表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
四界戦記  作者: 活字狂い
6/17

第一部 黒界 帝都動乱篇  第二話 空中楼閣の女主人 終幕ー前ー


 底のない闇の中を、彼は一人漂っていた。




 その中で彼が感じたのは、不思議と安らぎであった。もう誰かを気にする必要などなく、温かい闇に抱擁され永遠に漂っていられる。そして最後には自分という個すらなくなり、周囲の闇と同化するのだ。そのことを夢見ながら、薄く笑みを浮かべた時である。



「残念ながら、それはかなわんな」

「・・・・・・・・・・・・え」


 


 自分以外何もないはずなのに、すぐ傍で誰かの囁くような声がした。



「まったく、“今回”は蜘蛛なんぞに殺されたか。そなたは死にやすいが、いくら大きくとも虫に殺されるとは思わなかったぞ・・・・・・まあいい、いつも通り戻してやろう。もっとも、目覚めればこの場のことなど何一つ覚えてはいないだろうがな」

「や・・・・・・だ」

「嫌だと言っても無駄なことだ。これは因果よ、その身に取り込んだ百の次元と完全に融合しておるのだ。ゆえにもうそなたに死という概念そのものが存在しない・・・・・・さて」


 ふと、声がやんだ。同時に闇の中に浸かっていた自分の身体を誰かの大きな手が掬い上げ、上へと運んでいく。やがて、遥か頭上に一筋の光が見えた。


「そろそろ起きる時間だ。目覚めるがいい、我が観察対象者よ」





 そんな、どこまでも冷酷で残忍で、そして心優しい声を聴きながら、彼の意識は光の中へと飲み込まれていった。











 日の光がまったく差さない暗い森の中、仲間が殺されたというのに百を超す巨大な蜘蛛たちは前足を掲げ、歓喜の叫びをあげていた。彼らからしてみれば群れの中の一匹が死んだことよりも、数か月ぶりとなる新鮮な肉が手に入ったことへの喜びのほうが大きく、また仲間が死ねばそれだけ自分の分け前が増えることの方こそが重要だった。何せ“獲物”は小さく痩せている。これでは皆で分ければわずかな肉しか得られないだろう。それでも久しぶりに口にできる新鮮な肉に蜘蛛たちはじりじりと包囲を縮め、そして先頭にいた蜘蛛が大きく口を開いた。



「やれやれ、随分騒がしいと思ったら、お前たちの仕業か、蜘蛛共」



 その時である。不意にどこからともなく若い娘の声がしたかと思うと、事切れた青年に飛びかかろうとしていた蜘蛛はひっくり返り、他の蜘蛛たちは皆、その目に恐怖の色を浮かべて後ずさった。いつの間にか自分たちの獲物である青年の死体の横に大きな靄のようなものができており、娘の声はその靄の中から聞こえていた。





「・・・・・・ふん、どうやら無駄足だったようだな」



 靄の中から現れたのは、右肩に大きな袋を背負い、眼鏡をかけた若い娘だ。長い金髪は先端が九つに分かれ、頭の上から生えている長い獣耳は、彼女が獣人族であることの証であった。分厚い丈夫な革製の服の上から白衣を背負っているが、服や髪は少々乱れているが、それは彼女がここに全力で向かってきた、何よりの証であった。だが



「タランテラの大群からよくここまで逃げれたと褒めてやりたいが、死んでしまってはすべては水の泡だ。だいたい、なぜ虫除けの香を持っていなかった?」


 しゃがんで事切れた青年の見開いている目をそっと閉じてから、女は憐れみを込めて呟いた。随分と見目麗しい青年だが、虫除けの香も持たずにこの森に入るなど、世間知らずもいい所である。


「恐らくどこぞの貴族の子弟だろうが、助かるようなら謝礼として金でもふんだくるところだが、完全に死んでいるのではな。死体だけでも持って帰って何かに使うか? マンドラゴラのいい苗床になってくれそうだが・・・・・・いや、これはタランテラの獲物だったな。なら自分が持って帰るわけにもいかないか」


 軽く頭を振って立ち上がり、最後に憐れみを込めた目で青年の死体を見て立ち去ろうとした時である。







 ドクンッ






「・・・・・・・・・・・・う」

「なっ!?」


 背後でわずかに聞こえた声に、常に冷静な彼女にしては珍しく、目を大きく見開いて振り返った。振り返った彼女の視界に、完全に事切れているはずの青年が微かに身じろぎしているのが見える。彼の死因になっている首の傷は、蜘蛛の牙ごときれいさっぱりなくなっており、白すぎる首筋に赤みがさしていた。



「馬鹿な、完全に事切れていたはずだ・・・・・・まさか蘇生したとでもいうのか」



 呆然としつつ近寄ると、しゃがんで彼の首に指を当て脈を探る。トクン、トクンという規則正しく脈の動きが彼女の指に伝わってきた。



「やはり生きているか、だがいったい何が原因だ? いや、今の問題はそちらではないか」



 周囲から感じる刺すようなな殺気を受け、女は苦笑しつつ立ち上がった。どうやら虫除けの香に対する嫌悪よりも空腹のほうが勝ったらしい。巨大な蜘蛛たちがじりじりと間合いを詰めてくるのを見て、だが彼女の顔には恐怖も絶望もなかった。それに苛立ったのか、彼女に近い所にいた数匹の蜘蛛が一斉に彼女にお襲い掛かる。



「やれやれ、技量の差もわからんとはな」



 だが、蜘蛛の牙も爪も彼女の柔肌に触れることはできなかった。飛びかかった蜘蛛たちは、彼女がわずかに目を細めるとその身体から火を噴出し、影も残らず燃え尽きたのだ。それを見て蜘蛛たちは慌てて後退した。彼らは悟ったのだ。自分たちが包囲しているのは獲物ではなく、その気になれば自分たちを一瞬で殺せるだけの相手だという事を。




「ふん、群れの仲間が殺されてようやく力量の差がわかったか。さすがに生きている者を食わせるわけにはいかんな。タランテラ達、この青年はもらっていく。だが安心しろ、タダというわけではない。代わりにこれをくれてやろう」



 後退していく蜘蛛たちを見て満足そうな笑みを浮かべると、彼女は右肩にかけていた袋を降ろした。その衝撃で目覚めたのか、先ほど捕らえて中に入れておいた二十匹を超す森ネズミがこれから自分たちに起こることを悟ってキーキーと騒がしく鳴き喚いている。その声と袋から漂ってくる好物の臭いを嗅ぎざわざわと何か相談するように騒めいた後、幾匹かの蜘蛛が恐る恐る進み出て、その前足で器用に袋を持ち上げると、文字通り蜘蛛の子を散らすように去っていった。



「やれやれ、ネズミはともかくその袋は高価な物なんだが・・・・・・まあいい、その代金も含めて、この坊やが目覚めたら請求することにしよう。さて、そろそろ大学に戻るか」


 

 いくらでも中に入れることのできる袋を持ち去った蜘蛛たちを苦笑しながら見送ると、彼女は青年の身体を持ち上げた。見た目以上に力のある彼女にとって人一人持ち上げることなど造作もないことだったが、そんな彼女からしてみても青年の身体は軽すぎた。




「何だ、随分と軽いな。さて、それでは戻るか・・・・・・ああ、森から脱出させた分も、後でしっかり請求するからな」



 いじわるそうにそう呟く女の周囲を、どこから現れたのか金色の火の粉が無数に飛び回る。それが彼女と青年の姿を覆い隠した時、パッと一際眩い光を放ってから火の粉が舞い散った後、其処にはもう誰の姿もなかった。














 誰かが自分の髪を撫ぜている



 




 その優し気な手触りに、アベルはぼんやりと目を覚ました。自分の身体が、なんだか暖かく柔らかい物に包まれている。まだ重い頭を上げると、彼は自分が金色の野原に寝そべっているのが分かった。さらさらと流れる草原の中で、彼は自分を撫ぜる誰かの手に心地よさそうに身をゆだねた。





「なんだ、目覚めたのならさっさと起きぬか未熟者め、膝が痛い」

「・・・・・・う?」




 不意に、頭上で女性の声がした。幼子をあやす母親のような声に、青年の意識がゆっくりと鮮明になっていく。



「あれ・・・・・・キュウ?」

「・・・・・・ほぅ?」


 遠い記憶の中、よく聞いていた言葉に見知らぬ誰かの顔を思い出し、思わずその誰かの名を呟いた時、




 ゾワリ





 と、周囲の空気が不気味に震え、一気に気温が下がった。




「少年・・・・・・君は私に膝枕されていながら別の女の名を口にするのか、いい度胸だ」

「え・・・・・・うわっ!?」



 感情を押し殺した低い声がした瞬間、彼が寝そべっていた金色の野原がいきなり捲りあがり、アベルは真っ逆さまに下へと落ちていった。だが、落下していた時間は一秒にも満たなかった。ゴツン、と後頭部をぶつけると、痛む頭部をさすりつつ起き上がって周囲を見渡す。どうやら、自分はどこかの部屋の中にいるらしかった。





(あれ? どうして僕、部屋にいるんだ?)



