第一部 黒界 帝都動乱篇 第二話 空中楼閣の女主人 中幕
三年後
「うわっ!?」
目の前で突然膨れ上がった火に驚き、二、三歩たららを踏むように後退したアベルはその場にしりもちを付いた。同時に、彼が持っていた水の入った桶が転がり、足にビシャリとかかる。
「なにやってるんだ、アベル」
「ご、ごめんクレア」
すぐ傍らで水の入った桶を持ち、目の前の燃えている木に水をかけていたクレアは、彼の情けない様子を見てあきれたようにため息を吐いた。同時に、周囲で同じように消火作業に当たっている町の住民や、てこの原理で水を吐き出す放水車をこいでいる衛兵が笑い声を上げる。
「まったく、しっかりしてください、隊長」
消火作業をしている彼らの後ろで、街の女たちと共に井戸から汲んだ水を桶で持ってきたコールはため息を吐きつつ、転がっているアベルの横に水の入った桶を置くと、前方で燃えている木を眺めた。
街の南東部にある森を燃やしている火災は、消火を始めて四日経った今でも、衰えることなく燃え続けていた。
「はぁ、疲れたぁ」
「・・・・・・弱音を吐くな。だが、確かに疲れた、な」
帝都正門近くにある黒羊騎士団本部一階の食堂で、団長直轄の特別分隊を率いる“零騎士”アベルと、同隊副隊長を勤める“侯爵令嬢”クレア・フォン・ナイトロードは、テーブルに疲れ切った身体を投げ出していた。無理もない。十一日前に発生した火事は、瞬く間に南東の銛全体に燃え広がり、昨日までの十日の間、住民と共にほぼ不眠不休で消火活動をしていたためだ。その間、ろくに食事も睡眠も取らず、さらに入浴も出来なかったこともあり、昨日の深夜、やっと火事を消し止めた彼らの様子は、幽鬼と呼ぶに相応しいものであり、消火作業終了の報告に来た彼らを見て、第二大隊大隊長と副団長を兼任しているパーシヴァルと、ちょうど本部に来ていたミネルヴァ団長の指示で、三万年祭まであと三ヶ月を切り、警備の配置計画や、有事の際の連携計画を話し合い、訓練をしなければならないこの忙しい時期に、今日を含めて丸々二日間の休みをもらったのである。
「くそっ、今日は絶対に風呂に入るぞ、この十日間というもの、湿らせた布で身体を拭くしかできなかったからな。今は一刻も早く湯船につかりたい」
「うん、そうだね・・・・・・あと、ぼくはゆっくりと眠りたいな」
「ああ、お前は眠るのが好きだからな、“お昼寝タイム”の会員だし」
机に突っ伏したまま、今にも眠りそうなアベルを、クレアは軽く小突いた。帝都には休日を楽しむレクリエーションとして、さまざまなクラブがあり、騎士は出来るだけ参加して氏民と交流を深めるようにとのお達しが出ている。クレアが所属しているのは女性だらけのフェンシング部、そしてアベルが所属しているのはお昼寝タイムという、下町と貴族街を隔てる大河近くにある喫茶店の二階で行われているクラブだった。クラブといっても、男女が集まって休日を昼間から寝て過ごすという、文字通り昼寝の時間を楽しむだけのクラブである。しかしそれでも十数人のメンバーが居り、アベルと同じく騎士であるとか、商人街の商社に勤める番頭だとか、職人街でいつもは懸命に働いている家具職人だとか、はたまた大通りで芸をして小金を稼いでいる大道芸人やらが、身分に関係なく集まり、軽く菓子をつまみ、読書や談笑をしながら眠くなったら眠るという気ままな活動をしている。その活動のことをアベルから聞いたクレアは、会員に女性もいると聞いた時、最初如何わしいクラブかと思って共に行ったのだが、女性といっても千歳を越した、子供にお菓子を作ったり本を読み聞かせてやるのが好きな上品な老婦人であるし、また眠気に誘われたアベルが、自分の膝に頭を乗せて眠ったことでそれどころではなくなり、帰り道でこのクラブを勧めたのがミネルヴァ団長であることを彼から聞いたクレアは、それを先に言えと軽くアベルの頭を小突いた。それからは一月に一度、クレアもお昼寝タイムに参加している。このクラブを主宰している、貴族街でちりめん問屋の主人をしているという、アベルを実の息子のようにかわいがっている短く刈った金髪と整えた髭を持つ偉丈夫を、何処かで見たような気がする疑問を抱きながら。
「じゃあ、そろそろ出よっか」
「ん? ああ、そうだな。いつまでもここにいれば他の奴らに迷惑だろう。さすがにこの臭いだからな。そういえばお前はどこに行くんだ、宿舎か?」
先月、貴族の地下に積まれていた死体の臭いよりはましだが、それでも出来ればごめんこうむりたい臭いに顔をしかめながら立ち上がると、自分同様立ち上がったアベルに、クレアはふと尋ねた。
「え? えっと、その・・・・・・さ、さすがにこの臭いで宿舎に戻ったら、なに言われるか分かったものじゃないから、出来ればエミィの所に行きたいんだけど」
「・・・・・・分かった、ならさっさと行くぞ」
「へ? 行くってクレア、もしかして一緒に来るの? っていうか、何でその前にそんなに不機嫌なの!?」
「うるさいっ!! そんなの自分で考えろ!!」
「ちょっ、痛い痛い痛い、なんでいつも僕の襟首引っ張るのさぁ!!」
いつものように襟首を掴まれてずるずると引きずられていくアベルと、彼の襟首を掴んで歩くクレアの二人を、受付にいるエリスは書類の整理をしつつ、そのいつもの光景に苦笑しながら見送っていた。
「やれやれ、疲れているはずなのに、随分と騒々しいことですな」
外に出た二人が、騒ぎながら路面馬車に乗り込む光景を三階にある会議室の窓から眺め、パーシヴァルは苦笑しつつ、隣で同じように彼らを眺めているミネルヴァに目をやった。
「そういうな、先週、先々週と小火が続いて緊張していたところに、森全土を覆う、一歩間違えれば街に飛び火する危険性が充分にあった火事を、十日の間不眠不休で消火活動を行い、何とか食い止めたのだ。大目に見てやるべきだろう」
彼らが乗った蒸気式の路面馬車が職人街に向かっていくのを見送ると、ミネルヴァは会議室の窓にかかっているカーテンを閉め、部屋の中央にまっすぐに並んでいる机のところに行き、先ほどの会議で決まった内容が書かれた紙を手に取った。
「陛下のいらっしゃる黒鳥城と貴族街を除いた帝都における三万年祭での警備は先ほどの会議で手渡した資料のとおり、大通りに騎士と尉官以上の帝国軍将校を配置、大通りから続く脇道には衛兵と帝国軍の下士官及び兵士を配置。裏路地には軍の特殊部隊を置き、空には装甲飛行船を十隻、大河には武装させた蒸気船を三十隻配備・・・・・・だが、三万年祭では七王国の来賓の方々や、通行証を持たない城壁の外の氏民も特別に入ることが許可されるからな。この人員でもまったく足りぬ。やはり“四者”の力を借りるしかないか」
「“彼ら”ですか? 確かに彼らの力を借りれば、人員不足は解消できるでしょうが、後で何を要求されるか分かったものではありませんぞ?」
「まあそのうちの一人が何を要求してくるかは想像が付く。そこはアベルに頑張ってもらうとして、残りの三人については“彼女”から根回しをしてもらうしかあるまい」
先ほどクレアに引っ張られていったアベルの顔を思い出して苦笑すると、ミネルヴァは残りの紙に目を落とした。
「さて、次は各隊からの報告だが、第一大隊は引き続き大通りにて終焉を予告した自称預言者の尋問、第二大隊は三万年祭で出展する出店関係の仲裁か。なんでも先に応募したほうが、後から応募したほうが先に場所取りをしたといって騒ぎになっているらしい。まあ祭りにはありがちな騒ぎだな。そして最後、特別分隊からの報告だが」
恐らく疲れ切った状態で書いたのだろう。いつもの端正な字とは違い、ミミズののたくったような、かろうじて読める字を苦笑しながら読んでいるミネルヴァの目が、ふと止まった。
「おや、どうしましたか団長、読めない字でもありましたかな?」
「いや・・・・・・アベルからの報告によると、今回の大火事、そして先週、先々週に起きた火事は放火の可能性があるらしい」
「放火ですと・・・・・・まことですか?」
ミネルヴァの言葉に、パーシヴァルは彼女の持っている報告書を覗き込んだ。そこには、小汚い字で、確かに“放火の疑いあり”と書いている。
「帝国の刑罰では放火は重罪です。森全土を焼く大火事を引き起こしたとなれば、間違いなく死罪でしょう。下手をすれば軍の“特捜部隊”が動きます。いったい、何者の仕業でしょうか」
「さてな、候補者が多すぎて絞りきれん。単なる酔っ払いの仕業か、それとも火を放つことに快感を覚える狂人か、恋人を失った男の腹いせか・・・・・・いやいや、もしかしたらもっと大事かも知れぬな。城壁外に住むものを疎ましく思う貴族の仕業か、“彼女”の力を削りたい他の“四者”の仕業か、はたまたそう思わせたい彼女自身の仕業か、三万年祭の警備から目をそらせたい、巷で噂の革命団か、終焉の予言に感化された者か」
「・・・・・・一瞬で、良くそこまで思いつきますな」
いつもの冷静な彼女とは違い、どことなく怒気が含んだその口調にパーシヴァルは嘆息した。無理もない、半分だけとはいえ、炎を神聖化する赤界の血を引いている彼女にとって、その火を使った放火という犯罪は、何よりも許しがたい犯罪なのである。
「まあ取りあえずはアベルに任せるしかないが、何かあればすぐさま動けるよう注視だけはしておいてくれ」
「は、承知いたしました」
ミネルヴァの命令に右手を上げて敬礼すると、火照った身体を静めるミネルヴァの邪魔をしないために、パーシヴァルはきびすを返すと、幾分早足気味に部屋を出て行った。
「や、やっと着いた、ね」
「ああ、そう・・・・・・だな」
およそ二時間半後、飛び乗った彼らの臭いに顔をしかめた路面馬車の運転手が速度を上げた運転したため、いつもより三十分ほど早く着いた二人は、職人通りの入り口で、ぼんやりと中の様子を眺めていた。
「それじゃあ、さっさとエミリア殿の宿に行くぞ」
「うん・・・・・・あ、ちょっと待ってクレア」
「なんだ・・・・・・ああ、それか」
先に人ごみの中に入ろうとしたクレアを呼び止めると、アベルは入り口付近にしゃがみこんでいる物乞いの前に立ち、何枚か硬貨が入っている木の皿の中に、黒銅貨を数枚入れる。物乞いはぼさぼさの髪の間から覗く濁った目でそれを眺めると、微かに口笛を吹いた。
少し遅れて、職人通りの人ごみの中からも口笛が聞こえてくる。それを聞くと、物乞いはアベルが差し出した黒銅貨を懐にしまった。
「おまたせ、じゃあ行こうか」
「ああ・・・・・・しかし、入るたびに通行税を払わなければならないというのも面倒だな」
「そう? 払うといっても一人黒銅貨二枚だし、財布を掏られるよりはましだと思うけど。それに、仲良くなればいろいろと情報も買えるしね」
クレアの言葉通り、アベルが物乞いに銅貨をやったのは、彼が優しいためだけではない。あれはいわゆる通行税という奴で、あそこで黒銅貨を払っておけば、財布などを掏られる心配がない。以前ここに来たコールが財布を掏られたのは、物乞いに硬貨をやるというルールを知らなかったためだ。また、彼女の財布が見つかったのも、アベルが彼から情報を買ったおかげである。さすがに中身は取り戻せなかったが。
