十セイル前半という、女としては長身な彼女だが、貴族らしくない質素な食生活と日々の捕り物や訓練ためか引き締まった彼女は驚くほど軽い。それでも落下する速度が加算された彼女の足は見事に男の背中に当たって彼を押しつぶし、首筋にぴたりと当てられた彼女愛用の黒鋼の槍の冷たい感触に、彼は蛙のつぶれたような声を出して動かなくなった。
「いやぁ、最初は不安だったけど、上手くいってよかったねって、痛いよクレア」
「何が上手くいった、だっ!! アベル、お前この男がもう少し上を狙っていたら死んでいたんだぞっ!!」
男が完全に動かなくなったのを確認すると、槍の穂先を彼の首筋に当てたままクレアは背中から降りてアベルを睨みつけた。その目が赤いのは別にアベルを怒っているからではない。彼の指示で二階に潜んでいた時、侵入してきた男が自分が(決して口には出さないだろうが)好意を抱いている男を侮蔑したためであった。自分と同じように天井から牢屋の中に飛び降りた衛兵が数人がかりで侵入者を押さえつけ縄で縛ると、クレアはようやく男の首から槍を離し、その柄でアベルの頭を軽く叩いた。彼女の言葉通り囮の囚人役を買って出たアベルは首に鉄の首輪をはめているが、男がナイフを刺したのはその上部分であり、狙いがもう少し上にずれていたら首を切られていただろう。
「ま、まあ結果としては上手くいったのだからいいじゃない・・・・・・痛っ!?」
「お、おい、そんなに強く小突かなかったと思うが・・・・・・って、おいアベル、ひどいみみずばれじゃないか!!」
怒りが収まらないクレアをなだめるように苦笑いをしながら首輪を外していたアベルは、突如襲ってきた激痛に首を抑えてしゃがみ込んだ。クレアが慌てて彼に近寄り首を抑えていた手を外すと、アベルの白い首筋に、一筋のひどいみみずばれが走っているのが見えた。
「し、心配しなくていいよ、僕、傷の治りは早いほうだから」
「何が直りは早いだ馬鹿者っ、コール、ちょっと来てくれ」
「は、はい、どうしましたか副長・・・・・・って、隊長、ひどい傷じゃないですか!! 待っていてください、今治療しますので」
アベルの首の傷を見たクレアの叫びに、他の衛兵と共に眠らされている仲間を介抱していたコールがどたばたとあわただしくこちらに駆け寄ってきた。右肩には大きな医療用のバッグを持っている。彼女は優秀な事務員ではあるが、実際の戦闘の際にはアベルの次に役に立たない。そのため犯人との戦闘の際、彼女は後方で負傷者の手当を担当しているが、勤勉な彼女は休日などを利用して黒羊騎士団の騎士たち(主にアベル)が世話になっている病院で手当ての仕方などを学んでおり、その腕前はなかなかのものだ。
「はい、これで大丈夫です。隊長、お願いですから無理しないでくださいね」
「ごめんね、ありがとう・・・・・・そうだ、眠らされた皆も起こしてあげて」
「は、はい。ですが起こそうとしても全然起きないんです。どうやらよほど強い睡眠薬を盛られたみたいで」
「しかし、こうも簡単に眠らされるとはな。少々たるんでいるんじゃないか?」
「しょうがないよ、侵入が確実に“成功”するように、あえて注意も何もしなかったんだもの。皆に今回の作戦を説明したのも、つい先ほどだしね」
「まあ確かに作戦としては間違ってはいないが・・・・・・そうだコール、起こすのに手古摺るなら、確実に起きる方法があるぞ。食糧庫にある黒唐辛子の粉末を、連中にたっぷりとごちそうしてやれ」
「え、黒唐辛子ですか? そりゃ起きるとは思いますけど、間違って目に入ったら痛いどころではすみませんし、そうでなくとも一週間は口の中が大変なことになりますよ!?」
