第一部 黒界 帝都動乱篇 第三話 銀豹との出会い 中幕② グヴェン編
行方不明になったアベルという名の騎士を探し始めて二日目の朝、グヴェンは凱旋門付近にある下町の飛行船発着場から出ている貴族街行きの便に乗った。彼が依然帝都に住んでおり、太陽騎士団団長でありアスタリウス教の大司教という身分であった頃は大河を渡るには船を使うしかなく、どれほど快足を誇る帆船であっても数時間はかかったが、飛行船が開発されてからは片道僅か十五分ほどの旅であった。
「やれやれ、世の中も随分と変わったものだ」
初めての空の旅を終え、多少ふらつきながら飛行船から降りたグヴェンは苦笑しながら少し重い頭を振ると騒がしい下町の発着場とは違い、閑散として物静かな発着場の中を出口へと歩いて行った。数分ほど歩いて出口付近まで来ると、彼の姿を見て出口のすぐ脇にある衛兵の詰め所から右胸に中尉の階級章を付けた壮年の衛兵が出てきて、グヴェンにここから先は貴族たちが住む地区であること、彼らもしくは彼らの下で働いている者以外が通るには、許可証が必要であることを眉間に深い皴を寄せた顔でにこりともせずに話し、最後にそれを求め右手を突き出してきた。そのぶしつけな態度にだがグヴェンは別段怒ることなく内心苦笑しながら懐に手をやった。貴族街に配属される衛兵の多くは貴族や商人の子弟が多く下町から来る者達を見下すのがほとんどで、中には必要のない金を要求したり傲慢な態度で接し中に入れない者までいる。彼らに比べれば、この衛兵はだいぶ真面目に職務を行っていた。
「通行証はこれでよろしいか?」
「確認するので少々お待ちを・・・・・・こ、これはっ!?」
グヴェンが懐から出した物を見ようと、厳つい顔を近づけた衛兵は次の瞬間目を大きく見開いた。
「聖印・・・・・・しかも大聖印!? アスタリウス教の聖職者の方でしたか」
帝都に入る際に門番に見せた表面に光り輝くクリスタルとそれを包む輪が掘られた丸い銀色の物体、アスタリウス教の聖職者、それも司教以上の階級に与えられる大聖印を見た兵士の驚き様を見て、アスタリウス教の大司教の地位にあるグヴェンは苦笑した。これがあれば帝都に入ることも、そして貴族街に入ることも容易い。なにせ黒鳥城でさえ玉座の間がある第四城壁内まで、面倒な手続きをすべて省いて入る事ができる代物だからだ。
「これの効果は絶大だな・・・・・・さて」
恐縮しつつ敬礼して道を開けた衛兵に軽く会釈し、貴族街に足を踏み入れたグヴェンは手の中にある大聖印を見た。聖樹帝と謡われたセフィロトの治世に、貴族や聖職者の間で蔓延っていたある物を一掃したことを評価され教皇マリエラから直々に授与された物だが、彼にとっては便利な道具でしかない。
「しかし、相変わらず無駄な街だな」
手の中にある大聖印を懐にしまい、グヴェンは数百年ぶりに足を踏み入れる貴族街を見渡した。上空には何隻もの飛行船が浮かび幅広い道は何台もの蒸気馬車が行き来しているが、周囲にそびえる建物が無駄に巨大で無駄に飾り立てられているのも、周囲を行き交う人々がその身体を宝石や金銀で歩く妨げになるほど無駄に飾り立てているのも昔と全く変わらなかった。それを眺め、グヴェンは心の中で忌々し気に舌打ちした。中央平原北部の貧しい寒村で、ボロ小屋に間違えられるほどぼろぼろな教会で勤務する神父の四人兄弟の末っ子として生まれた彼にとって、生きる道は聖職者になるほかなく、父の神学校時代の知り合いを頼りに帝都まで飲まず食わずで旅をしたものの、頼みの知り合いは教会内の派閥争いに負けスラムで貧民相手の救済活動をしており、何とか下働きとして雇ってもらったはいいが当然給金などでずこき使われ満足に食べることができず金という物には全くと言って縁がなかった。今でこそアスタリウス教の幹部職である大司教という地位にいるが、これはスラムで腐っている時に出会った無二の親友が皇帝になったためである。
そんな彼にとって、自分の対極の位置に存在する有り余る金を無駄に浪費する貴族という存在は大樹の蜜を吸うダニ同然であり心底毛嫌いする唾棄すべき存在だが、同時にほんの少しだけ彼らに対して同情もしていた。華やかなりし貴族社会の中心地である南方平原同様、ここ貴族街も様々な戯曲や小説が作られるほど貴族文化が発展してきた場所だが、むろん皆が裕福というわけではない。むしろ本当に裕福なのは貴族街に住む貴族の僅か一割にも満たない大貴族達で、残りの九割の内真面目に領地を治めているのが四割、領民に重税を課し商人に借金をしてまで身を着飾っているのが四割、残りは高利貸しの商人に骨までしゃぶりつくされ領地も屋敷も家族ですらすべて失い、裏路地にバラックを立て身をひそめて生活しているありさまだ。それでも昔よりははるかにましだった。何せセフィロトが皇帝になった継承戦争以前の帝国は、実に八割以上の貴族が、領民を奴隷同然に扱い我が世の春を謳歌していたのだから。