近くの食料品店で黒りんごを使用したアップルパイを買い、雑貨屋や道の端にござを敷いている小鬼族の店を冷やかして歩く。まるで恋人同士のデートのようだな、クレアがそう思いながら歩いていると、すぐに目的であるエミリアの宿が見えてきた。もう少し歩いていたかったと名残惜しそうにしながらも、早く風呂に入りたいという願望が勝ったのか、一口ほど残っているアップルパイを口の中に押し込むと、アップルパイが喉に詰まったのか、苦しげに胸を叩いているアベルを呆れたように眺めてから、クレアはやや早足で宿に近づくと、小さな鐘がついている扉を少々強めに開いた。
チリン、チリン
「あ、いらっしゃい・・・・・・って、何だ、クレア様にアベルさんじゃないですか」
「ああ、すまんが部屋はあいている?」
鈴の音が小さく鳴って扉が開き、クレアとやや遅れてアベルが中に入ると、ちょうど受付前の廊下を箒で掃いていた猫人が声をかけてきた。以前何度か泊まりに来たクレアのことを知っているのか、にこやかな顔で声をかけてくる。
「えっと、今は大丈夫だと思いますよ? まあ、後一ヶ月もすれば三万年祭を見に来る人だとか、店を出す人だとか、芸をする人だとかが泊まりに来て、部屋なんてすぐ満杯になってしまいますけど」
「そうか、それは大変だな」
「まあその分お給金増えますからいいんですけどね・・・・・・あ、ちょっと待ってください。いま女将さんに確認してきます」
侯爵令嬢という貴族の中の貴族でありながら、獣人族に対してまったく偏見の目を向けない少女に笑いかけながら、猫人メイドは受付の奥へと入っていった。だが、すぐに一人の少女を伴って出てくる。その少女はクレアと、そしてその後ろにいるアベルを見ると、はぁっとため息を吐いた。
「あらアベル、よくこの店の場所が分かったこと。あと、いらっしゃい、クレア様」
「え、えと、ごめんエミィ」
「嘘、冗談よ。集落で発生した火事のことはこっちでも噂になってたから。お帰りなさい、アベル」
十日ぶりに顔を見せた恋人と、何度か来た事のある彼の部下で、明らかにアベルに好意を抱いているにもかかわらず中々それを言い出せないのが丸分かりな少女を出迎えながら、エミリアの宿の十四代目女将を務めるエミリアは、彼らの据えた臭いに苦笑しつつ、二人を迎え入れた。
「はふぅ、いいお風呂」
それから三十分後、とりあえずお風呂に入ってきなさいという愛しい恋人の指示で、アベルは一人男湯に浸かっていた。まだ日が高いということで自分以外には誰も入っていない。湯船に浸かる前にへちまを乾燥させて作ったスポンジにこれでもかといわんばかりに石鹸をつけ、身体をごしごしと強めにこすって十日分の汗と垢を落とすと、湯が縁いっぱいに張られた風呂に浸かる。気持ちよさにぼんやり天井を見上げながら、ふうっと息を吐いた。
「・・・・・・やっぱり、放火だよなぁ」
最初の火事が起こったのは、三週間前のことだった。場所は刈り取った牧草を入れておくための倉庫の壁で、発見が速かったこともあり火は燃え広がる前に消し止めることが出来た。だが分からないのは出火原因である。牧草を入れておく倉庫は、当然ながら防火対策はしっかりとされており、乾燥しているこの時期でも自然発火するとは考えられなかった。放火の疑いもあったが、人的被害がなかったことと、焼かれたのが倉庫の壁であったためそれ以上調査はされなかったが、その三日後、今度は人口密集地にある娼館から出火した。しかも、今度は外ではなく中から火が出て、木造二階建ての娼館は瞬く間に燃え広がり、幸い死者は出なかったものの、建物は全焼、客や娼婦にも、数人火傷を負ったものが出た。そして、短い間に立て続けに二件の火災が起こったことでいつもより入念に巡回していた時に起こった森の火事だ。火元は森の中にあるきこり小屋からの出火だが、普段あの小屋には種火も置いてはいない。つまり、誰かが意図的に火をつけない限り決して火事は起こらないはずである。
「まあ、考えていても仕方がないか、もし本当に放火だとしたら、僕らじゃなくて“特捜”の仕事だしね」
アベルが呟いている“特捜”とは、帝国軍特殊部隊の一つである“特別捜査部隊”のことである。二百名の精鋭と二隻の装甲飛行船で編成されたこの部隊は、東方元帥であるマクバード元帥の右腕と噂されるオーダイン中将を長官とし、放火、強盗殺人、その他帝国内外で発生する様々な凶悪事件に迅速に対応できるよう、貴族の邸宅に押し入る許可など独自の権限を持っている。そういえば、一ヶ月ほど前オーダインにあったとき、その後ろに二十名ほどの兵士がいたが、もしかして彼らがそうなのかな、などと思っていると、だんだん頭が重くなってきた。そろそろあがろう、そう思って立ち上がったときである。
「あら、もうあがるの?」
戸をあけて入ってきた愛しい恋人の、一糸纏わぬ姿を見て、アベルは慌てて湯船にもぐった。
「え、エミィ? ちょ、なんでここにいるのさ、しかも全裸で」
「あら、お風呂に入るのだから裸なのは当たり前よ? そして、何でここにいるのかというと・・・・・・十日も音沙汰がなかった恋人を、ちょっとお仕置きを兼ねて絞り取ってあげようと思って。クレア様も泊まるなら、部屋では出来ないでしょうから」
「け、けどエミィ、こんなことがクレアに知られたら、それにもし他の男の人が入ってきたらどうするのさ」
「あら、大丈夫よ。クレア様は一度お風呂に入れば、二時間は出てこないほどのお風呂好きだし、入り口のところに清掃中の看板を置いておいたから、他の男性客は入ってこないわ」
「そ、そう? じゃあ、大丈夫、かな」
なんだかんだ言っても、せっかくの恋人との逢瀬である。それに彼自身、性交は嫌いではない。湯船に入り、自分の膝にまたがってくるエミリアの肉つきの良い腰を抱きしめると、アベルは彼女の白い乳房に、優しく唇を落とした。
「うん、いい湯であった」
三時間後、身も心もほかほかになったクレアは満足げな表情で女湯から出てきた。本当は一時間ほどで出るつもりだったのだが、出る直前に入ってきた猫人ウエイトレスからマッサージを強く勧められ、別に断る理由もないので一時間ほど彼女のマッサージを受け、三十分ほど湯に入りなおしたため、こんな時間になってしまったのである。男湯のほうを見ると、先に上がっていたアベルがソファに深く座ってぼんやりと天井を見上げていた。
「どうしたアベル、のぼせたような顔をして。疲れは取れたのか?」
「・・・・・・うん、取れたというか、強制的に取らされたというか」
「は?」
「ああいや、なんでもないよ。それよりそろそろ十五時か・・・・・・どうする? 食堂で遅い昼食にするかい?」
「ん、そうだな。さすがに三時間も入っていたから、少々空腹だ。先ほどアップルパイを食べただけだしな」
「うん、じゃあ食堂に行こうか。実はお腹ぺこぺこだったんだ」
ふらついて立ち上がった、少しやつれたアベルの様子に首をかしげながらも、歩き出した少年に続いて、クレアは食堂に向けて歩き出した。
「・・・・・・お腹いっぱい食べたねぇ」
「ああ、もう一口も入らん」
クリスタルの光が弱まり、周囲が夜の帳に包まれた頃、二人は三階にあるアベルの部屋に居た。といっても、何かをするわけではない。恐らく食堂に来るだろうと考えていたエミリアの指示でパンやパスタ、チーズの入ったオムレツにふわふわのパンケーキ、黒鶏の丸焼きや黒毛牛のステーキ、大河で取れる魚の煮物やレタスやトマトなどで作ったサラダ、デザートにはりんごのタルトやアップルパイ、オレンジをすりつぶして固めたゼリー、飲み物はワインや蒸留酒、果実酒など食欲を満たすのに充分な食事がすでにテーブルの上に所狭しと並べられており、猫人ウエイトレスたちの給仕を受けながら、この十日間、口にしたものといえば冷たい乾パンと僅かな水だけだった二人は、机の上の食事をまるで餓鬼のように貪りながら食べた。といっても、この量を二人で食べるのはさすがに無理なので、途中からエミリアとウエイトレス、周りに居た宿泊客も巻き込んだ大宴会となり、アベルはその中央で、右手をクレアの肩、左手をエミリアの胸の谷間の上に置き、酔っ払った猫人ウエイトレスたちに抱きつかれながら、ワインをたらふく飲んだせいでぽややんとした顔をさらにぽややんとしつつ宴会を楽しんでいたが、食事も酒も無限にあるわけではない。やがて料理は底をつき、ワインも数十本が空になると、一人、また一人とほろ酔い気分で部屋に戻っていき、食堂の中央、皿やグラスが転がった床の上に寝そべってむにゃむにゃと眠りかけていたアベルたちは、その惨状を見た食堂を仕切っている額に青筋を浮かべたエミリアの父親にたたき起こされ、酔っ払ったウエイトレスたちはまとめて使用人部屋に、眠りこけているエミリアは受付の奥にある私室に、そしてアベルとクレアの両名はその細い身体のどこにこんな力があるのかと疑いたくなる料理長の腕に一人ずつ抱えられ、三階にあるこの部屋まで運ばれ、ベッドの上に放り投げられたのである。それから数分、襲ってきた疲労と満腹による気だるさにより、二人は完全にベッドの上でだらけきっていた。
「いろいろとしたいことはあるけど、とりあえず明日にしよっか」
「ああ・・・・・・といっても、二日酔いでそれどころじゃないと思うが、な」
もう寝る、そう呟いて毛布の中に潜り込んだクレアのすぐ横で、アベルはぼんやりと暗い天井を見上げていたが、やがて眠気に負けたのか、横で眠るクレアの腹部に手を回し、静かに目を閉じた。
暗い川の中を、彼はどこまでも歩いていた。
自分がいつから歩いているのかは忘れてしまった。そして、どこまで歩いていけばいいのかも。
それからどれほど歩いただろうか、どれほど歩いても端が見えない川の中、疲れ切った彼がせめて喉の渇きだけでも潤そうと、しゃがみこんで川の水を掬ったとき、
「ッ!!」
彼は、声にならない叫び声をあげた。なぜなら、
なぜなら、自分が今まで川だと思っていたのは、どす黒く染まった血の海だったからである。
彼がその事実に気づいたとき、今まで穏やかだった血の海がいきなり荒れた。ぐらぐらと揺れが続き、血の波が彼に襲い掛かり、その身体をどす黒く染める。やがて、襲い掛かる波の勢いに負け、しりもちを付いたとき、
少年の体は、ずぶずぶと血の海の中に飲み込まれていった。
「うわ・・・・・・痛たたたっ!?」
いつもの悪夢に飛び起きたアベルは、襲ってくる頭痛に頭を抱えて、いつの間にか寝ていた床の上にうずくまった。この痛みは間違いなく、昨日飲んだワインを原因とした二日酔いである。幸いなことに吐き気はないが、その代わり頭がガンガンと痛む。
「ああ、確かに痛むな。まるで酷い雑音を至近距離で聞かされているようだ、くそっ」
起きたときにアベルに抱きしめられていることに顔を真っ赤にしながらも、彼がうめいて目を覚ましそうになったとき反射的に蹴り飛ばしてしまったクレアは、頭痛と気恥ずかしさに頭を柔らかな枕の中に埋めたのだった。
「それで、今日はどうするんだ?」
目が覚めてから一時間後、少し顔が青いぐらいで、それでも働き始めたエミリアから二日酔いの薬をもらい、何とか話せるほどに回復したクレアは、先ほどエミリアに渡された請求書を見て別の意味で顔を蒼くしているアベルにふと尋ねた。その紙に書かれている金額は銀貨二十枚で、これはアベルの給金のおよそ三か月分になる。
「うん・・・・・・まあ、午前中はほとんど動けないから部屋にいるしかないとして、その間に村で発生した三件の火事について話そっか。けど・・・・・・はぁ、出費が痛いなぁ。まだ装備も買い換えていないし」
「出費が痛いって、確か殺人事件を解決したことで、団長から多少だが褒賞をもらっただろう? あれはどうした?」