簡単に眠らされた衛兵たちを睨みつけながらクレアが指示した内容に、コールは顔を引きつらせながらそう答えた。
「殺されるよりははるかにましだろう。簡単に眠らされたことに対する罰になるし、今後油断したら最低でもこうなるぞという教訓にもなる。第一、アベルでさえ半歩間違えれば死ぬところだったんだ。そいつらだけ何もないのは不公平だろう」
「・・・・・・それもそうですね、分かりました。では倉庫から黒唐辛子をたっぷりと持ってきます」
「あ・・・・・・あはは、まあお手柔らかにね。さてと」
クレアの説明に納得するように頷き、倉庫にかけていったコールを苦笑いを浮かべて見送ると、アベルは一度大きく深呼吸して気を引き締め、牢の中でウエッジら衛兵の手で黒いフードをはぎ取られ、持っていた小型のナイフやその他様々な暗器を吊り下げていたベルトを外され、両手足を縄できつく縛られ、駄目押しとばかりに猿轡を噛まされた男に向き直った。
「・・・・・・やはり、貴方でしたか」
「フガ、ガーッ!!」
はぎ取られたフードの中から出てきたのは、アベルが想像した通りの人物だった。数日前に発生した暴動の後、彼等の代表として自分とともにグレイプリーと会談した中年の男だった。確か、名はイワンといったか。グレイプリーと話しているは始終おどおどとしており、気弱な印象を受けた彼であったが、現在拘束されている男は、まるで別人のように目をぎらつかせてこちらを睨みつけている。おそらくこれが彼の本性なのだろう。
「フグ、ガッ!!」
「・・・・・・ウエッジ、悪いけど猿轡を外してくれないかな、これじゃ尋問ができないよ」
「は、はぁ・・・・・・ですが、大丈夫なのですか? もし舌を噛んで自害などされたら」
「うん、僕も最初はそれを心配したけど、その可能性は低いんじゃないかな。だって見てよ、こんなにぎらついた目でこちらを見ている人が自害なんてすると思うかい? だいたい、舌を噛み切るなら猿轡をかまされる前にすると思うな」
「なるほど、それもそうですね、では」
アベルの説明に納得がいったのか、ウエッジは一つ頷くと他の衛兵にイワンを押さえつけておくように指示し、彼の背後に回り込むと、ゆっくりと猿轡を外した。
「ありがとう。さてイワンさ「これは何ですか!! 不当拘束です、即刻解放してください!!」・・・・・・ほらね、こんなに元気なのに、自害の心配なんかいらないよ」
「自害の心配がないのは結構だが、こうも喚かれてはかなわんな。どうする、少々手荒くするか?」
猿轡が外され、口が自由になった途端、こちらをものすごい勢いで罵り始めたイワンにアベルが肩をすくめると、いつの間にか彼の隣に来ていたクレアがイワンを睨みつけ、愛用の黒鋼の槍を軽く持ち上げた。彼女の背後では睡眠薬を盛られて眠っていた三人の衛兵が、コールが食糧庫から持ってきた黒唐辛子の粉末を口に入れられ、そのあまりの辛さに飛び起きて悶えていた。
「いや、やめておこう。暴力を伴う尋問は好きじゃないし、第一僕は身体的、精神的苦痛を受けての自供は信用しないことにしているからね・・・・・・さてイワンさん。不当拘束と主張されますが、貴方には現在黒羊騎士団所有の建物に対する不法侵入罪、睡眠薬を水甕に入れて衛兵三名を眠らせたことによる公務執行妨害と傷害罪、さらには衛兵の一人から鍵を奪ったことに対しての窃盗罪など様々な容疑がかけられています。これでもまだ不当逮捕を主張いたしますか?」