バラックが立ち並ぶ裏路地をグヴェンは大河近くにある昔の職場、太陽騎士団本部へと歩いた。蒸気馬車を使ってもよかったのだが、無駄に飾り立てられた蒸気馬車は片道金貨一枚という法外な値段で(ちなみに下町の蒸気馬車の値段は大勢の人々が乗ることを想定しており銅貨数枚で乗れる)、しかもみすぼらしい姿をしている彼を見て運転手が傲慢そうに鼻を鳴らして乗車を拒否したため少々不機嫌になりながらも、こうして徒歩で向かっているのだ。裏路地を歩くグヴェンに周囲のバラックから視線が向けられる。その多くは妬みあるいは蔑みで、中にはこちらに殺気を向ける者や、どうやって金をむしり取ろうかと算段している者も混ざっていた。そんな彼らの視線を感じながら、グヴェンはだが逆にほとんどの者にはわからないだろう微かな笑みを浮かべていた。といっても、別に彼は落ちぶれた貴族の姿が見たくてこの裏路地を歩いているのではない。数百年前まではこの道が太陽騎士団本部になっている建物に続く正式な大通りだったためである。数百年前かつて太陽騎士団団長としてグヴェンが貴族街に住んでいたころ、ここは裏路地ではなく立派な大通りであり、そして太陽騎士団の巡回ルートに入っていたため貴族街で最も安全な場所だった。道にはゴミ一つ落ちておらず街路樹が等間隔で植えられ、その樹の周りを子供達が護衛を連れず楽しそうに走り回っていた。周囲には騎士団が経営する宿屋や雑貨屋が立ち並び(本来は情報収集や、任務に就く太陽騎士の滞在場所である)、子供達には無料で菓子を配り、家を失った者には大通りの清掃など僅かな労働をしてもらうことで無料で部屋を貸していた。そんな黄金時代から今このような有様になった理由はただ一つ、虐殺帝レフィロスの治世の時に“ある事件”が起こり、一度帝都から聖職者がいなくなったからである。
(つまり、こんな有様になったのもすべて奴のせいだ。奴が何でもかんでも殺しまくったのが悪い・・・・・・否、それ以上に悪いのは俺か。俺が出奔しなければ、少なくともあの事件は防げたはず。つまりは俺のせいだ)
そんなどこか自嘲気味たことを思いながら、少々俯き加減に歩いていたグヴェンはふと足を止めた。すぐ傍のバラックのおそらく入り口だろう布が開き、そこから一人の男が飛び出し彼の前に立ちふさがったためである。襤褸を纏い、変色してぼさぼさになった髪と髭に覆われた顔にある目は半ば濁っておりあらぬ方向を向いており、枯れ木のように細く垢と泥がこびり付き、茶色く汚れた手には赤黒く錆びた刃物が握られていた。
「・・・・・・な「げげ、下郎、こここ、ここをどこと心得ておる。わわ、我がりょりょりょ領地であるぞ」
何者、あるいは何だと問おうとしたグヴェンの言葉を遮るように、元は貴族であろう初老の男は聞いてもいないことをどもりながら捲し立てた。喋る度に唇の端から紫色のよだれがだらだらと流れるが、もはや正気ではないのだろう、彼がそれを拭うことはなく、そんな男の様子にグヴェンはふと片眉を上げた。
「お「わわわ、我が領土は本来不可侵。しかし我は情け深い故、通行税を払えば特別に通り過ぎるのを許可してやろう」・・・・・・」
通り抜ける許可と言ってもここは帝都であり、その持ち主はただ一人、皇帝パールである。そのため男の台詞は完全に不敬罪に当たるのだが、彼はもはや自分が何を言っているか理解すらしていないのだろう。
「どけ、ここはお前の領地ではない。“麻薬”で腐った頭を覚まして、少しは考えてみろ」
「どけ、どけだと!? 我を誰と心得るか。恐れ多くも南方平原の真の支配者にして帝国貴族の筆頭、サン・ディール大公殿下に連なるものであるぞ」
「・・・・・・何?」
男が発した一人の貴族の名を聞いた時、グヴェンは今度ははっきりとそうだと分かるほど不機嫌になった。サン・ディール大公、男の話す通り南方平原に広大な領地を持つ大貴族“だった”。南方平原東部にある帝国最大の貿易都市“沈まぬ太陽の港”の異名を持つ公都サンディエルを本拠地とし、数百の貴族を傘下に持ち南方平原のもう一つの雄、ブランヴァイク公と長きにわたり覇を争い最盛期には完全に圧倒していたが、数十年前に大逆罪及び人道に反する罪、その他百の罪により一族全てが処刑され、傘下にいた貴族もその四割が処刑、残りの五割も改易され追放された(おそらく目の前の男も、その時追放された貴族なのだろう)。大公というこの世の栄華の頂点に立った一族が滅亡した理由はただ一つ、最後のサン・ディール大公こそ虐殺帝レフィロスの父方の祖父に当たるためであり、孫を至高の座に就けるため他の皇族を次々と暗殺していったからだ。