一ヶ月前、貴族の邸宅で蛇腹族と戦ったとき、アベルは身に着けていた銅製の胸当てと直剣を失っている。それを買いなおすため、事件の終了後ミネルヴァから褒賞という形で黒銀貨三十枚をもらったのだが、見たところアベルが身に着けているのは黒羊の紋章が右胸につけられた制服と、そして支給される武器の中で一番安くて軽い、だが攻撃能力はほとんどない銅製の細剣に過ぎない。
「あ・・・・・・あの銀貨三十枚は、ちょっと、ね」
「飲み歩いた、というわけではないな。お前は確かに酒盛りをするが、それは必要なものを買って、余った金でやる程度だ。となると・・・・・・お前、また身請けしたのか」
「う、うん」
クレアにじろりと睨まれ、アベルは亀のように首をすくめて頷いた。彼には警備している村に恋人が三百名ほどいる。といっても、そのほとんどが娼婦や飯盛り女だ。彼女たちはアベルをまるで弟のように可愛がり甘やかしているが、中には借金で首が回らなくなった家から、あるいは口減らしのために売られてきたアベルより年下と思われる娼婦たちもいる。
彼女たちを見ると、アベルは迷わず身請けしてしまうのだ。その後、帰る場所がある少女は其処まで送ってやり、帰る場所がない少女、帰ってもまた売られそうな少女は、城壁の外で実家をしている農園に住まわせていた。そして、彼女たちを養うため、青年は給金のうち半分ほどを毎月実家に仕送りしていた。この前届いた養母からの手紙によると、彼女たちは他の子供たちに混ざって懸命に仕事をしてくれているらしい。
「お前、以前身請けしたとき騙されて身包みはがれそうになったのを忘れたのか? 少しは警戒しろ」
「うん、気をつける。けど、やっぱり本当に困っている女の子を見たら、僕は結局身請けしちゃうと思うな」
数ヶ月前、同じように身請けした少女からお礼をしたいといわれて人気のないところまで来たとき、数人の男に身包みはがされそうになり、ちょうど通りかかった部下の衛兵に助けられたアベルは、後でクレアにしかられたことを思い出し、しゅんと項垂れながら二日酔い用の不味い粉薬を果実水で一気に流し込んだ。それでもこいつはまた誰かを助け、そして騙されるんだろうな。そう思いながら、クレアもアベルと同じように果実水を口にした。
「そうか・・・・・・まあいい、昨晩の宴会は私も参加していたからな、半分は持つ。お前が払うのは銀貨十枚だが、さすがにそれぐらいの蓄えはあるだろう?」
「うん、ありがとクレア」
「ふ、ふん。私にも責任があるからだ。今度からは、あまり散財するなよ」
にっこりと笑みを浮かべて礼を言うアベルに少々顔を赤くしつつ、クレアは年頃の娘にしては無骨すぎる財布を懐から取り出した。
「それで、火事の件だったな」
クレアから銀貨十枚を預かり、机の一番下の引き出しの厚底の裏に隠してある貯金箱から銀貨十枚を抜きとって掃除をしているエミリアに渡してから二時間ほど眠り、クリスタルの光が一番高くなる昼ごろ、アベルは椅子に座りながら、ベッドに腰掛けているクレアと三件の火事について話をしていた。
「うん、結論から言うと、やっぱりこの火事はどれも放火だと思うんだ」
「まあ、そうだろうな。一件目の倉庫は防火対策がしっかりしていた、二件目の娼館は水桶のある壁際で出火し、気づいたころには手の出しようがないほど燃え広がった、三件目は警戒していたところに、しかも火元が何もないきこり小屋で起きた。これで放火でないほうがおかしいだろう。となるとこの事件はもう私達の手を離れ“特捜”の対応する事件となる・・・・・・まだ何か気になることがあるのか?」
胸の前で腕を組みながらなにやら真剣な表情で考え込んでいるアベルを見て、クレアはふと居住まいを正した。
「うん、疑問点が二つあるんだ。まず犯人の動機だけど、腹いせに火をつけるなら一件目の倉庫の火災だけで充分。あれぐらいならたとえ捕まってもたいした罪にはならないからね。火をつけるのが好きな狂人の仕業でもないと思う。ならもっと頻繁に火事が起こっていたはずだ。それに、もしこれが計画された火事ならもっと分からないんだ。三万年祭前で警備が厳重になった今、どうしてわざわざ火災を起こす必要があるんだろう。そしてもう一つの疑問点なんだけど」
其処でいったん言葉を切ると、アベルは机の上に置かれたコップを手に取り、中に残った果実水を一口飲んだ。
「もし犯人の目的が、“特捜”を村に呼び寄せることだとしたら、どうして三件目の火事が起こったんだろう。二件目の火事は、建物が全焼、中に居た娼婦の人たちやお客さんの中にも多数のけが人が出た。この被害だけで、“特捜”は動くと思うんだけれど」
「念には念を、と考えたんじゃないのか? そもそも、どうして“特捜”を呼び寄せたいと思ったんだ?」
「うぅん、それはまだ分からないけど、犯人がまだ何かするようにも思えるんだよねぇ」
「それは確かに気になるな・・・・・・だが、先ほども言ったが、これが放火だとするなら近いうちに特捜が動くだろう。私達の出番はない。まあ、捜査に協力することは出来るかもしれないが、主体はあくまでも彼らだ」
「うん、そうだね」
不意に沈黙が落ちる。その空気に耐えられなくなったのか、それとも別の理由でか、クレアはそわそわと落ち着かなげに足を動かした。よく見ると、顔がうっすら赤くなっている。
「ん? クレア、どうかした?」
「あぁ、そのな、アベル。お前、三万年祭はどうするつもりだ?」
「三万年祭? 僕たちは大通りの警備にまわされると思うけど」
「ああ、それはそうなのだが、なにも祭の間ずっと張り付いているというわけでもあるまい。非番のときもあるはずだ・・・・・・それで、それでなアベル、もしよかったら、そのとき一緒に「アベルぅ、ちょっといい?」・・・・・・」
「あ、エミィだ、何だろ・・・・・・あれ、今何か言った?」
「なんでもない、さっさといけ、この馬鹿・・・・・・ああ、それから戻ってきたら、動きやすい服装に着替えておけ。せっかくの休日なんだ。体力練成のためランニングを行う」
「え・・・・・・い、いや、まだ二日酔いが治りきったわけじゃないから、今日はこのままゆっくりした「なんだ、なにか文句でもあるのか?」いえ、ないです、はい」
目の前の少女が不機嫌な理由がまったく思いつかないアベルは首をすくめると、催促するように自分の名を呼ぶエミリアのところに行くため、扉を開けて廊下へと出て行った。
彼がいつも眠っているベッドに、ふてくされるように顔を埋める一人の少女を残して
「井戸が枯れそうだって?」
二日間の休日を、ほとんどクレアと共にトレーニングに費やした次の日、三日ぶりに出勤した詰め所で、アベルは配下の衛兵であるコールから休暇中の報告を受け、ちょっと首をかしげた。ちなみに詰め所の中に居るのは自分とコール、そして牢番の衛兵の三人だけである。他の衛兵は重い甲冑を着たクレアと共に村の巡回を行っていた。今まで火事が立て続けに発生したためか、いつもより巡回に力が入っている。
「はい、消火作業で水を使いすぎたせいでしょう。といってもまあ、井戸はもう二箇所ほど黒紫商会所有の井戸がありますし、最悪の場合川の水を熱して飲めばいいと思います」
「いや、川の水はやめたほうがいいよ、細菌というのは、熱しても中々死なないからね」
「さいき・・・・・・ん、ですか? 妙なところで博識ですね。分かりました、では黒紫商会に掛け合って、井戸の使用許可をもらってきます」
「うん、よろしく・・・・・・あ、僕も行こうか?」
「なに言ってるんですか、隊長にはこの数週間でたまった書類の整理と、“特捜”が来たときに提出する報告書の作成があるでしょう? 二日も休んだんですから、さぞ体力が有り余ってますよね」
何かを期待するような表情をしたアベルに向かって、コールは半ば叱るように答えた。
「い、いや、ちょっとクレアと運動したから逆に疲れてるんだけど・・・・・・分かったよ、分かったからそんなに睨まないでよ」
休暇を与えられず、こちらを睨んでくる交代で半日の休憩を取っただけのコールに睨まれ、アベルは肩をすくめると、机の上に自分の頭の高さまで積まれた書類の、その一番上の紙を抜き取った。
「ただいま戻りました・・・・・・あの、隊長、ちょっとよろしいでしょうか?」
「お帰りコール・・・・・・どうしたの? 何かすごく困った顔してるけど。井戸を使用する許可はもらえたんでしょ?」
それから三時間ほど過ぎた頃だろうか。アベルが書類の山と格闘していると、困惑した様子のコールが戻ってきた。首をかしげながら、自分の向かい側の席に座るよう促す。それから一息入れようと、書き終えた書類を脇にどかして小さなキッチンでお茶の用意をする。
「すいません、それで井戸の使用許可ですが・・・・・・残念ながら断られました」
「断られた? それはちょっとおかしいね、井戸を使うときは村の運営費用からいくらか使用料が支払われるから、黒紫商会さんにとっても損じゃないと思うんだけど。実際これまでも何度か借りたけど、確か一度も断られたことなんてなかったよね?」
「はい、私も使用料の件は、多少割り増しできることも含めて伝えたのですが、それでも使わせるわけには行かないと言われまして・・・・・・あ、おいしいですね、このお茶」
「ああそれ? この間、団長にもらった紅茶の葉を使ってみたんだ。甘すぎず、すっきりとしておいしいでしょ。けどコールの言うとおりだと、もしかしたらお金の問題じゃないのかもしれないなぁ。このことを知っているのは他に誰かいる?」
「そうですねぇ・・・・・・黒紫商会の人は皆知っていると思います。けど、井戸が枯れそうといってもまだ余裕がありますし、住民の方々は知らないと思いますよ」
「うん、じゃあ悪いけど、日を改めてもう一度交渉に「大変です、隊長!!」あちっ!?」
コールに再び交渉を頼もうとしたとき、詰め所の扉が開き、外から一人の衛兵が駆け込んできた。恐らく全力で走ってきたのだろう、汗だくで随分と息が乱れている。その大声に、カップからこぼれた紅茶が少し、アベルの手にかかる。
「あちち・・・・・・どうしたのウエッジ、そんなに慌てて」
「お茶を飲んでいる場合ではないですよ隊長、暴動です!!」
「は? 暴動・・・・・・暴動だって!?」
部下の一人で、長芋のように細く長い背格好をしているウエッジの言葉の意味が分からず、最初きょとんとしていたアベルは、その意味を理解した瞬間、椅子をけって立ち上がった。その拍子に机の上に積まれていた書類があちこちに散らばる。それを拾おうと、コールが慌てて立ち上がったのを視界の隅に入れながら、アベルは汗だくになった衛兵を眺め続けていた。
「それで、もう一度状況を説明してくれるかな?」
「はい、暴動が発生したのは今から一時間ほど前、場所は黒紫商会会長、グレイプリー殿のお屋敷前です。原因ですが、恐らく井戸が枯れそうなのに、黒紫商会が井戸を使用させないためだと思います」
「ああ、ウエッジも知ってたんだ、それ」
「ええ、巡回しているときに黒紫商会の所属の自警団の人に言われましたからね、商会で所有している井戸は当分使えないって」
「ということは、もう皆知ってるって事か・・・・・・ああ、あれか」