「とうぜんです。この建物に入ったのは、自主的に行っている夜の巡回の最中に建物の前を通った時、いつもは衛兵の方々の話し声がするのに、今日は静まり返っているから不思議に思って入っただけですし、牢屋の鍵も落ちていたのを偶然拾っただけです。睡眠薬については私は無関係です、言いがかりはおやめください!!」
「ふん、なら貴様が所持していた道具についてはどう説明するつもりだ? 小さすぎるナイフに折りたたみ式ののこぎりのようなもの、さらには針や鉤爪ときている。どう考えても暗殺用の道具だ。それに鍵を拾っただけならともかく、なぜわざわざ牢屋の中に入った?」
「そ、その道具については、巡回中に襲われたときに使用する護身用ですし、牢屋に入ったのだって、せっかく“水を運んできてくださった獣人の皆さんを襲った凶悪犯”を一目見ようと思ったからにすぎません!!」
イワンが最後にそう言い放つと、周囲の空気が一変した。動向を見守っていた衛兵たちがざわざわとざわつき始める。それは、見守っていたアベルが右手を挙げて制止するまで続いた。
「馬鹿が、墓穴を掘ったな・・・・・・ウエッジッ!!」
「は、はい副長っ!!」
衛兵たちが静まったのを確認してから嫌悪感を隠さずに吐き捨てると、クレアはイワンを侮蔑を込めて睨みつけてからウエッジを呼んだ。彼女のしかりつけるような声にびくりと震えると、イワンの横にいた彼は直立不動の姿勢を取った。
「現在牢屋に捕らえている連中の罪状を述べよ」
「はっ、拘束している者たちの罪状は、我々が襲撃された街道付近を根城にしている盗賊団であり、罪状は
分隊に対する襲撃の現行犯です・・・・・・あの、今朝の作戦はわざと貧相な格好をして旅の巡礼と思わせて襲撃しやすくさせ、襲撃してきた盗賊団を一網打尽にすることで、この男も盗賊団の一味だと聞いていたんですが、違うのですか?」
「うん、そうなんだ。巡回してもらった街道では確かに盗賊団による被害が相次いでいたけど、彼らは数日前に街道の警備を担当する黒馬騎士団が倒しちゃったからね。だから君たちが遭遇したのは、集落に水を運んできてくれた獣人さんたちを標的にした襲撃犯で間違いないよ。ごめんね、隠していて」
「いえ、敵を騙すにはまず味方からともいいますし、策としては適切だったと思います」
「そういうことだ。さてイワン、貴様まだ言い逃れをするつもりか?」
「い、言い逃れも何も、私は本当に何もしていません。襲撃犯のことだって、昼間彼らが連行されてきた時、誰かが話しているのを偶然耳にしたんです」
「貴様は先ほどの話を聞いていたのか? 襲撃の真相を知っているのはアベルと私、そしてグレイプリー殿とシリエラ殿だけだ。集落にいる他の住民は水が運ばれてくることすら知らなかった。誰かが・・・・・・まあ貴様だが、意図的に情報を隠していたようだからななぜそんなことをしたかは知らんが、大方グレイプリー殿を陥れようとでもしたのだろう。このことを知っている者のうち、グレイプリー殿とシリエラ殿は昼間は空中楼閣にいたし、アベルも報告のため彼女たちと共にいた。私は昼間は集落にいなかったし、衛兵は何も知らなかった。なのに貴様が襲撃の真相を知っているのは貴様が襲撃犯の一味か、それとも襲撃を計画した張本人か、そのどちらかしかない。そして捕らえられた者を始末しに来たという事はおそらく後者なのだろう。ここまで言われてまだ白を切るつもりなら・・・・・・おいコール、二階で拘束している奴を連れてこい」
「わ、分かりましたっ!!」