「あの頃は我が世の春であった。臣民の権利などとほざき、あまつさえ獣人共を奴隷から解放した愚帝セフィロトの治世は僅か百年で終わりを迎え、後を継いだ真の賢帝たるレフィロス陛下の下で我々は正しい政治を行い、奴隷や家畜共の絶望の声に酔いしれておった。なのに今はどうだ? 陛下はお亡くなりになり、サン・ディール大公殿下は冤罪を着せられ処刑、我も不当に領地を召し上げられこのありさまだ。しかも今の皇帝は意志脆弱な暗愚であり、セフィロト同様臣民の権利を主張する女狐共のいいなりときておる。あのような小娘を至高の座に座らせておく帝国、長くはないぞ」
「・・・・・・貴様の戯言などどうでも良いしここは公共の場で貴様は単なる不法占拠者にすぎん。さっさと俺の前から失せろ」
「失せろ・・・・・・失せろだと!? 我は寛大で情け深い故、所持金だけで許してやろうと思ったが、数度にわたる貴様の暴言はもはや許せぬ。我が正義の一撃により貴様を成敗し、死体から身ぐるみはぎ取ってくれる!!」
こちらの言葉が癪に障ったのだろう、怒りでわずかに正気を取り戻した男が、それでも支離滅裂なことを叫びながら赤黒く錆びた刃物を振り上げて向かってくる。だがそのよたよたとした動きは、歴戦の傭兵であるグヴェンから見るとあまりに遅く、そして緩慢だった。
軽く息を吐き刃物を持った男に躊躇なく近づくと、向かってきた自分を見て逆に刃物を振り上げたままよたよたと後退しようとする男の懐に滑るように入り込み襟首を掴んで強引に引き寄せると、グヴェンは男の左頬を右手で殴りつけた。と言っても全力ではない。彼の腕力で全力で殴りつけたなら男の頬骨は砕け、細い首も折れるだろう。もっとも彼が全力で殴らないのは別に優しさからではない。多くの無辜の民を虐殺したレフィロスと彼を至高の座に据えるため何の罪もない赤子まで平気で殺害したサンディール大公を称賛し、無二の親友を蔑み、そしてまた多くの民を愚弄したこの男を長く苦しめてやりたかったからだった。
襟首を掴んだまま数回殴りつけると、蛙がつぶれるような悲鳴が上がる。それを無視してさらに殴り続けると顔はぱんぱんに膨れ上がり、男はもはや蚊の鳴くような息をするだけになった。
「・・・・・・・・・・・・ふん」
その顔を見てグヴェンはようやく殴るのをやめた。彼の中に爽快感はない、あるのは虚しさといら立ちだけだ。それらをかき消そうとするかのように地面に唾を吐くと彼は男の顔を引き寄せ口元に鼻を近づけた。彼の鋭い嗅覚がすさまじい口臭に混じる微かな腐敗臭を嗅ぎ分ける。それは紛れもなく、彼が数百年前に幾度となく嗅いだ臭いであった。
「“ハシン”・・・・・・また出てきたか」
口から顔を放すとグヴェンは忌々しげに舌打ちした。ハシンとは南部三ヶ国の一つ、ヨトゥンヘイムに生息するハシの葉を加工して作られる強力な麻薬である。元々ハシの葉は極少量を加工して痛み止めや睡眠薬、医療が発達した近年においては麻酔薬として使われていたが、セフィロトの父である“好色帝”ゼフィルスの治世の際に精力や性欲を増強させる効果が発見され、年を取り衰えたがそれでも女を漁る事を止めないほど女好きな皇帝により大量生産が命じられ、一時期は中央平原西部でハシの葉畑が地平線までずっと続いているようなありさまだった。ハシの葉とそれを加工して作られたハシンをゼフィルスが好んで服用したため貴族たちも我先にハシの葉を使用し始めたが、やがてその恐ろしい性質が明らかになる。ハシの葉は確かに精力と性欲を増強させるが、それ以上に強力な幻覚作用と肉体と精神の両方を腐らせる効果があった。さらに恐ろしいのはその依存症で、後年のゼフィルスはハシンを大量に服用したため完全に正気を失い生きながら肉体と精神を腐らせていき、その最後は糞尿をまき散らしながら裸で誘う美女の幻を追いかけ高い塔から転落死するというあまりにも情けない最期であった。それまで極度の女好きである以外特に欠点はなく、平々凡々に帝国を治めていた彼であったが、ハシの葉を流行らせたことで後世に暗愚と呼ばれることになる。元凶である皇帝が死んでもハシンの流行はやまず、最盛期など貴族街に住む貴族や聖職者の四分の一が浸っている有様で、これが解決したのは継承戦争が終結しセフィロトが皇帝として即位してからである。彼が皇帝となった時に発した命令の中にハシンの撲滅があり、彼の命令を受け当時太陽騎士団上級騎士であり助教(司教の補佐をする聖職者)であったグヴェンが一隊を率いて貴族や聖職者の邸宅に押し入りハシン漬けになっていた彼らを次々に捕縛し帝都郊外に新しく作られた収容所に収容、同時に中央平原にあるハシの葉畑をすべて焼き払い流行を終わらせた。この功績により彼はアスタリウス教教皇であるマリエラより直々に大聖印を授与され大司教に昇格、太陽騎士団団長となったのである。
