第一部 黒界 帝都動乱篇 第一話 帝都の零騎士 終幕
「えっと、じゃあ二年前の資料を読み上げるね」
「ああ」
その日の夜、アベルはクレアと共に、貴族街の南東にあるこじんまりとした屋敷の客室で、ミネルヴァから受け取った捜査資料を眺めていた。こじんまりといってもそれはほかの貴族の屋敷と比べてという意味であり、下町のどの家よりも巨大だった。むろん彼らが今いる客室も、宿舎にあるアベルの部屋が数部屋まとめて入るほどの大きさである。
「しかし母上め、ずいぶんと浮かれていたな」
「駄目だよクレア、せっかく招待してくれたのにそんなことを言っては」
クレアが毒づいた内容から察せられるとおり、この屋敷は彼女、すなわち虐殺帝レフィロスが死んだ後に貴族院議長を務め、当時のパンデモニウムの市長と共に皇帝の死後の混乱を乗り越え、パールが新たに皇帝になった際潔く議長を引退(潔くというより面倒になって早く辞めたかったらしいとは、クレアの言である)して領地に引っ込んだナイトロード侯爵の孫娘であり、家を飛び出した後も“侯爵令嬢”と呼ばれるクレア・フォン・ナイトロードの家であった。城を出た二人はどうやって自分たちが出る時間が分かったのかちょうど橋の前に待機していたピエールにより蒸気馬車に押し込められ、この屋敷に連れてこられたのである。クレアが例外と呼ぶ貴族らしくない貴族である彼女の母から抱擁交じりの歓待を受け、彼女の隣に座らされて夕食を共にし(彼は知らなかったが、アベルが座ったのは当主の席だった)、黒檜を削って作り上げた風呂に入り一日の疲れを癒した後、彼に与えられた客室で絹のドレスを着たクレアと共に、団長から手渡された資料を読んでいた。
「えっと、じゃあ読んでいくね。二年前の被害者は全員が獣人族の女性で、最初の殺人は、二年前の黒剣の月十三日夜、被害者は商人街にある服屋の三女アンジーさん。年は三百八十歳、死因は首筋の刺し傷で、恐らく後ろから羽交い絞めにして斜めに突き刺したと思われる。明け方、中通りの隅にある遺体を警邏中の衛兵が発見、黒羊騎士団に知らせが入り、第二大隊第三中隊が捜査するも、手がかりになるものは落ちておらず、捜査が難航しているうちに第二の遺体が見つかる。被害者は職人街に住む大工の娘さんで名はラビアンさん。年は三百四十歳。死因は同じく首筋の刺し傷。刺し傷の形がアンジーさんのものと同じだったため、第三中隊は二名を殺めたのが同一人物だと判断。副団長の指示で第二中隊が捜査に加わり、騎士二十名、衛兵百名による大掛かりな捜査が行われるも、犯人が発見できないままさらに二名が殺害され、もはや城に報告しなければならなくなる寸前、ちょうど下町に来ていた黒獅子騎士団の団員が先端に血のついた刃物を持った不審な男を発見。捕えて尋問したところ四名を殺害したことを自白、実際に彼が捕えられた後殺人事件は起こらなかったから、彼らはこの男を一連の事件の犯人と考え裁判なしで処刑、事件は解決に至る」
「何度読んでも、胸糞の悪くなる事件だな」
捜査資料の内容を話すアベルの前で、すでに何度か目を通していたクレアは険しい顔をして、こみ上げてくる何かを耐えた。
「うん。この資料の内容でおかしなところは二つ、まず犯人を捕まえた騎士がなぜ下町に来ていたかということ。偶然犯人を発見するというのもおかしいけれど、それ以前にちょっと傲慢なところのある黒獅子騎士団の騎士が下町に来ることはあまり考えられない。第二に裁判なしの処刑は仕方ないにしても、どうして犯人の名前を公表しなかったかということ。これについては、団長や副団長が何度か問い合わせたけれど、なしのつぶてだったらしい」
「ふむ。まあ分からない事だらけだが、どうやら二年前の真犯人が再び動き出したことは間違いはないようだな。それで、次はどうする?」
「えと・・・・・・その、一度黒獅子騎士団の本部に行ってみたいんだ。犯人を捕えた騎士が誰か知りたいし」
「黒獅子騎士団の本部だと? まあ確かにそれは気になるし、こちらに来る機会はあまりないから明日行くのが妥当だと思うが、さっきお前が言ったように、奴らはほとんどが貴族の子弟で傲慢な奴らばかりだ。どうやって知るつもりだ?」
「う~ん、まあ、それは何とかなると思うよ? ちょっとした知り合いもいるし」
「そうか? ならいいが・・・・・・分かった。とにかく明日朝一で黒獅子騎士団本部に立ち寄り、その後発着場に行き、飛行船に乗って向こう側に戻る。こういう手順で良いな」
「うん。じゃあ明日も早いし、今日はもう寝よう」
「あ、ああ・・・・・・おいアベル」
「ん? 何クレア」
「・・・・・・なんでもない。いいか、明日起きれないようだったら、たたき起こすからな」
「う、うん」
柔らかいベッドにいそいそともぐりこんだアベルは、俯いたクレアの何か言いたげな表情に首を傾げたが、顔を上げたクレアのいつもより不機嫌そうな顔に僅かにおびえつつ、出て行った彼女の言葉通り、もぐりこんだベッドの中で、静かに目を閉じた。
「ふぁあああっ、かったりぃなおい」
翌日、クリスタルが光を放ち始めた早朝のことである。貴族街のほぼ中央にある巨大な建物、すなわち貴族街を守護する二大騎士団の一つ、黒獅子騎士団本部の前を一人の騎士がほうきで掃いていた。伸び放題の髪と無精ひげという、いかにも不良騎士といった感じの彼はつい先日、警邏の途中に抜け出して城壁の外にある村で娼婦を買っていた事がばれ、他の騎士から蔑まれつつ罰である一ヶ月の清掃を命じられていた。
「これが後一ヶ月も続くのかよ。くそ面倒臭ぇ、ふけちまうかな・・・・・・あん?」
などと騎士らしくない言葉をつぶやきながら、適当に掃除をしていた時である。騎士の目に、近くの建物の角から、ひらひらと振られた白い手が突き出ているのが見えた。
「なんだありゃ・・・・・・ま、ここで掃除なんぞしてるより面白そうだ。見に行ってみるか」
とりあえずほうきを片手に持ち、掃除をしている振りをしながらその建物に近づき、ひょいと覗いたとき、予想外の顔見知りがいたことに、騎士は目をぱちくりとさせた。
「や、ウォレス。久しぶり」
「あん? お前アベルじゃねぇか。何でこんなところにいるんだよ」
そこにいたのは彼の飲み友達であり、下町の守護を担当する下級騎士団に所属するアベルという名の騎士だった。彼が零騎士といわれていることは知っていたが、不良騎士である自分とはどうも馬が合う。そのため何度か城壁外の貧乏臭い集落にある酒場で、朝までドンちゃん騒ぎをしたことがあった。
「なんだよ、次行く酒場が決まったのか? ならわざわざこっちに来なくとも、俺が夜そっちに行った時で良かったのによ」
「ごめん、今日は別の用事で着たんだ。ねえ、ウォレスって二年以上前から黒獅子騎士団にいたよね?」
「ん? ああ、くそむかつく親父殿の指示でな。お前には剣の腕しかとりえがないから、せいぜい戦って死んで家の名を輝かせろ、だってよ。ま、ちょうどよかったけどな」
アベルの首に腕を回しながら、貴族らしからぬウォレスはからからと笑って答えた。子爵家の三男、それも本妻ではなく何人かいる妾の子である彼にとって、家を飛び出せるなら口実は何でも良かった。父親の指示に素直に従う振りをして、数年前から黒獅子騎士団に所属しているのである。その不真面目な態度から出世することはないが、それでも気ままな下っ端生活を彼はまあまあ気に入っていた。
「じゃあ二年前に下町の連続殺人犯を捕まえたのが誰かって、覚えてる?」
「ん? あああの事件か。覚えてるぜ、何の用か知らないけど下町に行った新入りがいきなり連続殺人犯を捕まえたって大騒ぎになったからな。ま、そいつはその後、異動になったけど」
「異動? 異動ってどこに?」
「お前が一番知ってる騎士団だよ、ああ、黒羊騎士団さ」
アベルが差し出した情報料代わりの酒のボトルを、にやりと笑みを浮かべて懐に入れて囁くように言うと、彼は少し顔を青ざめて、暗がりにいる誰かと顔を見合わせた。
「・・・・・・それで? その騎士の名は分かる?」
「ん? ああ・・・・・・おいアベル、もしかしてやばい事件か」
「・・・・・・うん、僕の担当している地区で、殺人事件が起こった。巧妙に隠されているけど、二年前の連続殺人事件と同じ手口でね。死んだのは、君も知っているフィルナだよ」
「マジかよ、あいつ勝気でずけずけ物を言うところが気に入ってたんだが・・・・・・おいアベル、俺にも一口噛ませろ」
「うん、たぶん後で手伝ってもらうことになると思う。そのときは“彼”から連絡が行くと思うから。準備をしておいて。それで、その騎士の名は?」
「ああ、あの獣人か。了解了解・・・・・・ならこの酒は事件解決のお祝いのために取っておくか。いいかアベル、そいつの名はな」
貴族にしては珍しく獣人族を軽蔑しない不良騎士は、ふんっと鼻を鳴らし、真剣な表情をしてアベルの耳元で何事かを囁く。それを聞いたアベルが、顔を青ざめながら小さく頷くのを、護衛のためについてきたクレアは冷ややかな表情で眺めていた。
「・・・・・・手詰まり、か」
その日の夜、蝋燭の火だけが灯されたエミリアの宿屋にある自室で、騎士団本部に報告を済ませた後、一人で考えたいことがあるからと言ってクレアと別れたアベルは、彼にしては珍しく険しい顔をして机に突っ伏していた。
彼は最初、この事件は黒獅子騎士団の誰かが起こしそれを隠蔽するため、わざわざ下町まで来て替え玉を作り罪を被せたのだと考えていた。つまり最初に犯人を捕えた騎士こそが真犯人だと考えていたのだ。この場合、真犯人が身を隠すのに最適なのは黒獅子騎士団の内部である。だがその騎士が黒羊騎士団にいる“彼”だとすれば辻褄が合わない。いや、捜査資料を盗んだのは彼だろう。となると真犯人は彼にそれを命じることができる立場のものということになる。問題は、なぜ彼がそれをしているのかということだが。
「うぅん、どうしたらいいんだろう。いっそのこと団長に話して彼を尋問してもらうかな。けど何かしらの薬物を使って記憶を消されている可能性もあるし」
堂々巡りになってしまった頭の中を落ち着かせるために何か飲もうと、青年が立ち上がったときだった。
机の上にある蝋燭の火が、ふと消えた。
「・・・・・・いつも思うけど、その入室の仕方やめてくれるかな?」
「あら、ずいぶんな言い草ですね。せっかくいい話を持ってきましたのに」
まったく驚いた様子のないアベルがベッドに目を向けると、先ほどまで誰もいなかった暗黒の中から、からかうような誰かの声がする。聞きなれた“彼女”の声に、アベルはため息を吐きつつ頷いた。
「分かったよ、いつもどおり買わせてもらう。それで? どんな情報かな“ネズ”」
「悩んでいることについての情報ですよ、隊長。今あなたが思い悩んでいる騎士はとある商家に借金があります。じつはその商家の大旦那の娘が、ある貴族の息子に嫁ぎましてね。しかも彼らにはとある一つの共通点があります。残虐な殺しを好むという共通点です」
「・・・・・・」
無言のまま続きを促す青年の視線を受け、クスクスと笑い声を上げると、ネズといわれた黒い人影はベッドから降り、アベルの右腕にそっと抱きついた。
「二年前はわざわざ大河を船で渡って下町で殺害をしていたようですが、捜査する騎士の数が増やされるとさすがに危ないと思ったのでしょうね。“彼”に命じて同じように借金がある男を犯人に仕立て上げ、その男が何か白状する前に殺して終わりにした、というわけです」
「・・・・・・それで、フィルナが殺されたのは?」
「“我慢”ができなくなったのでしょう。けど以前のように徘徊して殺すことは難しい。なら被害者のほうから“来させれば”いい。娘の実家である商家に命じて手頃な娼婦を探し、大金をちらつかせて館までやってきたところを殺す。その後は、死体を大河に捨てれば発見されることはない。そう考えたんでしょうね。ま、目論見は外れて死体は川を下り、集落に流れ着いたようですが」