お茶の片付けと書類の整理をコールに任せ、アベルはウエッジと共に暴動が起きたというグレイプリーの屋敷に駆け足で向かっていた。話しながら走ること三十分、目的である屋敷が近づいてくると、その前に三十人ほどの住民が集まっているのが見える。玄関のところには、自警団に所属しているだろう屈強な若者たちが刃物こそ持たないが手に柄の長い木槌や棍棒を持って立っており、彼らの間にいるクレアと数名の衛兵が、何とかして暴動を鎮めようとしている。
「クレア、状況は!?」
「来たかアベル、見てのとおりだ。まだ睨み合いの状況だが、何かあれば衝突する、といったところだな」
「そう・・・・・・皆、落ち着いてください。どうしたんですか?」
「ああ隊長さん、どうもこうもないです。井戸が枯れそうだというのに、こいつらが井戸を貸してくれないんですよ」
「そうよ、ただでさえ連日の消火作業で疲れてるというのに、お風呂にも入れないなんて酷いわ」
「えっと、み、皆さんこういっているけど、どうなんでしょうか」
屋敷の前に着くと、アベルはクレアの隣に立ち、まず押し寄せてきた住民に尋ねた。彼らの勢いにたじたじになりながら、今度は顔見知りの自警団の青年に声をかける。
「おうアベルか。どうもこうもねぇよ、会長からの指示で、黒紫商会が所有している井戸は当分使用禁止になった。だから使いたいって言う奴らを追い返してるのさ」
「ふん、どうせ井戸が本当に枯れた後で、高値で売りつけるつもりなんだろう!!」
「そ、そうだそうだ。いい加減井戸を使わせろ!!」
「・・・・・・手前ら、商会傘下の店で働いているくせに好き放題いいやがって。そんなにお望みなら、水じゃなくてこいつをくれてやろうか!!」
「え・・・・・・いや、ちょっとまって、それは駄目だよ!!」
アベルが青年のほうを向いていると、不意に集まっている住民の中から男の声がした。声の聞こえたほうを振り向こうとしたとき、騒ぎ立てた住民に向かって、自警団の男たちが木製の武器を振り上げる。
「くそっ、おいお前たち、いざとなったら武器の使用も許可する。だが死人は出すな、どちらも死なせずに暴動を鎮圧するぞ!!」
「「「は、はい」」」
一触即発の事態に、さすがにクレアがウエッジを含めた数人の部下と共に剣を抜こうとしたときである。
「静まれお前達!!」
屋敷の扉がいきなり開き、中から出てきた長身の女の怒声が周囲に響き渡った。
「まったくお前達、住民の挑発に乗ってどうする」
「す、すみやせん、団長」
戦場で使われるような大きな声に、住民と自分の部下、そしてアベル達がびくりと身体を震わせて動きを止めたのを確認すると、自警団団長であるシリエラはすぐ側にいる男をじろりと睨んだ。
「とにかく、屋敷の前でこれ以上騒ぎ立てるな。グレイプリー様は寛容な方だが、それでも目に余るようなら容赦なく制裁を与える方だというのは知っているだろう」
「は・・・・・・はい」
「まあ、分かればいい。今回のことは私の胸に収めておく。お前達もいつまでも騒いでないで、さっさと解散しろ!!」
「そ、そうは言っても、こちらも死活問題なんだ。井戸の水はまだ枯れていないが、水位は確実に下がってる。このままでは枯れるのは時間の問題なんだよ!!」
「ああ、そのことも踏まえて、いまからグレイプリー様からお話がある。とにかくお前たちの代表と、それから・・・・・・見届け人としてアベル、お前も来い」
「・・・・・・え? ぼ、僕? どうして僕が」
「どうしてって、お前この村を守る分隊の隊長だろう。つべこべ言わずにさっさと来い!!」
「ちょ、い、痛い痛い、痛いって!! どうして皆人の襟首掴むのさ、クレア、悪いけど一緒に来てくれない?」
「あぁいや・・・・・・すまんアベル、私は部下と共に住民を見張っていなければならん。悪いがグレイプリー殿の所には一人で行ってくれ」
「え? ちょっとそれ酷くない? って、痛いよシリエラ、ごめん、もう文句言わないからそんなに引っ張らないでよ!!」
業を煮やしたシリエラに襟首を掴まれ、ずるずると引きずられていくアベルはクレアに必死に顔を向けたが、屋敷の主であるグレイプリーを苦手としている彼女は、兜の中で引きつったような笑みを浮かべると、その背に上司の懇願のような叫びを聞きながら、部下と共に残された住民のほうを向いた。
「なるほど、お話は分かりました」
「そ、そうですか、あの・・・・・・それで、井戸のほうは」
それから十分後、シリエラに引きずられてきたアベルと、以前自警団に所属していたが、怪我を負って引退し、今は黒紫商会傘下の店で手代をしている住民の代表は豪華なソファに座りながら、この屋敷の主であるグレイプリーと向き合っていた。彼らがいるのは、騒いでいた屋敷の中ではない。屋敷の中にある転送機と呼ばれる機械を利用し、空中に浮かぶグレイプリーの本当の屋敷・・・・・・黒き空に浮かぶ、高さ数十メイルの文字通り空中楼閣の中にある応接間であった。グレイプリーはさらさらとした長い金髪と紫色の瞳を持つ妙齢な美女で、部屋の中だというのに小さな白い帽子を被っている。先ほどシリエラに引きずられてきたアベルを優しく見つめたその瞳は、だが住民の言葉を聞き、悲しげな色を浮かべていた。
「ごめんなさい、先ほども言われたと思うけれど、井戸を使わせるわけには行かないの」
「えっと、それは採算が取れないからでしょうか? さっきコールも言ったと思うけど、少しなら使用量の割り増しも出来ますが」
「いいえ隊長、お金の問題ではありませんの。だって、私達“も”井戸を使うことは出来ないのですから」
「私たちもって・・・・・・待ってください、それってまさか」
グレイプリーの言葉に、考え込んでいたアベルが何かに気づいたかのように顔を上げる。それを見て、出来の良いお気に入りの生徒が、正解にたどり着いたのを褒める教師のような表情を浮かべると、彼女はかすかに頷いた。
「ええ、ですからイワン、井戸を使わせることは出来ません。その代わり、今他の村から水を購入しているわ。とりあえず、一ヶ月の間水には困らないはずよ。もちろん、その分の代金はお支払いしてもらいますけど」
「え、ええ。それならなんとか、皆を説得することが出来ると思います。大変申し訳ございません、会長」
「いえ、いいのよ。部下を慰撫するのは、上に立つ者の義務ですもの。後は困ったことは何かないかしら」
「い、いえ、特には。ではこれで失礼させていただきます。水の件を、一刻も早く皆に伝えたいので」
「ええ、分かったわ。水は二、三日中には届く手はずだから、心配しないで待っていなさい・・・・・・さて」
自分の言葉に安堵して立ち上がったイワンという村人に笑いかけ、彼が屋敷から出て行ったのを確認すると、グレイプリーは立ち上がり、先ほどまで彼が座っていた場所、すなわちアベルの横に座った。
「それで、答えは出たかしら」
「え、ええ・・・・・・“毒”ですか」
「正解よ。シリエラ」
「はっ!!」
隣に腰掛けたこの屋かあの主にすべすべした頬を撫ぜられながら、アベルが自分の中で思い至った答えを話すと、グレイプリーは嬉しそうに微笑みながらシリエラを呼んだ。主の声に応えたシリエラが一度応接間を出て、右手に水の入った小瓶を携えて戻ってくると、グレイプリーは青年の唇を自分の唇で塞いでいた。
「主、まだ日が高いと思いますが」
「あら、やめろとは言わないのね。まあ当然かしら、貴女もこの人に、月に二、三度抱かれているものねえ」
「ま、まあそれはそれとして、ご所望の品をお持ちいたしました」
「あ、あの・・・・・・グレイプリーさん、それは井戸の?」
「ええ。数日前、森で発生した火事の消火活動をしている部下の一人が、休憩中に井戸の水を飲んだときに発覚したのだけれど・・・・・・シリエラ」
「はい」
グレイプリーの艶やかな肢体の下敷きになりながら、先ほど息が出来ないほど強く口付けをされたアベルが荒い息をしながら聞くと、シリエラは壁際の水槽に近づき、その中に小瓶の中の水を数滴入れた。
変化はすぐに現れた。井戸の水が数滴混入しただけで、直径二メイルはある水槽の中で泳いでいた大小さまざまな大きさの魚たちは、じたばたともがき苦しみ、数秒後、腹を水面に浮かべて皆死んでいた。
「これは・・・・・・かなり強い毒ですね」
「井戸の水を飲んだ部下も、同じようにもがき苦しんで死にました。それから三つの井戸を全て封鎖して調べたのだけれど、その全てからこの毒が検出されています」
「ということは、人為的なもの、ということですか?」
「ええ。間違いなく」
グレイプリーが頷くと、アベルは深々とため息を吐いた。火事に加え、井戸には人を殺すほどの毒が仕込まれた。恐らくこの二件はつながっているだろう。そもそも火事を消すために井戸の水を使わなければ、黒紫商会が所有する井戸を使わなくて済んだのだから。
「えと、何の毒かは判明しているんですか?」
「いえ、残念ながら黒界全ての毒を調べても、無色透明で、これほどの毒を持つ物は動植物の中にはありませんでした。そこでアベル隊長、頼みがあるのですが」
「は、はい。なんでしょうか」
しな垂れかかっていたグレイプリーが、起き上がって真剣な表情を見せる。続いて起き上がったアベルも、彼女の表情につられるように真剣な表情を浮かべた。
「帝立大学に行き、この瓶に含まれている毒が何なのか調べてきて欲しいのです。それと、もしあるのならば解毒剤もお願いいたします。最悪井戸を埋めるのは仕方がないのですが、毒を取り除かないと将来的にこの辺りは人の住めない土地になってしまうかもしれませんので」
彼女の言う帝立大学とは、帝都近郊にある小高い丘の上に建てられた巨大な学び舎である。以前は貴族やそれに連なるものしか入れなかった大学は、セフィロトのときに法律が改善され、学費が引き下げられたほか、優秀ならたとえそれが獣人族であっても国から学費・生活費が援助され、学ぶことが出来るようになっている。
「それは・・・・・・考えただけで恐ろしいですね。分かりました、明朝速やかに大学まで行き、この毒が何なのか、また解毒剤があるのか調べてきます」
「ええ、ありがとう。毒については副学長に聞くのが一番早いと思うわよ。彼女、毒物関係の第一人者ですから。では、お願いいたします」
「あ・・・・・・は、はい。では、これで失礼します」
もうこれでお終いなのか、助かったような、もしくは惜しかったような気になりながら立ち上がると、アベルはグレイプリーとシリエラに一礼し、玄関に歩いていった。
「・・・・・・ああ、一つ言い忘れていましたわ、ヨタ」
そのとき、屋敷の中の空気が一変した。
剣を抜きかけたシリエラの首に掌底を当てて悶絶させると、暖炉の上に置かれている蝋燭のついていない銀の燭台を右手に持ち、微笑しているグレイプリーの左目に迷うことなく突き刺す。だが、“彼女”が突き出した燭台の先端は、突き刺さる瞬間グレイプリーの前の空間がゆがみ、その中に飲み込まれたと思うと、いきなり突き出した本人の後頭部に現れた。振り返らずに後ろに突き出した左腕のボタンのところでそれを受け止めると、僅か数秒ほどの攻防で敗北を悟った“彼女”・・・・・・夜鷹は、右腕に持っている銀の燭台を床に放り投げ、ちっと忌々しげに舌打ちした。
「主をその名で呼ぶ名といったはずだぞ、年増女」
「そちらこそ、相変わらず酷いあだ名で人を呼ぶのね。だってこうしないと貴女と話せないでしょう?」
グレイプリーの余裕たっぷりの笑みを睨みつけていた夜鷹は、ふんっと鼻を鳴らすとソファまで歩き、どさりと座ると行儀が悪そうに足を組んで空中楼閣の女主人を睨みつけた。
「それで? 緊急の要件なのだろうな?」