「あの時褒美を出して隠し畑に至るまですべて焼き払ったが、さすがに一度に絶滅させることはできないからな。ひそかに持ち出した奴がいたか。“ロト”がハシの葉の製造、加工、販売をしたものは例外なく死刑にすると法に明記したが、それでも強力な依存症を持つ麻薬だからな、一度服用させてしまえば相手が死ぬまで金を搾り取れる。しかし」
パンパンに膨れ上がった男の顔を興味を失ったように地面に放り投げると、グヴェンは忌々し気に舌打ちした。
「随分と質が悪いな。口の周りが紫色に変色してる。これでは服用していることが一目で分かるだろう。高品質のハシンなら僅かな刺激臭以外ださないはずだが・・・・・・それに没落して金のない貴族に売ることは普通しない。実験台にしたな」
男の脇を通り過ぎ、再び太陽騎士団本部に向けて歩き出したグヴェンの頭の中に先ほどの男について関心はもうなかった。あるのはただ厄介な麻薬がまた出てきたという事だけである。それ以前に彼は人情家ではあるが、襲い掛かってきたものを助けるほどお人よしというわけでもない。そのため自分が殴り倒した男に向かって周りのバラックから同じようにみすぼらしい男達が手に刃物を持って現れ、倒れている男に近付いたとしても、それを止めるつもりはなかった。
「相変わらずでかい場所だな」
それから三十分ほど後の事である。グヴェンは建物の物陰に身を潜めていた。通りの突き当りには巨大な壁があるが、あの壁の向こう側こかつて自分が騎士として、そして団長として勤務していたアスタリウス教の信徒や聖地を守る騎士団、太陽騎士団本部がある。周囲を十メイルを超す鉄の城壁に囲まれ、門の左右には屈強な騎士が二人ずつ門番として立っている。鎧兜を身に纏い巨大なハルバードと盾を装備していかにも強そうに周囲を威嚇しているが、あれではただ無駄に疲れるだけだ。
「さて、どうやって中に入るか。流石に十メイルを超す壁を飛び越えるのは少々骨だし、できる事なら騒ぎは起こしたくない」
壁の高さを目測で測り、どうしようかと首をかしげている時である。目の前の門が不意に左右に開き、なっから六頭の黒い見事な駿馬にひかれた巨大な馬車が出てきた。馬車はすべて鉄で作られており、所々金で装飾が施されている。特に扉の部分には黄金で作られた巨大な王冠を被った龍の家紋が張り付けられており、持ち主の財力をこれでもかと誇示していた。
「あれは・・・・・・かなりの大貴族のようだな」
前を通り過ぎる際に、中にいる端正だが内に秘めた欲望が隠し切れず、顔がてかてかと光っている金髪の貴公子を見て、グヴェンは目を細めて呟いた。
「あの貴族の若者が病人のようには見えんな。心の方は欲望という病気にかかっていそうだが・・・・・・まったく、敷地内には緊急の場合以外に馬車を使って入ることは禁じているというのに」
彼の言葉通り、太陽騎士団は公正を心がけているためたとえ皇帝や貴族であろうと、敷地内に馬車で入ることは禁じている。馬車で入ってよいのは例えば街道で巡礼者が族に襲撃されて助けを求めてきた時や、急な病人が出てここまで運び込まれる時だった。
「随分と風紀が乱れているな。大聖印を見せて普通に入ろうかとも思ったが、今の騎士の態度という物を少し確かめてみるか」
馬車が完全に見えなくなるまで見送ると、グヴェンは長い銀色の髪を縛っていた紐をほどいた。ばさりと落ちる髪を手で掻きまわしてわざとぼさぼさにし、服を手でしわくちゃにすると背中を丸めよたよたとした足取りで、まだ閉じられていない門に向かって歩いて行った。
「何だ貴様、今日は施しの日ではないぞ」
門に近付くグヴェンを最初に発見したのは、門の右側を守っている騎士だった。門を閉めるのも忘れ暇そうにあくびを噛み殺していたが、彼を見つけるとよい退屈しのぎができたと兜の中で笑みを浮かべ、手に持ったハルバードをを突き付けた(ちなみに彼のいう施しの日とは、浮浪者に対し行われる炊き出しの事である)。
「へ、へぇ。あっしは下町にある“風鳴り亭”という宿屋で下働きをしている物なんですが、旦那様からここにいらっしゃる方に手紙を届けるように言われまして」
「風鳴り亭・・・・・・聞かん名だな。おいお前、知っているか?」
「いや、しらんな。それに誰かに届け物があるとも聞いていない。老い貴様、いったい誰に届けるつもりだ」
「へ、へい。確か・・・・・・ドルス様に、と」
「ドルス・・・・・・“クルセイダー”ドルス司教にだと!?」
騎士団の中でも三名しかいない司教のうち、彼らを含めた実働部隊の総指揮官を務める司教の名を聞き、兜の中で眉を顰めた騎士はブーツを鳴らしながらグヴェンに近付き、その首にぴたりと槍の先端を当てた。
「怪しい・・・・・・下町の宿屋の主人風情が、司教殿に何のようだ」
「ひっ!? そ、それが、あっしは字が読めねぇんで詳しいことは何とも。ただ緊急の要件なもので間違いなく、ご本人に直接渡すようにとだけ」
「ふん、ますます怪しいな」
「ああ・・・・・・まさかこやつ、どこかの間者ではないか?」