 記憶が正しければ、確か自分は不在だった副学長を探しに森に入ったはずだ、そして、そこで自分は巨大な蜘蛛の群れに襲われて、追いかけられて、それで



「うっ」



 自分にのしかかってきた蜘蛛の体臭と重さ、首に突き刺さる牙の冷たい感触を思い出し、アベルは咄嗟に口元を抑え、こみあげてくる吐き気を身体を丸めて懸命にこらえた。そんな彼の様子を見て軽く息を吐くと、女は腰かけていたベッドから降り、涙目になっているアベルの背中を普段の彼女を知っている者が見れば驚愕するほど優しいな手つきで撫ぜてやった。





「もう落ち着いたか?」

「は、はい。ご迷惑をおかけしました、申し訳ありません」



 それから数分後、良いう役吐き気が収まったアベルは、目をごしごしとこすりながら立ち上がると、それまで自分の背中をさすってくれていた目の前の女性に深々と頭を下げた。



「礼はよい、それよりいくつか質問に答えてもらおう。おっと、その前に自己紹介と行こうか。私はココノ、ココノ・スプリングスという。非才なる身ではあるが、ここ帝立大学において副学長及び自然科学科の学科長を務めている。さて、君の名は?」

 

 青年の礼にそっけなく応えると、ココノはベッドに腰かけ、懐から愛用の煙管を取り出し一口美味そうに吸った。


「貴女がスプリングス教授だったんですか・・・・・・あ、すいません。自己紹介が遅れました。自分は帝都の下町、および周辺の集落を守護する騎士団の一つ、黒羊騎士団団長直轄の特別分隊で分隊長を務めます、アベルと申します。大学には、スプリングス教授に用があってまいりました」

「アベル・・・・・・黒羊騎士団の騎士だと? これは少々困ったな」

「え? その、何か失礼なことを言ったでしょうか・・・・・・あれ?」



 こちらの名を聞いた時、ココノはふと何かに気づいたように片眉をほんの僅か上げ、煙管を何度か吸い、忌々しそうに髪をかき上げた。そんなどう見ても機嫌の悪そうな彼女に謝罪しようと頭を下げかけた時である。アベルの目に、彼女の金色の髪に隠されていた長耳と、背後で不機嫌そうに揺れる髪と同じ色をした大きな尻尾が映った。


「あの、一つ確認したいのですが、もしかして獣人族の方でしょうか」

「ん? なんだ、私に用があったのにその事を知らなかったのか・・・・・・まあ良い。確かに、私は九尾族の出身だ」

「きゅ、九尾族って・・・・・・まさか、始祖一族の!?」



 ココノの言葉に、アベルは顔を真っ青にした。帝国にいる獣人族はセフィロトが解放宣言を出すまで奴隷の身分であったが、全ての獣人族が奴隷として扱われていたわけではない。一部の種族は“決して怒らせてはならない種族”と言われ遥か昔から畏怖され、その中でも帝国の前身であった小国がこの地に興る前、今とは全く形状が違う黒鳥城の周辺を囲んでいた黒深き森といわれている森林に住んでいた九尾族などの種族は“始祖一族”として崇拝と尊敬の的ですらあった。



「あの、土下座すれば許してくれますか?」

「なぜ土下座をする必要がある? 別に怒ってはいない。君の不用心な行動のせいで大損をしたことは確かだがな。まあ金貨にした五百枚ほどの損失だが、下級騎士団の分隊長に払える金額でもないからな、今度、別の形で支払ってもらうことにするさ。それより次の質問だが・・・・・・」



 自分の提示した金額に青ざめる若者を面白そうに眺めると、ココノは煙管に口を付け強く吸い、ゆっくりと吐き出した、彼女の口から出た煙が大きな輪っかになって、天井に上っていく。



「青年、君はどうして虫除けの香を焚かず森の中に入った? タランテラは香には弱いが火にはめっぽう強い。だいたいなぜ護衛も案内人も雇わず、松明一つという貧弱な装備で森に入ろうと思ったんだ?」

「えっと、森に入ったのはスプリングス教授をお探しするためです。あと、森には灯一つ持っていけばいいって、クァートさんに言われて」

「まて、先ほども私に用があるといっていたが、そもそも私は来客の連絡は受けていないぞ。それにクァートだと? 誰だそれは」

「え? あの、教授の助手と自己紹介されたんですが、違うんですか?」



 困惑した表情でそう尋ねるアベルに、ココノは重々しくうなずいて見せた。



「まったく違う。私は研究上、どうしても危険な場所に行ったり毒性の強い植物を扱うことが多いからな、助手は取らないようにしておるのだ」

「えと、じゃあ僕に助手と名乗ったクァートさんは、いったい誰だったんでしょうか」

「さあな、想像なら何百通りもできるが、真実はその男しかわからぬだろうよ。まったく忌々しいことだ。要するに私の大損も、その男のせいなんだからな」




 苦々しい顔をして、再びココノは煙管に口を付けたが、すぐに口を離すと忌々し気に近くの壁に叩きつけた。カンっと甲高い音がして、煙管の中に詰まっていた煙草がこぼれ落ちる。何度か叩いて吸い殻をすべて落とすと、ココノは懐から別の煙草を取り出し、煙管の中に入れると指をパチンと鳴らして火をつけ、ゆっくりと吸った。



「・・・・・・」

「ん? ああ、もしかして苦手か、これ」

「え、ええ。少し」



 アベルはココノの言う通り下級騎士団の所属であるため給料が安い。そのため数少ない友人と飲みに行くのは場末の酒場だ。

そこは様々な賤業を行っている客がおり、中には崩れた格好の娼婦たちもいて彼女たちはアベルを見かけると近寄ってきて、たばこの匂いが染みついた服装でしなだれかかってくるのだ。それが好きではない、はっきり言うと嫌で仕方のないアベルにとっては、煙草の匂いももそれと同じぐらい苦手だった。



「そうか、だがこれには害はないぞ。体にいい薬草を混ぜて作った、この私特性の煙草だからな。どうだ、少し吸ってみるか?」

「えと・・・・・・じゃあ、少しだけ」




 だが、ココノが差し出す煙管からは、その嫌な臭いはしなかった。どうやら本当に身体によい薬草だけを詰めた物らしい。差し出された煙管のすい口に恐る恐る口を当て少しずつ吸っていくと、口と鼻の中に涼し気なハーブの香りが漂い始めた。



「ん・・・・・・いい香り、ですね」

「そうか、それはよかった。では改めて質問するとしよう。君は何者で、一体どこの所属だ?」

「えと・・・・・・名前はアベルで、所属は黒羊騎士団です」

「ふむ、それで? 君はいったいどうして森に入った?」

「それは・・・・・・スプリングス教授にお会いしたかったのですが、教授の弟子であるクァートさんから、教授は森に入ったと聞いて・・・・・・」

「・・・・・・なんだ、嘘は言っていなかったようだな、つまらん」




 実は九尾族である彼女には効かないが、煙管に詰めた薬草の中には自白剤の原料である薬草が混じっている。それ単体では効果は薄いが、それに自分の暗示を加えると、立派に自白剤としての役目を果たしてくれるのだ。もっとも、確かに身体によい薬草も入っているため、彼女の言葉は嘘ではなかった。