「ええ、本題に入る前にお聞きするけど、貴女“四者”についてはどれだけ知っているかしら」
「四者か、詳しくは知らん。城壁外に住む六千万の氏民を束ねる者で、彼らの庇護者であること・・・・・・それと、そのうちの一人が貴様ということぐらいか」
黒紫商会会長にして四者のうちの一人、敵対した者を奇策を使って雁字搦めにし、生かさず殺さず弄ぶことから“紫蜘蛛”の異名を持つグレイプリーは、先ほどの穏やかな笑みとは違う、見たほとんどの者が背筋を凍らせ、跪いて助命を請う冷笑を浮かべたが、夜鷹はその冷気を軽く受け流すと、机に置かれているクッキーを遠慮なく貪った。
「あら、ご存知だったの?」
「ふん、あの腹黒いデカ乳女と知り合いなのだ、貴様がたんなる商会の会長でない事ぐらい、容易に想像がつく。それよりも早く用件を言え、用件を」
「ふふ、随分とせっかちだ事。なら本題に移るけれど・・・・・・一週間後、私達はとある場所において会合を開くことにしたの。主な議題は三万年祭のとき、城壁外に住む六千万の氏民が帝都に入った場合、事件を起こさずに祭りを楽しめるようにするにはどうすればいいのか、ということね。帝都にいる騎士と衛兵だけではとても九千万以上の住民を監視することなんてできない。ならば、六千万いる氏民を祭りの間まとめて衛兵扱いにして、終了後に報酬を与えたほうがずっと安く済む・・・・・・というのがセフィリアの考えなのだけれど、まあ、あたしはそれでもいいと思うわ。他の三者がどう思うか知らないけど」
「ふん・・・・・・それで? その会合と私と、いったいどんな関係がある?」
「簡単な話よ、私たち四者は、心の底から信頼しあっているわけじゃない。逆に隙あらば蹴落とそうというのが普通ね。そして、最も楽な方法は四者のうちの誰かを暗殺すること。それを防ぐために、護衛が一名だけ認められている。その護衛を、あなたに頼みたいのよ」
「護衛・・・・・・だと? そんなもの、私ではなく其処に転がっている小娘で充分だろう」
軽く舌打ちすると、夜鷹はいまだに床にうずくまり、苦しげに首を押さえているシリエラを軽蔑したように眺めた。
「あら、彼女では駄目よ。私たち四者は、互いの素性を詮索しないようにしているの。まあ、正体は知っているでしょうけど、公然の秘密というわけね。シリエラは確かに優秀だけれど、彼女が公私に渡って私を補佐しているのは、誰でも知っていることよ。だから彼女を連れて行くのはちょっと無理ね」
「ふん・・・・・・まあいい。ちょうどデカ乳女からの依頼もないからな。黒金貨七十枚」
「あら? いつもの依頼ではなく、単なる護衛よ? 何もせず終わることも充分考えられるわ。黒金貨三十枚」
「だからいつもより三十枚も値引きしているだろう・・・・・・黒金貨六十枚」
「他の地区から水を購入したせいで、ちょっと懐が寂しいの。黒金貨四十枚」
「貴様が四者であることの口止め料を含めて、全部で五十枚にしてやる。ところで、一週間後ということだが、“特捜”のほうは問題ないのか?」
「ああ、彼ら? 大丈夫、すでに手は打ってあるわ」
自分の言葉を聴いて訝しむ夜鷹に、グレイプリーはにっこりと微笑んだ。
「これは本当なのか!!」
同時刻 黒鳥城第六城壁東棟、帝国軍特殊捜査部隊司令室にて、留守にしているオーダイン中将の変わりに部隊の総指揮を取っている、彼の副官であるメリア上級大佐は、目の前にいる部下の報告を聞いた瞬間、椅子を蹴って立ち上がった。
「は・・・・・・何しろ事務所に来たほかの情報と混ざっておりましたので、信憑性については何ともいえませんが、“これ”に関する情報は最優先事項ということでしたので、取り急ぎ報告をと考えまして」
「ああ、よく報告してくれた。しかし・・・・・・“夜鷹”が女だと!?」
椅子に座りなおすと、メリアは舌打ちしそうになるのを堪えるような歪な表情をした。
「まあ男と女、そのどちらかしかないが、帝都に女がいったい何人いると思っている、城壁内外に住む九千万の半数に当たる四千五百万だぞ!? 調査するだけでも数年はかかるが見過ごすわけにはいかんな。もし夜鷹を捕える事が出来れば、それは貴族たちに対する発言力の大きな強化につながる・・・・・・おい、今捜査している事件の中に、緊急性の高いものは何かあったか」
「緊急性の高い、ですか? 今捜査している、あるいは捜査を開始しようとしている物の中には別に・・・・・・ああ、そういえば城壁外で発生した複数の火災が、放火によるものだという報告がありましたね。それぐらいでしょうか」
「火災か・・・・・・たしか三件目は森のほとんどが焼失する大火災ということだが、被害届は出ているのか?」
「いえ、黒羊騎士団から、無事鎮火したという連絡があっただけです」
部下の話を聞き、メリアは迷うように腕組みをした。現在急ぎの案件はない、しかも夜鷹が女だという情報は、貴族連中も知らない最新情報だ。この情報をもとに夜鷹を捕えることができれば、奴らの鼻を明かしてやることができるだろう。
「・・・・・・閣下が要塞から戻られるのはいつだった?」
「は、七日後になります」
「・・・・・・分かった、今から連絡員となっている隊員を除き、手暇なものはすべてこの情報の真偽の確認を行え。期限は五日とする」
「全ての隊員ですか? お待ちください、それでは緊急の事件が発生した場合、支障をきたす恐れが」
「心配するな、そのために連絡員は残している。すべての責任は私が取る、すぐさま任務に就け!!」
「は・・・・・・ははっ!!」
狼狽する隊員を叱咤し、彼らが部屋を出ていくのを見送ると、メリアは立ち上がり、窓から外の景色を見た。乳白色の空の下、城の尖塔に備えられた巨大な軍旗が、ばたばたと風に煽られ揺れている。
「待っていろ夜鷹、貴様の正体、必ずやこの私が暴いて見せる!!」
「・・・・・・と、意気込んでいるでしょうねぇ、彼女は」
「貴様・・・・・・人を勝手に女にするな」
「あら? 完全に嘘とは言い切れないでしょう? 実際にあなたは女性なわけだし。いいこと、嘘というのはその中に僅かに真実を混ぜると信憑性が増すのよ、覚えておきなさいな」
「ふん、しかしそう簡単に行くのか? 特捜とやらを率いるのはオーダインだ。奴は多少頭が切れる。貴様の嘘など、簡単に勘付かれるのではないか?」
「あら、それは大丈夫よ。彼は十日ほど東のガストレイル要塞に出張中だから。そして彼の部下が皆、彼と同じように優秀だとは限らない。特に副官の大佐殿は貴族嫌いであり、彼らへの対抗心から功を焦る傾向にある。そんな彼女が夜鷹に対する情報を仕入れたら、それが真実か否かを確かめようとするはずよ。必ずね」
「・・・・・・まあ、事が貴様の思い通りに進めばいいがな。五日後に会合、だな。分かった、準備をしておく」
「ええ、お願いね。そうそう、セフィリアから預かった最新式の武具もしまっておくから、それも忘れないようにね・・・・・・ああ、それと最後に一つだけいいかしら」
「別に構わん、何だ?」
「別に大したことではないのよ、けど・・・・・・アベルが”お嬢ちゃん”の好意に気づかないのは、あなたが妨害しているからなのかしら?」
「・・・・・・」
グレイプリーのその問いに、夜鷹は即答を避けた。応接間に、重苦しい沈黙が広がっていく。
「・・・・・・あの?」
「年増女、貴様にとって主はどのような存在だ?」
「どういうって・・・・・・まあ、私だけじゃなくここにいるシリエラやセフィ、それにその他彼と関係を持っている多くの女性にとってはアベルは恋人よ? それは貴女もわかっていることだと思うけれど」
「質問の意味をよく理解していないようだな、私が聞いているのはどんな関係ではなく、どのような存在かということだ」
「だから・・・・・・ああ、そういうこと。それならそうね、弟・・・・・・のような存在かしら」
こちらを蔑むように見つめてくる彼女の態度に不機嫌そうに眉を顰めながらも、納得したように頷きつつグレイプリーが答えると、夜鷹は正解だという風にわずかに首を縦に振った。
「そう、貴様やデカ乳女だけでなく、其処に転がっている女や宿屋の小娘、そしてその他関係のある数百の女たちは皆、主をまるで自分の弟や息子のようにかわいがり、甘やかす。本来ならば問題なのだが、今はそれでいい。主には休息と安らぎの時間が必要なのだ・・・・・・だが」
「だが?」
「・・・・・・だが騎士の小娘は違う。奴は主に愛されたい、抱かれたいと願っている。それは愛する男に女が向ける感情としてはごく当たり前の物ではある。だが残念なことに、主はまだその想いに応えられるほどに回復してはいない。それほどまでに重いのだ、我らが主が心身共に受けた傷という物は」
「そう・・・・・・」
夜鷹の話を聞いたグレイプリーは、普段飄々としている彼女にしては珍しく神妙な表情をして目を伏せた。
「まあ、主の傷が癒えれば騎士の小娘に心を向ける余裕も出てくるだろう。それにその頃にはすでに小娘の心が離れていてもおかしくはない。そんなことにいちいち構う必要もない」
「そう・・・・・・ねえ、前から思うのだけれど、その偉そうな口調、少し控えたほうがいいのではなくて?」
「ふん、余計なお世話だ」
自分の言葉に、少し注意、というよりも苦言を述べたグレイプリーを無視するように目を閉じた夜鷹の気配が急速に変化していく。それは例えるなら、冬の凍てついた冷気に似た気配が、春の穏やかなそれへと戻っていくかのようだ。
「逃げたわね・・・・・・まあ良いわ。〝お仕置き”はアベルに受けてもらうとして、言われたとおりこちらも会合に向けての準備を進めましょうか。シリエラ、もう大丈夫かしら?」
「は、もう大丈夫です・・・・・・申し訳ございません閣下、油断いたしました」
「まあ、夜鷹相手ではしょうがないわよ。それよりあなたも準備を手伝ってちょうだい」
「畏まりました、それと閣下・・・・・・一つお願いがあるのですが」
「あら、なにかしら?」
すでに答えは分かっているはずなのに、呆然としているアベルの服を一枚一枚丁寧に脱がし、現れた白い素肌を愛おしげに撫ぜながら尋ねてくるグレイプリーに、シリエラは欲情して真っ赤に染まった舌をチロリと出した。
「はい、これから行うアベルに対しての〝お仕置き”、ぜひ私も参加させていただきたく思います」
「え? え・・・・・・え?」
呆然としながら艶やかなグレイプリーに肌をまさぐられていたアベルは、徐々に意識が覚醒していく中、服を脱ぎながらこちらに向かってくる美女を、まるで美しい雌の狼に狙われた小動物のような顔で眺めていた。
「アベル、お前一体今まで何を・・・・・・というかお前、随分とやつれていないか?」
「・・・・・・ほっといてよ」
翌日の事である。先日発生した騒動を何とか収め、再び発生しないように監視と巡回の指揮を取っていたクレアは、日を跨いで戻ってきたアベルに文句を言おうとしたが、彼のげっそりとやつれ果てた姿を見て、逆に心配そうに声をかけた。
「それよりごめんね、昨夜は手伝えなくて」
「・・・・・・まあ、グレイプリー殿の屋敷に置き去りにしたのは私の方だしな。幸い、昨夜は緊張状態にはあったが衝突は起こらなかった。それで今日はどうする? 警戒は続けるが、昨日は結局何の話もなかったからな。水不足が解消されなければまた同じ騒動になるぞ」
「え? 何の話もなかったの?」