それまで尋問に加わらず起きた衛兵に水を与えていたコールは、クレアの声に飛び上がって頷くと、部屋の奥、廊下に続く扉へと駆けだしていった。すぐに階段をどたばたと昇る足音がしてからおよそ一分後、彼女は後ろに三人の男を連れて戻ってきた。そのうちの二人は衛兵で、両手を縛られた囚人を監視するようにその左右に立っている。囚人は今朝分隊を襲撃した犯人の一人で、槍を使ってビックスに怪我を負わせた男だった。生き残った他の囚人が捜査に非協力的で隙をついて逃げ出そうとしたり暴れたりする中、彼は唯一協力的だった。なんでも彼は南部平原で貴族に仕えていた元衛兵で、上官の命令に逆らって出奔、その後帝都に流れ着き日雇いで小銭を稼ぎ、場末の酒場でくすぶっていたところを誘われたのだという。
「ごくろう。さて・・・・・・この男、襲撃の際仲間の中にいたか?」
「いえ、いませんでした。ですが声に聞き覚えがあります。酒場で勧誘してきた男の声にそっくりです」
「ふ、ふんっ!! 顔を隠した男の声など、よく覚えていらるなっ!!」
「ああ、確かに証言では、声をかけてきたものはフードを被っていて顔が分からなかったそうだが、どうして貴様がそれを知っている?」
「そ、それは・・・・・・そう、襲撃を企てる者は人前に出る際は顔を隠すものだと相場が決まっているからです!! アベル隊長、聡明な貴方なら私とこの襲撃犯、どちらが本当のことを話しているのかお分かりですよねっ!?」
「そうだね、今の段階で十中八九間違いはないと思うけど、声がそっくりというだけでは決定的な証拠にはならない。何か他にも、誰もが認めるような・・・・・・例えば身体的特徴はありませんか?」
「身体的特徴ですか・・・・・・ああ、そういえば」
「なんだ、何か思い出したのか?」
「ええ、自分を含めた数人の無宿者を雇うことに成功した男が酒場を出るとき、他の客に酒を運んでいた従業員とぶつかって酒を浴びたため、裏で濡れた服を脱いだんですが、自分の席からはそれがわずかに見えまして・・・・・・服を脱いだ男の右肩には、拳大の大きな痣があ「ウエッジっ!」うわっ!?」
「たわけがっ!!」
アベルの問いに、男が上を向いて時折眉間にしわを寄せながら話し始めた時である。アベルが部下の名を叫び、ウエッジがイワンの頭を押さえつけるその寸前、彼の口からアベルの顔めがけて飛び出した長針を、
クレアの振った槍が見事に叩き落とした。
「ありがとうクレア。さてイワンさん、これでもう言い逃れはできませんね」
「ヒ、ヒヒッ、ヒャハハハハハッ!!」
頭を押さえつける際かなり暴れたのだろう。ウエッジと二人の衛兵に伸し掛かられたイワンの身体にはあちこち擦り傷ができており、服の上半分はびりびりに破れている。そして敗れた服から覗く右肩からは、囚人の言った拳大の痣がはっきりと見えていた。その痣を確認すると、アベルは大きなため息を吐き、狂ったように笑いだしたイワンを憐れみを込めて眺めた。
「さて、それでは尋問を再開します」
「おいおい、何なんだよこの格好はよ、ヒャハハハハッ!!」
それから十数分後、笑い続けるイワンの頭に窒息しないように目の粗い袋を被せ、上半身を裸にして椅子に座らせ、両手足を縛って左右に衛兵を配置させてからアベルは彼をゆっくりと見下ろした。笑い続ける彼は他者を貶し、罵倒し、嘲笑している。恐らくこれこそが彼の本性なのだろう。
「では一つ目の質問です。数日前に三件の火事を起こしたのはイワンさん、貴方ですか?」
「ああそうだ、日と爪なんざまどろっこしいから全部話してやる。三件の火事も、井戸に毒を入れたのも、今回の襲撃を手配したのも全部この俺だよ」
「貴様・・・・・・なぜそんなことをする!!」