「間者ぁ? このみすぼらしい浮浪者同然の男がか? それにしては目立ちすぎる気がするが」
「だとしたら司教殿の御命を狙う暗殺者だろう。あの方は邪教には容赦がないからな、誰が命を狙っているか分かったものではない。とにかく牢屋まで連れて行こう」
「ろ、牢屋っ!? そ、それだけはご勘弁を」
「いいや駄目だ。ほら、おとなしくしろ。それとも痛めつけられて、首に縄を付けて牢屋まで連れていかれたいか、ん?」
騎士の一人が、怯えて(いるふりをして)うつむくグヴェンに向かってにやにやと笑いながら手を伸ばす。これぐらいでいいか、そう思いながらグヴェンが右手を軽く握った時、
「お前達、何をしているッ!!」
開かれたままになっている門の向こう側から、男の怒声が聞こえてきた。
「ら、ラパン助教殿っ!!」
「・・・・・・・・・・・・」
「何をしていると聞いている!!」
門の奥から現れたのは背が高く、がっしりとした体格をした中年の男だった。鎧兜ではなく、上級騎士用の騎士服を着て、その上から黒色の法衣を纏っている。
「門を閉めずに客人の応対か、いったい誰にどんな教育を受けた」
「も、申し訳ありません。実はこの男がドルス司教殿に配達があるとのことでして」
「ドルス司教殿にだと? いったいどこの使いだ」
「は、なんでも下町にある風鳴り亭という名の宿だとか」
「風鳴り・・・・・・亭、だと?」
部下である騎士の言葉に顔をしかめ、グヴェンの方を眺めていたらパンという名の男はやがて何かを思い出したかのように大きく目を見開くと、彼の方に大股で近づき右手で彼の左腕を掴んだ。
「この者は私が尋問する。お前たちは門を閉め引き続き警護に当たれ。それと・・・・・・門を開いたままにしていた罰だ、お前たち二人共今度の休みに行われる炊き出しに参加してもらう。むろん、外出の許可は取り消しになるから覚悟しておけ」
「「は、失礼いたします」」
ラパンの声に背筋を伸ばし、手に持つハルバードを高く掲げて敬礼すると、二人の騎士はラパンが先ほどの男を連れて門の奥に消えていくのを見送っていたが、彼らの姿が消えると兜の中で深々と息を吐き、門を閉めるため内側にある開閉器まで歩いて行った、
「・・・・・・ま、あの方の拷問はきついからな。ご愁傷さま、という奴だ」
部下の騎士が開閉器を操作して門が閉まり始めたのを確認すると、ラパンは左右に花が咲き誇る広場を抜けて建物の中に入り、受付をしているまだ見習いだろう若い赤ら顔の少年に地下に行くことを告げて鍵を受け取り、地下に行く階段を下りて扉を嗅ぎで開けて中に入ってから、ようやくグヴェンの腕を放した。
「馬鹿力だな、ラパン」
ラパンに掴まれていた腕を摩ると、グヴェンはまだ続く鈍い痛みに苦笑した。これでは掴まれた部分は痣になっていることだろう。
「申し訳ございません。しかし大司教殿も人が悪い。あのようなことをされて・・・・・・素直に大聖印を見せれば良かったではありませんか」
「すまんすまん、ちょっとしたいたずら心が出てな。それに現在の騎士の弱者に対する態度を知りたかったのだ。しかし風鳴り亭の名を知らないとは思わなかったぞ」
「申し訳ありません、彼らは教皇庁から派遣されてきたばかりのの若手でして」
ぼさぼさの髪を撫でて紐で結い、服の皴を手で伸ばして恰好を整えた時、そこにはもう浮浪者同然の男はおらず大司教であるグヴェンの姿があった。彼らが話す風鳴り亭とは、帝都正門“凱旋門”から大河を見渡せる広場まで一直線に伸びる大通り、通称正門通りの通り沿いにある二階建ての建物の事である。宿屋としても使えるが実態は下町における太陽騎士団の拠点の一つであり、情報収集や緊急避難の場所であるほか、下町に点在するほかの拠点のまとめ役のような場所であり、宿屋の主人から下働きに至るまで、全て太陽騎士団の関係者であった。
「外から派遣されてきたといっても赴任した時に風鳴り亭など、緊急避難用の拠点は教えているはずだろう・・・・・・まさか、もう使われていないのか?」
「実はそのまさかなのです。十数年前にシャルフ司教の指示で、貴族街と下町にある情報収集のための拠点は、費用がかさむという理由でそのほとんどが閉鎖されました」
「・・・・・・どおりで通りにバラックが立ち並ぶわけだ。ま、確かに平時の際は、本来の目的で使用することはあまりないからな。しかし、それを現場主義者のドルスが良く許したな」
「いえ、当時はかなり言い争いをしておられました。しかしシャルフ司教が、聖職者がいたずらに力を持ったら再び“あのような事件”が起こりかねないとまで言われまして、歯ぎしりしながら引き下がられました」
「まあドルスならそうするだろう。ところで奴は今ここにはいないのか?」
「ええ、直属の第一部隊を率いて邪教徒の制圧に向かわれています。なんでもかなりの規模で、あの方でも十日はかかるとか」
