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四界戦記  作者: 活字狂い
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第一部 黒界 帝都動乱篇  第一話 帝都の零騎士 中幕

三年後






















その日、黒界を構成する七王国のほぼ中心にあり、他の六ヶ国を束ねる盟主国である帝国の首都であり、四界全てを照らすクリスタルを守る最後の砦である帝都パンデモニウム、その最外城壁の外に作られた集落の川岸に、一つの死体が流れ着いた。その恰好から娼婦と思われるその死体は、体のあちこちに獣の牙や爪によるものと思われる深い傷がいくつも出来ており、その凄惨で残酷な傷を見て、第一発見者である自警団に所属する青年はしばらく口元を押さえていたが、死体を見るのは初めてではないのだろう。やがて口から手を離すと、青年は軽く手を合わせて黙祷をささげ、その後、この村を守護する騎士団である“黒羊騎士団”の詰め所に、死体発見の報告に行った。









 この事件がこの辺鄙な村ではなく、貴族の屋敷の地下で終わることなど、思いもせずに







































 燃えている








 身体だけでなく、魂すら燃やす黒い炎が燃えている。







 ああ、これはいつも見ている夢だ。そう分かっているのに、炎はまるで現実のように身体に、魂に熱と痛みを伝えてくる。




 

 やがて、黒い炎は目の前で姿を変えていく。ゆらゆらとうごめく炎は、まるで人のような形を取り、あるはずのない目に憎悪をこめて、こちらを睨みつけてきた。





―殺したな、よくも殺したなー




 違う



―殺したな、何百人も殺したなー




 違う、殺してない




―殺して、犯して、お前にとっては他人など、どうせ虫けら以下の存在なのだろうー



 違う、そんなこと、思ったこともない



―なら、ならばなぜお前の手はー




 “僕”の、手は?





「なぜ、そんなにどす黒く染まっているのだ?」








「違うっ!!」

「何が違うんですか?」




 夢の中で聞いた声に、彼は寝所から飛び起きながら叫んだ。暫らくぜえぜえと荒い息を続け、それが収まるとぼんやりとした表情で壁にかかっている時計を見た。時刻は深夜二時を僅かに回ったところである。そのまましばらく時計を眺めていたが、やがてふっとため息を吐くと、横に眠っている少女が風邪を引かないようにそのむき出しになっている白い肌に優しく布団をかけなおし、栗色の髪にそっと唇を寄せた。んっとくすぐったそうに震える少女の首筋をやさしく撫ぜた後、少年は彼女を起こさないように静かに横たわり、再びゆっくりと目を閉じた。









もっとも、今度は明け方まで眠れなかったけれど




 












 帝都パンデモニウムの朝は早い。





 特に貴族街と十五マイル(一マイルはおよそ千メイル)の幅を持つ大河で分断されている、下町である職人街に住む帝国氏民達は、城の頂にあるクリスタルが淡い光を放ち始め、笑う紫の三日月が薄れる早朝にはすでに食事を済ませて仕事に取り掛かっており、街の真ん中を十字に走る道、通称職人通りでは、建設中の住居に使う木材を運んでいる筋骨たくましい大猿族や、牛乳屋を営む牛の頭部を持つ牛頭族の息子が古い朝の牛乳配達に出かける間を、大河に隣接している港に着く船の荷降ろしや最外城壁の外、中央平原の西部にある大規模な工業地帯で働く日雇いの労働者たちがのそのそと職場に向かって歩きながら、道の両側に出来ている屋台で昼食か、あるいは朝食を買い求めている。その労働者たちの横で、近くの鉱山から運ばれてきた鉱石を溶かしたどろどろの物体に向かって、四ッ腕族の青年が文字通り四本の腕を使って一心不乱に金槌を振るっており、彼のすぐ脇の道端では、出稼ぎに来た小鬼族がゴザの上に怪しげなまじないの品を載せて熱心に客引きをしていた。




「相変わらず混んでるなぁ」




 三年前に発明された蒸気馬車から降りて、職人街の入り口に立ったコールは足の踏み場もない中の様子を見てげっそりとため息を吐いた。商人街の出身である自分にとって朝の混雑はむしろ見慣れたものであったが、それでも職人通りの混雑は商人街の比ではなかった。もっともげっそりとしているのは依然ここに来たときに給料が入ったばかりで膨らんだ財布を掏られるという、騎士団に所属する衛兵としてはあまりに不甲斐ない事件があったからである(ちなみに、気に入っていたその財布はどぶに捨てられており、いくら洗っても臭いが取れないため一週間ほどふさぎこんでいた)。



「・・・・・・まあ、ここで悩んでいても仕方ないし、さっさと行こ」



 幸い目的の建物は入り口からそう遠くないところにある。だがその間、この混雑した通りを歩かなければならない現実に再びため息を吐いてから、コールは職人通りに向け、ゆっくりと歩き出した。









 職人街には商品の買い付けのために帝都内外からきた商人や地方の役人、旅人のために多くの宿屋があるが、その中でも老舗といわれている宿は職人通りの入り口付近にある「エミリアの宿」だろう。創業一万年を数え、帝国暦二万二千年に起こった「狼の女王の乱」、帝国暦二万五千年に起こった「千年戦争」、そして帝国歴二万年から始まった「大空位時代」と八百年前の「継承戦争」を経て、近年では六百年前に発生した「嘆きの大戦」による黒皇セフィロトの戦死と、その後の虐殺帝の時代を乗り越えた歴史ある宿屋であり、帝都新聞がアンケートを取ったところ、帝都にある万を越す宿の中でも、この宿は上位十位にランクインしている。なお、宿名であるエミリアというのは初代女将の名であり、新しく女将になる女性は代々この名を襲名していた。




  

 十三代目エミリアの娘であり、数年目に母が亡くなったことでその名を継いだ少女は、朝早くから誰よりも忙しく働いていた。一階の隅にある、夜遅くまで営業している酒場の床で眠っている常連客を叩き起こして追い出すと、騒ぎ疲れて一緒に眠っていたこの宿ただ一人の歌姫を起こし、痛んだ喉に良く効く金柑と蜂蜜を混ぜた飲み物を作って飲ませてベッドに放りこんだ後、今度は調理場に行き、無愛想だが腕の良い料理長である父が作った食堂で出す朝食の味見をしてその出来ばえに頷き、食堂のモップがけをしている数人の猫人メイドに指示を出して朝食を運ばせると、二階に続く階段の隅でモップを持ったままうつらうつらと軽く舟を漕いでいるつい先週新しく雇ったばかりの額に白い輪のような形の痣を持った、帝都では忌み嫌われている天族の少女の頭に被った布巾がずり落ち、天族の証拠である白い輪のような痣が半ば見えているのにため息を吐きつつ布巾を直してやり、ぽんっと彼女の肩を強めに叩いて起こした後、慌てる彼女に他のメイドと一緒に朝食を運ぶように指示を出し、自分も階段を降りかけたとき、所々服装が乱れている見知った衛兵が入ってきたのを見てため息を吐いて階段を昇りだした。どうやら一週間前から約束していた三階に住む恋人との午後の逢瀬はなくなりそうである。







 チチッ、チチチチッ





「・・・・・・ん」





 昨晩蒸し暑かったため、開きっぱなしにした窓に止まっている鳥の鳴き声で、アベルはぼんやりと目を覚ました。薄く開いた青い瞳で窓際を見ると、名前を知らない黒い小鳥が首をかしげながらこちらを不思議そうに眺めている。その愛らしさに微笑し、両手をベッドに置いてゆっくりと起き上がると、驚いて飛んでいった小鳥を少々未練がましく見送って、カチ、コチッと時を刻む柱時計を眺めた。三年前の蒸気革命で作られた時計は、製造当初は教会の鐘の音に慣れた氏民からは戸惑われていたが、今では生活に欠かせないものとなっている。今日は非番で、昼食をとった後エミリアと買い物という名のデートに行く予定だから、もう少し眠っていられる時間はあるだろう。






「もうちょっと、眠ろ・・・・・・かな」






 ぼんやりとした頭でそう考え、ベッドに身を投げ出し、再び目を閉じようとしたときである。




「アベルぅ、起きてるぅ?」

「・・・・・・ああ、起きてるよエミィ」



 廊下から聞こえてきた自分を呼ぶ愛しい少女の声に、どうやら非番ではなくなりそうだなと思いながら、アベルは軽くため息をついて起き上がった。

 




「おはようアベル、寝ぼすけさん」

「おはようエミィ、今日は確か非番のはずだけど・・・・・・それとも、まさか昨晩の“続き”がしたくなったとか?」

「おはようございます、エミリアさん」





 扉を開けて部屋の中に入ってきた愛しい恋人を抱きしめて、その頬に軽くキスをする。エミリアはもうっと言いながら、自分を抱きしめる少年の腕をぺしりと叩いたが、抜け出そうとはしなかった。




「残念でした、そんな時間ないわよ。下にコールさんが来てるの。緊急の要件なんですって」

「コールが下に? やれやれ、愛しい君との逢瀬を邪魔するほど緊急の要件なんて、一体何があったのやら」


 首を振りつつ名残惜しそうにエミリアから離れると、アベルは壁にかかっている黒い上着を手に取った。一度手でパッ、パッと埃を払ってから着ると、ベッドの横にある机の上に、無造作に置かれた黒い鞘に入った細身の剣を手に取り、ベルトについている金色の金具に引っ掛ける。


「じゃ、行ってくるよ。愛しのエミィ。ごめんね、今日は午後からデートだったのに」

「ううん、いいの。デートはいつでも出来るから。それよりお勤めがんばってね、黒羊騎士団特別分隊の、アベル分隊長さん」




 愛しい青年の唇に軽くキスをしてから仕事に戻ったエミリアを見送って、名残惜しそうに唇の周りをぺろりと舐めると、アベルは部下が待っている一階へと降りていった。










「まったく、いい加減宿舎に居てくださいよ分隊長。何かあった時、いちいち職人街まで呼びにくるこちらの身にもなってください」

「はいはい、悪かったよコール。けどさ、宿舎ってちょっと居心地が悪いんだ、僕。それで、一体何があったんだい?」

「あ、はい。今朝方分隊が担当している城壁外の地区において死体が発見されました。現場は畑を抜けた所にある川岸で、発見したのは黒紫こくし商会所属の自警団の方です。彼はすぐに分隊の詰め所に報告、副隊長の指示で自分は隊長を迎えに来たと、そういうわけです」





 宿を出てから二時間後、アベルはコールと共に大通りを進む蒸気馬車に乗りながら、通りの先にある、帝都を守り、帝都内外を隔てる壁でもある最外城壁、その正門へと向かっていた。




「まあ非番のときに出動なんて、げんなりする気持ちは分からなくもありませんけど。それでも隊長が遅刻したら、自分まで一緒に副隊長に怒られるんですからね」


 ぶつぶつと文句を言いながら、コールは宿でエミリアからもらった包み紙を開いた。中には黒毛牛の焼肉とレタスを挟んだ黒パンと、お茶を入れた水筒という帝国氏民には定番の朝食が二人分入っている。黒パンを一つ、向かい側に座っているアベルに手渡してから黒パンに齧り付いた。甘辛のたれがかけられた肉と、レタスをはさんだ黒パンの旨みが口の中に広がり、思わず顔が綻ぶ。





「しかしまだ着かないのかな、かれこれ二時間は座っているけど」

「むぐ・・・・・・無茶言わないでくださいよ。職人街から門まで一体どれほど離れていると思ってるんですか。歩けば二日以上かかる距離ですよ? 三年前に蒸気馬車が発明されて、やっと三時間ほどで行けるようになったんですから。まあ、“あれ”にはさすがにかないませんがね」





 コールと同様に黒パンを齧りながら愚痴るアベルに答えると、食べ終えたコールは路面馬車の窓から空を見上げた。クリスタルの光で薄い青色に輝く空にはいくつもの黒い物体が見える。あれこそ三年前に興った蒸気革命で生まれた傑作機。空を走る船、飛行船であった。




「しかし、何でこんな便利なものを今まで発明しなかったんでしょうか。人や馬がどんなに急いでも時間がかかるなら、それより速い乗り物を作ってしまえばいい、そんな簡単なこと、どうして三年前まで誰も思わなかったんでしょうかねぇ」