「ああ、お前より先に出てきた騒動を起こした奴らの代表によると、グレイプリー殿からは井戸は貸せないの一点張りで、質問や意見は一切許されなかったらしい」
「そう・・・・・・まあ、それはおいおい考えようか。とりあえず騒動が起きないように、引き続き警戒態勢は維持しておいて。衛兵の人たちには悪いけど、巡回の回数を増やすように言っておいて。それから、僕ちょっと今日出かけるところがあるから、悪いけどクレア、引き続き指揮をお願い」
「指揮を執るのは構わんが、いったいどこに行くんだ?」
「・・・・・・そうだね、クレアなら大丈夫かな。ちょっとこっちに来て」
「お、おい、どこに引っ張っていくつもりだ」
アベルに手を引かれ、赤面しつつクレアがついていくと、連れていかれた場所は建物の奥、今は誰も中にいない牢屋の前だった。ここは完全に死角となっており、小声で話せばだれにも話す内容を聞こえることはない。
「お、お前、こんなところに連れてきて、いったいどういうつもりだ?」
「し、静かに。今説明するから、ちょっと耳を貸して」
「は? あ、ああ」
真剣な表情のアベルに首を傾げつつ、青年に耳を向けると、アベルは彼女に向って何かぼそぼそと話し始めた。はじめは彼の息がかかるからか、それとも別の理由からかくすぐったそうに身を震わせていたクレアは、だが話が進むにつれ、少しずつ真剣な表情を見せていった。
「・・・・・・毒だと? それは本当なのか」
「まあ、うん。昨日“見せて”もらったから間違いない。死人も出たようだから、グレイプリーさんの言う通り井戸を使うわけにはいかない。もちろん、ほうっておくわけにもね。というわけで、僕はこれからこれが何の毒なのか調べるために帝立大学へ行こうと思う」
「それはいい考えだと思うが・・・・・・私も同行するか? お前ひとりでは何かあったら対処は難しいだろう」
「それはありがたいけれど、クレアにはちょっと頼みたいことがあるんだ。それはね・・・・・・」
クレアの耳に、再びアベルが口を寄せてくる。先ほど同様彼の息がかかるが、もはや動じることなく、クレアは真剣な表情で上官の指示に耳を傾けていた。
それから二時間ほどが経過したころ、黒鳥城の頂にあるクリスタルが一段と輝き空が乳白色に染まる時間帯、即ち昼間の時間に、帝都近郊の街道を一台の寄り合い馬車が走っていた。それは帝都内で見かける蒸気式の馬車ではない。二頭の馬が引く大きな荷馬車、即ち蒸気馬車が作られるまで帝都でも当たり前のように使用されていた昔ながらの馬車であった。蒸気馬車が帝立研究所によって開発され、瞬く間に帝都に普及すると、今まで馬車の仕事をしていた者は、蒸気馬車を運転できる者は運転手として仕事をするようになったが、御者という地位に甘んじ努力を怠った者は帝都での仕事を失い、安い料金で城壁外での仕事をすることを余儀なくされた。
「・・・・・・まあ、便利だからいいけどね」
幌の付いた荷台の中で、アベルは長椅子の一番端に座りながら外の景色を眺めながら、“馬車亭”と呼ばれるどの集落にも必ず一つはある馬車の待合所で買った羊の炙り肉とレタスを挟んだ黒パンにかぶりついた。馬車の料金は目的地まで馬車亭をいくつ通るかで決まっており、一つなら銅貨一枚、二つなら二枚、三つなら三枚といった風に徐々に高くなっていく。これは蒸気馬車が普及し始めたころ、青年の良く知る筆頭執政官であるセフィリアが定めた法律で、公平的に誰でも使えるようにするためであるが、それでも帝都内で運用していたころと比べるとかなり安くなっており、少しでも稼ぐために馬車亭には馬車の中で気軽に食べられるサンドイッチなどの食物や飲み物、雑誌や新聞などの読み物が売られていた。
「えっと・・・・・・村から大学までは馬車亭を六つ通るから、全部で黒銅貨六枚か。この速さだと夕刻までには付けそうかな」
村から大学までは、寄り合い馬車の速度だとおよそ三時間ほどかかる。その間、銅貨二枚で購入した味付けの薄い、ぱさぱさとしたあまりおいしくないサンドイッチを、詰め所で用意した水筒の中に入っているお茶で流し込むように食べてから、アベルは椅子にゆっくりと寄り掛かかって目を閉じた。幸いなことに大学は寄り合い馬車の終点にある、寝過ごすことはないだろう。昨夜寝る暇もなく、グレイプリーとシリエラの二人に犯されたアベルは、その時の疲労がようやく来たためか、瞬く間に眠りに落ちていった。
青年は最初、自分がどこにいるのかわからなかった。
彼はおそらく、道だと思われる場所の真ん中に立っていた。自分の両端には石でも木でも漆喰でもない、他のもっと固い何かで作られた白い壁がある。それも一つではない、白い壁は彼が立っている道の後ろにも前にも途切れることなく続いていた。そして壁の向こう側には、おそらく壁と同じ資材を使ってできているだろう建物が、いくつもいくつも建てられていた。建物の中からは、時折誰かの話し声や子供の笑い声がする。ならばおそらく、危険な場所ではあるまい。ほっと息を吐くと、アベルはふと顔を上げて頭上を眺め、そして次の瞬間びくりと凍り付いた。なぜなら、
なぜなら、彼のいる世界には決してあり得ないことに、空が
空が、自分の瞳と同じく、青ざめた色をしていたからだ。
「・・・・・・ん、お客さんっ!!」
「は・・・・・・はいっ!?」
肩を揺さぶられる感覚で、アベルははっと目を覚ました。ぼやけた視界が徐々に鮮明になっていき、目の前にいる馬車の御者を務めるムササビによく似た獣人族の若者がこちらを心配そうに覗き込んでいるのが見えた。
「ふう、よかった。目を覚まされましたね、終点ですよ」
「しゅう・・・・・・てん? ああ、そっか。ここ馬車の中か」
「そうです・・・・・・大丈夫ですか? だいぶ魘されていたご様子でしたが」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
自分の言葉に頷いた御者が開けた出口から外へ出て、彼にチップを含めた多めの運賃を払うと、アベルはふと空を見上げた。風が強いのか、少々長めの黒髪が額に垂れてくる。それを右手で撫でつけながら見上げる空は、いつも通りの黒界の空であった。それを見て安堵したかのようにほっと息を吐くと、彼は顔を戻し、正面にある巨大な建物群に目を向けた。
帝都大学が出来上がったのは、“大空位時代”よりはるか以前、帝国歴一万年前後といわれている。当時のパンデモニウムは今より発展しておらず、皇帝の権力も弱く、その地位も周囲六ヶ国の承認があってこそ成り立っており、教育といえば貴族の子弟たちの娯楽のようなもので、実質的な政務は六ヶ国から派遣された官僚たちが牛耳っていた。
その現状を憂い、帝都郊外に大学を作ったのが当時の皇帝の第二子、マクシミリアンであったという。彼は自らの皇位継承権を返上する代わりに、文化庁と呼ばれる帝国の教育機関と研究機関を統括する部署を創設する許可を得て、その初代長官に任命された。そしてまもなく帝都に幾つかの建物が学問所として建てられ、勉強がしたくてもできない子供たちを迎え入れた。これら学問所の建設、子供たちの教育には莫大な費用がかかるが、創設されたばかりの文化庁に与えられる予算では到底足りず、マクシミリアンはその費用のすべてを自らの私財で賄った。そのため晩年のマクシミリアンは皇族でありながら一時期困窮していたといわれている。
さて、帝都に学問所ができて幾年か過ぎ、初期に入学した子供達がマクシミリアンの推薦で城に勤務すると、その有能さが認められ文化庁に与えられる予算が増え、その増えた予算、そしてマクシミリアンが伝手を使って裕福な貴族や商家に投資の約束を取り付けた結果、帝都近郊の高台に大学の前身となる帝都師範学校が開校した。最初は一つの学舎の中に法学科と教育学科、その他幾つかの学科があるだけの小さな学校であったが、世代を重ねるごとに医学科や経済学科、錬金学科といった風に次々に学科や学舎が増えていき、帝国歴二万五千年ごろには十マイルほどの広大な土地に百を超す学部や研究機関、それに所属する学生や研究員、延べ数千人を保有する黒界のみならず、四界最大の大学となっていたが、七百年前、さらにセフィロトが手を入れて当時奴隷の身分から解放された獣人族や貧民も大学に入学できるように奨学金制度を作ってからは、今では入試倍率が数千倍を超すほどの大学となっていた。
「常に自由であれ、変化を恐れるな・・・・・・かぁ」
正門の横に建てられた、大学の完成を見ることなく逝去した皇帝ならずとも“開眼帝”の異名を持つマクシミリアンの銅像、その足元に描かれている文字を、アベルはぼんやりと目で追った。その時、彼のすぐそばでコホンと誰かの咳払いが聞こえた。慌てて振り返ると、門番をしている牛頭族の男がこちらを不審げに見ているのが分かった。
「す、すいません、えっと」
帝立大学は基本的に誰でも自由に入ることができるようになっている。そのため不合格となっても講義を受けたければ好きな講義を受けることができる。これは本来は違法ではあるが、セフィリアや〝副学長”が何も言わないため他の職員な黙認している。といっても大学には錬金学部や医学部に危険な薬品や毒草が保管している場所があるため、こうして門前や敷地内にはやとわれた警備員が立っているのだ。
笑み一つ浮かべない、むっつりとした表情の警備員に要件を告げると、彼は正門を入ってすぐ右にある小さな建物を指さした。入り口の脇には達筆で「受付」と書かれている。どうやらあそこで許可証が受け取れるらしい。
「えと・・・・・・あ、ありがとうございます」
警備員にぺこりと一礼してから、アベルは小走りで受け付けのある建物へと向かった。入り口の横にある達筆で書かれた看板をちらりと見てから中に入った彼を見送ると、警備員は相変わらずむっつりとした表情で前を向いた
「あ、あのう、すいません」
周囲の建物より幾分小さい建物に入ると、アベルは恐る恐る声をかけた。入り口のすぐ横にあるカウンターでは、ふさふさした耳羽をもつハルピュイア族の女性が退屈そうに本をめくっていた。
「えと・・・・・・す、すいません」
「・・・・・・え? ああ、来客の方ですか」
もう一度声をかけると、彼女は本に向けていた顔を上げ、ぱたんと本を閉じるとこちらに向き直った。
「ようこそ、帝立大学へ。本日はどのようなご用件でしょうか」
「は、はい。副学長のスプリングス教授にお会いしたいのですが」
「スプリングス教授ですね、失礼ですが面会の御約束などはおありでしょうか」
「はい、確かすでに連絡はしていると思いますけど」
「確かですか、あまり釈然としませんね・・・・・・少々お待ちください」
青年の自信なさげな表情を見て眉を顰めると、受付嬢はすぐ脇にある木のボードを手に取った。それにはさんでいる神をぱらぱらと捲り、とある箇所で止める。
「ああ、ありました。黒羊騎士団所属団長直轄部隊である特別分隊分隊長、アベル様ですね。身分証明書等はございますか?」
「あ、はい。これでいいですか?」
受付嬢の言葉に、アベルは普段首から下げ、服の中に隠しているペンダントを取り出した。黒銀でできた丸い小さな円の中央に黒界の象徴といってもよいクリスタルが描かれ、その左右に黒い羊が描かれている。そしてクリスタルの下には、『黒羊騎士団、特別分隊分隊長』と書かれていた。ペンダントを受け取った受け取毛状は、少しの間ペンダントの裏表を眺めていたが、やがて納得がいったのか、頷いてペンダントをアベルに返した。