「しかしそうなるとこの大学にはクァートなる者がいたことになる。だが私が知っている限りでは、この大学の学生、教職員に至るまでそんな名前の者はいなかったはずだ。ならば偽名か・・・・・・だが偽名を

使うとしてもなぜ私の助手などと名乗った? この部屋の物を盗むのが目的だったか? まあいい、次の質問に移るとしよう。君は、どうして私に用があった?」

「えっと・・・・・・それは、僕の担当する集落で井戸に毒が投げ込まれる事件があって、教授が毒に詳しいから投げ込まれた毒の正体と、できれば解毒剤を調合してもらってほしいと頼まれたので」

「毒、か。確かに私は毒については詳しい。だが、それはほとんど知られていないことだぞ、君にそれを頼んだ人の名を教えてくれないか?」

「はい、ええと、僕に依頼をしたのは集落で商会を営んでいるグレイプリーさんです」

「グレイプリー殿だとっ!?」


 自分に依頼をした空中楼閣の女主人の名を口にした時、それまで全く表情を変えずに彼の話を聞いていたココノが驚きの声を上げた。その驚愕した顔をぼんやりとする意識の端に留めながら、アベルはゆっくりと頷いた。


「はい、あの・・・・・・お知り合いなのですか?」

「それは君には全く関係ないことだ。しかし、よりにもよって“あの方”の頼みか、これは断るわけにはいかないな」

「えっと・・・・・・じゃあ」

「ああ、その毒の解析、引き受けさせてもらおう。だがその前に最後の質問がある。青年、君はいったい何者だ?」

「何者って、僕は単なる黒羊騎士団の分隊長で」

「その単なる分隊長が、どうやって即死の状態から復活した?」

「え・・・・・・?」



 アベルのどこか弁明た言葉に重ねるように、ココノの冷徹な声が辺りに響く。それは。まるで尖った氷の刃のように青年に突き刺さった。



「そ、それは・・・・・・僕、身体が頑丈だから、それで」

「身体が頑丈だから即死の状態から復活したなどと聞いたことがないぞ。私は友人に頼まれて何度か検死をしたことがある。むろん専門の検死官には及ばんがね、その私から見ても、発見した時君は間違いなく死んでいた。何せタランテラの巨大な牙が首に深々と突き刺さっていたのだからな。それだけでも即死は間違いないのに、それに加えてタランテラの牙から滴る巨象すら一滴で即死させる劇毒が君の身体に流れ込んだのだ。はっきり言って君の身体が原形をとどめているのが不思議なぐらいだ。もう一度聞く、青年・・・・・・君は一体“何”だ?」

「・・・・・・・・・・・・わ、分かりません」


 数十秒ほどの長い沈黙の後、アベルはほとんど聞こえないほどか細い声でそう答えた。訝しむココノに、彼はぽつぽつと自分が三年前より記憶喪失であること、目覚めたら大河近くの病院の一室だったこと、その後行き場もなく途方に暮れていたところを帝都の城壁外で農園を営む養母に引き取られたことなどを話した。



「ふむ、なるほど。記憶喪失か」

「え・・・・・・信じて、くれるんですか?」



今まで自分が記憶喪失だと初めて告白した相手のうち、五割の人からは嘘つきと罵られ、残りの三割からは蔑まれ、さらには嘲笑され、純粋に信じてくれたのは騎士団長であるミネルヴァやクレア、養母であるアナスタシアなど一部の人々だけであった。


「君が嘘を言っていないことぐらいはわかるさ。しかし三年前から記憶がないか、頭部に何らかの衝撃を受けたか、それとも心理的な物か・・・・・・どちらにせよ私は医者ではないから判断することはできない。まあ、記憶を取り戻したければ専門家に相談するのが一番いいだろうな」

「そうですね、その・・・・・・ありがとうございます」

「別に礼を言う必要はない。結局私は君を治していないのだからな・・・・・・っと、これ以上は吸うな、こちら側に“戻れなくなる”ぞ」


礼を言いつつ、再び煙管の吸い口に口を付けようとした青年を止め、ココノは煙管を懐にしまった。この煙草には中毒性のある薬草は含まれていないものの、中には短時間のうちに摂取し続けると精神が肉体からはく離したような現象になる薬草も含まれている。


「あ、すいません・・・・・・あれ?」



 彼女の言葉にアベルは慌てて謝罪し、そしてふと辺りを見渡した。先ほどまで煙草を吸っていたためぼんやりとしていた彼の意識が、吸うのを止めたため徐々に鮮明になってきたのだ。




「そ、その、ちょっとぼぅっとしてしまったのですが、何か失礼なことを言ったりしていないでしょうか」

「失礼なこと? いや、君には主に私の質問に答えてもらったぐらいで、失礼なことなど何もなかったが・・・・・・さて、それより先ほど話してくれた、私に調べてもらうために持ってきたという毒を見せてもらおうか」


「あ、はい。これです」



 ココノに促され、アベルは下位の騎士に支給品として配られる、分厚い黒羊の皮を加工して作られる制服の裏側に縫い付けた布をベルトに付けた小刀で少しずつはぎ取ると、その中から溶かした蝋で封印した小袋を取り出し、彼女に差し出した。




「確かに受け取った。なるほど、確かに封印のための蝋にあの方の印がしてあるな。どうやら君がグレイプリー殿の使いであることに間違いはなさそうだ。そして」




 小袋を封じた蝋の上に押された印を見て頷くと、ココノは指をぱちりと鳴らした。すると彼女の顔の右側にぽっと小さな火の玉が浮かび上がる。浮かび上がった火の玉はゆらゆらと彼女の持っている小袋の上まで下りてくると、口を封じている蝋だけを器用に溶かしてから、ふっと掻き消えた。火が消えたのを確認してから袋を開けると、ココノは中から細長い透明な瓶を取り出し、じっと眺めた後、蓋を外してそっと中の匂いを嗅いだ。



「さて、どうやら井戸水に溶けたものをそのまま持ってきたようだが、それでもあまりに無色無臭、そして透明か。まさか、九尾族であるこの私の鼻ですら何の匂いもしないとはな。なら次だ」


 ぶつぶつと呟いて立ち上がると、ココノは仮眠用のベッドのわきにある白い机に向かい、その上に置かれている細長い機械の下部に瓶の中の液体を一滴だけ落とすと、椅子に座って上の筒のような部分をのぞき込んだ。アベルは知らないが、それはつい昨年研究所で開発されたばかりの顕微鏡という物で、微小な物体を視覚的に拡大させる道具だった。


「ふむ・・・・・・何も見えないか」



 数分ほど細長い筒をのぞき込んでいたココノは、のぞき込むのをやめると顔を上げて頭を振り、アベルのほうを向いた。


「あの、何かわかったんでしょうか?」

「ああ、単刀直入に言おう。青年、これは毒ではない」

「え、毒じゃないんですか?」



 ココノの口から飛び出した言葉に、アベルが呆然とそう呟くと、彼女は肯定するようにゆっくりと頷いた。


「もっと言うと、毒は副次的な効力にすぎない。これの本来の効果は“呪い”だ」

「呪い・・・・・・ですか?」

「そうだ。毒という物はそもそも生物にとって有害な微生物の事を言う。それは色や匂いなどで判断でき、たとえ無色無臭であっても顕微鏡などで拡大すればその正体が判明する。だがこれは」


 そこでいったん言葉を切ると、ココノは手に持った小瓶を揺らしてみた。瓶の中、透明な液体はゆらゆらと揺れている。


「これにはその微生物すらまったく見えない。要するにそんな微細な生物すら生きることを許されない代物という事だ。そしてそのようなことはこの世界にあるどのような毒もできることではない。だが、私が知る限りただ一つだけ可能なものがある。それが呪いだ。さて、証拠を見せよう」