「・・・・・・つまり、フィルナが一人目じゃないって事?」
「ええ、すでに他の集落に住む獣人族の娼婦が何名か行方不明になっているようです。娼館に大金を握らせて口止めをしているのでしょう。それでどうします? 相手は貴族院に所属する貴族ですが、泣き寝入りしますか?」
アベルが着ているワイシャツのボタンを一つずつとっていき、あらわになったその白い首に顔を埋め青年の匂いを嗅ぎながら、ふとネズは尋ねた。
「・・・・・・いや、犠牲になったフィルナを含む多くの人々のためにも、そしてこれから現れるであろう被害者を無くすためにも、放っておくわけには行かない」
「わかりました。ああ、その貴族の館ですが他の貴族の館同様門は閉め切っています。けれど近くの井戸に横穴が開いており、そこから屋敷の地下にいけるようですよ? それと、どうやら近々新しい娼婦が呼ばれるようです。まあ次の被害者が出る前に処理したほうがいいですね。さてと、情報はこれでおしまい。情報料をいただきましょうか」
青年の白い首筋を強く吸って紅く鬱血した痕をつけると、ネズは尻尾を彼の腰に巻きつけ、そのまま押し倒した。
「ああ、だから今日は“女の人”なんだね、けどごめんネズ。今日はお金で良いかな、知ってると思うけど貴族街まで足を運んでせいで疲れてるんだよ」
「・・・・・・まあ、仕方ないですね。無理をさせてはいけませんから・・・・・・では、ちょっとお財布を拝見」
ちぇっと口を尖らせながらも、それでも思いのほかすんなりとアベルの体から離れた彼女は、いつの間にかその手に持っているアベルの財布を空けて中身を数えると、幾枚かの黒銀貨を取り出した。
「では、本日の御代はおまけして、黒銀貨五枚にしておきます。言っておきますけど、これ貸しですからね。昨日クレアさんのところに泊まったようですし・・・・・・分かるんですよ、猫人ですから」
「わかってる。今度はちゃんと相手をするから」
「そうですか? まあそれでよしとしてあげます。では隊長、明日に備えて早くお休みくださいね」
暗闇の中で笑みを浮かべた猫人がぱちりと指を鳴らすと、机の上にある蝋燭の火がポッと灯る。アベルの意識がそちらに向いたその一瞬のうちに、黒羊騎士団特別分隊特別諜報員と、盗賊の二つの顔を持つ部下は、闇に溶けるように消え去っていた。
「・・・・・・」
いつもの白い肌をさらに白くさせ、無言のまま蝋燭の火を見つめる、一人の青年を残して。
「それで、本当にこの道でいいんだろうな」
足元のぬかるみに足を取られそうになり、鉄仮面の中で舌打ちしたクレアは、先を進むアベルにそう尋ねた。
「うん、いいと思うよ。一本道だったし」
次の日の夜遅く、アベルとクレアの二人は、昨晩アベルがネズより知らされた井戸の底から続く、暗く狭い横道を歩いていた。ネズから得た情報はすでにパーシヴァルに話しており、彼からミネルヴァ団長に伝わっている。その後、貴族が罪を犯しているということで、ミネルヴァは騎士団を束ねる黙示録の四姉妹の一人であるクリスティアに秘密裏に報告、彼女から討伐の許可をもらい貴族院議事堂にある休憩室で犯人の父親であるサラグニス伯爵を捕縛、次に屋敷を押さえようとしたところで問題が発生した。彼らの動きを察知した黒獅子騎士団が、貴族街に侵入した騎士たちの動きを妨害し始めたのである。恐らくいつの間にか姿を消していた二年前の実行犯、第一大隊第二中隊第三小隊長マースの知らせによるものだろう。にらみ合いが続き、第一、第二大隊の騎士が動けない中、ちょうど手が空いているということで、団長直属の部隊である特別分隊に、真犯人である貴族とその恋人である商家の娘の捕縛が命じられたのだ。
「だがいったいどうやってこの道を知った? それ以前に、どうやって真犯人のことを知ったんだ?」
「えっと、それはその・・・・・・ね」
「ふん、またネズか」
いつもの服装の上に、銅製の胸当てと細剣ではなく、何とか振ることのできる銅製の直剣を身に着けたアベルの様子を見て察したのか、脳裏に勝ち誇った笑みを浮かべる特別分隊の裏の隊員である猫人の顔を思い浮かべると、クレアは何を食って太ったのか分からないほど巨大化したねずみを忌々しげに蹴り飛ばした。どうも彼女はネズと仲が悪く、彼女の話をすると不機嫌になる。
「しかし、よく黒獅子の奴らから妨害を受けずに井戸まで来れたな」
「それはウォレスのおかげだよ。ネズに連絡するように言っておいたから、逆方向に騎士たちをを引っ張ってくれてるんだ」
「そうか、いい友達を持ったな」
「うん、お酒を飲みすぎると、ちょっと絡んでくるのが問題だけど・・・・・・うわっ!?」
苦笑しつつ右足を動かしたときだった。いきなり飛び出してきたこうもりに驚き、ぬかるみの中にしりもちをつく。
「何やってるんだお前」
「ごめんごめん、あれ・・・・・・」
あきれたようにため息を吐くクレアに謝罪しながら立ち上がろうとした青年は、ふと、右手にぬかるみとは違う、何か硬いものが当たっていることに気づいた。クレアに頼んで松明を近づけてもらうと、取っ手のようなものがぬかるみの中に微かに見える。少女と見つめあい、彼女が頷いたのを見て取っ手に手をかけると、渾身の力で引っ張り上げた。
ガコンッ
取っ手を引っ張り上げた直後、前方の暗闇で何か重いものが外れる音がして、二十メイルほど先の暗闇から、微かに光が洩れるのが見えた。
「えっと、こういうの、怪我の功名っていうのかな?」
「なんだ、何処か怪我でもしたのか? まあ、行き止まりで右往左往するよりは良かったな。さっさと先に進むぞ、私の装備ではここは少し狭すぎる」
横幅が思ったよりせまく、正面を向くとつっかえてしまうため、体を斜めにして進んでいるクレアは、むっつりとした顔でそう吐き捨てた。
「このっ!!」
襲ってきた大蛇を愛用の槍でなぎ払うと、クレアは尻尾で足を払われ、転倒したアベルに噛み付こうとしている別の大蛇の顎を貫いた。
「ご、ごめんクレア」
「謝罪はいい。しかしここはどうやら大蛇の巣のようだな」
事切れた大蛇の頭から槍を抜き取り、一振りして体液を振り払うと、クレアは前方にいまだ無数にいる大蛇の気配に、うんざりしたように顔をゆがませた。
横道にあいた入り口から館の地下に入った二人を待っていたのは大蛇の襲撃だった。長さ二メイルほどの大蛇が次から次へと襲い掛かってくる。そのほとんどをなぎ払いながらも、それでも絶えることなく襲ってくる大蛇に、クレアがさすがに疲れを見せたときである。
「クレア、伏せて!!」
「な、ちょ、ちょっと待て」
背後からいきなり聞こえてきたアベルの声に、戸惑いつつも転がるようにして伏せたときである。
頭上を何かが飛んでいったかと思うと、目の前まで迫った大蛇の群れを、巨大な爆発が吹き飛ばした。
「ふぅ、上手くいってよかった「何が良かっただ、馬鹿者」い、痛いよクレア」
「何が痛いだ、お前、火薬玉があるなら最初からそう言え!!」
大蛇の焦げる臭いに顔をゆがませながら、クレアはアベルの頭を軽く小突いた。火薬玉とは黒羊騎士団の本部の近くにある武具屋で売っている文字通り火薬を凝縮して小さな玉にしたものだった。先端にある導火線に火を付けて投げれば爆発を引き起こすという戦闘補助用の道具で、火を嫌う野獣たちにはかなりの効果がある。しかし爆発の範囲が広く、味方を巻き込む可能性があるため集団戦には向かず、火をつけて投げる必要があるため個人戦でも向かないという厄介な代物で、しかも一個黒銀貨三枚と割高のため騎士団の中でこれを使う者はあまりいなかった。だが素の戦闘能力がほとんどないアベルにとっては戦闘の際欠かせない道具の一つだった。
「まあいい。先ほどの爆発で、生き残った大蛇どもも逃げ出したようだしな。先に進むぞ」
「はぁい、けどこれ高いんだよね、経費で落ちないかなぁ」
頭にたんこぶを生やしながら小さな玉を手のひらで転がす青年を見て、クレアは知るかと呟いてから、ふんっと鼻を鳴らした。
「これは・・・・・・ひどいな。アベル、あまり空気を吸い込むなよ」
「う・・・・・・ん」
その臭いに気づいたのは、大蛇たちを蹴散らし、あるいは火薬玉で一網打尽にしながら地下の半ばまで来たときだった。暗闇から何かが腐ったようなひどい臭気が漂ってくる。目を凝らすと前方は狭い通路になっており、どうやら臭気はその向こうから漂ってくるようだ。しかも自分たちが通ってきた道のほかには、その狭い通路しか他に進めるところはない。一度後ろを見て大きく息を吸ってから、クレアに言われたとおり息を止め、少し早足で通路に入る。強くなってくる臭気に顔をゆがめ、何度目かの角を曲がったときだった。
「っ!!」
「・・・・・・っ」
息を止めたまま、二人はこみ上げてくる吐き気を必死にこらえた。
通路の先、ぽっかりと空いた部屋の中には無数の死体があった。オーガ族やミノタウロス族のほか、猫人などの獣人族の死体が、自ら流した腐汁の中に浮かんでいる。共通するのは、皆女性だということだった。
こみ上げてくる悲鳴を必死に抑えながら、アベルはしばし目をつぶった。体の奥底からこみ上げてくる何かで体が震える。それは恐怖だろうか、いや、たぶん違う。それは怒りだ。善良な人々をこのような目に合わせた、まだ見ぬ相手への果てしない怒り。
それからどれぐらい時間が経っただろう。恐らく数秒ほどだろうが、ふとアベルは自分の裾をクレアが引っ張っているのに気づいた。もう行こうといっているのだ。微かに頷くと、青年は腐汁の中で光る何かを拾い上げ、それを懐にしまうと、火薬玉に火をつけて放り投げ、背後から聞こえてくる爆発音に耳を澄ませながら、部屋の先にある通路へと急いだ。
「・・・・・・はっ」
「ふうっ」
それから五分ほど歩いただろうか。臭気が完全に消え去ったのを確認すると、暗い通路の真ん中で二人は大きく息を吐きだし、しばらくその場で荒く呼吸を続けた。
「明日は絶対非番にするぞ。それで、赤界の入浴剤を入れた風呂に半日入ってやる」
「うん、それがいいかもね。お互いひどい臭いだ」
体についた臭いに辟易しながら先ほどの光景を忘れるかのように軽口を叩き合う。だが完全に忘れることはできなかったのか、二人はそっと押し黙った。
「・・・・・・火薬玉で遺体を焼いたのか」
「うん、火葬しないと、魂はいつまでもその場にとどまってしまうから」
クリスタルを主神として崇めるアスタリウス教では、埋葬されないと魂は死体にいつまでもとどまるとされている。そのため葬式の際には遺体を火葬して、その灰を墓の下に埋めるのが普通だ。先ほど投げた火薬玉は、彼女らの腐敗した死体を見事に灰にしたことだろう。
「しかし、これで完全に向こう側に気づかれたな」
「まあ、もしマースがここに逃げ込んでるとすればとっくの昔に気づかれているから、その心配は最初からしてないけど」
相手に気づかれたことを心配するクレアを安心させるために笑みを浮かべると、アベルは風が吹いてくる通路の向こうへと、厳しい表情を向けた。
「あら、やっと来たの。待ちくたびれましたわ」
「・・・・・・まさか、黒幕が蛇腹族だったとはな」
通路の先、ぽっかりと開いた巨大な部屋のほぼ中央にできた祭壇のような場所にいる二本足の代わりに巨大な尾を持つ女を見て、クレアは槍を構えなおした。
蛇腹族、それは吸血種や不死者同様、黒界でもっとも忌み嫌われる存在の一つだった。虐殺帝レフィロスの時代に彼に取り入って数々の悪事を繰り返してきた彼ら(その中の最も足るものは、数千もの赤子の体液を生きながらに搾り取り、血の風呂に浸るという饗宴を皇帝に提供したことだった)は、レフィロスが崩御するとクレアの祖父と当時のパンデモニウムの市長、そしてその後皇帝に即位したパールの命を受けた総騎士団長のクリスティア、筆頭執政官のセフィリアの活躍で帝都から一掃され、今も七王国全土で狩り出されている。