「そんなの僕に分かるわけないじゃないか。それより、うちも小型でいいから一隻欲しいねぇ、飛行船」

「無茶言わないでくださいよ。飛行船一隻で村ができるほど馬鹿高いうえに、一体どれだけ維持費がかかると思ってるんですか。一ヶ月の維持費だけで、一年間に十頭の軍馬を食わせていけるんですよ? 分隊の会計を任されている身としては、まったく賛成できませんね。そりゃ団長は城から支給された飛行船を持っておられますし、上級の騎士団に所属する騎士の方々、貴族街のお偉いさん方、それに商人街に住む、各都市に支店を持つ大商人といった方々なら個人で持っていますが、吹けば飛ぶような弱小騎士団の、しかも城壁外の集落の守備を担当するこんな分隊に飛行船が持てるわけないじゃないですか。まあ乗るだけなら簡単ですよ? 休日に遊覧飛行船にでも乗ってください。帝都の端から端まで黒銀貨一枚で乗れます。けど隊長が言ってるのは所有したいということでしょ? なら帝国軍に入るしかありませんね」


 コールの言う帝国軍とは、帝都守護を任務とする騎士団や衛兵、守衛、そして城壁外の集落がそれぞれ防衛のために組織した自警団とは違い、帝都のある中央平原と、それを囲む四つの広大な平原を守護することを任務とする帝都中央にある黒鳥城、その第六城壁内を本拠地とする軍隊である。総兵力一千万。最新の蒸気圧縮式の銃を基本装備とし、巡空艦を始めとして様々な種類の飛行船を持ち、数ヵ月後に行われる帝国暦三万年を祝う祝典では、これらの旗艦となる小型飛行船を百機搭載可能な超大型の装甲飛行空母がお披露目されるらしい。それらの財源は国費のほか、帝都パンデモニウムから五千マイル離れたところにある関所もかねた南部大要塞からの通行税、各都市からの駐留費や有力な貴族や商人からの投資、さらには七王国それぞれからの供出金であり、まさに黒界だけでなく四界最強といってもいい軍隊であった。またセフィロトが発した奴隷解放令により一万年に及ぶ奴隷の身からから解放され、虐殺帝レフィロスの時代に帝都内で再び始まった獣人族への迫害は、当時から軍では禁止されているため、虐殺帝の時代から迫害を恐れ、そして仕事を求めて入隊を志願する獣人族の若者は後を絶たず、この前あった友人である帝国軍の採用を担当している事務官は、休む暇がないと愚痴をこぼしていた。だが、





「いやだよ帝国軍なんて。規律が厳しいし、恋人との逢瀬を楽しめないじゃないか」

「・・・・・・はいはい、なら文句言わないで、黙って馬車に乗っていてください。門まではそろそろですから」

「分かったよ。けどさ、やっぱり帝都広すぎると思うんだけれど。最外城壁から中央の貴族街と隔てる大河まで徒歩で一週間かかるというのは、ちょっと広すぎじゃないかな」

「そんなの当たり前じゃないですか。ここ帝都と中央平原にいったい何人住んでると思っているんです。三千万ですよ三千万、最外城壁の外に住んでいる氏民を合わせると九千万、登録をしていない不法氏民を合わせると、実に一億以上が住んでいるんですよ? これでも狭いぐらいです・・・・・・ああ、見えてきました」




 上司の愚痴に適当に頷きながら話しているコールの目に凱旋門と、そのすぐ先にある、城壁の外に続く正門が見えてきた。






 蒸気馬車を降りたアベルとコールは、門をくぐるとそのまま塗装された道を歩き、およそ三十分後、木造の家屋が立ち並ぶ集落に着いた。城壁に囲まれていないこの辺りの集落は、城壁の中に住む人々から貧民街と呼ばれ蔑まれているが、それでも氏民に変わりはないということで約三年前、久しぶりに公の場に姿を見せたパールの命令で集落、そして職人街や商人街等で構成される下町を守護するための騎士団が新たに一つ作られた。その新設された騎士団こそ、アベルやコールが所属する黒羊騎士団である。



「おやアベル様、ご出勤ですか?」

「あ、アベル兄ちゃん、今度はいつ遊んでくれる?」

「ようアベル、また一緒に酒でも飲もうや」


「あ、み、皆ごめん、今は勤務中だから、さ」


 集落に入ったとたん、アベルは住民にすっかり取り囲まれた。だが動物の皮で作った服を着た、青年を取り囲む彼らの表情は柔らかい。帝都内に住む住民からは貧民街と呼ばれていても、この集落は洗濯屋や染物屋、都内の港に降ろしきれない荷物を一時的に降ろしておく河川に面した倉庫、夜遅くに到着した旅人用の宿屋や酒場、それに娼館とこれらを束ねる黒紫商会の本部があることから生活が比較的豊かということもあるが、それ以前に皆そろってこの青年が好きだからである。腰を打った老婆を背負って教会に運んでやったり、人手が足りないときは率先して家畜の世話や畑仕事を手伝ったり、夜は自分たちと一緒に酒場で騒ぐ。何事にも一生懸命な青年が、この集落に住む人々はたいそう気に入っていた。




 もっとも、違う意味で好きだというものも、もちろん居た。




「あ、アベルじゃない、待ってたのよ、今日は私のところに来てくれるのよね」

「なにいってるの、あんたのところには三日前に行ったでしょ、今日はあたしの番」

「あ、あのお姉さま、私もご一緒してよろしいでしょうか」



 取り囲む住民たちから何とか抜け出し、集落中でも一際活気に溢れた、黒紫商会が運営する宿屋や娼館が立ち並ぶ通りに来たときである。頭上から聞こえてきた甘い声に、二人はまた足を止めた。足を止めたアベルに、店の中から飛び出してきた娼婦が何人も抱きついてくる。彼女たちより年上の娼婦たちは抱きつかずに、だが抱きつくことが出来る彼女たちを羨ましげに眺めていた。





「ごめん皆、今日は仕事なんだ。また今度寄るから」

「そう、ごめんね。さ、皆、アベルちゃんを困らせちゃ駄目よ。戻りましょう」




 

 アベルがすこし困ったような顔をして謝罪すると、離れて立っていた年配の娼婦がパンパンッと手を打ち、青年に抱きついていた娼婦たちは皆えぇ、やら、きっとよぉ、などの甘い声を出しながら、部屋の中に引っ込んでいった。



「相変わらず娼婦たちに人気がありますね、隊長」

「うぅん、確かに彼女たちは娼婦だけれど、それ以前に皆僕の恋人だからね、人気があるとかないとか、そういうのとはちょっと違うと思うな」

「恋人、ですか。そりゃ、別に一夫一妻というわけじゃないですけど、随分と恋人が多いんですね」

「うん、三百人ほど・・・・・・って、何いじけてるのさ」

「ふん、ほっといてください」




 口を尖らせながら、コールは・・・・・・取引先の、何百歳も年上の商人との結婚がいやで実家を飛び出し、暴漢に襲われそうになったところをアベルに助けられたことが縁で分隊の衛兵となった、鼻の周りにそばかすが浮きでている栗色の髪を持つ少女は、衛兵に支給される銅で作られた兜の中で、いじけたように鼻を鳴らした。



「けどよくそんなに娼館に行くお金がありますね。お給料、そんなに高くないんでしょ?」

「うん、月に黒銀貨七枚だからね、皆無料ただでいいと言ってはくれてるんだけど、さすがに悪いし、一応借金という形にはなってるよ。ま、“副業”もしてるしね」

「ああ、隊内でうわさの・・・・・・あれ、本当だったんですね」

「まあ、うん」





 娼館が立ち並ぶ通りを抜け、両脇に作物が植えられた畑がある砂利道を話しながら歩くと、前方に目的地である川岸が見えた。遺体はもう教会に運び込まれ、代わりに何人かの衛兵や自警団の若者がいるだけだが、それでもここに遺体があったことに変わりはない。川岸に向かう二人は、いつしか会話するのをやめ、表情を暗くしていた。




「二人とも、遅かったな」

「あ、も、申し訳ありません、副長」

「ごめんクレア、ちょっと待たせちゃったかな」



 土手に到着した二人を見て、数名の衛兵兵と共に川岸にいた黒鉄製の甲冑に身を包み、右手に先端が鈍く光る槍を持った重騎士が声をかけてきた。アベル同様、黒羊騎士団特別分隊に所属するクレアという名の女騎士で、当分隊の副隊長であり、同時にアベルの相棒でもあった。


「ちょっとどころではないほど遅いぞアベル。門近くにある騎士団本部に隣接した宿舎からここまではこれほど時間はかからないはずだが? お前・・・・・・さては昨日勤務が終わった後、宿舎に帰らず、またエミリア殿の宿に泊まったな」

「あはは、まあ・・・・・・ね」

「宿舎の居心地が悪いのは分かるが、それでもお前は騎士、それも分隊を預かる身なのだ。しっかりしないでどうする」

「ごめんごめん、それより、亡くなった人はもう教会に?」

「ああ、運び終えた。今は遺留品の探索をしている。午前中のうちに見つかった遺留品はこちらにまとめているが、どうする? 確認するか」

「うん。それと、身元はもう判明した?」

「ああ、近くの娼館で娼婦をしているフィルナという獣人族の娘だ。年は三十八、二年前に娼婦になったばかりの少女らしい」

「フィルナ? それって、もしかして小麦色の髪をひとつにまとめている獣人族の女の子?」

「ああそうだ・・・・・・お前の恋人の一人か」

「うん。でも、どうして彼女がこんなことに」


 クレアと話しながら遺留品が置かれている籠に近づくと、顔を蒼白にしたアベルはしゃがみ込んで中を見た。黒羊の毛を編んで作られたポーチや、護身用の錆びたナイフが転がっている。アベルはその中からポーチを手に取り、中を改めた。財布代わりにしていると聞いたポーチの中には、しかし黒銅貨一枚入ってはいない。


「昨日はお仕事しなかったのかな? けど、それでも黒銅貨一枚入っていないというのはおかしいし・・・・・・ねえクレア、フィルナの死体を見たいのだけれど」

「分かった。なら教会に行くぞ。すまんがお前達、ここで遺留品の捜索を続けておいてくれ」

「そうだね・・・・・・コールもごめん、ここで皆と一緒に遺留品の捜索をしてくれるかな」

「あ、はい。畏まりました」


 とにかく死体を見ないことには始まらない。これから対面しなければならない恋人の遺体のことを思い、着いてこようとしたコールに謝罪の言葉をかけて引き止めてから、青年はふと、悲しげに俯いた。









「こんにちは、シスター」

「あらアベル様、クレア様もいらっしゃい。ご遺体は中にありますよ」



 土手から歩くこと二十分弱、丘の上に建つ教会にクレアと共にたどり着いたアベルは、すぐ傍らに並ぶ墓の手入をしている年老いたシスターに挨拶をしてから教会に入った。木造の、建築数千年を数える教会は壁や床の所々に穴が開いている。百年ごとに手入れはしているらしいが、それでも数千年を越すとさすがに所々ガタが来るようだ。


「ひっ、ひくっ、フィルナちゃん、何で死んじゃったのよぉ。もうすぐお金たまって、好きな人の所にいけるって言ってたのにぃ」

「泣かないでミリー、泣いてばかりじゃ、フィルナちゃんが生まれ変われないから、ね?」


 教会の中には、中央に置かれた棺にすがりつく二人の少女が居た。どちらも、死んだフィルナと同じ娼館で働いている獣人族の娼婦である。そして彼女と同様、二人もまたアベルの恋人であった。


「ミリー、イザベラ」

「あ、アベルちゃん、フィルナちゃんが、フィルナちゃんがぁ」

「うん、うん、分かってる、分かってるから」


 抱きついてくる恋人二人の背中を優しく撫ぜてやりながら、彼女らを慰めるように、アベルはポンポンッとその背中をなぜてやった。それが効いたのか、涙でくしゃくしゃになった顔をしながら、名残惜しそうに二人は青年から離れた。