「なぜって決まってんだろ、グレイプリー、あの“雌蜘蛛”が邪魔だから、奴の評判を落とすためだよ。ヒヒッ」
「貴様っ!!」
「おい、落ち着け」
イワンの態度に、クレアの脇に立っているグレイプリーが経営している宿屋の一つで姉が働いている若い衛兵が怒りの声を上げた。その衛兵をクレアが手で制しているのを視界の隅に置きながら、アベルは額に指をあてた。グレイプリーの事を雌蜘蛛と呼んでいるという事は、彼の背後にいる“黒幕”はよほど彼女の事が嫌いらしい。ならば一連の騒動はその“黒幕”がこの集落を牛耳るための物か。
「それで? “雌蜘蛛”、つまりグレイプリー殿を排除し、貴様の背後にいる奴がこの集落を支配したとして、貴様には何が与えられるはずだったんだ?」
「ヒヒッ、決まってんだろう、この集落にあるすべての娼館の支配権だ。ったく、俺が娼館の主になったら、あの生意気な娼婦ども、死ぬまでおもちゃにして遊んでぐぼっ!?」
「お、おいアベルっ」
「失礼、胸に虫が止まっていたので」
クレアの問いに、イワンが自分の下卑た欲望を答えた瞬間その胸にブーツが叩きこまれ、彼の身体は大きく後ろに吹き飛んだ。男の話を聞いていたアベルが表情を全く変える事なく、胸を蹴り飛ばしたのである。
「被告人イワン、先ほど証言した三件の放火、毒物混入とそれによる殺人および殺人未遂、および巡回中の騎士団に対しての襲撃を企画した罪、その他罪状により、朝になったら帝都にある黒羊騎士団本部に輸送します。ウエッジ」
「はい。ほら、立てっ!!」
アベルの指示を受けたウエッジが他の衛兵と共にイワンを強引に立たせる。彼はこの後牢屋に入れられ、他の囚人と共に朝まで過ごし、その後帝都にある黒羊騎士団本部まで送られ、そこでさらに厳しく尋問を受けるだろう。だが、
「ヒ、ヒヒッ、ヒャハハハハハハハッ!!」
「こいつ、狂ったのか?」
「いや、たぶん違う。彼は正気のままだ」
強引に立たせられた瞬間、狂ったように笑いだしたイワンを見て、本当に狂ったのかと訝しむクレアの横で、しばらく彼の姿を眺めていた彼は、小さく首を振った。
「ヒャハッ!! その無能騎士の言う通りだぜ。なぜ俺が狂わなきゃならないんだよ。第一、どうしてここまでべらべらと喋ったと思う? 万が一にも、俺の負けはないからに決まってんだろうがっ!!」
「何だと? どういうことだイワンっ!!」
「・・・・・・ッ、緊急事態!! 鐘四回、急いでっ!!」
「は? はっ、鐘四連打、了解しました」
二階に続く階段に一番近い所にいた衛兵は、突然指示されたことにびくりと体を震わせると、アベルの言ったことを復唱して慌てて二階へ上がっていった。この集落では緊急の事件や事故が発生した場合鐘を叩いて知らせる。鐘はこの建物を含め集落のあちこちにあり、一つの鐘が鳴ったらその近くにある鐘もならされ、すぐに集落全体に鐘の音が響き渡る手はずになっていた。緊急事態の重要性は鐘をどれぐらい連続して鳴らすかで決められており、最重要の場合は五回連続で鳴らされる。そのため四回という事は、かなり重要な事件であることを示していた。
そしてその判断が間違っていなかったことを、鐘が鳴り響く中、突如として屋根を突き破って現れた巨大な拳が証明したのだった。
厚い雲に覆われて、星も見えない闇の中、どこからか笑う紫の三日月の嘲笑が聞こえる。
ケタケタ、ケタケタ、ケタケタと
そしてそれに合わせて、どこからか美しくも冷酷な少女の笑い声が聞こえる
クスクス、クスクス、クスクスと
それはまるで、蟻の分際で巨大な象に挑もうとする者を嘲笑しているかのようであった。
続く