「本物の商人の娘はどうした? まさか、商人まで蛇腹族というわけでもあるまい」
「ふふ、数年前に食い殺してやったわ。あの娘の恋人もこのとおり」
美しい顔つきをした蛇腹族の女が、鱗を生やした長い胴体をくねらせながら振り返る。彼女の視線の先には何人もの女を殺害した貴族の息子がいた。もっともそのうつろな瞳は、何年も前に正気を失っていることを意味していたが。
「あなたが彼を操って殺しを行わせていたのか」
「ええ、私が直接手を下せば、すぐに蛇腹族の仕業と分かりますからね。若い女たちの断末魔と熱い血、なんともいえぬ美酒でしたわ」
険しい表情をしたアベルをあざ笑うように唇を歪めながら、女は指を鳴らした。するといつからそこにいたのだろか、巨大な二頭の犬が、女とアベル達の間に走り出てきた。
「さて、私は失敗した愚か者に用があるの。その間、あなた方はその子達と遊んでいなさいな」
「失敗した愚か者・・・・・・マースを殺すつもりなの? いけない、彼を殺されては証言をする人がいなくなってしまう!!」
「だが、やつを生かしたまま捕えるといっても、軍用犬が相手だぞ? 容易には突破できん」
「いや、そっちは大丈夫。犬がいることは予想していたからね」
「・・・・・・何?」
自分の言葉に、クレアが眉をひそめたとき、うなり声を上げた巨大な二頭の軍用犬が、一斉に飛び掛ってきた。
「くっ、伏せろアベル!!」
「だから、心配要らない・・・・・・ってば」
相手の攻撃を受け止めようと前に出たクレアに笑いかけると、アベルはベルトに吊り下げた袋を手に取り、犬の鼻先に投げつけた。ぼふんっと、音がして、袋の中に入っていた粉が彼らに降りかかる。
「・・・・・・おい」
「あ、あははっ、ちょっと効果が強すぎたみたいだね」
粉を吸い込んだとたん、互いの首筋に噛み付いて酔っ払ったような動きをする犬を見て、クレアはアベルを横目で睨んだ。
「あれは確か、盗賊が家に侵入する際犬を黙らせるために使う粉だな。ネズからもらったのか」
「うん、もし軍用犬が来たら使おうと思って、ネズに譲ってもらったんだ。市場にはあまり出回ってないからね」
「・・・・・・まあ、助かったのは事実だから、今回は何も言わん」
ネズを頼ったのが気に食わないのか、不機嫌そうに鼻を鳴らすと、クレアはいまだ正気に戻らない犬に近寄り、その首に槍を突き刺して息の根を止めていく。可哀想ではあるが、人を襲った犬に情けはかけない。
「さて、あの女が出て行ってからあまり時間は経っていない。追いつけるはずだ」
「うん、マースは生かしたまま捕えたい。証人がいなくなるし、死罪は免れないにしてもせめて名誉ある死を与えてやりたいからね」
軍要件が完全に事切れたのを確認すると、蛇腹族の女と、彼女の“夫”である貴族の息子が消えた奥の通路を、アベルは険しい表情で眺めた。
「あ・・・・・・がっ」
「ふふ、どう? 全身の骨が生きながらに砕かれる感触は。苦痛で息もできないでしょう」
通路を進んだ先にある小部屋の中央で、蛇腹族の女はマースを鱗を生やした巨大な胴体で締め付けていた。部屋のあちこちには無数の骨が散らばっている。おそらくここが彼女の寝室で、そして骨の持ち主は“上”の館に使えていた奉公人たちだろう。
「全身の骨を砕き終えたら生きたまま食べてあげる。ふふ、苦痛と絶望に満ちた貴族の肉体はいったいどれほど美味なのかし「そこまでだっ!!」・・・・・・あら、野暮ね」
「・・・・・・それが、お前の本性か」
これから味わうであろう至福の味を思い描き舌なめずりをした女は、通路を通って現れたクレアの声に、面倒くさそうに振り向いた。その顔を見たとき、クレアは浮き上がりそうになる奥歯をかみ締め、震えだしそうになる手を必死に耐えた。先ほどは胴体は確かに蛇のそれでも、憂いをこめた表情をしていた美女の顔はそこにはなく、あったのは金色の瞳を爛々と輝かせ、耳まで避けた口の中に無数の鋭い歯を持ち、その歯の間から長い舌を伸ばした、まさに蛇女と呼ぶにふさわしい姿だった。
「まあ、私たちは食事の時にはちょっと大胆な表情になるけれど、それでもこの顔を見るのは餌だけよ。この無能者はいつでも食えるし、そうね、先に貴方達を無力化しようかしら」
「おいアベル、火薬玉は後いくつ残っている?」
「い・・・・・・いや、二個」
「心もとないな、分かった。私が前に出て隙を作るから、やつの頭めがけて投げつけろ。胴体で爆発しても、鱗が邪魔をしてそれほどダメージを与えられないと思うからな」
「う、うん。気をつけてね、クレア」
「大丈夫だ。私を誰だと思っている。お前の部下だぞ?」
その一言でこちらを心配そうに見つめるアベルを安心させると、クレアは耳をヒクヒクと動かしている蛇腹族の女に向き合い、仮面の中で凄みのある笑みを浮かべると、槍を構え一直線に突貫した。
「あら、随分と猪騎士だこと。けどそんな槍で私の鱗を突き通せると思っているのかしら」
向かってくるクレアを、蛇女はむしろ面白そうに眺めると、騎士の拘束を解いて体をくねらせ、自由になった一抱えほどもある巨大な尻尾をクレアに振り下ろす。
「遅いっ!!」
自分に向かって振り下ろされた巨大な尻尾の下を余裕を持って掻い潜り、相手に肉薄したクレアは鱗に守られていない上半身めがけて槍を突き出したが、その攻撃を読んでいたのだろう。相手は胴を伸ばしてその一撃を、強固な鱗で覆われた下半身で受け止めた。ギィンッ、と鉄と鉄がぶつかり合う音がして、クレアの槍を持つ手に痺れが走る。
「おほほほほっ、無駄よ、無駄っ!!」
高笑いを上げながら、蛇女は距離をとると、動きが鈍くなったクレアに向かって幾度も尻尾を振り下ろす。それを避け、あるいは手に持った槍で受け流しながらクレアは後退していったが、やがて幾度目かの攻撃を受け止めたとき、痺れが限界に達したのだろう、彼女の手から愛用の槍が零れ落ちた。
「くそっ、アベル、まだか!!」
「無理だよ、今投げたら、クレアまで巻き添えにしてしまう!!」
「私のことは気にするな、いいからさっさと投げ・・・・・・ぐっ!?」
「クレアっ!?」
クレアの意識がアベルに向いたその瞬間、避け損ねた尻尾が彼女の体を弾き飛ばす。頑丈な甲冑のおかげで怪我は負わなかったが、それでも一瞬息が詰まった。
「さあ、これでおしまいよっ!!」
動かないクレアを見て、蛇女は大きく息を吸い込むと、彼女めがけてその巨大な口から紫色の息を吐き出した。蛇腹族はその喉に毒の袋を持ち、有事の際には毒性の息を吐き出すことができる。どんなに頑丈な甲冑でもどろどろに溶かすことができる紫色の息が、クレアに直撃しようとしたそのとき、
アベルが投げつけた火薬玉が紫色の息に当たり、巨大な爆発音が周囲を包んだ。
「あら、私の吐息を相殺できるなんて、すごい爆発だこと」
「クレア、無事?」
「く、すまんアベル。油断した」
「いいよ、それより下がって休んでいて。歩ける?」
「当然、だ。体中が痛むが、歩けぬほどではない。だが、すまん。しばらく休む」
「うん、後は任せて、何とか体力が回復する時間は稼ぐから」
紫色の息を爆発と火炎で消し去った後、壁際に落ちている槍を拾い、アベルは立ち上がろうとしているクレアの元に駆け寄った。彼から愛用の槍を受け取ると、その槍を杖代わりにし、何とか後方まで歩いていく。それを見送ると、アベルは震える手で腰に差した直剣を引き抜き、ゆっくりとこちらに向かってくる蛇女と向き合った。
「次は貴方が相手かしら、先ほどの猪女と比べて随分と華奢ねぇ。それに・・・・・・ふふ、随分と震えていること。安心なさい、動かなければ苦痛を感じることなく殺してあげるから」
「・・・・・・くっ」
笑いながら振り下ろされた尻尾を、アベルは横に飛んで何とか避けた。その動きで取るに足らないことが分かったのだろう。猫がまるで追い詰めたねずみで遊ぶように、尻尾の先を振るだけの小さな動きでアベルをおちょくる。だが、彼にとってはそのおちょくる動きを避けるだけで精一杯だ。襲ってくる尻尾や爪を転がりながら十回ほど避けただろうか、もはや息を整えることもできず、右手に持つ直剣もだらりと垂れ下がったまま、アベルはふらつく身体で何とか蛇女と向き合っていた。
「ふふ、随分とがんばったけれどもう息も絶え絶えといった感じね。がんばったご褒美に優しい抱擁の中で殺してあげる。さあ、おいでなさい」
「・・・・・・」
女の言葉に、アベルは俯いていた顔をふらりと上げた。その美しい青い瞳には、にこやかな笑みを浮かべる蛇女の姿しか映っていない。やがて彼は抱擁を受ける子供のように、手を伸ばす相手に向かっていった。
「・・・・・・アベル? くっ」
入り口のところで休んでいたクレアは、アベルが手を伸ばした蛇女に向かっていくのを呆然と眺めていた。確かに彼はこれほどの敵を相手にしたことはない。しかし、適わないからといって敵の抱擁を受けるのか? 腹のそこからふつふつと湧き上がってくる怒りに、クレアは槍を持ち、痛む身体でよろよろと立ち上がった。
「さあ、わが抱擁を受けなさい」
蛇女の抱擁まで後数歩と迫ったときだった。アベルのうつろな瞳にふと生気がよみがえり、隠し持っていた最後の火薬玉を、笑みを浮かべる蛇女めがけて投げつけた。だが、
「馬鹿ね、読んでいたに決まっているでしょう?」
青年が投げた最後の火薬玉は、蛇女がひょいと顔をひねったため何もない空間を飛んでいき、後ろの壁にぶつかって爆発した。
「あ・・・・・・」
「私をだますなんていい度胸ですこと。それほど苦痛がお望みなら、そうして差し上げるわ」
「あぐっ!?」
最後の火薬玉を自分が避けたのを見て、絶望の表情を浮かべた青年の腰に尻尾を巻き付けると、蛇女はそのままぎりぎりと締め付けた。
「アベルっ!!」
「あら、動かないほうがいいわよ、こんな細い身体その気になれば一瞬で真っ二つにできるのですから・・・・・・しかし本当に美しい顔。殺す前に“抱いてみる”のも一興かしら」
「貴様、もうしゃべるな。今すぐその顔、絶望に変えてやる!!」
「ふふ、そのふらつく身体でできるのかしら」
満足に動けない様子のクレアを見て、蛇女は嘲るような笑みを浮かべた。尻尾を巻きつけたアベルを持ち上げると、自由になっている右手から彼がまだ持っている直剣をもぎ取り、ふっと紫色の息を吹きかける。強い毒素を含んだ息で、鉄製の直剣はどろどろになって溶け落ちた。
「さあ、これでもう貴方は私を傷つけることはできないわ。安心なさい、私は無抵抗の獲物には寛大なのよ。ああ、それにしてもなんて美しいの。初雪のような肌に少女のように愛らしい顔、そしてその青い瞳、見ているだけで吸い込まれそう」
べろりと垂らした長い舌で、初雪のように真白な頬を舐める。彼を締め付ける尾に女はほとんど力をこめていない。それはこの獲物が華奢で、ちょっと力をこめるとすぐ死んでしまうからであり、それではあまりにももったいなかったからだ。
「・・・・・・あ、あなたに」
「あら、なあに坊や?」
「あなた、に、一つ聞きたい」
不意に、苦しみにあえぎ、俯くアベルの口から出たか細い言葉に、蛇女は愛しい子供にするように、優しく続きを促した。
「あなたはどうして彼女たちを、獣人族の女性たちを殺したんだ、資料に寄れば、蛇腹族は一度食事をしたら、一年は何も食べなくていいとあった。なのに、どうしてあれほどの人々を、食べる必要もないのに、あんなに苦しめ、弄んで殺したんだ」
「ああ、そんなこと。いいわ、教えてあげる。目障りだったからよ」
「・・・・・・目障り、だって?」
自分の言葉に青年がぴくりと動く。だがそんなことはどうでもいいという風に、蛇女は話を続けた。