「・・・・・・はい、確かに確認いたしました。ありがとうございます。それではこちらの記入簿にお名前とご職業、訪問先を書いてください」
「は、はい。分かりました」
目の前に出された養子にアベルが必要事項を記入している間、受付嬢はすぐ傍らの引き出しから許可証と一枚の紙を取り出し、それを青年が書いている用紙の脇に置いた。
「こちらが当大学の地図になります。同じような建物が百軒以上あるため分かりずらいでしょうが、現在職員が出払っておりまして、申し訳ございませんがこちらを確認しつつお行きください。幸いなことにスプリングス教授が学部長をされている自然科学科の近くまで蒸気馬車が運航しておりますので、そちらに乗っていかれると早いかと思います」
「分かりました、ご親切にありがとうございます」
用紙を書き終え、受付嬢から地図と許可証を受け取ると、アベルは最後に深々と一礼してから受付のある建物を後にした。
それから十数分後、アベルは蒸気馬車に乗って巨大な大学の北西にある自然科学科の学舎へと向かっていた。大学の構内を走っている蒸気馬車は大学で開発された最新式の試作機らしく、運転手を必要としないで行先を入力すると自動で走行するタイプとなっている。むろんアベルにはどうやって自動で走行しているのかその仕組みがまったくわからず、乗っている間、彼は事故など起こらないかと戦々恐々としていたのだが、乗り合わせた学生や教師と思われるほかの乗客は慣れているのか運転手がいないことを全く気にすることなく、本を読んだり談笑したいしている。そのうち女性客の何名かは、華奢で整った顔立ちをしているアベルの方をちらちらとみているが、彼がそれに気づくことはなかった。そのうち一人、また一人と蒸気馬車を降りていき、目的の建物の近くにある停車所に到着した時は、もう彼しか乗っていなかった。この辺りは、あまり人気がないらしい。
「えっと、地図によるとこの辺りなんだけど」
馬車を降り、もらった地図を片手にアベルはきょろきょろと周囲を見渡した。地図によると、彼の目指す自然科学科のある建物はちょうど銛に隣接するところに建てられているらしいが、二百メイルほど先にある森はかなり広く、其処に隣接している建物だけでも十を軽く超す。また、近くには錬金学や爆発物を取り扱う建物も多くあるらしく、どうやら危険な研究をする学科を一つにまとめているらしい。
「えと・・・・・・どれが、どれ?」
受付で渡された地図にはこの辺りの建物と、それが何であるかは書かれているが、詳しい道順までは書かれていない。不親切だなと思いながら歩いていると、ちょうど目の前の建物から、広げた羊皮紙を熱心に見ながら出てくる学生の姿があった。
「えっと、すいません」
「・・・・・・」
羊皮紙を広げているその学生に、恐る恐る声をかける。だが相手はこちらの声が聞こえないほど羊皮紙をのぞき込むのに集中しているのか、顔も上げずに何やらぶつぶつと呟いている。
「すいませんっ!! 自然科学科の建物はどこでしょうかっ!!」
「・・・・・・ん? ああ、錬金学科のある建物の隣だよ」
「・・・・・・ええと、その、ありがとうございます」
「いやいや、気にしないでいいよ。迷い人に道を指し示すのは、知恵ある者の務めだからね」
声を張り上げてもう一度尋ねると、学生は羊皮紙から目を離さず、あらぬ方向を指さした。その方向は間違いなく銛とは正反対の場所を指さしていたが、それでも教えてもらったことに変わりはない。アベルが礼を述べると、その学生は結局羊皮紙から一度も目を離すことなく、手をひらひらとさせて遠ざかっていった。
「・・・・・・だから、その錬金学科ってどこなのさ」
遠ざかっていく学生を見送ると、アベルはがくりと頭を垂れた。
それから三十分ほど後の事である。さらに数人の通行人に道を聞きながら、アベルはようやく錬金学科のある建物の近くまでやってきた。道が分かったことで安心したのか、アベルはほっと息を吐き、ふと周囲を見渡した。すでに夕刻が近くなっているが、だんだんと姿を見せ始めた月の下、学生たちが談笑したり勉強したりと、皆有意義に過ごしている。
もしかしたら、あの中に自分の姿があった可能性もあるのかな
最近帝都で人気のスポーツであるテニスの用具を持った数人の男女とすれ違い、彼らの後姿を見送りながら、アベルがふとそんなことを考えた時だった。
ズガンッ!!
「・・・・・・へ?」
巨大な爆発とともに、目の前の建物が中から吹き飛んだ。一階の窓や扉はすべて粉々に砕け、隙間から黙々と黒煙が立ち昇っている。
「え・・・・・・え!? なに、事件? それとも事故!?」
立ち上る黒煙を呆然と眺めていたアベルは、はっと我に返ると慌てて駆けだそうとして、ふとその動きを止めた。周囲にいる学生が、爆発した直後はびくりと体を震わせて建物の方を見たものの、後はもう気にすることなく自分たちの事に戻ったからだ。
「・・・・・・なに? 何なのさ、一体」
彼らの様子にアベルが訳が分からないという風に首を傾げた時、いまだ黒煙が吹き上がる建物の中から、ゴホゴホとせき込みながら一人の学生が出てきた。その身体は、全身が煤で真っ黒になっている。
「あの、大丈夫・・・・・・ですか?」
「・・・・・・失敗した、おそらく硫黄が多かったんだ、失敗した失敗した」
その学生に、アベルは恐る恐る声をかけたが、相手はこちらの言葉が聞こえていないのか、ぶつぶつと何事かを呟きながら行ったり来たりを繰り返したと思うと、そのままゆっくりと建物の中へと戻っていった。それを見送ったアベルは唐突に理解した。どうやらこの錬金学科では、爆発は日常茶飯事の事らしい。そのため、今はもう誰も気にしていないのだ。
呆れてため息を吐くと、アベルは爆発した建物の隣にある建物に目をやった。うっそうと生い茂る深い森に隣接するあの建物こそ、自分が目指す自然科学科の建物だった。
「失礼します、どなたかいらっしゃいますでしょうか」
「ああ、はいはい、ちょっとお待ちください」
白い漆喰で出来た建物に入って声をかけたアベルに応えたのは、ちょうど目の前の部屋から出てきた、右手に紙の束を持ち眼鏡をかけた青年だった。背は自分より頭一つ分ほど高く、年齢も少し上だろう。眼鏡の奥にある緑色の目は理知的な光を放っている。
「えぇと、本日スプリングス教授と面会の約束をしているアベルと申しますが、教授はいらっしゃいますでしょうか」
「はい、お話は伺っております。黒羊騎士団のアベル様ですね。あぁ、申し遅れました。私は教授の助手を務めておりますクァートと申します」
「あ、はい。よろしくお願いします。それで、教授にお目にかかりたいのですが」
「はぁ、それがその、ですね」
自分の言葉に、クァートと名乗った青年は少々しかめっ面をしていたが、やがてあきらめたかのようにため息を吐いた。
「実はつい今朝方の事なのですが、教授は“森”に入られまして・・・・・・いえ、それ自体は何も珍しくはないのです。森には野生の薬草や小動物が豊富に生息していますからね。ですが教授は、一度森に入ったら少なくとも三日は出てきませんので、おそらく戻られるのは早くて明後日になるかと思われます」
「明後日ですか? そ、それはちょっと困りましたね」
実際にはちょっとどころではない。ぐずぐずしていると正規軍の特別捜査部隊が集落にやってきて、間違いなく本格的な捜査が始まり、下手をすれば監督不行き届きとしてグレイプリーが連行されてしまう。そのまえに毒の正体を確かめ、一刻も早く戻らなければならない。
「そうだ、お急ぎでしたら・・・・・・御自分で森に会いに行かれてはどうでしょう」
「え!? ぼ、僕がですか・・・・・・けど、森に入ったことがないんですけど」
「ええ、ですので地図をお貸しします。別に危険な動物がいるわけではありませんし、広さもそう大したものではありません。ああ、薄暗いのでランタンは持っていったほうがいいでしょう」
「あの・・・・・・せ、せめて誰か一緒に来てくれたりとか、は」
「はぁ、すいませんが皆で払っておりまして、手の空いている者がいないのです。もちろん明日はどうかわかりませんが・・・・・・お急ぎなのでしょう?」
「は、はい」
「ではこちらが地図になります。携帯用のランタンは森の入り口に吊り下げていますのでご自由にお使いください。ああ、それといい忘れていましたが、森には蜘蛛が生息しています。まあそれほど大きくないし数も少ないので、明かりを灯していれば襲われることはめったにありません。それでは失礼します」
「・・・・・・え?」
持っていた紙束の中から紙を一枚取り出してアベルに手渡し、最後に何気ない口調で恐ろしいことを言い放つと、クァートはさっさと建物の外へと出ていった。それを見送り、ただ一人残されたアベルは、呆然と建物の外に広がるうっそうと生い茂った森を眺めていた。
「ここか・・・・・・ず、随分と暗いなぁ」
それから三十分ほど後の事である。クァートからもらった地図を片手に持ちながら、アベルは森の入り口に立っていた。自分のすぐ前にある森の入り口は夕刻ということもあってか暗く、彼には何か生き物の口のようにも見えた。だが、どれほど怖がっていても入らないことには始まらない。近くの物置小屋にあったランタンを借りて明かりを灯すと、アベルは恐る恐る森の中に入り、一歩一歩慎重に進んでいった。森の中はじめじめとしており、一本一本の樹が太く高く、頭上では大きな葉が生い茂っており、一筋の光も届いていない。
「けど、なんで約束があるのにこんなところに来てるんだろう。今朝方といっていたから、連絡が来ていないはずはないと思うけ・・・・・・うわっ!?」
右手で持っていたランタンの光で前方に照らし、簡素な地図を見ながら歩いていたためだろうか、いきなり彼の右足が泥で滑った。
「うわっ!? うわわわわっ!?」
しかも、すぐ前は急な坂道になっていたらしく、アベルはどろどろとした坂の上を転げるように滑っていった。
「いたた、お尻打っちゃった・・・・・・あれ?」
十数秒ほどの落下は、何か柔らかい物の上に尻から落下することで止まった。痛む尻をさすりつつ、アベルはふと何かに気づいた。自分は結構高い所から落ちてきたはずなのに、痛む尻以外特に怪我をしているところはない。それはなぜだろうか、首をかしげていると、不意に地面が“動いた”。
「・・・・・・へ?」
嫌な予感を必死に押しとどめながら、下を見ようとした時である。すぐ前の暗闇で何かが動いた。それも一つだけではない。二つ三つ、おそらく十は確実に越えているだろう。
「えと・・・・・・な、なんなの、かな?」
滑り落ちた時に地図はどこかにやってしまったらしい。だが幸いなことに右手にはしっかりとランタンを持っている。背中に感じる何者かの殺気を必死に振り払い、ガタガタと震え始めた体を誤魔化すようにランタンを掲げ、動いている気配の正体を見た時、
「う、うわぁああああああっ!?」
彼は、絶叫とともに走り出した。なぜなら彼が着地した物体、そして周囲を囲っている数十を超す気配の正体、それは大型の居ぬほどの大きさで、八つの眼光と足、そして獰猛な牙を持った蜘蛛だったためである。先ほど自分が乗っていた蜘蛛が甲高い奇声を発して起き上がり、逃げる自分を追いかけ始めると、周囲にいる数十匹の蜘蛛も奇声に応えるように咆哮を上げ、ほとんど無防備に近い状態で森に入ってきた久しぶりの獲物を我先にと走り出した。