「それで、君たち二人に聞きたいんだけど、最近フィルナに変わったことはなかった?」

「変わったこと? いや、いつもどおりだよ。勝気な性格で、客に対してはっきり文句を言うから、あまり稼げなかったのもいつもどおりさ」

「あ、けど私、何日か前に話してたのを聞いたことがあるんだ。なじみのお客さんの紹介で、お金持ちの家にお呼ばれするって。前金として、いっぱいもらったって言ってたよ」

「お金がいっぱいあった?」

「うん、ポーチの中を見せてもらったけど、黒銀貨が十数枚入ってた」

「そんなに・・・・・・」


 ミリーという名の娼婦が話した内容にアベルはふと眉をひそめた。騎士でり、分隊の隊長である自分の給料が月に黒銀貨七枚だから、十数枚というのはかなりの大金だった。それだけあればまず三ヶ月は遊んで暮らせる。慎ましやかに暮らせば半年はもつだろう。けれど確か、遺留品の中にあったポーチの中は空だったはずだ。フィルナは用心深い性格だから、稼いだ金を肌身離さず持っている。という話を、以前同衾したとき、アベルは当の本人から聞いていた。




「けど確かポーチの中は空だったはずだ。ねえクレア、フィルナの死因はなんだった?」

「・・・・・・獣の牙や爪によって傷を負ったことだ。野獣の仕業と判断したが違うのか?」

「まだ断定は出来ないけどね。でも、野獣がお金を奪うかな? それ以外に外傷はなかった?」

「いや、獣による傷以外には、特に目立つ外傷はなかったと思うが」

「そう・・・・・・けどやっぱり、一度死体を改めないといけないね」

「分かった。なら神父に話をして見よ・・・・・・む」


 鉄仮面を揺らして頷きかけたクレアは、次の瞬間振り向くと、黒鋼で出来た愛用の槍を突き出した。



「おっと、あぶねぇあぶねぇ」



 ガツンという鈍い音を立てて、槍が木製の床を貫く。同時にからからと笑い声がして、その横に酒瓶を持った老人が笑いながら降りてきた。





「またお酒ですか、神父様」

「ようアベル、当然だろう? 馴染みの娼婦が死んだんだ。酒でも飲まなきゃやってられねえさ」


 クレアの尻を撫ぜようとして迎撃された神父が、笑いながら酒瓶に口をつけて一気にあおる。それを見て苦笑しながら、アベルは棺の脇に近づいた。


「神父様、あの、フィルナの遺体を検めたいのですが」

「ん? ああ、分かってるよ。けど覚悟しろよ、本当に酷い状態だからな」


 不意に、神父は酒瓶を床に叩きつけた。ほとんど減っていない黄金色の液体が、瓶の破片と共に床に散らばった。それを見ることなく、笑みを消して真顔になると、神父は棺に近づいてしゃがみ込み、静かに十字を切ると、遺体にかぶせた白い布を剥ぎ取った。



「・・・・・・っ」

「「きゃっ」」

「くっ、何度見ても、これは酷いな」



 棺の中に収められた遺体を見て、娼婦二人は悲鳴を上げてアベルに縋り付き、クレアは仮面の中で顔を歪ませ、低い声で唸った。だが、生前彼女の恋人であるアベルは、顔を青ざめても悲鳴ひとつ上げず、縋り付いてくる恋人たちに優しく声をかけて引き離すと、かつては美しかった少女の、今はもう野獣の爪でずたずたにされた顔にそっと触れた。


「フィルナ、苦しかっただろうね、痛かっただろうね。君をこんな目に合わせたやつはきっと捕まえるから、だから・・・・・・魂よ、安かれ」


「・・・・・・魂よ、安かれ」




 帝国だけでなく七王国にて国教となっている、クリスタルを主神および太陽神として崇める以外は他の信仰に対して比較的寛容なアスタリウス教の死者に対する祈りの言葉を呟くと、背後でクレアが祈りの言葉を呟いたことに謝辞の意味をこめて目を伏せ、アベルはかつて恋人だった女性の遺体に触れた。


「確かに目立った外傷は獣の牙や爪による裂傷・・・・・・この傷の大きさで言うと襲ったのは大型の野犬が数匹といったところかな。全身傷だらけだけどそれでも特に首の傷が一番深くて酷いね。ということは、襲ったのはただの野犬ではなく、訓練された軍用犬という可能性もある。ほかには長時間川の中に居たことでふやけてしまった肌、それと・・・・・・ごめん」



 一度小さく謝罪の言葉を呟くと、アベルは遺体の下腹部に手を伸ばししばらく指を動かしていたが、やがてふっと疲れたように息を吐いた。


「昨日だけで、何人か客を取っている。これがミリーの言っていた、お金持ちが相手だとしたら・・・・・・後気になるところは別に・・・・・・ん?」





 遺体を一通り確認し、立ち上がろうとしたときだった。アベルの目に、ふと首筋に走る野獣の爪による傷が映った。立ち上がろうとした姿勢のまま、しばらく考え込んでいた青年は、ふとしゃがみ込むと、赤黒く変色した肉に指を這わせた。



「お、おいアベル」

「ごめん、ちょっと静かにして」

「あ、ああ」



 いつもはぽやぽやしている青年の珍しく真剣な表情に鉄仮面の中で微かに頬を紅くし、クレアは数歩ほど後ろに下がり木でできた壁に寄りかかった。アベルは彼女のほうを見ず、しばらく肉の間に指を這わせていたが、やがてふっと息を吐いて立ち上がると、棺にかかっている白い布を取って遺体に被せた。



「ありがとうございます、神父様」

「あ? 別に構わねえよ。それより検分は済んだか?」

「ええ・・・・・・クレア、急いで詰め所に行こう。ちょっと話したいことがあるんだ」

「詰め所に? 分かった」



「おらこのくそ神父、いつもツケで酒飲ませてるんだ。こんなときぐらい、ちゃんとしやがれ」

「わぁってるよ、いくら年がら年中酔っ払ってる俺でも、葬式ぐらいちゃんとやるさ・・・・・・とくに、それがなじみの女ときちゃあな」



 後ろでなじみの娼婦達とと神父が話すのを聞きながら、もう二度とフィルナの勝気な笑みを見れないという事実が今更ながら実感したアベルは、胸の中の暗い気持ちを吐き出すように息を吐くと、教会から外に出ていった。











「それで、遺体を見て何が分かった?」





 それからおよそ一時間後、集落の南東にある木造二階建ての建物の中で、アベルは鉄仮面を脱いだクレアと向き合っていた。彼ら特別分隊の拠点となっているこの建物は、元は裕福な土地持ち農民の家であったが、虐殺帝の時代重税を払えずに離散し、そのまま放置されていた建物を数年前に黒羊騎士団が徴収、分隊の詰め所として改築したものだった。現在ここに居るのは五名、騎士階級であるアベルとクレア、計算が出来、また字が上手いため会計と会議のときの書記、報告書の作成などの事務を一手に任されているコール、他に奥に作られた簡易の牢を見張る牢番の兵士と、牢屋の中にいる昨夜酔っ払って喧嘩した黒紫商会の下請けの店で荷運びをしている男だけだった。分隊には二十名ほどの衛兵が所属しているが、ここにいない衛兵は皆、死人が出たということでいつもより長めの巡回を行っている。



「じゃあ結論から言うね。この事件は野獣に襲われたものなんかじゃない。巧妙に隠された、残酷な殺人事件だ」



「・・・・・・」



 アベルが迷いなく言い放つと、彼の向かい側に座っているクレアは、きつく縛っている黄金色の髪から一房顔に垂れた髪を無言でかき上げた。




「・・・・・・殺人事件か、分かった。それでどうしてそう思った?」

「うん、まず遺留品からだけど黒羊の毛で作られたポーチの中は空っぽだった。けど教会で確認したのだけれど、フィルナは昨日何名かの男性の相手をしている。それにミリーは何日か前にポーチの中には十数枚の黒銀貨があったって言ってたよね。なのに空っぽというのはどう考えてもおかしい。部屋においてあるとも考えられるけど、彼女は用心深い性格だからお金は全部自分で持ち歩いていると見て間違いない」

「確かに野獣が金を奪うなど聞いたことがないからな。ということは物取りの犯行か? いや、なら野獣の爪や牙による傷はどう説明する? ただの物取りならば野獣を使う必要などないはずだ」

「・・・・・・それは、きっと殺害したのを隠したかったのだと思う。二年前職人街であった連続殺人事件のことは知ってるかな? 若い獣人族の女性が、何名も殺された事件」

「二年前か、当時私はまだ騎士養成学校を卒業したばかりだからな。詳しいことは分からないが、それでも凄惨な殺人事件についての話は耳にしていた。被害者は四名、その誰もが首筋を刃物で刺されて殺害されていたと・・・・・・おいアベル、まさか」



 少々顔を青ざめたその端正な顔を、クレアは目の前に座っている上司に向けた。



「うん。先ほどのフィルナの遺体、首筋の特別深く食い込んだ傷の中にほんの僅かだけど刃物と思われる刺し傷があった。恐らく刃物を突き刺した後野獣の牙が抉ったんだろうけど、刃物が犯人の想定より深く刺さりすぎたんだろうね」

「なら野獣に襲わせたのは刃物による傷を隠すためか? それとポーチの中が空だったのは物取りの犯行と思わせるため? いや、だが二年前の連続殺人事件では犯人は捕まったと聞いたぞ、そしてすぐに処刑されたとも」

「その犯人を逮捕した騎士がどの騎士団に所属していたか知ってる? “黒獅子騎士団”だよ。おかしいと思わないかい? なぜ貴族街を守護する二大騎士団の片方に所属する騎士が、わざわざ職人街に来て殺人鬼を捕まえるのかな? それに犯人についての情報はほとんど公表されていない。名前も顔も分からずただ処刑されたと報告され、それ以降事件は起きなかったから皆事件は終わったと思ったんだ」

「なら犯人は黒獅子騎士団の誰かということか? いや、あの騎士団に所属しているのはほとんどが貴族の子弟のはずだ。ということは、まさか犯人は貴族か!?」

「うん、確証はないけど僕はそう思う。第一彼女をずたずたにしたのはただの野獣じゃない。的確に急所を狙っている以上訓練された軍用犬だ。それも一匹じゃなく複数・・・・・・お金を持ってる人にしか出来ないだろうね」




 震えてくる身体をごまかすように叫ぶクレアの前で、アベルは青ざめた顔で僅かに、だが確かに頷いた。





 それからしばらく無言の状態が続いたが、木で出来た壁の隙間から風が吹き込み、机の上にある蝋燭の火を揺らしたとき、クレアは深々とため息を吐いた。



「まったく・・・・・・これはもう我々分隊の手には負えんぞ? 第一捜査の報告をしなければならん。今日はここに泊まり、明日朝一で本部に戻る。いいな、アベル」

「あ・・・・・・うん、まあ二年前の捜査資料も確認しないといけないからね、本当はあんまり戻りたくないけど」


「男の癖にぶつぶつと文句を言うな、いいから来い。コール、お前は出来れば今夜中に今回の事件に関しての報告書を作成しておいてくれ。ああ、それから今日は帝都に帰らずここに泊まっていけ。いくら衛兵であろうとも殺人事件があった日の夜だ。女の一人歩きでは何があるか分からん、いいな」

「あぁ、うん。分かった」

「は、はい。了解いたしました」

「よし、では今日の勤務は終了、各自武具の手入をした後、食事の準備に取り掛かれ、いいな」



 コールが敬礼したのとは逆に、上司であるアベルが心の底から嫌そうにしているのを見て、黒羊騎士団特別分隊副隊長を務めるクレアはあきれたようにため息を吐いた。












「あぁ、来ちゃったなぁ」

「何が来ちゃったなぁ、だ。いい加減に覚悟を決めろ、ばか者」

「ばか者って・・・・・・あの、皆出払っている可能性もあるし、今日じゃなくてもいいんじゃないかな」




 翌朝のことである。紫色に染まる笑う三日月が支配する夜が明け、クリスタルが再び輝き始めたころ、その光に照らされた門の近くにある石造りの建物を見てアベルは深いため息を吐いた。覇気などまったく感じられないその様子に鉄仮面の中で苦々しげな顔をしながら、隣に居るクレアは上司である青年の頭をぺしりと叩く。黒羊騎士団の本部であるこの建物は正門から程近いところに建っていた。帝国歴五千年ごろ、まだ帝国が中央平原にいくつもある小国であった頃に出城として使われていた建物を改築した物で、上級の騎士団本部のような華美はないが、数々の戦争に耐え抜いた建物はかなり頑強で、地上三階、地下二階とかなり大きい。建物の南には飛行船の発着場とそれに隣接して建てられた帝国軍の詰め所、帝都新聞の正門支社や食堂、大通りを挟んで向かい側には雑貨屋や武具屋、酒場があるほか、蒸気馬車が走る大通りの左右には無数の屋台が置かれており、小さな事件は日常茶飯事に発生しているため確かにアベルの言うとおり皆出払っている可能性があった。