「だってそうでしょう? ほんの数百年前までは奴隷だった存在よ。それが愚帝セフィロトが皇帝になってからは奴隷制度が廃止され、彼らは我らと同じ地位まで引き上げられた。おそらくセフィロトの治世が続けば貴族とすら同格になっていたでしょうね。けど奴の治世は幸運なことにたった百年で終わり、後を継いだ賢帝レフィロスは獣人への迫害を再開した。ああ、あのときが一番楽しかったわ。城の中で幾日も饗宴が続き、獣人共の丸々と太った赤子が、狂ったように泣き喚く親の前で生きながら腹を割かれて食卓に並ぶ。そして私たちはぴくぴくと痙攣する、まだ温かい料理に慈悲深い顔でこういってあげるの。無力な親のせいで、これから食べられる気分はど「もういい、しゃべるな」・・・・・・あら」
昔を思い出しながら悦に浸りきった表情をしている蛇女は、ふと尻尾を巻きつけている青年の空気が変わっていることに気づいた。だが彼女が気づいたのはそれだけで、たとえば彼のその青い瞳が、赤く染まっていることなど気にも留めなかった。
「もういい、どうやら“お前”は生かしておくことはできないようだ。今後生まれるだろう新たな被害者を防ぐためにも、“お前”はここで殺す」
「ふふ、何の冗談かしら。言っておくけど、あなたに何ができるというの? もういいわ。反抗する獲物には容赦しない。このまま頭から一気に飲み込んであげる!!」
アベルの言葉にいらだった蛇女が、顔を彼に近づけ耳まで裂けた口を大きく開ける。まさにアベルを飲み込むその瞬間、アベルは右裾の中に隠し持っていた、死体が山と重なり合った部屋の中で拾った銅製の髪飾りの先端を、女の左目に深々と突き刺さった。
「がっ!? がぁあああああああああっ!!」
「ぐっ!?」
左目を襲った激痛に、蛇女は狂ったように暴れだした。巨大な尾が壁や天井にぶち当たり、そのたびにアベルの身体が締め付けられる。だがアベルがうめき声をあげたのはただ一度だけで、天井に叩きつけられたときに自由になった左腕を懐の中に入れると、その中に本当の最後の一個として隠し持っていた、彼が先ほどまで使っていた物と比べ実に二倍の大きさを持つ火薬玉に火をつけると、残った右目に爛々と怒りの感情を滾らせて、喰らいつこうと向かってきた女の口めがけて放り投げた。
「いままで自分が貪ってきた、多くの人々の苦しみと恐怖を、せめて千分の一ほども味わってから死ね」
「ぐむ、そ、そんな・・・・・・私はただ、あの人のために」
自分が飲み込んだものが何であるか悟ったのだろう。蛇女は暴れるのをやめ、両手で頬を押さえるとわなわなと震えだした。そして次の瞬間、喉の辺りで爆発した火薬玉によって彼女の頭部は巨大な爆音と共に、熟れた石榴のようにはじけ飛んだ。頭部を失った蛇腹族の身体がゆらゆらと動き、やがてぐらりと仰向けに倒れる。その身体が倒れるちょうど真下には、正気を失って久しい貴族の姿があった。恐らく自分に向かって落ちてくるであろうものの正体を、彼はその最後の瞬間まで理解することはできなかっただろう。彼女の身体と巨大な尾に貴族の身体は押しつぶされ、土煙の中へ消えていった。
「アベル、おいアベル、大丈夫か、どこにいるっ!!」
アベルが蛇女を倒す、その一連の様子を呆然と眺めていたクレアは頭部を失った蛇女が倒れた衝撃で我に返ると、慌てて死んだ蛇女の尻尾に近づいた。もしかしたら尻尾の下敷きになってアベルが死んでしまったかもしれない。そう思うだけで彼女の身体はがたがたと震えだした。
「アベル、まさか本当に死んだのか!? アベル!!」
「・・・・・・おぉい、助けてぇ」
「アベルッ!?」
もはや泣きだしそうになる声で、それでも必死に瓦礫を掻き分ける少女の耳に、頭上から微かに青年の声がした。見上げると、天井付近の突き出た岩に引っ掛かっている彼女の上司の姿があった。
「アベル、お前無事だったのか」
「うん、何とか生きてるけどちょっと引っ掛かっちゃって。ねえ、助けてくれな・・・・・・うわっ!?」
眼下にいるクレアに助けを求めたアベルの身体は、突き出た岩が崩れたことで共に落下した。そのまま下にある尻尾の上に落下し、滑らかな鱗の上を滑り、クレアのすぐ横の地面に尻から着地する。
「いてて、お尻打っちゃった・・・・・・あ、クレア、身体はもういいの?」
「・・・・・・そ、それは私の台詞だ!! なんだ、締め上げられていたくせになんともないような表情をして!!」
「いや、けど確かになんともないからね。まあ胸当ては壊れて、直剣も溶かされちゃったけど。僕治りだけは早いんだ」
「・・・・・・まあお前が無事ならそれでいい。それより火薬玉が二個しかないというのは嘘だったんだな」
「うん、蛇腹族は聴覚に優れると資料に書いてあったからね。最初に一個といいかけて二個といえば、彼女は僕が一個だけ持っていて、文字通り隠し玉としてもう一個持っていると考えると思ったんだ。上手くいってよかったよ。クレアに隠していたのは、もしかしたら表情や態度でばれると思ったからなんだけど」
「そうか・・・・・・ふん、まあいい。どうせ私は思っていることがすぐに顔に出る、戦いしか知らない猪騎士だからな」
「なに拗ねてるのさ、誰もそんなこと思っていないって。さ、マースをつれて早くここを出よう。さっき彼女が暴れたせいで、崩れやすくなってるから」
「ああ・・・・・・ふん、そうだな」
最後にもう一度拗ねた声を出すと、それで気持ちを切り替えたのか、クレアは部屋の隅で先ほどまで自分を締め付けていた蛇女の死体を呆然と眺めるマースに向けてずかずかと歩み寄った。
「おいマース、お前の主人はいなくなった。次はお前の番だ。騎士団で何もかも証言してもらうぞ。ほら、立て」
「ちょ、駄目だってクレア、そんな乱暴な言い方じゃ。マース、今から君を騎士団に連れて帰る。できればそこで全部話してくれると助かるのだけど」
「・・・・・・ワインが一杯欲しい、ワインを飲ませてくれたら、何でも話してやる」
「ふん、ここに来て酒の話か。言っておくが、自白させる方法もあるんだぞ?」
「クレア、その方法で聞き出した情報は信憑性が薄いから使わないことになっていたと思うよ? 分かった、ワインだね。帰ったら団長に掛け合ってみる。ほら、立って」
同僚二人を見上げ、悪びれないマースの態度に、むっとしたクレアが一歩踏み出す。彼女の方を掴んでその動きを止めると、アベルは座り込んだ騎士に優しく語りかけた。
「・・・・・・すまん、立てないんだ。息をするたびに激痛が走る。恐らく全身の骨にひびが入っているんだろう。アベル、お前も締め付けられたんだろ、身体、大丈夫なのか?」
「うん、僕昔から怪我とかすぐ治っちゃうほうだから。それより早く脱出しよう。立てないなら肩を貸すから。さ、頑張って」
「・・・・・・ああ」
しゃがみこみ、マースの腕を持ち上げて自分の首の後ろに回して立ち上がらせる。彼の身体の重みによろけそうになったとき、彼の身体を後ろからクレアが支えた。振り向いて目礼すると、それが通じたのか、クレアはマースの反対側に回り彼の肩を掴む。俯くマースを真ん中にして、三人が部屋を抜けて通路に出たとき、彼らの背後で巨大な音と共に部屋の天井が崩れ落ちた。
「間一髪、だったね」
「ああ、ここもいつ崩れるか分からん。幸い階段は近くにある。さっさと昇るぞ」
「うん・・・・・・さあマース、もう少しだから頑張って」
「ああ・・・・・・俺の家は、猫の額ほどの領地しか持たない準男爵家でな、なのに爺さんは貴族院の議員になるために、お偉いさん方に金や豪華な装飾品を賄賂として届け、けれど議員になれず、借金だけが膨れ上がっていった」
「・・・・・・」
痛みを紛らわせるためだろう。階段を昇っている途中で、マースはぶつぶつと独り言を呟いた。
「爺さんが死に、親父が爵位を継いだときすでに家計は火の車だった。なのに親父はその事実から逃げるかのように女遊びやら、豪華な晩餐会なんかを繰り返した」
「・・・・・・」
「そのせいで借金はますます膨らみ、猫の額ほどの領地から取れる作物や税金は、すべてその借金返済に充てられた。その後度重なる浪費と重税が明るみに出て領地を没収され、僅かな捨扶持を与えられるだけになっても、親父は放蕩をやめなかった。装飾品や調度品、屋敷や・・・・・・そしてお袋すら売って親父は金を作り、狂ったように放蕩を繰り返し、そして死んだ」
階段を昇り終え、何年も使っていない暖炉の裏から屋敷の中に入る。邸宅の中を玄関に向かって歩いている間も、マースは独り言を呟くのをやめなかった。
「最初は俺だって何とか頑張って真面目に仕事をしたさ。けどどんなに懸命に働いても借金の利子にすらならなかった。しかも先輩の騎士達に付き合って遊ぶときは、一番位の低い俺がその金を全額出さなきゃならん。それでまた借金を繰り返し、もう首が回らなくなったとき、あいつが声をかけてきた」
「・・・・・・あいつ? あいつって誰?」
「あいつは言った。自分たちの要求を聞いて自分たちの言うとおりに仕事をすれば、借金の利子を払っても、まだ余るほどの金をくれると」
僅かに眉をひそめたアベルの問いには答えず、マースはただ一人、ぼんやりと話を続けた。
「最初は簡単な仕事だった。書類や手紙を誰かの屋敷に持っていく、ただそれだけで良かった。もちろん手紙の中身なんて気にしなかったさ。俺はただ、もらえる金のことだけを考えていた。だが次第に要求は命令に変わり、そして内容もひどいものになっていった。捕えた盗賊を牢屋から逃がせ、邪魔な役人を始末しろ、といった感じにさ」
「貴様、それでよく騎士が名乗れるな!!」
そのあまりの内容に、話を聞いていたクレアが声を荒げる。だが、マースはふんっと鼻を鳴らしただけだった。
「金が有り余っている奴にはわからないだろうさ。金がない奴の気持ちなんかな。とにかく、そうやって何度か悪事に手を染めたときだった。ある日変な命令が来た。下町に降りて、とある獣人を捕えろということだった。無論命令には逆らえんから行ってみると、どうやら相手も借金があるらしく、犯人役をすれば棒引きにしてくれるといわれたそうだ。後で釈放されるらしかったが、そいつを俺はあいつからの指示で・・・・・・口封じのために殺した」
「・・・・・・酷い」
「・・・・・・それからすぐ、俺は黒獅子騎士団から黒羊騎士団に転属させられた。恐らくそれもあいつが裏で手を回したんだろう。まあ黒羊騎士団での日々は楽しかったさ。金を払わせられる嫌な先輩はいない、貴族ということで巡回をしているとそこいらの商家の連中は金やら品物やらを貢いでくれる。そのままこの騎士団で一生を終えてもいいかと思ったとき、再びあいつから連絡が来た。資料を盗み、女の死体をここから出して、誰にも見つけられないように大河に捨てろと」
「・・・・・・そう」
考え込みながら歩き、アベルは外に続く扉を開けた。
「今度の仕事が上手くいったらすべての借金をチャラにして、その上お偉いさん方に口利きをしてくれるらしかった。けど俺は失敗して、娼婦の死体はお前らに見つかり、お前たちを始末するのも失敗して、それであの部屋に呼び出されて、あの女に・・・・・・まあいまさら悔やんでも仕方がないことだ。とにかく、騎士団に着いたらワインを浴びるほど飲ませてくれ。そうしたら、全部話す。あいつが誰なのか、そのすべて・・・・・・を?」
庭を通り、貴族街に続く鉄の門を開いたときだった。シュッと風を切るように飛んできた矢が一本、マースの胸に深々と突き刺さった。
「マースっ!?」
「第二構え・・・・・・射てっ!!」
彼の胸に突き刺さった矢を、アベルが呆然と見ている間に、さらに暗がりから飛んできた矢が数本、彼の首や腹、そして頭に突き刺さる。マースはしばらく呆然と胸に刺さった最初の矢を見つめていたが、頭に受けた矢が致命傷になったのだろう。ひゅうひゅうと空気を吐き出すような音を出すと、その場に仰向けに倒れた。
「くっ、何者だ貴様らっ!!」
「マース、マースしっかりして、マース!!」
クレアが矢の飛んできた暗闇に槍を構えて誰何の声を上げる間、彼女の影に隠れアベルは必死に彼に呼びかけた。パクパクと何かを伝えようとしている彼の口に耳を当てたときである。