 液体をもって慎重に立ち上がると、ココノは入り口付近にある棚の方へと向かった。棚の上には巨大な水槽が一つ置かれており、海水で満たされたその中には水槽の半分ほどの大きさを持つ棘が何本も飛び出している、グロテスクな姿をした魚が悠々と泳いでいた。


「えと・・・・・・教授、何ですかその魚は」

「こいつは十年ほど前に西方の海都オルデウスの沖で獲れた、毒に対し非常に強い耐性を持った魚を幾度も交配させて作りだした新種でな、もうどのような毒も効かない。そろそろ処分しようとしていたのだが・・・・・・まあ、少し見ていたまえ」

 グロテスクな魚を見てひきつったような顔をする青年を面白そうに眺めた後、ココノは水槽の脇に置かれていた濃い紫色の液体が入ったガラス瓶を持ち、躊躇することなく水槽の中に中の液体を入れた。


「今私がいれたのは様々な毒草を混ぜ合わせて作り出した劇物だ。どんな解毒薬もなく、口に入れずともも不用心に触れれば数秒で死に至るものだが・・・・・・おっと」



 紫色の液体が水槽の中いっぱいに広がってから覗き込もうと顔を知被けたココノの目の前で、水がばしゃりとはねた。身をひるがえして毒水の直撃を避けると、彼女は舌打ちしつつ指をぱちりと鳴らした。すると水槽の中の毒々しい紫色をした水が瞬時に蒸発し、水槽につながっている管から透明な海水が再び水槽を満たしていく。その水槽の中では、触れれば数秒で死に至る毒水に浸っていたにもかかわらず、巨大でグロテスクな魚が一匹、何事もなかったかのように泳いでいた。


「これは・・・・・・すごいですね」

「ああ、確かにすごい。だがそれ以上に厄介だ、なにせ毒は全く効果がないから実験もできないし、味も非常にまずくて喰えたものではない。さて、それでは君から預かったこれを入れてみるか」


 再び海水で満たされた水槽の中に、ココノは先ほどアベルから預かった瓶の中身を一滴垂らした。その雫は、水槽の中に真っ逆さまに落ちていき、音もなく海水の中へと沈んでいった。



 だが、それからの変化は劇的だった。雫が水槽に墜ちて数秒とたたないうちに先ほどの独など股く意に介さなかった魚が、その巨体をじたばたと暴れさせたのである。


「なっ!? いったい何が」

「魚の尾の部分をよく見てみるといい」



 魚の動きに青年が顔を引きつらせているその横で、ココノが水槽の口に近い所にある魚の尾の部分を指で指示した。その指の先を目で追った青年の目に、魚の尾がその先端から徐々に崩れていくのが見えた。恐らく魚の身体は、今想像もつかないような激痛に襲われているはずである。それを証明するかのように、魚は水槽から逃れようとその大きな頭を水槽の壁に打ち付けている。その動きはどこまでも必死で、魚の頭はすでに血まみれになっていた。だがよほど頑丈なのだろう、どれほど激突しても、水槽は僅かに揺れるだけで皹一つ入ることはなかった。逆にその体は徐々に崩れていく。そして巨体の半分ほどが崩れ落ちた時、魚は一度大きく震えた後、その動きを止めた。


「・・・・・・スプリングス教授、いったい何が起こったんですか?」

「魚を呪いが食らった、それだけの事さ」



 水槽の半分ほどの大きさを持った魚の身体が、物の数秒で崩れ落ちたのを見たアベルが、空になった水槽を眺めつつ尋ねると、ココノは先ほどの光景を忘れようとしているのか、煙管に口を付けつつ呟いた。


「井戸の水を飲んだ集落の住人が死んだといっていたな、その死者はおそらく身体のほとんどが“なかった”はずだ。先ほどの魚の様に、その身を呪いで喰らいつくされてな・・・・・・さて、それではそろそろこの液体の正体について語るとしよう。これは竜呪の実を絞ったものだ」

「竜呪の実・・・・・・ですか、名前だけ聞いていると、なんだか竜族に関係するもののようですけど」

「ほう、よく気が付いた。君はなかなか聡いな」


 アベルの言葉に、ココノは満足げな笑みを浮かべた。それはまるで、お気に入りの教え子が自分で正解にたどり着いたのを喜ぶ教師が浮かべるような笑みに似ていた。


「その通り。君もこの四界で最も強大な生物が竜であることは知っているだろう? そして強大な力を持っているがゆえに傲慢で誇り高い。その誇り高い生物が、この世のありとあらゆる屈辱と汚辱と責め苦を味わい、絶望と怨嗟の中で死んでいった後、その死骸の角から生えるのが竜呪の実だ。この私ですら、実物を見るのはこれで二度目だ。なにせ黒界で最後に使われたのは、継承戦争の際だというからな。レフィロスでさえ、これを使おうとは思わなかった」

「それで、何か解呪の方法はあるのでしょうか」

「解呪か・・・・・・取り繕っても仕方がないからはっきり言うが、ない。何せ竜呪の実一個で集落全ての生物を呪い殺すことが可能なのだからな。被害が井戸一つで済んでいるならむしろ軽いものだ。恐らく実を絞って出てきた雫を一滴か二滴使っただけだろう。それだけならば周囲に呪いが広がることはない。対処法としてはその井戸を埋め、その上に碑か何かを建てて竜の魂を鎮めてやることだな」

「そうですか・・・・・・分かりました、ありがとうございます」


 液体の入った小瓶を渡され、解毒剤がないというココノの言葉に肩を落とすと、アベルは礼を言って立ち上がった。毒、実際には呪いの正体が分かり、解呪の方法はないものの対処法もわかった。早くこのことをグレイプリーに伝えなければならない。本来なら昨日のうちに終わる仕事が、自分の不注意で今日までかかったのだ。急いだほうがいいだろう。


「スプリングス教授、ありがとうございました。集落に戻らなければなりませんので、これで失礼いたします」

「そうか、なら正門まで送っていこう」

「いえ、この液体について教えていただいたのに、さらに御手を煩わせるわけには」

「構わない、どうせ散歩のついでだ。それにこの大学は広い。何せマクシミリアン殿が作られてから随分と増設を繰り返したからな。一歩迷うと、おそらく一生出られんぞ」

「え、そうなんですか? 外から見ただけではそんなに広くはないと思うんですが」

「目に見える物だけが真実ではないという事さ。さて、そろそろ出るぞ」


 困惑している青年を見て面白そうに笑うと、ココノは廊下に続く扉に近づき、ゆっくりと開けた。



 巨大な轟音が聞こえたのは、その時であった。





「・・・・・・やれやれ、硫黄は少しでいいといっているのに、なぜいつも入れすぎるんだ、まったく」















「あの青年・・・・・・いや、坊やが“セフィ”の恋人とはな。才あるが苛烈な彼女が惚気るなど、どれ程優れた男だと思っていたが、まさか顔がいいだけの凡人とはな。しかもまだニ十歳にもなっていない子供同然の年齢だ。セフィめ、意外と面食いで、しかも年下が好みであったか」



アベルとココノが正門に着いたのは夕刻、ちょうど集落に向かう今日最後の馬車が到着した時だった。この馬車を逃せば集落まで徒歩で行くか、明日までここに泊まるしかない。何度も頭を下げて礼を言いながら馬車に乗り込んだアベルを小さく右手を振って見送ると、帝立大学の副学長にして皇帝パールの側近中の側近、“黙示録の四姉妹”が一人にして筆頭執政官であるセフィリアの対等な盟友、パールの相談役であるココノ・スプリングスは小さく息を吐いた。


「たとえ弱小の騎士団といえど、それを指揮する団長は少なくとも伯爵以上の帰属が任命されるだろう。なら坊やからではなく団長殿から謝礼金でも貰おうと思ったが、さすがに盟友の恋人から金をむしり取るわけにはいかないからな。しかし、そうでもしないと予算が足りんとは・・・・・・学長め、本気で私を干そうと考えているようだな」