「だからといって過去に起こった事件の記録までどこかにいくわけがないだろう。だいたい受付に誰かしらいるはずだ。とっとと行くぞ」

「はぁい・・・・・・はぁ、やだなぁ」



 ぶつくさと文句を言うアベルに業を煮やしたクレアが、青年の襟首を掴んで建物まで引きずっていく。その様子を見ながら、正門に立つ帝国軍帝都守備隊に所属する兵士はあくびをかみ殺しつつ、今日の昼食のことを考えていた。







「ねぇ、頼みますって。教えてくださいよグレイさん」

「いや、あのな記者さん、何度も言うが俺たちも知らないんだよ」

「へぇ、知らないってことは“上”の方で情報が操作されてるって、そう考えていいわけですか!?」

「あ、いや、そういうわけじゃ・・・・・・まいったな、こりゃ」




「・・・・・・これは一体何の騒ぎだ?」






 本部に着いたクレアは、入り口で起こっている騒ぎに眉をひそめた。門番は騎士団に所属する騎士が日替わりで行っているが、今日の当番である肌の上に緑色の鱗をびっしりと張り付けた竜人族の青年が、右腕に帝都新聞の腕章をつけた丸顔で頭の上に二つの半円の耳を持つ獣人族の少女に質問攻めになっていた。






「だから本当に知らねぇんだよ・・・・・・あ、クレアとアベルじゃねぇか。頼むから助けてくれよ」

「あれ、今日ってグレイが当番だっけ」



 さすがに本部まで引きずられていくわけには行かず、途中でいやいや歩き始めたアベルは、騎士団の中で比較的仲の良い竜人族の青年が門番をしているのを見て首をかしげた。



「グレイは第二大隊所属だよね。今月は確か第一大隊が門番の当番だったと思うけど」

「それがよ、第一大隊の連中昨日商人街で“終焉”は近いだなんて演説しやがった奴を捕まえるために、全員出払ってるんだわ。そんで第二大隊に門番の仕事が回ってきたんだけ「アベルさん!!」おい、まだ話してる途中だろうが!!」

「おはようございます、アベルさん」

「お、おはようウェンディ、きょ、今日も朝から元気だね」



 グレイと話をしているアベルに、先ほどグレイにしつこく付きまとっていた女記者が抱きついてきた。きらきらと輝く目でこちらを見上げてくる。会話を邪魔されてむっとしながらもようやく質問攻めから解放されて、グレイは首筋の鱗をぽりぽりと引っかいた。




「おいアベル、お前まさかウェンディにまで手を出したのか?」

「え? ち、違うよ。僕恋人が居る女の子には手を出さない主義だから」

「あ、おはようございますクレアさん。心配しなくても大丈夫ですよ。うち彼氏一筋ですから。アベルさんは確かにうちら獣人から見てもすごくきれいな顔してて、帝都新聞で働いている女の子の中にはあこがれてる子も何人か居ますけど、うち狸人族だからもっと丸っこいのが好みなんで。それよりアベルさん、この前の話考えてくれました? 帝都新聞企画“今月の騎士様”に、ぜひアベルさんの記事を載せたいんですよ。で、人気が出たらアベルさんの専用記事を毎週掲載したいんで、取材させていただけませんか!?」

「え、そ、その話なら前断ったと思うけど。僕なんて何のとりえもない男だし、ほ、ほら、僕よりもグレイのほうがいいんじゃないかな。力自慢だし男前だから、皆こぞって新聞買うと思うよ」

「えぇ、グレイさんですかぁ? 確かに竜人族というのは男の子に人気ですから記事にすれば売れると思いますけどぉ、今回の特別企画は主に若い女性を読者として想定してますので、やっぱり線が細くて綺麗で女性受けするほうがいいと思いますしぃ「いい加減にしろ、この馬鹿タヌキ」はぎゅっ!?」


 首筋に汗を浮かべながら記者の攻勢にたじたじになっているアベルを見かねてか、女性記者の頭をクレアはペシッと叩いた。


「何するんですかクレアさん、酷いですよぅ」

「ほう、酷いならなんだ。記事にでもするか? 暴力騎士という題名で。随分と売れるだろうな」

「え? い、いやだなぁ、く、クレアさんの記事を出すほど、うち“命知らず”じゃないですよ。じゃ、じゃあアベルさん、気が変わったらいつでも来て下さいね!!」

「た、たぶん気が変わることはないと思うけど・・・・・・って、もう行っちゃったし」




 クレアに怒鳴られたウェンディが、くるりと向きを変えて走り出し、すぐ近くにある帝都新聞の支社に駆け込んだのを見て、アベルはやれやれと首を振った。女の子が大好きで、皆幸せにしてあげたいと常々思っているアベルからしても、ウェンディは苦手な存在だった。




「やれやれ、助かったぜアベル、クレア」




「ん、それはいいけど、今日は随分しつこく質問されたね。何を聞かれていたの?」

「ん、ああ、あれだ。先月また出ただろ、“夜鷹よたか”だよ」




「「・・・・・・」」




 グレイが何気なく言ったその名にアベルとクレアは顔を青ざめ、互いの顔をちらりと見た。首筋をうすら寒い風が吹き、心なしか周囲の騒ぎが遠く彼方から聞こえるように感じられる。



 夜の鷹と書いて夜鷹。それは二年ほど前から貴族街を中心に活躍する稀代の暗殺者だった。分かっているのは闇夜に紛れて行動できるように漆黒の衣と、顔を隠すため逆立った皮膚を持つ、頬まで避けた黒く醜い鳥の仮面を被っているということだけである。何代か前の貴族院議長だったマーシナル侯を、五十の騎士と三百の衛兵に守られた屋敷の中で誰にも気づかれることなく、彼ただ一人を殺すことに成功したことで一躍有名となり、それから数ヶ月に一度貴族街を中心に貴族たちを殺害している。今まで二十名を超す貴族が暗殺されており、貴族街を守護している黒獅子騎士団、黒竜騎士団の二大騎士団が血眼になってその行方を追っていた。


「えっと、先週殺害されたのはバリマンド男爵だっけ」

「そ、あの死体食いバリマンド。十年前領地が飢饉になったとき、飢える領民を尻目に自分だけ帝都の邸宅でばくばく飯を食って太ったことを自慢したことからその名がついたらしいんだけど、まあ自業自得だな。夜鷹が殺さなくても最近公都で噂されてる革命団とやらが倒したと思うぜ」

「革命団って、たしか貴族は不当な利益を得ているとか、皇帝陛下を倒せとか騒いでる連中だよね? みんしゅ・・・・・・しゅぎ、だっけ? よく分からないんだけど」

「そんな物俺だって知らねぇよ。ま、貴族がどうこう言うのは別にどうでもいいが、皇帝陛下に対しての侮辱は許せん。奴らが帝都まで押し寄せてきたら全員これで叩きつぶしてやる・・・・・・おっと、話が長引いたな。入れよ、今なら第一大隊の連中は居ないからさ」

「う、うん。グレイも門番がんばってね」



 愛用の戦斧を肩からはずして威嚇する、皇帝パールの熱心なファンである同僚に頷きながら、先に入ったクレアを追いかけ、アベルは黒羊騎士団本部へと足を踏み入れた。






 騎士団本部に入るとアベルはまず左右にいくつか部屋がある一本道を歩き、正面にある受付に向かった。受付の奥には騎士団に二人居る副騎士団長の執務室が、左右には資料室と食堂があり、すぐ横には牢屋と倉庫がある地下と、騎士たちの仮眠室などがある二階に続く階段が見える。





「おはようアベル。何日ぶりかしらね」

「おはようエリス。えっと・・・・・・たぶん、三日ぶりかと思うけど」

「残念、五日振りよ。私からは何も言わないわ。けど、後で団長か副団長からお説教を受けるのは覚悟しておくことね」

「う・・・・・・はぁ~い」




 受付にたどり着いた自分に、先に着いたクレアと話をしている受付嬢のエリスが声をかけてきた。風精族である、アベルの太ももまでの大きさしかない彼女は、ふわふわと浮かびながら小さい手でノートに何かを書き込んでいた。




「さて、先ほどクレアから話は聞いたけど、二年前に発生した連続殺人事件についての捜査資料が欲しいのよね。ちょっと待て、確か資料室にあるはず「ふん、やっと来たか」・・・・・・あらら」


「・・・・・・げ」



 アベルに微笑んだエリスが、ふわふわと漂いながら資料室へ向かおうとしたときだった。受付の横にある扉がバンッと音を立てて開き、中からローブに身を包んだ白髪の男が出てきた。もう九百歳を越す年齢のはずなのに、鋭い眼光はまったく衰えた様子がない。



「い、居たんですか、パーシヴァル副団長」

「第一大隊がもう一人の副団長ごと出払っているでの。責任者がまったく不在というわけにも行くまい。それよりアベル、おぬし今まで一体どこに居た? 五日の間、此処にも宿舎のほうにも顔を出さなかったようだが」

「え、えと、集落にある詰め所のほうに居ました」

「五日の間ずっと居たというわけでもあるまい。夜はエミリア嬢の宿に泊まっていたな」

「え、えっと、その・・・・・・でも、どうせ僕なんて、ここにいないほうがいいと思うし」

「たわけものっ!!」




 かつて団長と共に嘆きの大戦に参加し、終戦後故郷に戻って妻と共に隠遁生活をしていたが、三年前に呼び戻されて黒羊騎士団の副団長となった魔導師に睨まれ、弱弱しく言い訳した青年の頬をパーシヴァルは強く張った。


「なぜお主はそう卑屈になるのじゃ。なぜ奮起し鍛えようとせぬ。まあ今回の件はこれで不問にしておく。いきなり頬を張ったわしも悪いからの。それより今日来たのはそなたの分隊が担当している地区で発生した殺人事件についてか?」

「相変わらず地獄耳ですね・・・・・・はい。ちょっと気になることがあったので、過去の資料を見てみようと思って」

「ふむ・・・・・・まあまずは報告じゃ。その内容によって、資料を閲覧する許可を出すかどうか判断しよう。分かっているとは思うが、資料の中には閲覧できぬものもあるからの」

「あ、はい。じゃあ昨日分かったことですけど」


 

 頬をすこし紅くしたアベルが話す内容を聞く老人の顔が、次第に険しいものに変わっていくのを見ながら、クレアはコールが昨夜徹夜してまとめてくれた資料を手提げ鞄から取り出した。



「なるほどの、野獣に襲われたかに見えてその実入念に計画された殺人事件か。しかも物取りの犯行に見せるため、被害者の金銭まで奪っておるとは・・・・・・強盗殺人、極刑物の犯罪じゃな。しかも貴族が犯人かも知れぬとは。アベル、なぜそう考えた?」

「あ、はい。今のところ、理由は三つあります。まず殺人を隠すために使われた野獣ですが、恐らく訓練された軍用犬です。確かにフィルナ・・・・・・被害者は一見すると、全身がずたずたに引き裂かれていますが、よく見ると首など急所の傷が一番深く、他の傷はその部分を隠すため、あえてあとから傷をつけたと考えます。そして、それは訓練された軍用犬にしか出来ないと判断しました。第二に、彼女が発見されたのが、川岸というのが気にかかるんです。川岸の上流は城壁の内部にある大河につながっています。ですが、下層地区側の土手には氏民が入れないように、港以外の場所には鉄の柵が設けられており、また、港には昼夜問わず騎士や衛兵が巡回しているため、まず死体を投げ入れることなんて不可能です。ですが、逆に貴族街なら、鉄の柵も張り巡らされていないし、死体を投げ入れるのも楽かと思いました。そして最後に、首筋に付けられた傷が、二年前に起こった連続殺人事件と同様のものだったためです。二年前、殺害された被害者は皆女性で、首筋を刃物で刺されて殺害されています。この事件は職人街で起こったのですが、なぜか貴族街を守護するはずの黒獅子騎士団が捜査を始め、こちらの捜査が難航していたにもかかわらず、すぐに犯人を捕え、しかも裁判なしで処刑しています。ですから」