「容疑者の死亡確認、遺体の確保急げ」
「はっ!!」
「ちょ、お、おい、何をするっ!!」
暗がりから飛び出してきた、黒鋼の甲冑に身を包んだ十数名の騎士たちがクレアとアベルを脇に押しのけ、マースが完全に事切れていることを確認すると、彼の身体をずるずると引きずりながら持っていこうとする。
「貴様ら、黒獅子騎士団の連中か。何のつもりだっ!!」
「何のつもりとは侵害ですなクレア嬢。我々は、ただ騎士としての任務を全うしているだけのことです」
暗がりから静かに聞こえてきた声に、マースの遺体を引きずっていた数名の騎士、そしてアベル達の動きを抑えていた騎士が道の左右に並び、右手を上げて敬礼する。彼らの間を通りながら、傍らに文字通り獅子の頭と巨大な戦斧を持つ獅子族を従えた、眼鏡をかけた痩せた男が現れた。彼の後ろには二十名ほどの騎士が、二列になって従っている。
「く、黒獅子騎士団団長、ゼムセル公」
「ええ、お久しぶりですクレア嬢。かつて貴女が私との婚約を解消し、黒羊騎士団という名ばかりの騎士団に入って以来ですな」
「・・・・・・」
かつて婚約者だった少女を、ゼムセルは眼鏡の奥にある一重まぶたで冷ややかに眺めた。
「まあすんだことは仕方ありません。我々がここに来たのは、黒獅子騎士団に所属していながら、蛇腹族の女と手を組み、殺人を含めたさまざまな悪事に手を染めた裏切り者の処罰に来た。それだけです」
「それだけだと? お前たち、なぜすべてが終わってからき「まってクレア」アベル・・・・・・」
俯いていたアベルに言葉を遮られ、クレアは鉄仮面の中から彼を眺めたが、やがてふいっとそっぽを向き、その後ろに下がった。
「おや、貴官は?」
「はい、黒羊騎士団所属、ミネルヴァ団長直轄部隊、特別分隊隊長を勤めるアベルと申します」
「ああ、貴官が噂の・・・・・・それで、いったい何のようです?」
零騎士たる彼の噂は知っているはずなのに、ゼムセルはまったく表情を変えることなく、青年を見返した。
「はい、一つお伺いしたいことがあります。あなた方黒獅子騎士団はさきほどマースが蛇腹族の女と手を組み、とおっしゃいましたが、いつから商家の娘が蛇腹族に代わっていることを知っていたのですか?」
「・・・・・・そうか、私たちもこの屋敷の地下に来るまで黒幕が蛇腹族とはまったく知らなかった。なら、こいつらが蛇腹族のことを知っているというのはおかしい」
アベルの言葉を聞いて、クレアは彼を感心したように彼を眺めた。だがそれとは対称的に、ゼムセルの表情は全く変わっていない。ただ片眉をピクリと動かすだけだった。
「・・・・・・つい先日、という答えでは貴官は納得しないでしょう。二年前、下町で殺人事件が発生した後、我々は独自に調査を重ね、サラグニス伯のご子息に嫁いだ娘が蛇腹族という事まで調べておりました」
「なら、どうしてその時点で逮捕しなかったんですか。そうすれば、あの部屋に居た人々は死なずにすんだはずです」
「弾圧対象である蛇腹族の女が、あろうことか貴族院議員のご子息の妻になっていた。それが表に出た場合いったいどれほどの騒ぎになるか貴方にも分かるでしょう。夫は妻に、妻は夫にあらぬ疑いを持ち、最悪の場合邸宅の中で殺し合いが発生します。いいですか、真実を公表するということは時に無用な混乱を引き起こすものなのです。話はこれで終わりですか? 私からも一つお聞きしますが、この“犯罪者”は事切れる瞬間、貴方に何か言い残しましたか?」
「・・・・・・ただ、売られていった母さんに会いたい、それだけ呟いて死にました」
「・・・・・・」
ゼムセルの冷徹な目と、アベルの青い瞳が交わる。数秒の間目を合わせていた二人は、やがて冷笑を浮かべたゼムセルが視線をそらしたことで終わった。
「いいでしょう、まあ事切れる寸前の犯罪者の言葉など誰も信じることはないでしょうからね。では、これで失礼します」
右手を上げて敬礼し、くるりと向きを変えると、ゼムセルは獅子族と数十名の騎士、そして騎士が引きずるマースの遺体を持って、再び暗闇へと消えていった。
「・・・・・・」
「お、おいアベル、大丈夫か」
「・・・・・・うん、大丈夫だよクレア。帰ろう、僕たちの騎士団に」
「あ、ああ」
ゼムセルが消えていった暗闇を睨みつけていたアベルに、クレアはおずおずと声をかけた。彼女の声に我に返ると、アベルはそっと息を吐き、彼女に笑みを見せた後、夜空を見上げた。
紫色の三日月が、相変わらず笑みを浮かべている夜空を
「こんな馬鹿げた法案が認められるかっ!!」
それから三日後の事である。黒鳥城の西部にある貴族院議事堂で、提出された議事内容を見た貴族院副議長、ブランヴァイク公の腰巾着であるグレティス伯は、反対側の席に座る筆頭執政官、セフィリアを睨みつけた。
「静粛に、グレティス伯。発言は挙手をしてからお願いします」
「な、議長・・・・・・いえ、失礼しました」
だが貴族院議長を務める“老ヘルダー”の異名を持つヘルダー伯爵に注意を受け、その左脇に座るブランヴァイクに睨まれると、グレティス伯は静かに座りなおした。
「しかし議長、確かにこれは馬鹿げた法案です。我々貴族に対する国庫助成金の停止、飢饉の際の一律二十パーセントの減税と領主による領民に対する物資援助の供出、さらには貴族邸宅に対しての特別捜査の許可。これは三万年の長きにわたって七王国と帝都を支え続けた、我ら貴族に対する侮辱と判断しますが、いったいどのような考えでこのような法案を提出したのか、説明願えませんかな。筆頭執政官、セフィリア殿」
グレティス伯が座るのを確認してから、彼の横に座るシュタイン伯が静かな声で提出された法案の内容を読み上げ、反対側に座るセフィリアに冷徹な視線を投げかけると、筆頭執政官にして“黙示録の四姉妹”の一人たるセフィリアは、優雅に立ち上がった。
「むろんご説明させていただきます。まず一つに、国庫がこれ以上の助成金に耐えられないということです。一年の税収は黒金貨に換算しおよそ二十億枚。この中で貴族に対する助成金は六億枚になり、これは国庫に対しかなりの負担となっています。これを停止するだけで様々な活動費を増やすことができるのです。第二に民衆に対しての物資援助ですが、今年は北部三ヶ国で大規模な飢饉が発生するという試算が出ています。彼らからの支援要請に応えるためにも、以前から国庫の中から民衆に対して行っている物資援助を領主の皆様に負担していただくことで、彼らの要請に速やかに応じたいとしています」
「ふん、飢饉だと? それは帝都ではなく、彼ら北方三カ国の問題だろう。それに税収が足りないというのであれば、平原の集落とやらに住む六千万いる不法氏民からも税をとればいいではないか」
「彼らから税をとり、この二十億枚なのです。これ以上の重税は彼らからの反発を招きます。結果、彼らが革命団と呼ばれる反帝国組織に迎合したらどういう状況になるか、分からないわけでもないでしょう。ブランヴァイク公閣下、貴方はどう思われますか?」
セフィリアの言葉に、南方平原の中心地である公都ブランヴェールを拠点とし、周囲二百五十の州のほか、傘下の貴族の領地を含めれば四百の州を実質的に支配する大公爵は、むっつりとした顔で立ち上がった。
「・・・・・・革命団については目下鋭意捜査中である。彼らをかくまった者は例外なく死罪と触れを出しておいた。これで奴らも息の根が止まるだろう」
「民を締め付ければ、反発するものが出るだけだと考えますが?」
「さすがは民衆の代表を務める筆頭執政官殿だ。彼らのことを良く分かっていらっしゃる。執政官の中に、彼らを支援するものがいてもおかしくないほどに」
「彼らは皇帝陛下を排除し民衆による政治を理想として掲げております。皇帝陛下の“側近”としては、そのような思想を持っている彼らを許すことなど到底できません。むしろ彼らの物資を考えると、南部三カ国の介入を考えるべきではありませんか?」
側近という言葉を強調して話すセフィリアを見て、ブランヴァイク公はぴくりと片眉を動かした。
「・・・・・・まあそれは今後の捜査で明らかになるだろう。捜査といえば最後の法案、貴族の邸宅に対しての特別捜査権、なぜこの法案を出された?」
「ええ、ご説明させていただきます。皆様は三日前、帰属街にある邸宅の地下で多数の獣人の遺体が見つかったことはご存知でしょうか」
彼女の発言の内容に、議事堂内はざわついた。どうやら、ほとんどの貴族たちにとって初耳だったようである。
「ふむ、耳にしている。確かその邸宅を所有する貴族のご子息に嫁いだ商家の娘が“黒魔術”の儀式を行うため、獣人族を捕えて殺しまわったと聞いた。だがその事件は黒獅子騎士団が解決したと、そう報告を受けたが?」
「おお、黒獅子騎士団が」
「確かに、彼らに任せて置けば安心でしょうな」
黒獅子騎士団にとって最大の援助者であるブランヴァイク公の言葉に、周囲の貴族たちから、彼の騎士団に対しての賛辞の声が聞こえてきた。
「ふん、獣人ごときで何を大騒ぎしている。奴らは家畜同然の蛮族ではないか」
その時である。ひときわ大きな声でそう発したグレティス伯の言葉に、賛辞の声はぴたりと止まった。
「・・・・・・グレティス伯、彼らは確かに数百年前までは、奴隷として虐待されてきたという忌まわしい過去があります。しかしセフィロト陛下の治世において奴隷制度が廃止され、帝国氏民となったこと、まさかお忘れではございませんよね」
「ぐ・・・・・・」
「・・・・・・グレティス伯、退出を命じる」
セフィリアの冷たい声に喉を詰まらせ、怒りで顔を真っ赤にしたグレティスに周囲から無言の視線が突き刺さる。彼が壇上にいるブランヴァイクに助けを求めて顔を上げると、彼はグレティスをじろりと睨みつけた。
「は・・・・・・し、失礼いたします」
最大の庇護者に睨まれ、グレティスがすごすごと退出したのを見届けると、ブランヴァイクは場の空気を入れ替えるためか、ごほんと大きく咳払いをした。
「確かにこのような事件があった後では特別捜査権を持ちたくなるのも分かる。良かろう、貴族の邸宅への特別捜査権、黒獅子騎士団に対してのみ賛成する。元々貴族街は彼らの管轄だ。支障はないだろう。議長」
「う、うむ、ではこれより投票に移る。議員の方々は提出された法案に賛成か反対かを明記し、議長席前の投票箱に入れるように」
議長の言葉に、議員たちはがやがやと立ち上がり、一人ずつ投票箱に紙を入れていく。もっとも答えは最初から分かっていることだ。投票が終わるまでの十五分間、セフィリアはただ黙って、目の前にある投票箱を眺め続けた。
議会が終了し貴族員に所属する議員達が出てくると、次席執政官であるカチュアは、貴族の従僕と同じように、立ち上がって上司が出てくるのを待った。貴族たちが従僕を連れて立ち去ってから数分後、議事堂から疲れた表情をした彼女の上司であるセフィリアが出てくるのが見えた。
「お疲れ様ですセフィリア様。あの、法案のほうは」
「・・・・・・結局駄目、先に提出した二つの法案は反対多数で却下、三番目の特別捜査権も黒獅子騎士団のみに許可するという形で認められただけよ」
「えと、でも貴族の邸宅に対しての特別捜査権は認められたんですよね、なら彼らの犯罪に対する抑止力になるのでは?」
「違うわ、黒獅子騎士団の団員はその全てが貴族の子弟、逆に彼らの権限で犯罪がもみ消されるでしょうね。それに」
「それに、なんでしょうか」
疲れた表情をして歩き出したセフィリアの半歩後ろにカチュアが立ち、執務室がある第四城壁へと二人は歩き出す。彼女たちに対する周囲の目は冷ややかだ。それはここ貴族院議事堂が、ほとんど貴族たちの社交場であるためだろう。
「それに、逆に貴族や黒獅子騎士団にとって都合の悪い相手を好きに捜査することができる。ああ、無理に逮捕する必要はないわよ、けど捜査したという事実があるだけで、その貴族は帝都にいられなくなるでしょうね」