数年前、教職員たちが反対したにもかかわらず、ブランヴァイク公の親戚というだけで学長の座についた豚のように肥え太った脂ぎった思い出したくもない男の顔を思い出し、彼女は吐き気を誤魔化すかのように唾を吐いた。一年前に廊下でばったり会った時、彼女は学長に、彼がどれだけ無能でこの大学に多大な損害を与えているのかを、大多数が見ている前で長々と指摘してやったのだ。思いっきり嘲笑と侮蔑を込めて。

それからである、彼女の研究室に予算がほとんど出なくなったのは。





「まあいい、それならそれで“また”大学を去ればいいだけの話だ。セフィが所長を務める帝国研究所にでも潜り込むとしよう」


 そう呟いた時、ふと眠気が襲ってきた。そういえば昨日までは森を探索していたし、昨夜も仮眠用のベッドを青年に貸したためろくに眠っていない。今日はしっかりと眠ったほうがよさそうだ。そう思って踵を返し、研究室に向かおうとしていた足がふと止まった。視線の先には、来客者の手続きをする受付所がある。


「・・・・・・」


 しばらく考えてから、ココノはその建物へと歩いた。中へ入ると、ちょうど顔見知りである、ハルピュイア族の受付嬢が書類の整理をしている所だった。



「すまない、邪魔をするぞ」

「あら教授、珍しいですね、こちらに来られるなんて」

「ああ、ちょっと野暮用でな。それより一つ聞きたいのだが・・・・・・君、昨日私を訪ねに誰か来なかったか?」

「昨日ですか? いえ、“誰も尋ねてきませんでした”けど」

「・・・・・・そうか、わかった。時間を取らせたな」


 いえ、と小さく頷いた受付嬢にひらひらと手を振って建物を出ると、ココノは眉間を顰めてぱちりと指を鳴らした。同時に周囲の景色が揺らぎ、だんだんとぼやけていく。そして周囲に何があるのか完全にわからなうなった時、彼女はすでに自分の研究室へと戻っていた。




「・・・・・・ふん」



 自分の研究室に転移したのを確認すると、ココノはアベルが横になっていたベッドに近付き、ドカリと腰を下ろした。そのまま近くの引き戸を開き、中に入っている瓶を取り出す。中に入っているのは金色に輝く液体、帝都西部にあるイスファール伯爵領で作られている最高級の蜂蜜を使用した蜂蜜酒と、それを注ぐ小さな杯だ。彼女はこれを眠る前に一杯だけ飲むのを楽しみにしているのだが、今日彼女はそれを立て続けに二杯呷り、盃に三杯目を注いだ。



「今回の件、不審なところが多すぎる」



 先ほどと違い、盃に注いだ蜂蜜酒を舐めるように口にしながら、ココノは自分に言い聞かせるように口を開いた。何か疑問に思うことがあれば、それを口に出す。たとえ聞くものがいなくとも、自問自答すればいずれは真実に近づく、それが彼女の考えであった。



「まず、“あの方”が支配する集落で、いったいどうやって呪いを井戸に入れることができた? 文字通り支配地をまるで自らの巣のように把握している方だ。とてもそんな不手際をするとは思えん。そもそも竜呪の実は黒鳥城の地下深く、“坑呪の域”にて厳重に栽培、保管されている物しか黒界にはないはずだ。それがなぜ帝都郊外にある集落の井戸なんかで検出された? それに」



 小さな杯の半分ほどまで減った蜂蜜酒を一気に飲み干し四杯目を注ぐが、元々それほど入っていなかったのか、盃の半分ほどまで注ぐと瓶は空になった。チッと舌打ちしつつ空になった瓶を引き戸の中にしまうと、ココノは金色に光る盃の中の液体をぼんやりと眺めた。



「それにもう一つの問題の方も気になる。坊やが出会ったというクァートなる者、そして確実に受付を通ったはずなのにそれを知らぬ受付嬢・・・・・・あの受付嬢は私の知り合いで熱心に仕事をするし、嘘がつけぬ性格だから嘘をついているとは思えん。ならばあの坊やはいったい“誰”にあったというのだ? それに私の助手を名乗った不審な男、話ではこの研究室から出てきたようだがいったい何をしていた? やはり一度行くしかないか、黒鳥城に」



 蜂蜜酒の補充もしなければならんしの。頭の中でそう思いつつ、ベッドの端に畳んであった毛布を引き寄せると、ココノはそれに包まり、ゆっくりと目を閉じた。



























「来たぞ、あれだ」

「ふん、情報通りの時間帯だな」



 翌日の事である。紫色の笑う三日月が薄れ、黒鳥城の頂にあるクリスタルが淡い光を放ち始めた早朝、中央平原の南西に伸びる街道を、帝都に向けて三台の馬車が走っていた。一番前の馬車は幌馬車で、後ろに続く二台は荷馬車である。荷馬車の上にはつぎはぎがされた黒い布がかぶさっており、何を運んでいるのかはわからなかったが、三台とも随分ボロボロであり、長年酷使されたのが遠くからでも一目で分かった。




 その馬車を、街道から少し外れた茂みの中に隠れて眺める二人の男がいた。どちらも随分と薄汚れており、錆の浮いた安物の剣や手製の槍を持っていることから帝都の裏街に住むごろつきか何かだと思われた。




「へっ、今から自分たちに何がされるかもわからず、暢気に進んでいやがる」

「この辺りは帝国軍が巡回しているからな。しかし本当にあいつらなのか? 間違っていたら洒落じゃすまされんぞ? それに帝国軍に見つかったらどうするつもりだ」



 へらへらと笑みを浮かべる相方と比べ、幾分慎重なのだろう、手製の槍を肩に担いだもう一人のごろつきが、近づいてくる馬車を見て不安げな表情をした。


「はんっ、この街道の先にあるのは獣人共の集落だけだ。数百年前まで奴隷だった奴等が何人死のうが、誰も気にせんだろうよ。それに帝国軍だろうが何だろうが、“旦那”が“あの御方”と呼ぶ存在には逆らう事なんざできやしねえ。後はあの馬車を襲って物資を奪うか破壊しちまえば、あの女の評判はがた落ちさ」

「そして“あの御方”とやらが集落を乗っ取る・・・・・・か。まったく、よく考えたものだ。とにかくさっさと終わらせてしまおう」

「そういうこった。おいお前ら、さっさとやるぞ」


 槍を構えなおした相方の言葉にへらへらと笑いながら同意すると、男は後ろを振り返り、木々が生い茂る森の中に声をかけた。その声におうっと答えながら、森の奥から二十人を超す男たちが現れる。彼らは皆見張りをしていた男二人と同じようにみすぼらしい格好をしており、手には粗末な県や槍、弓などを持ち、一目でごろつきと分かる格好をしていた。




「それで、作戦はどうする?」

「はっ、そんなものいるかよ。相手は貧しい獣人共だ。奇襲して混乱しているところを囲んでやれば、大した抵抗もなくぶち殺せるさ。先に行くぜっ!!」

「お、おい待て、早まるなっ!!」



“仕事”を成功させて得られる報酬を想像したのか、それともただ殺しが好きなのか、剣を抜いた男が茂みから飛び出して馬車へと向かっていく。それを見た相方の男が慌てて制止しようとするが、その声は男に続く二十人以上の仲間の足音にいともたやすくかき消された。


「ええいっ、これでは作戦も何もないかっ!! しかし・・・・・・どうしてここまで落ちぶれたのだろうな、私は」


 かつて帝国軍南部方面軍に所属し、とある理由から軍を除隊後に帝都に移り住み、そのままずるずると落伍していった男は、自嘲気味に笑いながら槍を構えなおすと仲間の後に続いて走り出した。




「うらぁあああああっ!! 死ねやぁあああああっ!!」




 いきなり飛び出した自分に驚いたのか、痩せた老馬が驚いて前足を上げて立ち止まる。馬が引いていた馬車がそれに合わせて少し乱暴に止まると、後方の二台も慌てて停まった。老いた馬などには目もくれず、男は錆びの浮いた剣を構えながら馬車の中に飛び込んだ。貧しい獣人はいつでも逃げることができるように、旅をする際は家族全員で移動する。恐らく今回も女子供を引き連れて移動してきたのだろう。物心ついたころから両親はおらず、裏路地で強請やたかり、高利貸しの借金の取り立てや用心棒、時には頼まれて殺しまで請け負ってきた荒事に慣れきっている男にとって、女子供を殺すなど簡単なことであった。馬車の薄暗い中、最初に目に飛び込んできた人影に向かって剣を振り下ろす。だが