「十日・・・・・・ちょうど三万年祭が始まる頃か。しかし邪教徒だと? 珍しいな。最近そのような輩はめっきり見なくなったが。確か一番ひどかったのは、拝火教の一部が邪教と化した時だったか、クリスタルの光は炎となって罪人を焼き尽くすと勝手に解釈して、しかも自分たちが犯罪者とみなした人々を攫っては火あぶりにしてその焼ける臭いと煙に酔っていたな。あの時は儀式の場に押し入り、十数人を殺害、百人以上を捕縛したが今回もそんな類の奴らか?」
「いえ、もっとひどいです。なんでもクリスタルの恩恵は元々奴隷だった獣人にはないと考えている奴らで、彼らを攫っては拷問の末殺しているような連中です。拠点を見つけて踏み込んではいるんですが、捕らえられるのは末端の奴らばかりで」
「そうか・・・・・・もしかするとどこからか情報が洩れているのかもしれんな。そういえば、そいつらは自分たちを一体何と呼んでいる?」
「は、なんでも真人会とか」
「ふむ、真人会・・・・・・ね」
その名を聞いたグヴェンは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「・・・・・・ま、ドルスのことは分かった。ところで話は変わるが、先ほど門のところでたいそう豪華な馬車を見かけたが、中に乗っていたのはどこの貴族のお坊ちゃんだ?」
いつまでも牢屋の通路にいるわけにはいかない。反対側の出入り口まで歩きながら、グヴェンはふと隣を歩くラパンに思い出したかのように尋ねた。
「豪華な馬車・・・・・・ああ、資金の援助をしてくださっているブランヴァイク公の使いの方ですね。なんでもブランヴァイク公のご長男直々に使者としてこられたとか」
「ブランヴァイク? 今日は聞きたくない名前をよく聞くな。まあ狸親父と違い、息子の方は欲望丸出しのところを見るとあまり賢そうにも見えなかったが。しかし資金援助だと? 拠点を封鎖したことといい、騎士団はそれまで金が無かったのか。たしかあの事件の後賠償として湾港にある倉庫区の利権を譲られたはずだが・・・・・・あれだけでも莫大な利益が生まれるはずだ。それでも金が足りないというのか?」
「あの辺りはシャルフ司教殿の管轄でして、詳しいことは何も・・・・・・ただ噂によれば、上級騎士の誰かが利益を横領しているとか。それに、どうやら責任者である司教殿も随分と怪しい行動をしているようなのです」
「そうか・・・・・・と、着いたようだな」
牢屋になっている地下はそれほど広くなく、話しているうちにすぐ反対側の出入り口に着いた。様子を探るためラパンが先に外に出て、その数秒後彼の合図でグヴェンも梯子を上り暗くじめじめした地下からクリスタルの温かい光が照らす外に出た。そこは先ほどの事務所がある建物の裏手に当たり、彼にとっては数百年前まで毎日のように見ていた場所だった。
「さすがに、ここまで来ると帰ってきたという気になるな」
目の前にそびえる巨大な大聖堂を見て、グヴェンは懐かしそうに目を細めた。
かつてグヴェンが騎士として、最後には団長として所属していた太陽騎士団の本部は帝都におけるアスタリウス教の中心、大聖堂の敷地内にある。正門近くにある黒羊騎士団本部の建物なら五つは入ってもまだ余るほどの敷地内は大きく分けて四つに分かれている。門から入ってすぐの場所にあるのが太陽騎士団本部や大聖堂に巡礼に来た巡礼者や信徒を迎える事務所で、ここで持ち物を確認され、危険物を所持していないことが判明したのち大聖堂まで通していた。事務所にはほかにも食堂や医務室などがあり、巡礼者も利用できるほか、二階には図書室や見習騎士たちを教育する教室、三階には上級騎士用の執務室、四階は司教やかつての自分の部屋があった。事務所の裏口から出て、石畳を歩いた先にある荘厳な建物が大聖堂である。かつてここにいた数百年前までは上司であり気の許せる友人でもあった、帝都におけるアスタリウス教の総責任者、総大司教ヨハネスが人々を身分の分け隔てなくミサに招き、毎日のように貧しい者に炊き出しや施しを行っていた。大聖堂の左右には騎士や聖職者用の宿舎と訓練をしたり行事を行うための広場があり、広場で数人の見習いが木剣を使って訓練している光景を見て、かつて自分も同じように訓練をしていた記憶がよみがえったグヴェンは、ふと下を向いて苦笑した。
「時代や人が変わっても、ここの風景は変わらんな」
「まあ、一万年以上前に建てられた建物ですからね。そういえば、大司教殿はどうしてここに来られたのですか?」
「ん? まあちょっとした里帰りだ・・・・・・しかし、随分と花の香りが強いな」
ラパンと話しながら、グヴェンはふと顔をしかめて鼻を擦った。大聖堂の周りをむせかえるような強烈な花の香りが漂っている。本来ならよい香りでも、これほど強烈ではもう拷問に近い。