「そんな、ならどうしてこの法案を提出したんですか?」
「そうする必要があったからよ。もしこの法案を出さず、三日前の事件が明るみに出れば、どうして何の対策をしないのかと逆に追求される羽目になる。それを防ぐためにも、この法案は提出せざるをえなかった。まったく厄介な相手だわ、ブランヴァイク公。さすがは暗黒時代をほとんど無傷で・・・・・・いえ、力を蓄えて乗り切っただけのことはある」
レフィロスの暗黒時代、周囲の貴族たちの求めに応じ彼らを傘下におさめることで、現在は四百を越す州を実質的に支配しているその手腕を、セフィリアは苦々しい顔で認めた。
「けどそれと好き放題に振舞っていいというのは別、皇帝陛下の権限の強化のためにも彼の力は削ぐ必要がある・・・・・・まったく、面倒なことだわ」
「陛下の権限強化ですか・・・・・・あの、ブランヴァイク公の力を削ぐなら、革命団と渡りをつけるという案もありますが」
「奴らと? ふん、ありえないわね。彼らは貴族のほか皇帝陛下の排除も公言している。そして民主主義とやらを使って、自分たちの手で黒界を動かしたいらしいのだけど・・・・・・責任が持てる強いリーダーがいないのであれば結局は中途半端に学を持った奴らのせいで、政治の停滞、おろかな政策が実行されるわ。それよりは必要な知識を有し、民を慰撫し、自らの行動にしっかりとした責任が持てるリーダーが支配したほうがよっぽどいい。今私が貴族の力を削ぐのは、その削いだ力を皇帝に集中させ、黒界を率いるにふさわしい、強いリーダーになっていただきたいからなのだけど」
「で、ですがその・・・・・・皇帝陛下は」
「それ以上は不敬罪に値するわよ、カチュア。けど確かに今のままでは陛下はリーダーとしては不十分。そして現在、私が先ほど挙げたすべての力を有し、リーダーの資格がある者といえばほんの数人」
顔をしかめながら、とある人物の顔を思い浮かべたときである。目の前の扉が急に開き、セフィリアは先ほど頭に浮かべて数人のうちの一人と鉢合わせした。
「これは筆頭執政官殿。議会はもう終了いたしましたかな?」
「・・・・・・ええ、議会はもう終了いたしました。元老院議長、ヴォーダン閣下」
先ほど、ブランヴァイク公の前ですら顔色一つ替えなかったセフィリアは、傍らに従僕と思われる若い男を連れた白髪の男、すなわち前パンデモニウム市長にして現元老院議長、ジャン・ヴォーダンに向かって、不機嫌そうな顔をして一礼した。
「今回の法案には私も事前に目を通させていただいた。確かに飢饉が発生しようとしている今、国庫の確保は何よりも大切だろう。だが、少し早急すぎる気がするのだが?」
「早いどころか遅いように思われます。まあ、のんびりした豪華な“老人クラブ”の方々には分からないと思いますが」
彼女の皮肉げな言葉に、ジャンの傍らに控える従僕が彼女をたしなめるようにこほんと咳払いする。だが、皮肉を言われたジャンのほうは、微笑してセフィリアを眺めるだけだ。
「確かに帝都とその近郊に住む人々のための法案を作る貴女方と比べると、我ら元老院の審議は非常にのんびりしたものだろう。しかしそれは帝都だけではなく、周囲六ヶ国、その全てに適用する法を作っているためだ。慎重にもなる。まあ元老院の方々は六ヶ国の賢者や、引退した名君と呼ばれる貴族や王族であるから私を含めて皆老人であることは疑いようがないがね。しかしその老人の目からも、蒸気式戦車の後続機の開発と、四方の要塞と帝都を現在開発中の蒸気機関車が走る蒸気鉄道で結ぶ“大陸横断鉄道計画”は早急だと言わざるを得ない。第一鉄道を敷くには土地が必要だ。そこに住まう者たちの事を考えているのかね?」
「議長、そろそろお時間です」
「アラン・・・・・・まあいい。ではこれで失礼する、これから元老院議会・・・・・・君の言う豪華な老人クラブを開催しなければならないのでね」
「・・・・・・はい」
傍らの若者が、小声で主に時間を告げると、ジャンは僅かに苦笑しながら、セフィリアに軽く頭を下げ、壁際に寄った彼女の横を通り、二、三歩歩いたときだった。
「ああそうだ、たまには・・・・・・いや、なんでもない」
何かを言いかけ、自嘲するようにふっとため息を吐くと、セフィロトの盟友の一人であり、レフィロスの暗黒時代の終了間際にパンデモニウムの市長となり帝都の完全崩壊を防ぎ、その功績を買われて元老院議員に選出され、就任二年目で圧倒的多数の賛成により議長になった、白髪の獅子という異名を持つ男は、孤児であったところを拾い、現在では片腕といわれるまでになったアランを連れ、ゆっくりと遠ざかっていった。
「・・・・・・ああもう、ああもうああもうああもうっ!!」
彼らの姿が完全に見えなくなると、周囲に完全に人気がないことを確認してから、セフィリアは壁に寄りかかり、自分の豊かな金髪をかきむしった。
「あ、あの・・・・・・セフィリア様?」
「なによあの爺、相変わらずむかつくような言い方をして、こっちを何歳だと思ってるのよ。もう子供じゃないんだってのっ!! 決めた、この後いろいろとしなければならない雑務があるけど、それはもう全部あんた達に任せるわ。私は今日はもう非番よ非番っ!! 出かけるからカチュア、あんたが雑務処理の指揮を執りなさい。まあ重要なものはないから、大学を首席で卒業したあなたになら指揮を取れるでしょ」
「え? そ、それは大丈夫ですけど、ちょ、待ってくださいセフィリア様、また“あそこ”に行くんですかっ!? 誰かに見つかったらスキャンダルどころの騒ぎじゃないですよ!?」
「大丈夫よ、変装していくから!!」
そういう問題じゃないのになぁ、そう思いながら、カチュアは小走りで駆けていく上司を慌てて追いかけた。
クリスタルの光がだんだん弱まり、空が紫色になっていくのを、下町と貴族街を隔たる大河のほとりに立ち、アベルはぼんやりと眺め続けていた。その手には、先ほど近くの花屋で購入した黄色い花束がある。
「なんだ、ここにいたのか」
「・・・・・・まあ、ね」
ぼんやりとたそがれている青年に、ふと声がかけられた。振り向くと、すぐ背後にいつもの甲冑ではなく、動きやすいズボンとシャツというラフな格好をしたクレアの姿があった。甲冑は着込んでいなくとも、その手には三日前に蛇腹族の尻尾の攻撃を防ぎきった槍が握られている。
「事件を解決した褒美に三日間の非番をもらったといっても、明日からはまた勤務が始まるんだ。早く休んで、明日に備えたらどうだ?」
「うん、けど昨日も一昨日も、病院にいっぱなしだったからね、今日ぐらいしかないんだ。ここに来れるの」
三日前の戦闘で負傷した彼らは、事件解決の褒賞として団長であるミネルヴァから三日間の非番をもらった直後、パーシヴァルから大河付近にある騎士団が使用している病院に二日の間入院することを命じられた。クレアは何度も尻尾を叩きつけられ、アベルも締め付けられたのだからしょうがないだろう。検査の結果、クレアは肋骨に多少ひびが入っている程度で、アベルのほうは締め付けられたにもかかわらず、ほとんど怪我らしい怪我がなかったため医者が首をかしげていた。まあ骨休めと思えばいいさ、そう考えて一日中病院のベッドで眠っていたアベルと、早くから動いて自主鍛錬を開始したクレアの元には、二日の間に分隊に所属するコールや他の衛兵、グレイやウェンディ、今回の捜査の褒賞として一ヶ月の掃除当番を免除されたウォレス、通行証を持たないのにどうやって入ったのか、貧民街を代表して教会の神父と、彼に連れられて娼婦を代表し、亡くなったフィルナの同僚であるミリーとイザベラなど、多くの友人が見舞いに来たため、当初の予定である寝て過ごすということはできなかったが、それでも嬉しそうな表情をしていたのを、クレアははっきりと覚えていた。その彼が退院後、ここに来たということは
「殺害された人々への、鎮魂のためか?」
「うん、彼女たちと、そして殺さざるをえなかった蛇腹族に対しての、ね。見舞いに来た団長に聞いたのだけれど、公式発表では、蛇腹族は存在すらしないらしい」
入院一日目の夕方に見舞いに来た団長の話によれば、今回の事件は全て、貴族の家に嫁いだ商家の娘が、獣人の女性を生贄として捧げる黒魔術にはまったため引き起こされたというものにされた。そして実行犯として彼女の愛人であり、元黒獅子騎士団のマースが女性を攫い殺していったとされ、彼女が嫁いだ貴族は被害者ということになった。そして娘の父親、つまり商家の主はお咎めこそなかったものの、今では完全に信用を失い寝たきりになってしまったらしい。そしてこれらを突き止め、黒魔術を行っていた娘とマースを倒したのは全て黒獅子騎士団である、公式にはそう発表された。
「けど分からないことがあるんだ。数年前に入れ替わったということは、少なくとも彼女は何年か商家で暮らしていたということになる。なのに誰にも知られていないのはおかしい。それにマースにいろいろと指示を出した人のことも気になる」
「確かにな・・・・・・だが事件はすでに私達の手を離れ黒獅子騎士団の管轄になった。私たちにできることはもうないだろう」
「うん、そうだね」
隣に立ち、同じように空を見上げたクレアの言葉に頷くと、アベルは鎮魂の花言葉を持つ黒イチョウの小さな花を鉄の柵の間から大河にむけて放り投げ、目を瞑って黙祷した。花を投げ捨てたところを見た巡回中の衛兵が何か言いたげに近寄ってくるが、クレアに睨まれ、結局は何も言わず黙祷を捧げる青年の脇を通り過ぎていく。
「ねぇクレア、貴族って何なんだろうね」
「・・・・・・さあ、なんなんだろうな」
黙祷をやめ、再び空を見上げた青年の言葉に、クレアは小さく首を振った。
「どうして彼らは真実を隠したいのだろう。どうして彼らは何もかも持っているくせに、今の生活に満足することができずに、貪欲に欲しがるんだろう。どうして、なんだろうね」
悲しげに空を見上げ、涙を流さずに泣いている彼を不意にクレアは抱きしめたくなった。鉄の柵を握り締め、何とかその衝動に耐え、アベル同様黒い夜空に浮かび上がってくる、紫色の笑う三日月を眺めた。
四界と呼ばれる世界がある。
かつて一つだったこの世界は、元々の名前など誰も覚えていないバラバラの世界となった現在、それぞれの世界の特徴に合わせた名でで呼ばれていた。すなわち
老いた竜王エンシェントの統治の下、その牙と爪、そして強靭な肉体により、今なお四界最強と謳われる竜達が支配する世界、緑界。
陸地を失い、どこまでも続く青い海の上を、大陸ほどの大きさを持つ光亀族の背に大地と街を作り、詩と文学、歌と踊りを楽しむ人々が住む世界、青界。
火山のふもとに都市を作り、山が噴出す鉱石を使って様々な道具を作るドヴェルグと呼ばれる種族と、頭に真紅の角を生やした鬼族と呼ばれる者達が住む世界、赤界。
そして
太陽を失った変わりにクリスタルの光を糧にし、沈むことのない笑う紫の三日月に見下ろされながら、多種多様な種族が住む六ヶ国と、それを治める帝国により構成されている世界、黒界。
嘆きの大戦を引き起こした聖樹帝セフィロトが戦死し、その後の虐殺帝レフィロスの圧政に耐えた帝国は、帝国暦三万年の節目を前に再び大きな混乱の中にあった。皇帝パールが公の場にほとんど姿を見せず、彼女の代わりに政治を担う執政官と、自らの権限を守ろうとする貴族の対立、貴族による民衆への圧政、帝都南部で活動する民主主義を掲げる革命団、そして囁かれ始めた“終焉”の予言と、帝国を見限り独自の路線をとり始めた六ヶ国。
三万年祭を前に、混沌の坩堝の中で喘ぐ、帝国という名の巨大な獣を、
パンデモニウムの中心、黒鳥城の最上階において黒界だけでなく、四界全てを照らしているクリスタルは、
ただ、
ただ冷ややかに
「さあな、たぶん馬鹿だからだろう」
眺め続けていた。
四界戦記
第一部 黒界 帝都動乱篇