「たわけが」




 それよりずっと早く、突き出された槍の穂先が男の額を貫き、彼の頭はまるでザクロの実のように弾け飛んだ。


「な、何だよっ、おい、止まれっ!!」

「む、無茶言うなっ、後ろから来てるっていうのに、急に止まれるかっ!!」


「ふん、統制が全く取れていない。アベルの言ったとおり単なるごろつきの群れのようだな。こんな見え透いた罠にまんまと引っかかるほどだから無理もないか。おい、そろそろ擬態を解け」

「あいよ、姐さんっ!!」


 

 馬車に飛び乗った男の頭がはじけ飛ぶのを見た近くの仲間が慌てて止まるも、後ろからやってきた仲間に押されて前につんのめる。体勢を崩した相手の鳩尾を柄で突いて昏倒させ、思鉄製の鉄仮面と鎧に身を包んだクレアが後ろの荷馬車に手を振って合図すると、その合図に応えて荷馬車にかかっていたつぎはぎだらけの大きな布がばさりと取り払われた。



「こ、こいつら、獣人じゃねえぞっ!!」



 ごろつきの言う通り、荷馬車の中に隠れていたのは貧しい獣人などではなく、完全武装とは言わないまでも硬く厚い牛の皮をなめして作った皮鎧に、磨いた剣や槍を持った十数人の男達だった。中でも目を引くのは、先ほどクレアの呼び声に応えた身の丈二百セイルに届かんばかりの巨体を持った、上半身に何も着込んでいない赤ら顔の大男である。赤く逆立つ髪を持つその姿は、まさしく鬼を思わせた。


「残念だったな、弱いものしか相手にできない屑共が。うぉりゃっ!!」



 そのまるで鬼のような大男、黒羊騎士団特別分隊に所属する衛兵の中で最も巨漢であり、それに見合う怪力の持ち主であるビックスは、自分の背丈を軽く超すほどの長さをした鉄の棍を持ち上げると、乱暴に振り回した。その一撃は近くにいたごろつき数名をまとめて薙ぎ倒し、中でも先の方にある膨らんで棘がついている部分を顔に受けたごろつきは、何が起こったのかわかる暇もなく絶命した。


「おいビックス、なるべく殺すな。こいつらの背後にいる奴のことを話してもらわなければならないからな」

「すいやせん姐さん、おいお前ら、聞いた通りだ。なるべく殺すなよっ!!」

「へいっ」

「がってんだ、班長」


 棘を頭に受けて即死した男が倒れるのを見て、槍を振るってさらに二人のごろつきを無効化したクレアがビックスに苦言をこぼすと、大男は笑いながら自分の率いる数人の衛兵に声をかけた。彼が率いる班に所属している衛兵は荒事を好む荒くれ者が多い。それぞれにやりと笑みを浮かべると、手に持ったさす股や長い木の棒を使ってクレアやビックスが無効化したごろつきを抑え込んでいった。


「やれやれ、相変わらずビックスさんと、彼が率いる衛兵の方々は野蛮で粗暴ですね。捕縛するにしても、もう少しやり方という物があるでしょうに」


 彼らの乱暴な捕縛の様子を見ながら、馬車の反対側で衛兵のもう半分を指揮するウエッジは呆れたように首を振った。彼は大男であるビックスと違って中肉中背に面長な顔、細い目とあまり争いごとには似合わない格好である。実際、いつもは巡回する傍らコールと共に事務仕事を行うことも多い。


「まあいいでしょう、私たちは私たちのやり方で捕縛するだけです。いつも通り無力化していきますので縄を打っていってください」

「はい、了解です」


 しかし、その実力はビックスに勝るとも劣らない。ビックスのほうがその巨体に見合った剛腕を得意とする代わり、彼は細剣を自在に操り、一人一人確実に無力化していく。演習で班同士の戦いになると、最後まで残っているのはいつもこの二人だった。



 シュっと風を切る音とともに、ウエッジの操る細剣がごろつきの肩や手首、足首に突き刺さる。傷はそれほどでもないが、いわゆる急所を狙っているため相手は今まで通り武器を持っていることができない。武器を取り落とした相手に、彼が率いる衛兵が二人一組になって瞬く間に縄を打っていく。こうして、二十名以上いたごろつきの群れは、わずか数分足らずで鎮圧された。




「・・・・・・ふう、こんなものですか。副隊長、そちらはどうですか?」



 無力化したごろつき達が捕縛されるのを見て息を吐くと、ウエッジは馬車の反対側にいるクレアたちに声をかけた。


「ああ、こちらも終わった。ビックスが脇腹を負傷した以外には、特に怪我をした者もいない」

「おやビックスさん、負傷されたのですか」

「うるせぇな、最後の奴が意外と手強かったんだよ」


 クレアの言葉に眉をひそめたウエッジがビックスの方に目を向けると、彼は応急処置のため薬草をしみこませた布を脇腹に当て座り込んでいた。もっとも顔色が悪くなく、軽口を叩けるところを見ると傷自体は深くないのだろう。彼の横ではごろつきが一人、縄を打たれて項垂れており、傍らには穂先に血の付いた粗末な槍が落ちていた。


「だから言っているでしょう、上にせめて服でも着てくださいと。人の忠告を聞かないからそういう羽目になるんですよ」

「いいじゃねえか、集落の中ではちゃんと着てんだから。窮屈なんだよ・・・・・・しかし姐さん、こいつ何者ですかね」

「あの槍さばきは拙いながらも正規の訓練を受けた者の動きだった。恐らく軍人崩れだろう。それがまさかごろつきにまで落ちるとはな。それで、何人捕縛できた?」

「ああはい、襲い掛かってきた二十四名のうち、死亡したのが十名、捕縛したのが十四名になります。こちらの被害としては、ビックスさんが脇腹を負傷した以外は大した怪我もありません」

「そうか・・・・・・よし、撤収準備を行う。一台目の荷馬車に捕縛者を、二台目の荷馬車に死んだ者たちの亡骸を乗せて集落まで帰るように。ビックス、お前は集落に着いたら後は休んで医者に診てもらえ。破傷風になる疑いがあるからな。ウエッジはすまないがコールと共に捕縛者を牢に入れる手続きを取ってくれ」

「帰るようにって・・・・・・副長はどうなさるんです」

「私か? 私はそうだな・・・・・・」

 自分の指示に頷きつつ首をかしげながら言ったウエッジに、クレアは周囲を見渡した後、先ほど自分たちが馬車で通ってきた街道の先を眺めた。


「少々気になることがある。暫くは帰れん」

「そうですか・・・・・・分かりました、後の事はお任せください。皆、聞いていましたね。乗車準備ッ!!」


「「「はいっ!!」」」




 クレアの言葉に頷いたウエッジが周囲で見守っている仲間に声をかけると、皆捕虜を引き立て、あるいは死体を二人一組になって馬車に乗せる。日頃から訓練をしている賜物か、その動きはきびきびとしたものだ。ものの数分で準備を終えると、ビックスが先頭の馬車の御者となり、その横にウエッジが座った。




「んじゃ姐さん、俺たちはこれで失礼しやす。くれぐれもお気をつけて」

「ああ、もっとも襲い掛かってきてくれたほうが楽なのだがな。そうすれば、奴らはナイトロード家そのものを敵に回すことになる」



 そりゃおっかねぇ。クレアの言葉にからからと笑いながら手綱を引くビックスの脇で、ウエッジが小さく笑みを浮かべて頭を下げる。それに片手をあげてクレアが答えると、三台の馬車はゆっくりと動き出し、徐々に遠ざかっていった。