「二年前の犯人は貴族で、黒獅子騎士団が捕えて処刑したのは替え玉だった、というわけじゃな。それは確かに当時の事件に関する資料が必要じゃの・・・・・・分かった。エリス、すまんが資料室から二年前に発生した連続殺人事件に関しての調査資料を探して持ってきてくれ。恐らく一番奥の棚にあるはずじゃ」

「は、はい、了解しましたぁ」



 ふわふわと浮きながら彼らの会話をノートに書き写していたエリスは、突然名を呼ばれてびくりとしながらも、叱られる前に資料室へと駆け込んでいった。これで、少しは捜査が進展するはずだ。そうアベルは思った。だが、



 十分後、資料室から出てきたのは、困惑した表情で、手には何も持っていないエリスであった。




「ん? どうしたエリス、場所が分からなかったかの」

「え、え~っと、副団長、そのぅ、二年前の捜査資料が収めている棚を見たんでどぉ、なかったんですよ、資料」

「・・・・・・は? そんなわけないじゃろう、あれは持ち出し禁止の資料じゃぞ?」

「け、けど本当にないんですよ、二年前に発生した、連続殺人事件ですよね、黒獅子騎士団が解決したっていう、それだけすっぽりとなくなってるんです」

「ううむ、アベル、ちょっと待っておれ」

「え? は、はい」



 アベルに待つように行ってから、パーシヴァルはエリスと共に資料室の中へ入っていく。だが、ほんの数分で戻り、むっつりと近くの椅子に腰を下ろした。


「確かに、ない。だがどういうことじゃ、なぜ今回の事件に関する資料だけが喪失している? これではまるで、今回の事件が、二年前の事件の続きだといっているようなものではないか」

「あ、あの、副団長、それって」

「・・・・・・む、ああ、すまぬ。まあ、資料がなくなってしまったのはどうしようもないからの・・・・・・ええいいたし方がない。アベルよ、おぬし今から城に行って来い」

「え・・・・・・城、ですか?」


 パーシヴァルの言葉にぽかんとした表情で、アベルは脳裏に城、と名の付く建物を思い浮かべた。だが、どう思い浮かべても、帝都で城といえば一つしかない。すなわち


「えっと、それってもしかして貴族街を抜けたところにある、皇帝陛下がお住まいになられている黒鳥城でしょうか。けど貴族街に入るには、騎士といっても許可が必要じゃなかったでしたっけ」

「それ以外に、帝都で公に城と名の付く建物があるか? 捜査資料および報告書はいつも二部作成されておる。ここに保管しておく資料と団長が城の執務室で目を通すため作成される資料じゃ。どちらも内容はまったく同じじゃからな、城にある団長の執務室に行って捜査資料を見せてもらえ。貴族街に入る申請と、南にある飛行場から貴族街に向けて発進する飛行船のチケットの手配はしておく。許可はすぐに下りると思うから先に宿舎に行って礼服に着替えて来い。アベル、靴とズボンの裾に泥が付着しておるぞ」

「え? あ、ほんとだ。すいません、すぐ着替えてきます」

「うむ、ああ待てアベル、髪が跳ねておる。まったく、もう少ししっかりせぬか。小遣いは足りておるか? 給料の前渡しは出来ぬが、幾らかなら融通してやるぞ。しかしそれ以前にお前は細すぎじゃ、ちゃんと食べておるのか?」

「え、まあ、大丈夫です、はい。じゃ、じゃあ宿舎で着替えてきますね。クレアはどうする?」

「私か? 副団長、私もアベ・・・・・・隊長に同行しなければなりませんか?」

「ふむ、アベル一人ではちと心細ないからの。まあ、“里帰り”も含めて同行してくれ」

「は、分かりました。ほら、さっさと行くぞ隊長」

「あ、うん。って、ちょっとまた引っ張るのクレア? 痛い、痛いって、自分で歩くから、いたたたたっ!!」





「・・・・・・やれやれ、相変わらずクレアはアベルに厳しいの」

「そうですか? じゃれあってるだけかと思いますけど。けど、副団長ってアベルさんには甘いですよね。さっきのやり取り、まるで孫を甘やかすお爺ちゃんって感じでしたよ」

「・・・・・・」


 

 アベルの襟首をつかんで引きずるように外に出ていったクレアとアベルを眺め、パーシヴァルが深々と溜息を吐くと、すぐ隣でエリスはくすくすと笑った。風精族にはいたずら好きな性格をしている者が多く、その例に漏れずエリスもいたずら好きで、楽しいことが好きな性格だった。だから彼女にしては軽口のつもりだったのだが、彼女にとって誤算だったのは、怒りかそれとも恥ずかしさのためか、パーシヴァルが顔を赤らめたことである。



「・・・・・・そういえば、資料室はそなたの管轄じゃったの、エリス。なのに資料が紛失したことに気づかんとは・・・・・・こりゃちょっと説教が必要かの」

「え? い、いやですよ説教なんて、って、ちょっとどこにつれてく気ですか、いやぁ、犯されるぅ!!」


 ごちんっ



 わめき散らすエリスの頭に容赦なく拳骨を落とすと、パーシヴァルは彼女を連れて執務室に入った。それから一時間の間、執務室からはがみがみと怒鳴る声が途絶えることはなかった。





「では、一時間後に待ち合わせということでいいな」

「あ・・・・・・うん。じゃあ、ね」



 本部に隣接している宿舎の前で、襟首が伸びた上着をはずしたアベルは、同じく鉄仮面をはずしたクレアと向き合っていた。詰め所では同じ部屋にカーテンで仕切りをして泊まった二人だが、宿舎は男性宿舎と女性宿舎に分かれている。先に女性宿舎に入ったクレアを見送ると、アベルは重々しくため息を吐いて宿舎の中に入った。そのまま二階に続く階段を重い足取りで俯きながら上がり、右奥にある部屋の前に立つ。



「・・・・・・ああ、やっぱりやられてる」



 目の前の扉を見て、アベルは悲しげにため息を吐いた。扉には、赤いペンキで大きく「恥知らず」と書かれている。それ以外にも、「死ね」やら「クズ」やらの言葉が、木製の扉をナイフで削って刻まれていた。


「自分がクズなのは、自分がよく分かってるよ」


 暗い顔でぶつぶつと呟きながら、上着の胸ポケットから鍵を取り出して施錠した扉を開け、中に入る。さすがに扉を壊してまで中には入らなかったのか、部屋の中は数日前のままだった。壁際にあるベッドとタンス、向かい側にある机、机の上には、何冊かの本が置かれているが、それはほとんどがナイフで切り刻まれており、何も読めなかった。なるべくそれを見ないようにしながら、俯いてベッドに身を投げ出す。ボスンと自分を受け止めたベッドは少々埃っぽい。本来なら清掃をする召使が居るのだが、以前部屋の中をあらされ、服も下着も何もかもびりびりに破かれてからは鍵を変えて、自分以外誰も入れないようにしていた。




「どうせ・・・・・・ふんっ、どうせさ」




 ベッドに顔をうずめたまま、しばらくいじける。五分ほどそうしていただろうか。昨晩壁の隙間から聞こえてくる風の音であまり眠ることが出来なかったアベルは、いつしか薄い眠りに落ちていた。












―殺したなー




 殺してない




 浅い眠りの中、アベルは一人、漆黒の闇の中にたたずんでいた。聞こえてくるのは、相変わらず無数の呪詛の言葉である。




―殺したな、殺したな、特に理由もなく、殺さなくてもいいのに、殺したなー



 違う、僕に誰かを殺す力なんてない



―いいや、お前は殺したんだ、その手で、その足で、残酷で、残虐に、何百人もの人々をー





 違う、そんなこと、僕はしていない





―ならば、なぜお前はー





 僕、は?






「私を、助けてくれなかったの?」




 闇は、小麦色の髪をきつく縛った、体中に野獣の牙で抉られて、水でふやけた肌をした少女の姿で、青年をじっと見つめた。












「そろそろ起きたほうがいいですよ?」


「っ!!」





 耳元で微かに聞こえた、無邪気に邪悪な誰かの声に、アベルははっと目を覚ました。眠ったはずなのに、まったく疲れが取れていない。いや、それだけではない。体中酷い脂汗をかいていた。頭を持ち上げて壁にかかった時計を見ると、眠ってから十分と経過していない。待ち合わせまで、まだ三十分以上時間があった。




「・・・・・・まあ、遅れるよりはいいかな」




 今はこれ以上眠っていたくない。ならさっさと着替えて外でクレアを待つべきだろう。小さくため息を吐いてから上着を脱ぎ、ワイシャツのボタンをはずしてベッドの上に放り投げ、その下に着込んだシャツを脱ぐと、彼の引き締まっているというよりはやせ細ってすべすべと滑らかで、ほとんど筋肉が付いていない初雪のような真白な肌があらわになった。女性だけでなく男性すら魅了するこの肌を、たとえば飲み友達である黒獅子騎士団に所属しているウォレスなんかは羨ましいといってべたべた触ってくるが、本人からしてみればどれほど鍛錬をしても日焼けするどころか筋肉がほとんど付かず、頑丈な甲冑を身につけることが出来ず、最前線で戦うことが出来ないこの身体は、厄介以外の何物でもなかった。



 白い肌の上に浮き出た脂汗をふき取り、タンスから別のシャツを出して着ると、黒の布地に金の装飾が施された、思い出したくもない騎士就任式の時に一度着ただけの第一種礼服を取り出し、その埃っぽさに顔をしかめながら袖を通した。




「じゃあ、行ってきます、養母さん」




 着替え終わると、アベルは机の上に置かれた、騎士団に入団する際に家族とともにとった点刻写真に目を向け、この部屋に入って初めて軽く微笑して、部屋を出ていった。













だが数分後、青年はせめて後十分遅く出るべきだったと後悔することになる。










「・・・・・・・・・・・・」



 宿舎の玄関で立ちすくみながら、アベルは先ほどタオルで拭いた汗が流れ出すのを感じた。宿舎を出ようとした寸前、逆に宿舎に入ってきた第一大隊に所属する騎士と鉢合わせしたためである。




 先頭にいるのは、彼がもっとも苦手としている相手だ。黒羊騎士団第一大隊第二中隊長を務めるカナンである。筋骨たくましい浅黒い肌を持つ美丈夫で、背中に一対の黒い大きな翼を持つ有翼族といわれる種族であり、数百年前に南方三ヶ国の一つ、南西にある大国ヨトゥンヘイムより移民として帝都に来て、現在貴族院議員を勤めるレーベント伯の次男である。その後ろに続くのは第二中隊の小隊長たちだ。第一小隊長のルドン、第二小隊長のモーガン、第三小隊長のマース、皆それぞれ下級ではあるが貴族の子弟で、カナンの腰巾着をしていた。



 見たくも会いたくもない相手であるが、それでも上官であるため敬礼をしなければならない。通路の端に寄ると、アベルは直立不動のまま右手を上げて敬礼した。それに対する返礼はない。カナンはむっつりと、それに続く三名はわいわいと騒ぎながら彼を無視して通り過ぎていく。返礼をしないのは無礼ではあるが、アベルは怒るよりむしろほっとした。だが、






「・・・・・・臭い」

「おや? 隊長もそう思われましたか」

「そうそう、なにやら臭いますな。まるで下水から彷徨い出たドブネズミのようなにおいだ」

「それも、恥知らずで身の程知らずな、クズのドブネズミのね」




 階段のところで彼らが話す内容が、今まさに宿舎を出ようとするアベルの耳に入ってきた。おそらく、わざと聞こえるように話しているのだろう。足ががくがくと震える。白い肌がますます白くなり、白を通り越して青ざめる。奥歯がかみ合わずがちがちとなる。振り向けばこちらを見下して笑っている四人がいるに違いない。だから振り返らずさっさと行こう。そう思って一歩踏み出したとき、







「しかしドブネズミの巣に入るとは、クレアも堕ちたものだな」



 