第一話 帝都の零騎士
だが、物語はまだ終わらず、惨劇の幕もまだ閉じてはいなかった。
「で、だ。なあアベル、二人とも体調が回復したことだし、明日からはまた勤務だ。その前に、もしよかったらこれから夕食をかねて食事でも」
「・・・・・・あ、ごめん。ちょっと行かなきゃならないところがあるんだ」
「は? おいちょっと、アベル!?」
空を見上げるのをやめ、少々赤い顔で隣にいるアベルにクレアが声をかけたときである。何かに気づいたように顔をしたアベルは、大河に背を向けるとタッと駆け出した。
「本当にごめん、また今度誘ってね」
「おいアベル、お前まさか“副業”じゃないだろうな」
「え・・・・・・えと、じゃ、じゃあまた明日詰め所で会おうね」
「おいアベ・・・・・・もう、明日遅刻したら、絶対殴ってやるっ!!」
正門まで向かう蒸気馬車を捕まえ、その中に乗り込んだアベルを見送ると、せっかくのいい雰囲気を台無しにされたこともあり、クレアはわなわなと震える手をぎゅっと握り締めた。
その日の夜のことである。
漆黒の夜の中、いつもより一際輝く紫色の三日月が、いつもより口を吊り上げて笑っている。
ケタケタ、ケタケタ、ケタケタと
だが、耳を済ませると聞こえないだろうか、笑う三日月に合わせて笑う、もう一つのかすかな笑い声が。
クスクス、クスクス、クスクスと
その笑い声は、誰もたどり着けず、見ることもできない帝都中心にある黒鳥城の最上階、クリスタルを安置している部屋のさらに上から聞こえてくる。だがこの上にあるのは細い塔の先端だけだ。
三日月の光に照らされて、足場などほとんどない塔の先端で、それでもそれは笑うのをやめなかった。
美しい少女だった。ショートヘアにした黒髪と中性的な美しさを持つ顔つき、陶器のような白い肌。それはとある誰かを思い浮かばせるような姿であるが、“彼”とはまったく違うところがある。
それは彼女の瞳であった。“彼”がどこまでも澄み切った青い瞳だったのに対し、彼女の瞳は光がまったくない、闇そのものである。
闇そのものの瞳で下界を見下ろし、少女は頭上の三日月同様、口の端を吊り上げて笑う。
クスクス、クスクス、クスクスと
まるで、これから起きる“喜劇”をあざ笑うかのように、そのどこまでも無邪気で邪悪な声で。
「それでは旦那様、失礼いたします」
「・・・・・・う、うぅ、あ」
もはや声も出せないほどに弱りきり、ベッドの中に寝たきりでいる主人に一礼すると、ベルフは静かに彼の部屋から出た。貴族街の一等地にあるこの大きな商家から数年前に嫁いでいった一人娘が魔術にはまり、幾人もの獣人を殺害していたことが分かったのはつい三日前だ。それからの三日間は黒獅子騎士団からの立ち入り調査があり、娘が黒魔術に傾倒したのは嫁いで行った後からということでお咎めはなかったが、それでも人はそうは思わない。三日ぶりに再開した店には取引を停止するという連絡が途絶えることはなく、もともと寝たきりだった主人は完全に呆けてしまい、一番番頭から三番番頭と、従業員の大半は店に見切りをつけ伝手を頼って辞めていき、今は手代頭である彼が、他に行き場がない住み込みの従業員たちをまとめて何とか店を維持している状況だった。
主人の部屋を出て店の廊下を歩いていくベルフに向かって、従業員たちが心配そうな顔を向けていく。彼らに大丈夫と声をかけながら、ベルフは夜だというのにお得意様に何とか直談判をしてくるといって、暗い表情で出かけていった。だが何度目かの角を曲がり、誰も後をついてきていないことを確認したときである。ベルフは狐に似たその細い目をさらに細め、今までの暗い表情とは打って変わって口の端を限界まで吊り上げて、さもおかしくてたまらないといった風に笑いながら、再び歩き出した。
三十分ほど歩いただろうか、一等地から少し離れたところにある小さな貴族の邸宅まで来ると、ベルフは門番小屋に用件を告げて門を開けてもらい、庭に入ると邸宅の中には入らず建物の横にひっそりと建っている物置小屋の前に立ち、コ、ココココ、コッと不思議なリズムで扉を叩いた。と、同じようなリズムで内側から扉が叩かれ開かれる。中に入り、先ほど扉を開けた甲冑に身を包んだこの邸宅の持ち主である貴族の私兵に恭しく一礼すると、彼に促され、ベルフは物置小屋の中にある地下まで続く階段を、ゆっくりと下りていった。
「皆様、お待たせいたしまして大変申し訳ございません」
「遅いぞベルフ、ちょうど会議が一段落したところだ」
「それはそれは、申し訳ありませんです、はい」
階段を下りた先の部屋にいる十数人ほどの下級貴族たちに恭しく礼をすると、部屋の一番奥に居たこの邸宅の腹が突き出た主が先ほどまで行っていた会議の熱気に当てられてか、彼に向かって真っ赤になった顔で怒鳴った。
「まあいいではないですかクルデス子爵。彼の店にはこれまで三日ほど黒獅子騎士団が詰め掛けていたのです。抜け出せないのも当然でしょう」
「ふん、我らの存在に気づかず、目先の事件を追うことしか能のない騎士どもめ。これでは騎士の名が穢れるわっ!!」
「だからこそ我々“憂国騎士団”は結成された。無能な騎士と貴族を打ち倒し、民衆の代表など調子に乗っている執政官どもを廃し、この帝都を真の王道楽土にするためにっ!!」
男爵の位を胸につけた壮年の男が叫ぶと、周りにいる下級貴族たちは、皆そろってそうだ、そうだと叫んで頷きあった。
「・・・・・・」
その騒ぎに加わらないものが居た。クルデスと呼ばれた貴族の傍らに控える、背中に大剣を背負ったいかにも歴戦の勇士といえる風格の男である。彼は腕を組んで目を瞑り、だが決して油断せずに周囲の気配を探っていた。
「すばらしいお言葉の数々、このベルフ感服いたしました。ですが今までわたくしめが皆様に行った援助のことも、どうかお忘れなく」
「分かっている。仲間を集め、情報を操作し、決起のために必要な武器食料まで手に入ったのは全て貴様の出した金のおかげだ。しかし見返りは充分に返したはずだぞ? 様々な犯罪行為のもみ消し、邪魔な商売敵を殺したことをうやむやにしてやったこともあった。そして主人が倒れた今、商店は貴様のものといっても過言ではなかろう。まあ待っておれ、事が成った暁には黒鳥城の御用商人に任命してやる。城の日用品、全て貴様に任せようではないか」
「ありがとうございます、それでこそいままで協力させていただいた甲斐があったというもの・・・・・・そう、たとえば二年前、ふとしたことでここの事がばれそうになったとき、蛇女を使って殺人を繰り返し、そちらに目が行くようにしたことなどもお忘れなく」
「ああ、あの時は危うかった。どこぞの諜報部隊に所属する獣人族の密偵にかぎつけられ、奴を始末したことが偶然であるかのように装うためさらに獣人三名を殺させた・・・・・・しかし蛇腹族の女など、貴様いったいどこで手に入れた?」
「はい、迫害され助けを求めていたところを匿ったのでございます。その後、商店の娘を食い殺させて化けさせ貴族の屋敷に潜り込ませました。蛇女のほうではわたくしを好いていたようですが、あいにくとわたくしめには“商品”に欲情する気はまったくございません」
「ふん、恐ろしい奴だ」
ベルフの言葉に鼻を鳴らした貴族が顔をゆがめて大笑いすると、彼の周囲で笑いの渦が広がっていいった。
「さておのおの方、今宵の会合はこれまで。間近に迫った決起の日に備えて、英気を養おうではないか」
「「「応ッ!!」」」
それから数時間後、会合が終わりリーダーであり憂国騎士団団長を自称するクルデス子爵が立ち上がると、地下室にいる十数名の貴族たちは手にもったグラスを掲げ、中に入ったワインを飲み干すと、いそいそと帰り支度を始めた。だが
「待て」
「おや、どうかなされましたかなスターロス殿」
不意に、クルデスの隣に控えていた男が背中に背負っていた大剣を引き抜きつつ、階段を昇ろうとした貴族たちの動きを制した。
「あの、彼はどちらさまで?」
「ああ、確かスターロス準騎爵だ。貴族の位は最下級の準騎爵だが、嘆きの大戦で数多の首級を挙げた歴戦の勇士だ。しかしこちらに帰還した後はレフィロス陛下に反発したことで雀の涙ほどの領地を失い、クルデス子爵の庇護を受けている。まあ用心棒といったところだな」
「はあ、さようで」
「スターロス、何のつもりだ」
ベルフが他の貴族と話している間、スターロスは大剣を構えたまま上を見上げていたが、主の問いかけにゆっくりと頭を振った。
「上にいるはずの私兵の気配が消えた。恐らくは死んだのだろう」
スターロスがそう言い放ったときである。彼らが昇ろうとした階段の上から、何かがごろごろと転がり落ちてきた。
「ん? 何だ・・・・・・ひ、ひぃいいいいっ!!」
階段付近に居た貴族が落ちてきたものを目を凝らして眺め、そしてそ正体が分かったとき、彼は悲鳴を上げて腰を抜かした。なぜなら、
なぜならそれは、ぱっくりと横一文字に切り裂かれた首から血を流し、驚愕の表情を浮かべて事切れた小屋を守っているはずの私兵だったからだ。
「う、うわぁあああああっ!!」
「な、何だよこれっ!!」
「さ、さっさと出るぞ、こんなところ、一秒だっているものか!!」
先ほどとは違う意味で、部屋の中はざわめいた。声高々に自分勝手なことを話していた反逆者たちが我先に階段から逃げ出そうとする。そのとき、後ろのほうに居た貴族はふと、自分の横にいる友人の貴族に、おかしなところを発見した。
「おい、お前その胸から突き出ている奴、何だ?」
「は? なんだよその、胸から突き出ているやつ・・・・・・て」
彼の言葉に首をかしげ、自分の胸を見下ろそうとした貴族は顔を傾けた瞬間、喉の奥から湧き上がってくる血を吐いて事切れた。彼が死に際に見たもの、それは自分の胸から突き出している、二本の太く巨大な“爪”であった。
「お、おい、おまっ!!」
大声を出そうとした貴族の喉に短剣が突き刺さる。それを引き抜くと、今度は振り向こうとした貴族の首筋に、杭打ち器の要領で飛び出す仕組みになっている、左手に装着した巨大な爪を“敵”は躊躇なく叩き込んだ。
「お、おい何だよこいつっ!!」
「し、知るかよ、早く逃げるぞ!!」
後ろから襲ってくる、まるで死が形を成したかのような黒一色の存在に、貴族たちは仲間を押しのけ我先に階段を駆け上がろうとして、
「ぐぁっ」
「ぎゃっ!!」
「お、押すな馬鹿、ぐえっ!?」
いつの間にか階段に張り巡らされた、糸よりも細く刃よりもなお鋭い鋼糸に気づき動きを止めるが、後ろから押してくる仲間によって身体を切り刻まれる。それを見た他の貴族は慌てて降りようとするが、結局別の貴族に後ろから押され、体勢を崩して倒れこんだところを切り刻まれた。
「くそ、相手は一人だ。取り囲んで討ち取ぐぁっ!?」
「だ、だめだ、こいつ早すぎて姿が捉えられ・・・・・・ぎゃあああああっ!!」
逃げることをあきらめ、“敵”に向き直った貴族も少ないがいた。だが彼らは結局“敵”の姿を捉える事はできず、一人、また一人と短剣で切り裂かれ、あるいは爪で抉られて事切れていく。やがて貴族のほとんどが殺され、後に残るのはスターロスと、彼の背後でがたがたと震えながら短剣を構えるクルデス、そして頭を抱えてしゃがみこみ、震えているベルフの三人だけになった。
「ふん、なるほど。どこのどいつか分からんがなかなかの腕前のようだ。だが」
向かってくる“敵”の振るう短剣を大剣で受け止めると、そのまま受け流し、僅かに体勢を崩した“敵”の頭部めがけ、スターロスは渾身の力で大剣を振り下ろした。
「な、ひ、ひぃいいいいいいっ、よ、“夜鷹”だぁああああああっ!!」
バサリ、と“敵”の被っていた黒いフードがきり飛ばされる。その中にあった“顔”を見て、クルデスは今度こそ狂ったように泣き喚いた。