「・・・・・・ふぅっ」



 馬車が完全に見えなくなるまで見送ってから、クレアは傍らにあるほど良い大きさの岩に腰を下ろし、顔を覆っていた鉄仮面を外して小さくため息を吐いた。戦っているうちに結び目がほどけたのだろう、きつく縛っていたはずの金色の髪が、この季節特有の南風に煽られて顔にかかるのを、煩わし気に払った。その動きはどこ鈍いが無理もない。彼女は情の深い女である。そんな彼女にとって、誰かを殺すという行為はあまり気分のいいものではなかった。



「我が身は我のためにあらず、牙持たぬ民のためにあり・・・・・・か」



 ナイトロード侯爵レオンハルトの孫娘として、何一つ不自由ない暮らしを約束されながら、それでも誰かのために槍を振るいたいと願ってナイトロード流の道場に入門した時、道場主であり総師範である祖父から言われた言葉を呟きつつ、彼女は周囲を見渡した。先ほどまであった戦闘の後は、ビックスとウエッジ、そして配下の衛兵たちがきれいに片づけていき、痕跡は街道の砂にこびり付いた赤黒い血以外にはない。その色から目をそらすように空を見上げると、いつもと変わらない乳白色の空が彼女の目に飛び込んできた。




「・・・・・・ん?」



 それからどのぐらい空を眺めていただろう。南から微かに響いてくる振動に、クレアはふと顔を戻した。先ほどの戦闘で街道の大地にこびり付いた赤黒い血は、いつの間にか南から吹く風です名護と舞い上がりどこかに消え、街道はいつもの姿を取り戻していた。



「そろそろ来る、か」


 腰かけていた岩から立ち上がり、脇に置いた鉄仮面を被る。狭い視界の中、街道の先に小さな砂埃が見えた。それはだんだんと大きくなっていき、やがてその中からこちらに向かってくる五台の馬車が現れた。その姿を確認すると、クレアは街道の真ん中に出て大きく手を振る。こちらの姿が見えたのだろう、馬車は彼女の数百メイルほど先で減速し、五メイルほど手前で停止した。



「移動中すまない」

「い、いえ・・・・・・何用でしょうか、騎士様」


 クレアが五台の馬車の先頭にある御者台に小走りで近づくと、手綱を操っていた御者がおずおずと声をかけてきた。クリスタルの光が強まり日差しが強くなってきたというのに、相手は分厚い服と頭から被ったフードで身体全体をすっぽりと隠している。だが隠しきれていない手綱を握る手の甲や首筋は、青白い鱗でびっしりと覆われていた。彼らはこの街道の先、南西にある魔族が治める国であるヨトゥンヘイムとの国境沿いにある巨大湖近くの集落に住む水棲系の獣人族である。彼らは帝国歴一万五千年前後、暴君が続いた時代に一人の皇帝が青界に攻め込んだ“黒青戦役”の際、戦利品として連れてこられた青界の住民を先祖に持ち、セフィロトが獣人族の奴隷解放宣言を行うまでひどい環境の中で酷使され続けてきた。奴隷から解放された後は他の獣人族同様帝国の民としての権利が保障されているが、長年奴隷として酷使された経験から帝国を恐れ、また水棲生物という事で水のない所では生きられないため、セフィロトから許可を得て巨大湖近くに小さな集落を作り、現在は主に漁業を生業としながらひっそりと暮らしている。最近では他の獣人族との交流も少しずつ増えてきているようだが、それでもまだ“人”に対しては恐怖感が強いようだ。



「いや、この地域の巡察を行っていたのだが、馬が捻挫してな。幸いなことに集落が近かったゆえ、従者を其処に置いて馬の世話をさせているのだが、帝都に報告しに行かねばならん。すまないが帝都近くに行くのなら乗せてくれないか? むろん礼は弾む」

「え・・・・・・は、はい。ちょうど帝都近くの集落に行きますので、どうぞお乗りください」

「ああ、すまないな」


 恐る恐る頷いた獣人が、身体をずらして開けた隙間を通り、クレアは幌馬車の中へと身体を入れた。馬車は彼女たちが今回の作戦のために借り受けた集落の中で一番古い、廃棄予定の馬車よりもなお古く貧相で、板張りの床には皹が入っており、鉄のブーツで乗るにはあまりにも危なっかしい。そのため出入り口の方に狭いながらも開いている場所を見つけると、クレアはそこに自分の身体を滑りこませた。馬車の中には御者である獣人の家族や仲間なのだろう、女子供を含めて十名ほどの獣人がいたが、皆彼女が来ると聞かされていたにもかかわらず、怯え切った眼でこちらを見ている。特に近くに母親とともにいる小さな子供の獣人などは、手に持った木彫りの粗末な人形をぎゅっと抱きしめ、泣き出しそうになるのを必死にこらえているありさまだった。



(まあ、仕方がないか)



 “嘆きの大戦”後に生まれ、三百歳にもならない自分は文献でしか見たことはないが、獣人を奴隷から解放したセフィロトより以前の時代、特に大空位時代と呼ばれる時代に彼らが受けた仕打ちは想像を絶するものであったという。そしてセフィロトの後のレフィロスの時代には、彼と唾棄すべき種族である蛇腹族の手で、彼らは文字通り“食料”として扱われた。むろん現在そのようなことは全くないが、それでも彼らにとって、自分は恐怖以外の何物でもないだろう。



(しかし、これでは埒が明かんな、どうするか・・・・・・っと、そうだ)



 怯えられているのが痛いほどに伝わる馬車の中では休もうとしても休めない。彼らの怯えをどうやって払拭すればいいのかしばし考えていたクレアだったが、やがて一つ頷くと両手を被っている鉄仮面に近付け、顎のところで固定している金具をかちゃりと外し、緩くなった鉄仮面を顔から放した。すると、彼女の端正な顔があらわになり、柔らかい金色の髪がひと房、その頬に触れた。こちらが女であることが分かったのだろう、先ほどまであった痛いほどの怯えた気配は薄まり、馬車の中にどこか穏やかな空気が流れ始めた。その空気の中、ふと小さな視線に気づいたクレアが顔を動かさずに眼だけをわずかに動かして横を見ると、先ほどまで泣き出しそうな顔をしていた少女がいまだ涙が残る両目を大きく見開き、こちらを眺めているのが見えた。少女に笑みを浮かべると、クレアは幌馬車の端によりかかり目を閉じた。昨夜は戻ってきたアベルと共に今日の作戦の確認をしていて、それが終わったらすぐに行動を開始したから眠る時間がなかった。そのためか、実は今非常に眠い。寝込みを襲われるかもしれないという恐れもなくはなかったが、こちらに怯えている彼らが手を出すとも思わないし、なにより眠っているとはいえ彼らの動きに気づかないほど間抜けでもない。先ほどの戦闘で予想以上に疲労がたまっていたのか、目を閉じたクレアの意識は、急速に暖かな暗闇の中へと落ちていった。







 ガクンッ




「・・・・・・ん? 何だ」




 それからどれぐらい眠っていただろう。身体に走る衝撃で、クレアはふと浅い眠りから目覚めた。



「御者殿、どうされた?」

「あ、す、すいません騎士様。街道の石に乗ったせいで、右前方の車輪の軸が外れてしまいまして。ご安心を、すぐに直しますので」

「そうか。手を貸して欲しいときはいつでも声をかけてくれ」


 しゃがんで作業をする御者にそう声をかけながら、その必要はないなとクレアは思った。車輪の軸は確かに外れてはいるが、どこも壊れている様子はないし、彼の言葉通りすぐに直るだろう。時刻はもう午後を大きく過ぎ、夕刻が近いが、前方に帝都の中心にある巨大な黒鳥城の姿も見える。日が暮れる前には集落に着くだろう。作業をしている獣人にねぎらいの言葉をかけてから再び馬車の中に戻り、先ほど腰かけていた場所に座ったクレアの右手に、何か固いものが当たった。


「む?」



 転がっていたそれは、みすぼらしい木彫りの人形だった。帝都にある店では古すぎて置いておらず、近郊の集落にある露店でも二束三文で棚の端にあるだけの代物だ。だが



「あ」




 だが、先ほど馬車を襲った衝撃で落としてしまった人形の持ち主である少女にとっては何物にも代えがたい宝物なのだろう。自分が傍にいるせいで取りに行けないのか、少女は再び泣き出しそうな顔になっていた。