 その足が、ふと止まった。



「あ、あの隊長、さすがにクレア様に対してそのような事は」

「そ、そうそう、まずいですって」

「何がまずいだ。こちらが誘ってやったのにもかかわらず、ドブネズミのほうを選んだのだぞ? “侯爵令嬢”ともあろう者が」

「いやいや、さ、早く行きましょう、隊長」




 カナンの発言に、彼の腰巾着があわてて制止した。だがその声はアベルの耳には届いてはいなかった。自分がいくら侮辱されても、彼には耐えることができた。けれど仲間の、およそ二年前誰も部下になってくれずにふさぎこんでいた自分に声をかけ、初めての部下になってくれたクレアの悪口だけは、どうしても許すことはできなかった。




 再びがくがくと足が震える。しかし、今震えているのは怒りのためだ。殴りかかりそうになる右手を左手で押さえるが、それもいつまで耐えられるか分からない。だが、ここで彼らに殴りかかっては、自分が首になるだけではない。クレアにだって迷惑がかかる。そう言い聞かせながら、歯を食いしばって必死に耐える。







「どうせ父親が誰か分からぬ女だ。さすが売女の血を引いているといったところか」







 しかし、もう限界だった。押さえつけていた右手が刃のない儀仗剣の柄にかかる。そのまま振り向いて剣を抜こうとしたときだった。




「ふん、早いなアベル。いつもこの調子だといいんだが」

「あ・・・・・・クレア」



 その右手に、小さな手が触れた。青年がはっと顔を上げると、そこには重い甲冑ではなく、登城のための礼服に身を包んだ少女の姿があった。いつもきつく縛られている髪が柔らかく解かれ、ポニーテールにした金色の髪が風に揺れている。



「儀仗剣に手を置いて何をしている。鍛錬でもするつもりだったのか? ならこんな場所でせず、本部の地下に設けられた訓練場でやれ。付き合ってやるから・・・・・・しかしまあ、馬子にも衣装といった感じだな」

「うるさいな、どうせ似合わないよ」

「別に似合っていないといっているのではない。着こなしていないという意味で言った。それより早く行くぞ。今からなら蒸気馬車に乗らずとも、走れば発着時間に間に合うからな」

「え、あ、ちょっと引っ張らないでよクレア、自分で走るってば」



「・・・・・・くそが」




 二人がじゃれ合いながら走り去っていくのを見送った後、眉間にしわを寄せたカナンは、面白くもなさそうにはき捨てた。


「あ・・・・・・あぁそうだ隊長、酒場にいい娘が入ったんですよ。どうです? 午後からは休暇を取っていきませんか?」

「そ、そうですよ。朝早くからの出動で大変だったでしょう? 本部に報告したら、休みを取って早速行きましょうって」

「・・・・・・」


 腰巾着のルドンとモーガンが、不機嫌そうなカナンをなだめながら二階へとあがっていく。その様子を眺めながら、最後に残ったマースは階段を登らず、一人外へと出て行った。
















 その様子を見ながら、クリスタルの光に照らされた黒界の、黒い空に浮かぶ薄い紫色の三日月は笑う。ケタケタ、ケタケタ、ケタケタと。まるで、自分が見下ろしている人々をあざ笑うかのように。

















「はぁ、やっと着いた」

「まったく、ぎりぎりだったな」





 飛行船が離陸する、ほんの数分前に駆け込んだアベルとクレアは、眉をひそめてこちらを見る、いかにも高級なのがわかる格好をした人々の脇を通り抜け、本部で頭にたんこぶを生やしたエリスから渡された飛行船のチケットに書かれた番号がついている席に坐り、ほっと一息ついた。


「やっぱり蒸気馬車を使ったほうが良かったんじゃないかな・・・・・・えっと、あと五分で離陸、三十分ほどゆっくり飛行して大河を抜け、貴族街南部の発着場に着陸するんだっけ」



 貴族も搭乗するため、速度を出さずゆったりと飛行する飛行船だと、貴族街までどれぐらいの時間で到着するかを頭の中で計算しながら、アベルは確認の意味も含め、クレアにこれからの予定を尋ねた。



「ああ。その後馬車を使って城まで行き、黒鳥城の中にある団長の執務室に行って資料を拝見するだったな。終わるのは夜になるか」

「別に一泊してもいいけど。お金、ちゃんと持ってきたから」

「あのなアベル、貴族街にある宿が一泊いくらすると思ってる。最低黒金貨七枚、黒銀貨だと七百枚だ。しかも夕食と朝食の代金は別だぞ。少なくとも食事だけで黒金貨五枚は取られると思え」

「え? そ、そんなにかかるの? どうしよう、僕そんなにお金持ってないよ。帰りの飛行船って、明日の朝の便だよね・・・・・・野宿でもしようかな」

「不審者と間違えられたらどうする。けどお前の場合不審者というよりだ・・・・・・まあいい。安心しろ、ただで泊められる場所に連れて行ってやる。たまには顔を出さなければならないしな」

「え? 何か言った?」

「いや、何も」




 飛行船のエンジンが点火し、音を立てて空に浮き上がる。その音でクレアが最後に言った言葉がかき消され、アベルは首を傾げたが、当の本人は僅かに紅く染まった顔でそっぽを向いただけだった。





 三十分ほどの空の旅はあっという間に終わった。巡回している軍の飛行船と時折すれ違い、黒鳥の群れが大河の上を一列に飛んでいくのを見て目を輝かせ、クレアが昼飯だと渡してきた包みの中にある黒パンをかじり、中に入っている野菜や肉の、幾分しょっぱ“すぎる”味付けに首をかしげながら食べているうちに、飛行船は大河を越え、高度を降ろして貴族街の発着場に降り立った。船体の横にある扉が開き、係員が装着した鉄製のタラップの上を歩きながら、アベルとクレアはほかの乗客と共に地面に降りた。



「やれやれ、ようやく揺れていない地面に立てるな」

「クレアって相変わらず飛行船が苦手だね。けど、こっちに来るのはこれで三度目だけど、下町にある発着場とは相変わらず違うねぇ」

「それはそうだろう。帝都人口三千万のうち、貴族の数は僅か二百万だ。それなのに向こうの二倍の広さの発着場では、閑散としているだろうさ」






 がやがやと騒がしいが活気に満ち、帝都内外から来たさまざまな種族が入り乱れた向こうの発着場とは違い、もし足音がしたら建物の外まで聞こえるのではないかと思うほど静かな発着場の中を、アベルとクレアは小声で話しながら外へ向かっていた。その間、二人は何名かとすれ違ったが、彼らは皆自分たちと同じ黒界人か、それとも黒い翼を持つ有翼族で、下町のように様々な種族はいなかった。二代前の皇帝セフィロトの治世の際には貴族や騎士、商人や職人問わず大勢の人々が住んでいたが、虐殺帝が推し進めた排他政策により、ここにはもはや貴族とそして彼らに仕える者しか住んでいない。発着場の外に出ようとした彼らを引き止めたこの衛兵も、おそらく貴族にいいところを見せようとしたのだろう。



「えっと、何かな」

「貴様ら、ここをどこだと思っている。貴族街だぞ?」

「え、あの、でも入る許可は取っていると思うんだけど」

「ああ、連絡なら二時間ほど前に来た。当騎士団に所属する騎士を二名、公務により貴族街に立ち入らせたし、てな。けどそれが弱小騎士団の、しかもお前だとは聞いていないぜ、ええ? アベルさんよ」

「えっと、何処かであったっけ?」

「はぁ? 覚えてないか? ま、さすがに騎士様は違うねぇ。けどこっちはちゃんと覚えてるぜ? 何せ歴代さ「おい」あ? 誰だ・・・・・・って、あ、あなた様は!?」



 にたにたと笑いながら、青年に槍を向けて後ずらせていた衛兵は、突然声をかけてきた少女をにらみつけたが、それが誰かわかると、急にがたがたと震えだした。


「お、お許しください。まさか、あなた様までいるとは思わず」

「ふん、ならば今度から、アベルの側には常に私がいると思っていることだ。貴様、貴族街、しかも発着場を守護する衛兵が、私の上司を侮辱したと上の方々が知ったら、どうするだろうな」

「お、お許しください、そんなつもりは」

「あ、あの、クレア、僕なら大丈夫だから」


 衛兵に凄んで見せたクレアは、だがなだめるように声をかけたアベルを見てふんっとかわいらしい鼻を鳴らすと、さっさと行くぞ、という風に青年の手を握り、今度こそ外へ出て行った。




 がたがたと震える、ひとりの衛兵をその場に残して。




「いいのクレア、あんな事いって」

「別にいいさ。奴にとってはいい薬だ。それに変わり映えしないこちらに、そう何度も来たいとは思わん。名前も知らず会うこともない衛兵になんと思われようと痛くもかゆくもない」

「そう、やっぱり強いね、クレアは」

「私など強くもなんともないぞ。私なんかより、お前のほうがよっぽど「え、ごめんクレア、何か言った?」・・・・・・別に、なんでもない」



 蒸気馬車が止まる音で、ぼそぼそとつぶやいていたクレアの声は簡単にかき消された。問い返すアベルにむっとしたクレアの目に、先ほど停止した蒸気馬車が目に留まる。




「う、これは」

「お迎えにあがりました、お嬢様。お久しぶりでございますね、アベル様」







 彼女にしては珍しく汗を流している間に路蒸気馬車の扉が開き、中から人の良さそうな笑みを浮かべた初老の執事が降りてきた。アベル達を見て柔らかな笑みを浮かべると、胸に手を当ててゆっくりと一礼する。



「あ、ピエールさん、お久しぶりです」

「ぴ、ピエール、お前なぜここに」

「はい、今朝方パーシヴァル殿よりお嬢様がこちらに来られると連絡を受けまして、午前の最後の便が到着するのにあわせて馬車を手配させていただきました。なんでも公務で城までいかれるとか。さ、お乗りください」

「いらん。いいかピエール、私は騎士だ。いつまでも家を頼りにするつもりはない。さっさと帰れ」

「そうですか、ではいたし方ありませんな。このピエール、皺腹を掻っ捌いて奥様にお詫びするといたしましょう」

「え、えと、その・・・・・・ああ、そういえば今あんまり持ち合わせがないんだっけ。ね、クレア、お言葉に甘えて、馬車を使わせてもらおうよ」

「・・・・・・確かに貴族街の蒸気馬車は、黒銀貨五十枚はかかるからな。お前にそんな金が払えるとは思えん。私が都合してやろうと思ったが・・・・・・わかった。ピエール、馬車を使わせてもらうぞ、早くその皺腹を引っ込めろ」

「はい、かしこまりました」


 燕尾服を脱ぎ捨て腹を出し、どこからか取り出した短剣で今まさに切腹しようとした老執事を見て、慌ててアベルがクレアに提案すると、彼女はしぶしぶといった風にうなずいた。それを見て、一瞬で元の服装(本当に一瞬で、アベルには彼がどう着替えたのか、さっぱりわからなかった)に戻ったピエールに促され、二人は帝国の象徴であるクリスタルが描かれた馬車に乗り込んだ。





「・・・・・・」



 二人が路面馬車に乗り込んだのを、発着場の裏に潜んでいたその男はじっと眺めていたが、やがて“彼”から言われた任務が失敗したことを悟ると、舌打ちをしつつ、ゆっくりとその場を離れていった。











 発着場から城までは蒸気馬車を使っておよそ三時間で着く。城に到着するまでの間、ピエールの給仕を受けて、二人は馬車の中で軽いティータイムを楽しんでいた。



「変わり映えしないといっても、やっぱり少し変わっているね。ほら、あそこの店一年前より品揃えが悪くなってない?」

「まあ流通経路の途中にある公都ブランヴェールで革命団とやらが暗躍しているからな。南部三ヶ国からの物資の流れが悪くなったのだろう」


 

 セール中だというのに一つの値段が黒金貨三十枚というあまりにも高い香水を、何十個も買い求める貴族の令嬢と、彼女の後ろで重たくなった買い物袋を持って引きつくような笑みを浮かべているまだ若い執事を見て、アベルはこてんと首をかしげた。