「ああ、あそこの温室から漂ってくる花の香りですね。すいません、レクス副団長殿が趣味で花を栽培されているんですよ。我々はもう慣れましたし、大聖堂に飾る花を調達しないで助かっております」
グヴェンの言葉に苦笑しながら、ラパンは宿舎の脇にある建物を指さした。彼のいう通り、レクスは若いころから花を育てるのが趣味で、団長としてここにいた頃はグヴェンも栽培された花をもらっていた。
「・・・・・・・・・・・・ま、そうだったな。ところでレクスは事務所にいるのか?」
「いえ、副団長殿はご高齢ですから、最近は自失と音質を行き来するだけでして。事務的なことは、全てシャルフ司教殿がされております」
「そうか。しかしきつい香りだな。まるで何か別の臭いを隠しているかのようだ」
「何か仰られましたか? 大司教殿」
「なんでもないさ、それより事務所に戻るぞ。ちょっと確認したいことがある」
怪訝そうな顔をしているラパンにひらひらと手を振ると、グヴェンは先ほど出てきた事務所に向かって歩いて行った。
「あれ? ラパンきょ・・・・・・お疲れ様です助教殿、お客様ですか?」
「あ、ああ気にするなトーマス、私の古い知り合いだ」
裏口から事務所に入った二人を出迎えたのは、先ほどとは違う騎士見習いのだった。まだ少年といってよいほどに若く痩せているがグヴェンより三セイルほど背が高い。栗色の短い髪と同じ色の瞳をした、いかにも実直そうだ。
「お初にお目にかかります。帝都下町で商人をしておりますチクリムと申します。ラパン助教殿には以前から大変お世話になっておりまして、此度も頼みごとがあってまいったのでございます。それにしても、貴方様がトーマス様ですか。ラパン殿が以前からよく話されていた方なので、どのような方なのかと想像させていただいておりましたが、いや、お話通り大変有望な方のようでございますねぇ」
事務所に入った途端、目を細めて腰を低くし、口の両端を吊り上げていかにも商人という姿になったグヴェンが手をもみながら言うと、トーマスという名の少年は顔を真っ赤にして両手を振った。
「い、いえ、そんなことはありません。教官には日ごろからお世話になりっぱなしで」
「・・・・・・んんっ!! それよりトーマス、頼んでいたことは終わったかな」
「あ、すいません。ミサの日時を知らせるパンフレットを皆さんにお配りする事でしたよね、はい。班の皆と協力して、昨日までに終わらせています」
「ならばよい。私は客人と自室に居るから、引き続き職務に励んでくれ」
「はい、お疲れ様ですっ!!」
憧れの騎士にねぎらいの言葉をかけてもらったことがよほどうれしいのだろう、飛び上がらんばかりに背筋を伸ばし、敬礼をする顔を赤くした少年に見送られ、二人は二階に上がっていった。
「随分と気持ちの良い少年だな」
二階に上がり、周囲に誰もいないことを確認するとグヴェンは腰を伸ばし顔を手で伸ばしながら、先ほどの少年の事をそう評価した。
「ええ、近年では一番素質がある少年です。私が指導している班の班長をしているのですが、ドルス司教殿も目をかけられております」
「そうか、素直な性格のようだが・・・・・・貴族街の出身ではないな」
「ええ、帝都外の農家の出身です。父親は病気がちなうえ、長男であり下に弟や妹が多数おります。そのため帝都に出稼ぎに来ていたところをスカウトしまして、最初は従者として働いてもらっていたのですが、昨年正式に見習いにいたしました。成績も上位ですし、特例を出して他の者より早く騎士にしたいと考えております」
「それはやめておいたほうが良いだろう。頑強で苦労をいとわないとは思うが、訓練と実際の戦闘は違う。一瞬の判断の遅さが命取りになるからな、しばらくは他の見習いと共に戦場の空気に慣れさせるのがよいだろう。それに一人だけ贔屓していては他の者からやっかみを受けて孤立してしまう、ただでさえ農家出身の者を貴族や聖職者の家に生まれた者と一緒に見習いにしているのだ。ここで特例を出して騎士にするより、試験を実施して上位何名かを騎士に昇格させた方がいい」
「かしこまりました。ところでどちらに御用なのですか?」
「ん? ああ、ドルスとシャルフのところにな。抜き打ちの部屋検査という奴だ。何もないとは思うがお前の話を聞いてちと気になってな」
「なるほど・・・・・・了解いたしました。私は外でお待ちしておりますか?」
「いや、証人が必要だからな、一緒に来てくれ」
階段を四階まで上がると、グヴェンはまず一番近い部屋の前で止まった。すぐ目の前の扉の上にあるプレートにはドルスの名前が刻まれている。この部屋は三名の司教の一人、実働部隊の総指揮官を務めるドルス司教の部屋であった。彼に促されたラパンが預かっていたスペアキーを取り出して鍵を開けると、グヴェンは躊躇なく扉を開け部屋の中に入った。
「ふん、相変わらず面白みのない部屋だな」