フードの中にあった“顔”それは逆立った黒い毛を持ち、耳まで裂けた口を持った鳥を模した仮面であった。帝都でその仮面を被っている者はただ一人、現在黒獅子騎士団と黒竜騎士団が血眼になって探している稀代の暗殺者に他ならなかった。すなわち夜の鷹と書いて、“夜鷹”である。
「ほう、貴様が夜鷹か。武勇伝はいろいろと耳にしている。我らを狙うということは少なくとも貴族の味方ではあるまい。となると皇帝の部下か、貴族の力を削ぎたい筆頭執政官子飼いの暗殺者か、それとも大儀のために立ち上がった腕の立つ騎士か、城壁の外、六千万もの氏民を束ねる“四者”のうちの誰かの私兵か。ふん、推測するのはたやすいが、真実は闇の中、か」
対峙する相手の正体を探りながらもスターロスは大剣を振るうのをやめなかった。突き出された爪を防ぎ、振るわれる短剣を弾き返しながら、徐々に夜鷹を壁際まで追い詰めていく。やがて逃げ場を完全に失い、彼の持つ大剣が黒い服を掠め、白い肩が部屋の中に浮かび上がると、夜鷹はふと、その動きを止めた。
「ほう、観念したようだな。貴様は身は軽いが力がない。正面からの戦いでは並みの戦士程度の技量だ」
「・・・・・・一つ聞きたい」
大剣を構え油断なく見張るスターロスは、ふと相手の声を聞いて眉をひそめた。
「貴様・・・・・・“女”か」
低くしようと努めてはいるが、それでも高く発せられるそのソプラノの声は、間違いなく女のものであった。
「なぜ貴様ほどの男が叛徒共の集会に参加している? なぜ彼らを打ち倒し、皇帝に仕えようとしない?」
「ふん、以前は確かに仕えていたさ。セフィロト陛下にな。だが」
「す、スターロス、貴様何をしておる、さっさとそいつを討ち取れ」
彼女の質問に、スターロスは油断することなく身構えながら答える。そんな彼の背後から、雇い主であるクルデスのわめき声が聞こえた。
「ご安心召されよクルデス殿、こやつなどいつでも討ち取れる。ならば多少の余興はよろしかろう。ああ、話がそれたな・・・・・・セフィロト陛下に仕えていたころは人生の絶頂期であった。このような名君のためなら死んでもいい、確かにそう思わせるお方だった。だが」
「・・・・・・」
「だが嘆きの大戦により陛下が戦死されたことで全ては終わった。彼の後を継いだのは、比べるのもおこがましい虐殺帝。そして彼の死後は、公の場に出るのも怯える幼い少女が皇帝と来た。千年の忠誠も醒めるというものよ」
「そうか、つまりお前は皇帝を完全に見限った、そういうことだな」
「ああ。もはやわが望みは唯一つ、戦場にて相応しい死を遂げることのみだ。消えろ夜鷹、醜い鳥めっ!!」
咆哮をあげながら、スターロスは目の前の敵に大剣を振り下ろす。しかし相手の頭から足の先まで両断する勢いで振り下ろされた凶器を、夜鷹は落ち着いて見上げた。そして、
「・・・・・・なるほど、確かにお前の相手は私では力不足だろう。ならば来るが良い、我が徒、我が友、我と共に道を歩むものよ。“処刑台の騎士”エクスキューショナー!!」
その声に応え、彼女の影から飛び出した黒い“何か”が、スターロスが振り下ろした大剣を打ち払った。
「なにっ!?」
渾身の一撃が弾かれたのを悟り、だがスターロスは冷静だった。ばっと飛びのいて距離をとり、影から現れた身の丈二メイルを優に越す、漆黒の甲冑に身を包んだ、自分と同じく身の丈ほどもある巨大な大剣を持った騎士を睨みつけた。
「それが貴様の切り札か!!」
「正確にはその一つだ。相手をしてやれ、エクスキューショナー。彼の望みどおり、相応しい死を与えてやれ」
「・・・・・・」
背後から聞こえる夜鷹の声に、その鉄仮面から洩れる赤い光を強めることで応えると、騎士はその巨体に似合わぬ動きでスターロスに近づき、巨大な剣を振り下ろした。
「ぐぉっ!!」
それを受け止めたとき、スターロスは襲ってきた痺れに自らの持つ剣を落としそうになった。それほどの力の持ち主だったためである。それでも何とか受け流しつつ、相手の兜めがけて剣を滑らせる。しかし、横から向かってきた剣を騎士はその巨体に似合わぬ素早い動きでしゃがみこんで避け、そのままスターロスの右足を切り飛ばした。
「がっ!? き、貴様、その剣の動き・・・・・・無双流かっ!!」
かつて戦場の乱戦の中で生まれ、そして廃れたはずの剣技を受け、右足を失ったスターロスはどこか重みから解放されたような笑みを浮かべつつ、振り下ろされる巨大な剣を見上げ、
その一撃により、粉々に砕け散った。
「ば・・・・・・馬鹿な、す、スターロスがっ」
「・・・・・・」
腰を抜かし、自分の垂れ流した小便の中にいるクルデスは、自分に向かってくる死の使いをがたがたと震えながら眺めた。
「・・・・・・貴様が主催者か、ならばたどる道はただ一つ」
「ひ、ひ、ひぃいいいいいぎゃぷっ!!」
泣き喚きながらも、夜鷹に向かって持っていた短剣を振り回す。だが突き出された短剣を右手に持った短剣でいとも容易く打ち払うと、夜鷹は左手に装備した爪を相手の両目に突き刺した。クルデスの身体ががくがくと震える。だがやがて舌をだらりと垂らし、彼は完全に事切れた。
「・・・・・・」
部屋の中を見渡し、十数人の貴族、その全てが死んだことを確認すると、夜鷹はゆっくりと階段に向かって歩いていったが、不意に立ち止まると、部屋の片隅にあるワインが入った巨大な樽に向かって短剣を投げつけた。
「ひ、ひ、ひぃいいいいっ!?」
突然頭上から流れてきたワインの色に染まり、樽の後ろに隠れていたベルフは、冷たいワインを浴びたことと、そして何より恐怖により叫びながら飛び出し、夜鷹の前に跪いた。
「お、お許しを。どうか、命だけはお許しを、わ、わたくしめはしがない商人でございます」
「・・・・・・そのしがない商人が、なぜこんなところにいる」
「は、はい。脅されたのでございます。従わなければ昨年生まれたばかりの赤子を含め、家族を全て殺すと」
「・・・・・・そうか、赤子がいるのか」
「は、はい。まだ乳飲み子のかわいい女の子でございます。ですが妻が産後の状態が良くなく、いまだに立ち上がれないのでございます。彼女たちを哀れとお思いなら、どうか、どうかお目こぼしください」
それは真っ赤な嘘だ。ベルフは百年前に両親を些細な口喧嘩の末に殺し、それを目撃した嫁入り前の妹を犯して殺したあと、家庭というものを持ったことがない。娼婦は何度か買ったことがあり、結婚してやると下町の女をだまして金を奪ったことや殺したことはあるが、誰かを愛したことは一度もなかった。
しかし商人である自分にとって、嘘をつくぐらいのことはなんでもない。顔に出さず心の中で計算しながら、ただひたすら相手の同情を買うための嘘を並べ立てる。
「・・・・・・分かった、見逃してやる。さっさと行け」
「は、はい。ありがとうございます、ありがとうございます」
仮面の中で苦笑した夜鷹の言葉に頭を何度も下げながら、ベルフは夜鷹が女という情報はいったいいくらで売れるだろうと考えながら歩き出す。彼女の横を通り、階段に足をかけたときだった。
「・・・・・・ああそうだ。お前、名はなんと言う」
「はい、わたくしの名はベルフでございます」
生きてここを出られる。その安堵のためか、彼はつい自分の本当の名前を言ってしまった。そして階段を昇ろうとしたとき、
首に強い衝撃を感じたと思った瞬間、彼の視界は真っ黒に染まり、その直後彼は何も考えられなくなった。
「・・・・・・そうか、貴様がベルフか。奴が死ぬ間際に話した、“彼女”を狂わせ、多くの獣人族を殺め、“主”を悲しませた一連の事件の真の元凶」
仮面の下にある瞳に憎悪と怒りの炎を燃やし事切れた商人に近づくと、夜鷹はその首から短剣を引き抜き、彼の身体に何度も何度も短剣を突き刺した。
「・・・・・・」
「あ・・・・・・ああすまん。そうだな、死体を弄ぶことを“主”はお喜びにはならないだろう」
“彼女”を止めようと、巨大な騎士が無言のまま右肩に触れる。びくりと震えて巨大な騎士を見上げると、夜鷹は頷きつつ短剣を腰の鞘に差し、ゆっくりと立ち上がった。
「帰ろうエクスキューショナー。ここには“死”しかない。こんなところに、長い時間“主”を居させたくない」
夜鷹の言葉に頷くと、漆黒の騎士はまるで沼の中に沈むかのように彼女の影に戻っていく。騎士が完全に影に入ったのを確認すると、夜鷹は最後にもう一度部屋の中を眺め、後は何も言わずに、階段を上がっていった。
いつの間にか開いていた窓から流れ込む冷たい夜風が、白い肌を撫ぜる。その冷たさに僅かに動いて目を覚ますと、セフィリアは起き上がって開いている窓を見た。
「・・・・・・帰ってきたのなら、一言ぐらい声をかけなさいな」
「何だ、起きていたのか、デカ乳女」
彼女のすぐ傍らで少女の声がする。まったく驚かずに振り向くと、そこには先ほど十数人の貴族を殺害した暗殺者の姿があった
「ごくろうさま、それでどうだった? 憂国騎士団の方々は」
「どうせ貴族院の奴らにも見放されている連中だ、実にくだらなかった。まあ一人腕の立つやつは居たがな・・・・・・それに」
「あら? それに何かしら」
「・・・・・・いや、なんでもない。もう終わったことだ」
首を振りつつ黒一色の装備を少しずつ脱いでいく。左腕に装備した爪を外し近くの机の上に置くと、腰に差した短剣を鞘ごと引き抜いてその隣に置いた。
「そう・・・・・・ねぇ、いい加減教えてくれてもいいんじゃない? “あなた”の正体」
「答えは否だ。私はお前を信頼も信用もしていない。なのに軽々しく答えることなどできるものか」
「あらひどい、私の“処女”を奪ったくせに」
「・・・・・・ふん、文句なら私ではなく、お前の処女を奪った“主”に言え」
三年前、突如現れた“彼”が何者なのか調べているとき、正気を失い目覚めた彼に襲われ処女を奪われてめちゃくちゃに犯されてから情婦となったセフィリアは、微笑しつつ夜鷹が脱いだ仮面を受け取り、まるで初雪のように真白な首筋をうっとりと眺めた。
「一応“あなた”が赤界の王族の血を濃く引いているのは調べがついているのよ? けどそれ以外にも緑界と青界の気配まで漂わせている。しかも並みの貴族ではない、こちらも下手をすれば王族級の、ね」
「・・・・・・ふん、知りたがる女だ。警告しておくが我らの存在を“主”に話したら、そのときは容赦しない。“主”には休息が必要なのだ、自らの“唯一”を失い、世界に裏切られたショックから立ち直るための休息がな」
「ええ、分かっているわ」
服を全て脱ぎ、ベッドの脇にある箪笥の中に放り投げると、夜鷹は全裸でセフィリアの入っているベッドに潜り込んだ。
「ふん、ならいい。私はもう眠る。褒賞の黒金貨百枚はいつもどおり年増女のところに預けて置け。それから、せいぜいそのでかい胸で“主”に奉仕してやれ、デカ乳女」
むっつりとそう言って、彼女はゆっくりと目を閉じ、
「・・・・・・んぅ?」
数秒とたたず、再び目を開けた。
だが先ほどの彼女とは、“彼”はまるで別人だった。確かにその真白な肌も、晴れ渡った夜空に星を散りばめたような輝く髪も、そして僅かに揺らぐ“青い瞳”もまったく変わりはない。変わったのはただ一つ、その身にまとっている雰囲気だ。
「あれ、セフィ・・・・・・さま? ごめんなさい、僕また寝てしまって」
「いえ、いいのよ“アベル”。あなたの寝顔、とってもかわいかったから」
副業として集落の外れにある小屋の地下で経営している高級クラブで、セフィリアと黒紫商会会長であるグレイプリー専属の男娼をしているアベルは、セフィリアに髪を撫ぜられうっとりと目を細めると、彼女かグレイプリーとの情事の時以外には入ることの許されない狭い部屋の中を、ぼんやりと見渡した。
「そう? ならいいんだけど・・・・・・今週は、ちょっといろいろとあったから」
「ええ、分かっているわ。さ、癒してあげる・・・・・・来て」
こちらに両手を掲げるセフィリアの、その白い艶やかな裸を見て微笑すると、青年は静かにその上に覆いかぶさった。
続く