「そういえば職人街の人が噂していたけど、物価がまた上がるんだってさ。北部三ヶ国が飢饉になるようだし」

「ふん、ここにいるほとんどの連中は領民がどれほど飢えようと、自分たちさえ良ければいいと思ってるんだろう。まあ、中には例外がいるかもしれんがな」


 その例外中の例外である少女は、面白くもないといった風にピエールから受け取ったクッキーを頬張り、“これで意中の人があなたのものに”という宣伝文句の一瓶黒金貨三百枚というばかげた値段をした、中身が見えないように黒塗りの瓶に入れられた“何か”をぼんやりと眺めていた。


「・・・・・・あんなの効くわけないだろうが、馬鹿馬鹿しい」

「うにゅ? ふぁふぃふぁふぃっふぁ?(何か言った?)」

「なんでもない。それよりクッキーを頬張りながら話すな、みっともない」

「んっ・・・・・・そう? あ」

 頬を微かに染めながら紅茶を飲み始めたクレアを不思議そうに見てから、再び窓の外を見たアベルの目に、それは突然飛び込んできた。






 あまりにも巨大で、鳥の中で最も美しいとされる黒鳥の名を冠した城が。













「相変わらずでっかいねぇ」

「そうだな、まあでかければいいというものでもないが」





 では、駐車場でお待ちしています、と一礼してから近くにある駐車場の中に姿を消した、ピエールが乗る蒸気馬車を見送った二人は、目の前に聳え立つあまりにも巨大すぎて地上からも空からも頂が全く見えない建物を、首を痛くしながら眺めていた。






 黒界七王国を治める帝都の中心にして皇帝の居城。“太陽”のない四界を照らすクリスタルを頂に備え、これを守る最後の砦である黒鳥城がいつから建てられているのか、それを知るものはいない。計測不能の高さを持つこの城は神話の時代にはすでにあったという歴史学者もいるが、少なくとも帝国が始まる三万年より以前、帝都がまだ黒深き森と呼ばれ、始祖種族と呼ばれる種族の一つ、ブラックエルフの支配にあったころから形は違えどここに城はあった。その後帝国の前身となる集落がこの地で起こり、幾度の戦乱の中で発展を繰り返し、黒界がこの城を中心とした現在の七王国の形になったときには八層の強固な城壁と、緑界の飛竜を相手にすることを想定して装備された無数の大砲、砲弾の代わりに巨大な銛を打ち出す装置が備えられ、現在ではそれに加えて迎撃用の小型飛行船や皇族用の大型飛行船、近衛騎士団を中心とした四つの騎士団に所属する十万を越す騎士とその配下たる精鋭の衛兵、そして二百万の帝国軍に守られたここは、まさに難攻不落の城塞となっていた。



「まあ、クリスタルを守護しているのだ。これほどの防備は当然だろう」

「そう? ちょっと過剰すぎると思うけれど」



 城に続く橋の上を歩きながらアベルは周囲を見渡した。橋の上には蒸気馬車に乗った貴族やら、帝都近郊にある帝立大学を卒業した城に勤務するいかにも賢そうな文官や執務官、最新式の小銃を携えて一列に並んで行進する帝国軍の小隊やらが途切れることなく出入りを繰り返している。


「防備に過剰という言葉はない。城には元老院や貴族院の議事堂のほか、各国からの客人が降り立つ飛行場アスタリウス教の聖堂もあるからな。七王国のまつりごとの中心地を守るためには不十分なぐらいだ」


 橋の向こうにある、城をぐるりと囲む城壁にたどり着き、門のところにいる衛兵に用件を伝えると、さすがに城を守る衛兵は規律がしっかりしているのだろう。アベルの名を聞いてもピクリと眉を動かすだけで、何も言わずに通行証を二人に差し出した。もっとも渡された通行証でいけるのは目的地である各騎士団の団長の執務室がある第八城壁の中までであり、それ以上中に入れば不審者として逮捕される。だが、どれほど上位の通行証といっても入れるのは大きな式典が催されるときに使用される第四城壁まででありその中、すなわち城の中枢たる第三城壁から第一城壁には近づくことは許されなかった。


「第三城壁から中ってどうなってるんだろうね」

「そんなの私が知るわけないだろう。騎士の就任式でさえ第六城壁でやっているんだからな。まあ陛下を始めとした皇族の方々のお住まいなのだろう」



 巨大な正門をくぐり、第八城壁の壁に沿って西に移動する。東には筆頭執政官であるセフィリアの管轄である、研究者が昼夜を問わず発明に勤しむ帝国総合研究所や帝立図書館があるが、そちらに用はない。牢屋の入り口を守る衛兵に軽く会釈ししばらく壁に沿って歩いたとき、二人は顔をしかめて立ち止まった。




「・・・・・・匂うな」

「うん、すごくお酒臭いね」


 


 このあたりはあまり人気がない。風が強いとき、この辺りで地下から響くうめき声のような音を聞いた人が結構いるためだ。そのため城に勤める人々はここを通りたがらない。もっともこの先にあるのは各団長の執務室とその先にあるアスタリウス教の聖堂ぐらいで、しかもどちらも城壁の中を通ったほうが早い。



「さすがにこれは匂いすぎるだろう、見に行ったほうがいいな。アベルはここで待っていろ」

「いや、僕も行くよ。クレア一人じゃ何かあるといけないからね」

「ふん、勝手にしろ」



 念のため、腰にさした儀仗剣の泊め具を外し、いつでも抜けるような状態にしてから、二人は酒の匂いが立ち込めてくる茂みへと歩いていった。







「それでよ、そいつがまたすごい胸なんだわ」

「おいおい、マジかよ。ぎゃははははっ」



「・・・・・・間違いないな」

「うん、まだ勤務時間中だよね」






 二人が茂みの中を進んでいくと、酒の匂いに混じって下卑た笑い声が聞こえてきた。強烈な酒気にくらくらしそうになりながら歩いていくと、ぽっかりと開けた場所で二人の衛兵が座り込んでいた。彼らの間には、何本もの空になった酒瓶が転がっている。



「え、えっと、君たち」

「あぁ? なんだ手前」



 アベルが顔の赤くなった衛兵二人に恐る恐る声をかけると、口ひげを生やした衛兵がじろりと睨んできた。


「えっと、さすがに勤務時間中にお酒を飲むのは、やめたほうがいいと思うんだけど」

「あぁ!? 聞こえねえなあ。もっとしっかり言ってくれませんかねぇ、騎士様」


「あぐっ!?」


 

 ふらふらとした足取りで立ち上がった衛兵が、しどろもどろになって注意するアベルを軽く小突く。だが、軽く小突かれただけでアベルはたたらを踏んで後退し、その場にしりもちを付いた。



「お、おい、暴行はさすがにやばいって」

「あ? いや、軽く小突いただけだ。力なんてほとんど入れてねぇ・・・・・・ああそうか、あんたがあれか、噂の“零騎士”様か」

「う・・・・・・」




 酔った衛兵の言葉に、アベルは顔を青ざめて俯いた。二年半前に行われた入団試験で、彼が筆記試験零点、体力検定零点、戦闘能力零と、すべての試験においておそらく今後絶対抜かれることはない、史上最低の点数を取ったことは瞬く間に騎士や衛兵たちの間に広がり、それでも騎士になった彼のことを、彼らは蔑みをこめてこう呼んだ。すなわち、







 “最低最弱の零騎士”と



 


 無論史上最低の点数で騎士になった彼を、第一、第二大隊に所属する騎士たちは受け入れなかった。そのため団長とパーシヴァルが話し合い、新たに団長直属の分隊を創設、彼を分隊長にしたのだ。もっともその時部下となる騎士や衛兵は、彼にはまったく存在していなかったが。

 


「しかしその成績でいったいどうやって騎士になれたのやら」

「なんでも、試験管に体を差し出したっていうぜ。まあ、こんなきれいな顔だ。あっちのほうは満点だったようだな」


「そ、そんなことしてないよっ」


「ああ? 聞こえないんだよ騎士様」

「おいおい、やめとけって、今にも泣き出しそうじゃないか」




 にたにたと笑みを浮かべる二人の衛兵に見下ろされ、アベルは自分の目に涙がたまっていくのを感じた。それは、彼らに対する恐怖と、そして彼らからの侮蔑に、満足に言い返せないほど弱い自分への憤りのためだった。



「はっ、いいんだよこんな奴、むしろ現実をわからせてやるいい機会だ。お前がいることで、俺たちがどれだけ迷惑しているかって現実をな。おら、立てよっ!!」

「あぐっ!!」


 軽口をたたく仲間の声にそう吐き捨てると、衛兵はアベルの胸倉をつかんで無理やり立たせた。のどの苦しみに、アベルが苦しげに呻いたときである。



「いい加減にしろ、貴様らっ!!」

「がっ!?」



 青年の胸倉をつかんでいた衛兵は、いきなり吹き飛ばされた。


「お。おい、大丈夫か!?」

「あ、ああ。何だ手前!!」


 弾き飛ばされ、無様に地面を転がった衛兵は、ふらふらとする頭で自分を弾き飛ばした相手を見上げた。その額に儀仗剣の切っ先がぴたりと付く。



「ひっ!?」

「て、手前!!」

「ほう、貴様もやるか?」



 衛兵の一人に剣先を向けたまま、クレアは槍を構えたもう一人の衛兵に凄みのある笑みを向けた。それは、彼女が完全に怒っているときの表情だった。




「だ、駄目だってクレア、僕は大丈夫だから、ね?」

「いやアベルこいつらは勤務時間中に酒を飲み、上官であるはずの騎士に絡んで侮辱、暴行を行った。しかも城でだぞ? 極刑もありうる犯罪行為だ」

「うん、でも私闘は駄目だよ。クレアまで罰を受けちゃう。だから、まずは剣を納めて?」

「・・・・・・ふん」




 アベルの必死の懇願に、クレアは凄みのある笑みをやめ、不機嫌そうに鼻を鳴らすと衛兵の額にぴたりと付けた剣を離した。そのまま衛兵を睨みつつ、剣を鞘に納める。



「じゃあ、ちゃんと勤務している衛兵に連絡を入れよう? ごめんねクレア、やっぱり僕はこないほうが良かったね」

「そんなことはない。お前は正しいことをしたんだ、もっと誇れ」

 沈んだ表情のアベルを慰めようと、クレアが慰めようとしたときである。



「う、うぁああああっ!!」



 彼女の後ろでいきなり奇声がしたかと思うと、衛兵が二人槍を構えて突っ込んでいた。だがそれは想定の範囲内だったのだろう。凄惨な笑みを浮かべ振り向きざまに剣を抜くと、クレアは自分に向かってくる槍を、刃が潰されているはずの儀仗剣で二つとも切り飛ばした。





「何をしている!!」





 強い誰何の声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。




「貴様ら、城で乱闘を行うなど、いったい何を考えている!!」


 茂みの中に入ってきたのは、帝国軍の軍服を着た、まだ青年といえる年頃の男だった。後ろには、軍服を着た女性と、十数人の衛兵を従えている。



「なんだ手前っ!!」

「お。おい、あの徽章・・・・・・やばいって!!」


 

 腰の剣に手をかけ、血走った目で青年を睨みつける相方とは反対に、それほど酔っていなかった彼の同僚は青年の胸に付いた徽章を見て、がたがたと震えだした。



「こい・・・・・・いや、この方は帝国中将、オーダイン閣下だ!!」

「オーダインって、まさか数年前に北方で勃発したニブルヘイムとヘルヘイムの騒乱を、たった二千の軍で鎮めた、東方元帥マクバーン閣下の右腕といわれるあの?」

「貴様ら、ここで何をしている!!」



 完全に酔いがさめたのか、冷ややかな目で見つめる帝国中将の横に立った、先ほど誰何した大佐の徽章を付けた女性の言葉に、だが衛兵二人は何も答えることができず、青ざめた顔でがたがたと震えるだけだった。



「い、いえ、それが・・・・・・我々が巡回していたところ、この二人がいきなり絡んできまして」

「そ、そそそそうです、こちらはやんわりと話をするつもりだったのですが、いきなり剣を抜かれて、それで」

「はぁっ!?」

「ちょ、クレア、静かにしなって!!」



 衛兵の言い訳に、傍らで事の成り行きを見守っていたクレアがむっとして前に出ようとするのを、横に居たアベルは慌てて引き止めた。



「・・・・・・酒臭い」

「ひっ、いや、そ、それはその」

「貴様ら・・・・・・まさか勤務中に飲酒をしていたのか!? しかもそれを咎めた騎士に絡んだというのが本当のことであろう。もうよい・・・・・・衛兵、こいつらを牢屋にぶち込んでおけ!!」