さすが実働部隊を率いるだけの事はあり、壁際には巨大な剣や鎧兜、縦などが飾られており、寝台の脇にある本棚の中には戦術や戦略、武術関係の本がびっしりと並べられている。机には、彼にと手一番の宝物らしい勲章が、ピカピカに磨かれておかれていた。
「つまらん部屋だ、蜜本でも転がっていれば面白かったんだが」
本棚から適当に本を取り出して数ページめくってみるが、中に書いてあったのは軍事教練の事ばかりで、グヴェンは軽くため息を吐いて本を戻した。
「ま、今度来るときはもう少しましなものがあることに期待しよう。次だ次ぎ、シャルフの部屋だったな」
「は、ですがその、申し訳ございません。シャルフ司教殿からは許可なく立ち入ることを許されておりませんので、鍵をお預かりしていないのです」
「そうか・・・・・・しかし、鍵を預けていないとなると、何かやましいことでもしてるのかね」
「いえ、決してそのようなことは・・・・・・ただそうですね、若い騎士たちの中には、あの方を怪しんでいる者もいます。何せ従者も中に入れませんし、最近では外部の者と頻繁に連絡を取り合っているようなのです」
「ふむ、まあそれも部屋に入ってみればわかることだ」
「しかし、鍵は預かっておりません。どうすれば」
よろしいですか、そう聞こうとしたラパンの声は大きな音にかき消された。目の前の鍵のかかった扉を、グヴェンが右足で無造作に蹴り壊したのである。
「大司教殿・・・・・・あの」
「緊急事態だ」
何か言いたげなラパンにさらりと告げると、グヴェンは埃が立ち込める部屋の中に入った。騎士団の事務仕事を一手に引き受けるシャルフの部屋らしく壁一面に本棚が並べられ、どれも隙間なく本が入っている。だいぶ几帳面な性格なのか、本はすべて番号順に並べられていた。窓際にある机の上には書類を置く箱と小さなインク壺ぐらいしかなく、グヴェンが何気なく瓶の中をのぞくと、インクはからからに乾いてこびり付いていた。
「・・・・・・」
「どうかなさいましたか?」
「いや、ドルス同様面白みのない部屋だと思ってな」
インク壺から目を離すと、グヴェンは本棚の一つに近寄り一つの本を手に取った。表紙にこびり付いている埃を息で吹き飛ばしページをぱらぱらと捲る。内容は経済に関する難しい内容で、見ているだけで頭痛がしてきそうになったグヴェンは軽く息を吐いて本を戻し、別の本を取り出した。しかしそれも結局数ページめくっただけで元に戻す。その行為を何度か繰り返すうち、彼はふとある本のページをめくったところで止まった。
「大司教殿?」
「これを見て見ろ」
「は・・・・・・3・8・24と読めますが」
「・・・・・・・・・・・・ああ、そうだな」
ページの間に挟まっていた小さなメモ紙を手渡され、そこに書かれた数字を呼んだラパンを見て、グヴェンは重々しく頷いた。
「これは何でしょうか」
「シャルフは倉庫区の総責任者だったな、おそらく場所か何かを現しているのだろう。後、24というのは日付じゃないのか?」
「日付・・・・・・そうなりますと24日に、3・8の位置にある倉庫で何かが起こる、という事でしょうか」
「まあそうだろう、だがこれだけではまだ証拠とは言えん。もっと何か決定的なものが無ければな」
興奮しているラパンとは対照的に、どこか冷めたような表情をしたグヴェンは本を戻し、今度は本棚から本を取り出し床に落としていった。一つの本棚が空になり、さらにその隣にある本棚も空にした時、ガコンッと何かが動く音がしたかと思うと本棚の奥の木板がスライドし、その後ろから壁をくりぬいて作られた隙間に入った金庫が顔を見せた。
「これは・・・・・・隠し金庫ですか!!」
「ま、本好きなシャルフの事だ。本を利用した隠し場所ぐらい作っていると思っていたが案の定、だったな」
「はぁ・・・・・・しかし、よくお分かりになりましたね」
「なに、長年の勘という物だ」
金庫には鍵がしっかりと掛かっており、さすがのグヴェンも破壊できない頑丈な作りになっていたが幸いなことに鍵はすぐに見つかった。机の一番下の引き出しが二重底になっており、そこに幾つか鍵が隠されていたのだが、そのうちの一つが合致したのである。金庫の中には数枚の書類が入っていたが、そのうちの一枚を見たグヴェンは顔を曇らせた。
「どうやら決定的な証拠という奴が出てきたな。倉庫区に運ばれる物資の一部を貴族に横流しする見返りに資金を受け取る契約書のようだ。他にもハシの葉の密輸についても書かれている」
「それは・・・・・・シャルフ司教が密輸に関与していたという事ですか!?」
「まあそうだろうな・・・・・・む?」
ラパンの声にあいまいに頷き、別の書類に目を落としたグヴェンがぴしりと固まった。
その書類には、十数人の名前と金額、そしてすぐ下にこう書いてあった。
“品評会会員名簿”と
続く