「何で追いかけてくるんだよ、そんなにお腹減ってるのか!?」
背後に巨大な蜘蛛の息遣いを感じながら、アベルは悪態を吐きつつ走り続けていた。そしてふと、彼はクレアを連れてこなくてよかったなと思った。彼女は蜘蛛が大の苦手なのだ。その彼女がこれほど大きな蜘蛛を見たら、よくてひきつけを起こして倒れ、悪ければそのまま天に召されるだろう。
とにかく彼女と再会するためにも、この森から早く脱出しなければならない。だが道は曲がりくねっており、所々に大きな岩や切り株があってかなり走りにくい。だが、蜘蛛の群れはそんなものはお構いなしにこちらとの距離を詰めてくる。そして、ついに先頭にいる蜘蛛の吐息がすぐ後ろまで迫ってきた。
「くっ、このっ!!」
腰に吊り下げた袋に手を入れ、その中から取り出した小さな丸い球をランタンの火に近づけてから、アベルは振り向くことなく後ろに投げつけた。その瞬間、ドカンッという音とともに、背後でギャギャッという蜘蛛の絶叫が響く。彼が投げたのは少し前に蛇腹族の女との戦いのときにも使った、騎士団本部近くの店で売っている、火薬を丸めた簡易な爆薬だ。他の騎士は騎士道に反するという理由であまり使わないが、非力な自分にとっては切り札の一つである。緊急用にいつも袋の中に二、三個ほど入れているのだが、それが今回も役に立ってくれた。分隊の標準装備として申請しようかな、そう思いながら袋に入っている残りの玉も取り出し、ランタンの火で点火させて投げつける。後ろで爆発音が二度起こり、さらに複数の蜘蛛の悲鳴が周囲に響き渡った。
「よし、これでもう追ってこないは・・・・・・ず?」
近くの大木の陰に隠れると、アベルはようやく立ち止まり、荒々しく息を吐いた。どんなに大きくとも蜘蛛は蜘蛛だ。火には弱く、おそらく散り散りになって逃げているだろう。だが青年の楽観的過ぎる考えは、大木に身をひそめ後ろを振り返った途端砕け散った。確かに爆発の直撃を受けた何匹かの蜘蛛は死に、周囲の蜘蛛がその死体をむさぼっているものの、それ以外のまだ数十匹はいる蜘蛛たちは火を恐れることなく向かってくる。しかも仲間が死んで自分の分け前が増えたと感じたのか、先ほどよりも速度が増していた。
「そんな・・・・・・嘘だろ!!」
こちらに向かってくる蜘蛛を見て絶叫すると、アベルは再び走り出した。一度立ち止まってしまったせいか、両足がかなり疲労し、所々痛み出している。止まって休みたいが、そうなれば待っているのは確実な死だ。
暗い森の中で、再び生死を賭けた追いかけっこが始まった。
暗い森の中を、彼女は一人歩いていた。華奢で眼鏡をかけ、いかにも学者や文官といった姿なのに、その足取りは軽く、森の中をまるで勝手知ったる自宅の庭先のように歩いている。さらには森の暗闇などまったく気にしていないかのように、その身体には灯の類といったものを一切所持しておらず、代わりに右手は右肩に担いだ巨大な袋の口を握っており、左手には見事な装飾が施された煙管を持ち、時折美味そうに吸っていた。と、彼女の右の茂みが微かに動き、中から小さな野ネズミと、その後に続いて子犬ほどの大きさを持った、丸々と太った巨大な森ネズミが姿を見せた。森ネズミはその鋭い齧歯で野ネズミを捕らえ、痛みで暴れる獲物に歯の先端から麻痺性の毒を流し込んでおとなしくさせると、生きたままその腹に収める。
だがそれが森ネズミの最後の晩餐だった。硬い皮膚で覆われたその首が細い指で掴まれる。暴れだそうとした瞬間、その意識は闇の中に落ちていった。
「ふん、なかなかの獲物だな」
石のように固い皮膚をした森ネズミを首を一瞬摘まんだだけで失神させると、女は右肩に担いでいた袋を降ろし、その口を開いた。袋の中は何も見えないが、彼女は何かを確認するように袋の中を覗き込むと、満足そうに頷いてから先ほど失神させた森ネズミをその中に入れた。“昨日”から森に入って、実験用の森ネズミを探して捕まえているが、運が良いのかこれで二十匹目だ。少々早いが、探索は切り上げてそろそろ森を出よう。
そう考えた女が再び煙管に口を付けた時である。ぎゃあぎゃあと甲高い鳴き声を立てながら、首の長い不気味な鳥が数羽、彼女の頭上を通り過ぎていった。
「・・・・・・何だ、死肉漁り共が随分と騒がしいな」
苛立たしげにつぶやき、煙管の中の煙を大きく吸うと、彼女は構わず歩き出そうとして、だが数歩歩いたところで立ち止まった。いつも落ち着いている、というより冷徹で冷淡な彼女にしては珍しく落ち着かない様子で視線を彷徨わせ、鼻をひくひくと動かした。まるで、このまま帰れば一生後悔するぞ、そう思ってしまうかのように。
「・・・・・・くそ、何だこの変な高ぶりは。ここ二十年ほどなかったことだぞ」
一番新しいのは、幼く脆弱極まりない“少女”の中に未来を見出し、忠誠を誓った時だったか。そう考え、煙管の中に残った煙を一気に吸う。一口吸えば落ち着くはずの煙を大量に吸っても、まったく落ち着くことはなかった。
「・・・・・・・・・・・・ちっ、分かったよ、行けばいいんだろう、行けば!!」
煙を吸っても全く落ち着かないことに気づいて苛立たしげに舌打ちすると、女は踵を返し、今自分が歩いてきた道をやや速足で引き返した。
正しい手順で歩かなければ、決して出ることなどできない時空が歪んでいる迷いの森の中を。
いったいどれだけ走っただろうか、もはやその足取りは重く、吐く息に若干血が混じり始めても、アベルは走ることをやめなかった。なぜなら走るのをやめるということは、それは即死ぬことを意味していたからである。
でも、おかしいな。走りながらアベルはふと首をかしげた。まず、あれからかれこれ一時間以上は走っているのに、一向に森から抜け出せないのだ。それほど広くない森の中、彼は同じところをぐるぐると走り回っているような錯覚に陥っていた。そして次に、はじめのころより明らかに走るスピードは遅くなっているはずなのに、蜘蛛たちが一向に襲ってこないことである。もしかしたら先ほどの爆薬の事を警戒しているのかと思ったが、最後の一つを投げてから随分と時間が空いた。それほどまでに蜘蛛たちの頭が良ければ、残りがないことはすでに分かっていることだろう。しかも逃亡中に所持していた剣がどこかに消え、自分は今逃げる以外に術はない。そしてそれももう限界に近い。そう思いながら、巨大な樹の根を飛び越えた時である。
「あれ?」
疲れ切ったアベルの視界の隅に、遠くの方で微かに瞬く青い光が見えた。今まで森の中で光はほとんど見かけていない。つまりあの光は森にもとからある物ではなく外から来たもの、つまり人工的な何かということだろう。そんな淡い期待を胸に、アベルは最後の力を振り絞って全力で駆け出した。尖った木の枝で引っ掛けたのか、膝に激しい痛みが走り、体全体が悲鳴を上げる。だがそれでも助かるという期待のほうが勝ったのか、まるで痛みを忘れたかのように光に向かって近づいていく。だが、近づくにつれてアベルは妙なことに気づいた。目指すその光がまったく動かないのである。普通なら数十匹の蜘蛛が近づいてくるのが見えたら逃げ出すはずである。不意に胸の中に生まれた何かを誤魔化すように、アベルは走りながら微かに首を振った。そして走り続けること数分、彼はついに光のある場所、即ち周囲より幾分樹が少なく、広場のようになっているところにたどり着いた。
「すいません、僕今蜘蛛に追われていて、お願いです、助けてくださ・・・・・・え?」
必死に声をかけようとしたアベルの身体は、だが光の正体が分かった瞬間びしりと硬直した。なぜなら彼が目にしている物、一抹の望みをかけ、渾身の力を振り絞って目指していた光の正体、それは
それは、白骨化した遺体にこびり付く、青白い苔だったためである。
「そ・・・・・・そん、な」
抱いている希望が絶望に変わり、アベルはその場にふらふらと崩れ落ちた。
ガリッ!!
「あぐっ!?」
その時、細く鋭い何かでアベルは背中を深々と抉られ地面に倒れた。そんな彼に、今まで追いかけていた蜘蛛の一匹がのしかかる。そのギラギラと光る眼を見た時、ようやくアベルは彼らの狙いを悟った。彼らは楽しんでいたのだ。獲物にわざと一抹の希望を抱かせ、それが絶望に変わるその瞬間を。
「く・・・・・・このっ!!」
振り下ろされた日本の前足を、アベルは首をひねって何とか躱した。抜け出そうともがくが、相手は大型犬ほどの大きさを持つうえ、残りの六本の足で自分の身体をがっちりと押さえつけている。
「はな、せっ!!」
それでもじたばたともがいているうち、アベルはふと下半身が動かないことに気づいた。頭をよじってみると、自分の下半身に蜘蛛の糸ががっちりと巻き付いているのが見える。青ざめる自分を見て、蜘蛛がにたりと笑ったような気がした。蜘蛛の口が大きく開き、中にある無数の細かい牙が白く光る。下半身の自由を奪われ、それでも何とか抜け出そうともがいていたアベルの右手が、ふと何かに触れた。そして、今まさに蜘蛛が食らいついてくるその瞬間、
「これでも、喰らえ!!」
彼は、右手で握りしめたそれを、蜘蛛の目めがけて突き出した。
「ガァアアアアアアッ!!」
蜘蛛の目に突きささったのは、古くなって折れやすくなっていたのだろう、白骨死体から折れた右腕の骨だった。辺りに蜘蛛の絶叫が響き渡る。キーンという激しい耳鳴りを感じながら、それでもアベルは骨を持つ手を緩めることなく蜘蛛にぐいぐいと押し込んでいく。と、傷ついた目から流れ出した体液が一滴、彼の頬に滴り落ちた。ジュウジュウという音と共に頬から煙が出る。どうやら、蜘蛛の体液は強酸性らしい。
「ぐ・・・・・・こ、のっ!!」
痛みに蜘蛛が暴れるたび、その体液がアベルに向かって降り注ぐ。その痛みと吐き気ですぐにでも骨を押し込める手を止めたかったが、そんなことをすればまだ息絶えていない相手の逆襲に合う。それが分かっているからこそ、彼は必死に骨を突き刺しているのだ。
それからどれぐらいたっただろうか、アベルには一時間にも半日にも感じられ、だが実際には一分ほどの時間が過ぎると、ようやく蜘蛛の目から光が消えた。同時に彼を押さえつけていた足から力が緩む。何とか生き延びたことにほっとして、緩んだ足の間から抜け出そうとした時だった。いきなり蜘蛛の目に光が戻り、その巨大な牙が、青年の首筋に深々と突き刺さった。
「かひゅっ!?」
牙が突き刺さった瞬間、空気の漏れるような悲鳴を上げたアベルは何も見えなくなった。それだけではない。手足の感覚がなくなり、何の音も、何の肌触りも感じなくなった。どうやら、蜘蛛の牙には強力な毒があったらしい。感じられるのはただ一つ、彼の身体の切り刻むような寒さだけで、やがてその寒さも感じなくなり、アベルの意識は、深い闇の底へと沈んでいった。
「おやおやぁ? 死んじゃいましたかぁ、蜘蛛なんかにやられて。馬鹿ですねぇ、無様ですねぇ、弱いですねぇ。誰かを疑うという事を知らないからそういうことになるんですよぉ?」
クリスタルの光が消えた暗闇の世界で、紫色に光る三日月が笑う。
ケタケタ、ケタケタ、ケタケタと
それに合わせ、眼下で“死んだ”少年を眺めながら、無邪気で邪悪な笑みを浮かべて、暗い闇の底に似た瞳を持った少女が笑う。
クスクス、クスクス、クスクスと
「でも、まさか一度死んだぐらいでこの世界から逃げられると、本気で思っているんですかぁ?」
その時ふと、世界のどこかで錆びて完全に動かなくなった歯車が、わずかに軋んだ。
ギシリ、と
続く