「ちょ、ちょっと待てよ、俺らが酒を飲んでいたという証拠でもあるのかよ!!」

「馬鹿者、周囲に転がっている空き瓶が何よりの証拠だ!! ふん、職務怠慢に上官に対する侮辱行為、極刑は免れんぞ」

「く、くそっ!! せっかく衛兵の地位を買えたっていうのに」

「い、いやだ、死ぬのはいやだぁっ!!」


 

 両腕を衛兵に抑えられ、泣き喚きながら牢屋に連れて行かれる二人の衛兵を見送ると、帝国中将とその部下たちは、何事もなかったかのように去って行った。






 その場に、呆けた表情をした、二人の騎士を残して


















「はは、それは大変だったな」

「笑い事ではありませんよ団長、本当に大変だったんですから」




 それから十分後、第八城壁の中にある執務室でアベル達は上司である黒羊騎士団団長であるミネルヴァと話をしていた。



 彼女は今年八百歳になる妙齢の女性だった。肩のところで切り揃えた燃えるような紅い髪と、黒曜石のような瞳を持つ赤界と黒界のハーフであり、北方平原南部に領地を持つ伯爵でもある。二代前の皇帝であるセフィロトの盟友で、彼の治世のころには近衛騎士団団長を勤めていた。しかし嘆きの大戦でセフィロトが戦死し後に虐殺帝と称されることになるレフィロスが皇帝になると、俗世に対する興味を失い、セフィロトを守れなかった責任を取る形で領地に戻り隠遁生活をした後、そのレフィロスが死に現皇帝が即位した後、新しく作られた騎士団を率いて欲しいというクリスティアの要請に応え、三年前黒羊騎士団の団長になったのである。




「・・・・・・」

「けど勤務中に飲酒を行うなど・・・・・・最近、城に勤める衛兵の質が低下している気がするのですが」

「まあ確かにな・・・・・・聞くところによると、裕福な商家の若者の間で城の衛兵の職を“買う”のが流行っているらしい。確かに城の衛兵になり出世すれば商いをするよりもずっと安泰な生活を送れるからな。今その“資格”がどのように売られているかその経路を調査しているようだが、うまくいっていないらしい・・・・・・さて、話は聞いた。二年前の資料がいるのであったな」


 ちょっとまってなさい、そういってミネルヴァが奥の本棚に向かうと、後にはクレアとその横にいる、先ほどから青ざめた顔で一言も話さないアベルだけが残された。



「・・・・・・おい、アベル」

「・・・・・・」

「おいアベル、おいってばっ!!」

「・・・・・・え? な、何、クレア?」


 クレアの声に最初彼は反応しなかったが、それでも何度か声をかけると、やっとのろのろと顔を上げ、青ざめた顔を少女に向けた。


「お前、まださっきのことを気にしているのか?」

「えと・・・・・・その、うん」


 青ざめながらも、掠れた声で肯定した上司を、クレアはむっとしながら睨みつけた。


「アベル、確かにお前は弱い。酔っ払った衛兵にすら負けるなんてそれこそ最低だ。弁護の仕様がない」

「あう・・・・・・」

「だが、だがなアベル、それがどうした?」

「・・・・・・え?」



 クレアの厳しい言葉にまた俯いた青年は、しかし次に彼女が言った言葉に、はっと顔を上げた。





「別に戦えなくたっていいじゃないか。そんなもの、戦える奴に任せればいいんだ。お前は隊長なんだから、ただどっしり構えて、私たちに指示を出せばいいんだよ。考えるのは得意だろ?」

「えと・・・・・・うん」

「だから、そう気を落とすな。それに、わ、私はお前が隊長だから、分隊に入「すまん、待たせたな」・・・・・・」

「あ、すいません団長。わざわざ・・・・・・あれ? クレア、最後に何か言った?」






 クレアが一番言いたかった言葉は、だが本棚の間から顔を出したミネルヴァの言葉にさえぎられた。頬をふくらませ、そっぽを向いている少女を見て苦笑しながら、彼女は腕に抱えた丸めた羊皮紙をアベルの前に置いた。



「あ、ありがとうございます。団長、じゃあさっそく写本して」

「いや、もう日も落ちる。そのまま持っていくがいい。ああ、本部に戻ったらパーシヴァルにこの書類を届けてくれ。数ヵ月後に行われる三万年祭の時の騎士の配置図だ。まだ草案だが、それほど変更するところはないはずだ」

「は、はい。では失礼します。行こうクレア」

「・・・・・・ああ。失礼します、団長」

「うん・・・・・・ああそうだ、アベルは少し残ってくれ」

「え? は、はい。じゃあクレア、そういうわけだから」

「ああ、扉のところで待ってる。早く来いよ」


 立ち上がったアベルは、団長がこちらを呼び止めたことに首をかしげながら、同じく立ち上がったクレアに目配せをする。その視線にうなずきながら団長に一礼すると、クレアはくるりと踵を返し、後は一度も振り返らずに、部屋の外へと出て行った。





「・・・・・・さて、すまないな。呼び止めて」

「いえ、いいんです。それより何かお話でも?」

「まあ世間話のようなものだ。さて、騎士になり分隊を率いるようになって二年が経つが・・・・・・どうだ、仕事には慣れたか?」

「え? は、はい。まあ何とかって所です。相変わらず・・・・・・弱いです、けど」

「戦闘能力の有り無しは問題ではない。お前はまじめに職務を行ってくれている。それで充分だ」

「そうでしょうか・・・・・・あ、あの、団長、一つお願いがあるんですが」



 くすくすと笑うミネルヴァを見て、アベルは意を決したように叫んだ。




「ほう、何だ、言ってみろ」

「はい、あの・・・・・・僕を分隊長から外してくれませんか?」

「ふむ、分隊長の地位では不満か。なら第二大隊の中隊長にでもなってみるか? ああ、副団長の地位はしばらく待て。パーシヴァルなんぞはお前に後を継がせて早く隠居したいとぼやいているが、それでも黒羊騎士団は発足したばかり、まだ老練な彼の力が必要なのだ」

「い、いえ、そうじゃないです。そうじゃなくて・・・・・・“零騎士”だなんて呼ばれてる僕には、分隊長なんて務まらないと、そう思うんです」

「ふむ、務まらないか。それは皆に言われているのか? むろん、そなたを蔑む騎士や衛兵を除いてだ」

「え、それはその・・・・・・でも、僕なんて台所の下働きがちょうどいいと思うし、それだって、満足にはできないと思うけど」


 口ごもる青年を穏やかに見つめると、ミネルヴァは机の引き出しを空け、パーシヴァルから届けられた手紙を取り出した。



「以前腰を痛めて道に座り込んでいたとき、教会までおんぶしてくださり、ありがとうございました・・・・・・これは、お前が担当している集落に住む老婆からの礼状だな。忙しいとき、収穫の手伝いを手伝ってくれて、どうもありがとうございます・・・・・・これも、お前が担当している地区の農夫からだ。ほかにもいろいろと礼状が届いているが、お前はこれでも、自分が分隊長にふさわしくないと思っているのか?」

「それは・・・・・・けど、それって誰にでもできることじゃ」

「そう、誰にでもできる。だがそもそも黒羊騎士団は、下町や城壁の外にある集落に住む民を守るために創設された。それに必要な素質は戦闘能力ではない。必要なのは、どれほど民を気にかけ助けることができるかということだ。だからアベル、お前はしっかり仕事をしている。そのまま優しく、正しく、まっすぐに仕事をしてくれればそれでいい」

「あ・・・・・・はい」



 微笑して、少し跳ねている青年の髪を手櫛で撫ぜてやると、アベルは安堵したような笑みを浮かべた。その美しい表情に、年甲斐もなく頬が赤くなるのを感じたミネルヴァは、ごまかすように壁にかかった時計を眺めた。


「もうこんな時間か。話が長くなってすまないな。さ、廊下でクレアが待っているぞ。早く行ってやれ」

「は、はい。失礼します」

「ああ・・・・・・ああ、すまんアベル、最後に一つ良いか?」

「あ、はい。なんでしょうか」




 一礼し、背を向け歩き出したアベルを、ミネルヴァは優しく見つめていたが、ふと、扉に手をかけ、出て行こうとする青年を呼び止めた。



「お前・・・・・・“記憶”は戻ったか?」

「え? いえ、全然です。すいません」


 ミネルヴァの問いに、アベルはふと目を伏せた。




 実はアベルには三年前より以前の記憶がない。目覚めたとき彼は商人街のはずれにある病院の一室にいた。その後医者の診察により重度の記憶障害と判断され、一週間ほど入院し路頭に迷いそうになっていたところをちょうど人手が欲しいという城壁の外にある農園からの申し出により、現在彼が“実家”と呼んでいる農園で生活し、二年半前農園に来た郵便配達員から渡された新たに新設される騎士団の入団試験のパンフレットを手渡され、騎士になれば農園に送金できると考え、彼にすぐに懐いた小さい子供たちに抱きつかれながら勉強し、半年の間貯めた小遣いで何とか帝都に入り、田舎臭い服装を蔑まれながら試験を受け史上最低の点数で合格したのである。



「わかった、引き止めてすまなかったな」

「いえ、失礼します」



 アベルが出て行ったのを見送り、廊下にある二つの気配が遠ざかっていくのを感じると、ミネルヴァはふと窓に近づき、夕刻の空の景色を眺めた。クリスタルの光が弱まっている今は、空は夕闇に染まっている。



「いい若者だ。優しく穏やかで、誰もが頼り頼られたくなる。まあ、権力に目が曇っている連中には分からないだろうが」



 木の枝に止まっている二羽の黒雀が寄り添っているのを眺めながら、ミネルヴァはふっと微笑した。



「クリスティアの話では、三年前クリスタルが異様なまでの光を放ったとき彼は皇帝陛下の部屋にいきなり現れたらしい。だがあの部屋は千を越す強力な結界で守られている。許可のないものが、それこそ男が転移する事などできるはずがない。なのに彼は入り、そして罰せられることなく城外に出され商人街のはずれにある病院で目覚めた。なぜ罰せられなかった? まあ、セフィリアの考えだろうが・・・・・・この騎士団も本来は彼を受け入れ、監視するために作られた。アベルの性格からして陛下を害することなどありえぬが・・・・・・それにしても三年前、か」



 不意に聞こえてきた轟音に、木の枝に止まっていた二羽の黒雀が驚いて飛び立っていく。見上げると、貴族院に所属する貴族が持つ飛行船が、備え付けられた発着場から飛び立っていくのが見えた。


「蒸気製の馬車、最新式の小銃、何より翼もたぬ身の我々が空を飛ぶことを可能にした飛行船、そしてこれらと巨大な要塞を作り上げるほどの製鉄技術、これらはすべて三年前に発生した蒸気革命で前触れもなく“いきなり”発明された。その先日まで誰も思いも寄らぬことだったというのに。だがそんなことがあり得るのか? 三年前といえば、考えられるのはクリスタルの発光とアベルの出現だが・・・・・・考えすぎか? 彼が来た事と、まるで眠っているのをたたき起こされたかのように、いきなり技術が発達したのは」




 飛行船を見送っていたミネルヴァは、ふと頭に浮かんだ恐ろしい考えに、万の敵を前にしても動じない彼女にしては珍しく青ざめた後、ふるふると首を振った。









     自分が真実にたどり着いていることなど、考えもせずに








「考えすぎか。だが何があるにせよ、あの善良な若者を害させるわけにはいかないな。第一大隊の連中のしていることは彼の成長につながると思って静観するだけにとどめたが、さすがに行き過ぎるようなら手を打たねばならんか。だがそうするとまたアベルがえこひいきだといわれて蔑まれるだろう。やはり一番良いのは彼に良い師を見つけてやり、鍛えてもらうことだが・・・・・・仕方がない、“奴”に連絡を入れるか」




 かつて共にセフィロトを支えた旧友の顔を思い描き、その自由奔放な性格を思い出し、ミネルヴァは深々とため息を吐いた。







続く


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