「・・・・・・ふふっ」


 そんな少女の様子を見て、クレアはふと笑みを浮かべた。別に泣きそうになっている少女を見て笑ったのではない。自分もちょうど少女と同じ年齢の時、やはり同じように何よりの宝物だった人形の事を思い出したのだ。



自分の宝物が手元にないのはさぞ心細いだろう。柔らかな笑みのまま床に落ちている人形を拾い上げると、彼女は鉄のブーツで粗末な木製の板を踏み抜かないように慎重に歩いて少女に近付き、泣き出す寸前の少女に人形を差し出した。



「さあ、そなたの大切なものなのだろう。もう手放さぬようにな」

「ふぇ?」

「こ、これ、何をしているの、早く騎士様にお礼をおっしゃいなさい」

「う、うん。ありがとう、お姉ちゃん」

「これ、騎士様に向かってなんてことを言うの、申し訳ございません騎士様」

「いや、気にしてはおらぬゆえ、そう叱らないでやってほしい・・・・・・そうだ。そなた、甘いものは好きか? 少しではあるが、皆で分けて食べるがよい」



 少女の物言いがこちらを苛立たせると思ったのか、彼女の母親だろう獣人の女が必死にこちらに頭を下げるのを片手を挙げて止めると、クレアは腰にあるポーチを探り、その中から常備している、十個ほどの飴玉を入れた小さな袋を取り出して少女に渡した。彼女も年ごろの娘であるため甘いものが好きだが、別にその理由だけでいつも菓子を持っているわけではない。今より二年ほど前、まだ分隊ができたばかりで彼らが担当する地区を実質的に支配しているグレイプリーが今より寛容でなかった頃、集落で孤児を使った窃盗事件が相次いだ。罠を張って孤児を捕えることができたが、喋れば仲間を殺すといわれていたのか孤児はなかなか口を割らず、業を煮やしたグレイプリーが窃盗に対する罰として片腕を切り落とそうとした時、待ったをかけたのがアベルだった。彼はグレイプリーに自分が孤児を説得すると直談判し、その許可を得たのだ。もし失敗した場合は、孤児の代わりに自分が片腕を切り落とされることを条件にして。結果は両腕のある今の彼を見てもらえれば分かる通り無事説得に成功、孤児たちを使う窃盗団のアジトがあるという付近の洞窟に赴いたのだが、そこで彼らが見たのは盗賊たちにその身を汚されきって精神が壊れた少女たちと、腹いせに切り刻まれたのか、腕や足がなく、体中に切り傷ができた少年達の死体の山だった。それを見たクレアは当然激怒した。彼女は誇り高い娘である。そんな彼女にとってはなぜ年端もいかぬ孤児たちを嬲るという行為が許されているのかまったく分からなかった。だが、彼女以上に窃盗団に対して激高し、激しい憎悪を向ける者がいた。上官であるアベルである。彼は顔色と表情を全く変えずに捕縛された窃盗団を詰問すると、彼らの自分たちが主犯であるという証言を嘘と断定、彼らをその場で尋問、否、拷問したのだ。その内容はあまりに残酷なため省くが、その拷問が終わった後、其処にいるのはアベルと彼を畏怖の表情で眺める部下達、そしてあまりに多くの部分を失っているにもかかわらず、それでも死ねずに殺してくれと呟く肉塊だけであった。その後、その喋る肉塊とまだかろうじて生きている孤児たちと共に集落に戻った後、彼を取り巻く環境は劇的に変化した。まず集落の中で腕っぷしが強く、ある程度物分かりがいい若者という事で選ばれ、それまで零騎士という噂からアベルを単なる顔がいいだけの優しい甘ちゃんとみていた衛兵たちが彼を畏怖し、その指示にしっかりと従うになったこと、ひそかに見張らせていた部下から報告を受けたグレイプリーがアベルを屋敷である空中楼閣に招き、それから少しずつ寛容になっていったこと、そしてもし再び子供が犯罪に巻き込まれた時、彼らを信頼させるために騎士や衛兵の区別なく、少数の菓子を常備することが義務付けられたことであった。




「本当に申し訳ございません騎士様、人形だけでなくお菓子まで頂戴してしまって・・・・・・騎士様?」

「・・・・・・ん? ああ、構わぬ。ところで」


 受け取った菓子をもって、嬉しそうに他の子供のところに行った少女を眺めながら昔を思い出していたクレアが、少女の母親の声でふと我に返り、彼女を安心させるために首を振ると、その目がボロ布を修繕して作った幌の隙間から見える、馬車の後ろに続く四台の荷馬車を捉えた。



「随分と大所帯だな。ご母堂、もしよろしければ何を運んでいるのかうかがってもよろしいか?」

「はい。私どもの集落にある、貯水庫に溜めていた水でございます」

「水か。四台の荷馬車全てに水が入っているとなると相当な量だが、どこに持っていかれる?」

「ええと、確か帝都近くの集落です。何でも井戸が壊れて水が早急に必要になったから売ってほしいといわれて」

「そうか・・・・・・しかし、水といえどこれだけの量をそろえるのは大変だっただろう」

「は、はい。ですが相場の十倍の値段で買ってくださるという事でしたので。私どもの集落は、南西にある巨大湖近くにあるのですが、そこは漁業に適しているのですが作物が育ちにくくて、そのためとれた魚を内陸の集落まで売りに行っているのですが、今年は不漁で、しかもどこも不作という事でいつもの金額では売ってくれなくて・・・・・・このままでは冬を越せそうになかったところを、長と親交があったグレイプリーという方が水の購入を打診してくださったおかげで、何とか冬を越せそうなのです」

「そうか、それはよかったな。しかし水といえどこれだけの量だ。道中何か危険なことはなかったか? 例えば荷物を狙って誰かが襲撃を仕掛けてきたとか」

「いえ、そのようなことは全然・・・・・・ああ、そういえば」

「む、何かあったのか?」

「いえ、大したことではないのですが、騎士様と合う少し前に休憩のために立ち寄った駅で、同じように車輪の軸が外れたことがあって、それで一時間ほど休憩してから来たんです。変わったことといえばそのぐらいでしょうか・・・・・・あ、あの、騎士様、どうかなさいましたか?」


 自分の言葉に渋柿を思いっきり口にしたような表情をしたクレアを見て、女は怯えたような顔をしたが、表情を戻したクレアが首を振って礼を言うと、頷いてそのまま娘の方へと戻った。その時、外れていた軸が無事はまったのか、一度大きく揺れた後、馬車は街道をゆっくりと進み始めた。





「・・・・・・いくら古いといっても、何もない所で軸が外れることはない、ネズの仕業だな。まったく、アベルめ、私だけでは不安だったようだな」





どこか不機嫌な騎士を乗せて、五台の馬車は街道を進んでいく。彼らの目的地である帝都近郊の集落に向けて。













 そして、それを街道から少し離れた小高い丘の上で見つめる一人の男の姿があった。。






「・・・・・・さすがにナイトロード侯爵家の令嬢が同乗している馬車に再び襲撃を仕掛けるのは得策ではない、か。ごろつきどもめ、もう少し頑張らんか」



 頭からフードを被っているため、その顔は見えない。だが聞こえてくるのはこの世のすべてを恨む呪詛の声だ。




「まあいい、水ぐらいいくらでもくれてやる。だが蜘蛛女よ、貴様だけはありとあらゆる絶望と苦悶の中で殺してやる。まずは貴様の情夫である、あの無能騎士の命でも貰おうか。なあ、腐った大樹に宛がわれた接ぎ木よ」



馬車が完全に見えなくなり、男の言葉は、やがて呟きから大声に変わった。



「貴様が果実を実らせるのを黙ってみているつもりはない。接ぎ木は接ぎ木らしく、何も実らせずただ腐れ墜ちろ。く、くく、くははははははははっ!!」



 薄闇の中、男の哄笑が響き渡る。その背後で、彼の数倍もの大きさを持った影が、のそりと起き上がった。











続く







 



 


















評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