第一話「微笑み」
エニアスは見惚れていた。
そよ風のように、優しく微笑む一人の女性に……。
「エニアス!エニアス」
オリーブ畑の親方は、困った表情を浮かべ若者エニアスを呼んでいる。どうやら若者の耳には、女神の囁きは聞こえても、自分を呼んでいる声は届いていないらしい。業を煮やし近づいた親方には、夢から目覚めさせる役目があるようだ。
「こら!」
「イテ!」
ゲンコツの痛みで、振り向いたエニアス。今まで見えていたはずのパラダイスは、眉間に皺を寄せてる親方の髭面で埋め尽くされてしまった。
「あ、親方!」
「何度呼んだら返事をするんだ?エニアス」
「ご、ごめんなさい」
「もう日が暮れる。残りの分をちゃんと持ってくるんだ」
「は、はい!」
親方に言われた通りエニアスは、さきほど木を揺らして収穫したばかりのオリーブを、網ごとひょいっと次々に背負い、親方の後をトコトコとついてきている。
「全く、さっきは何をぼけーっとしていたんだ?」
「いや、親方。あそこらへんの上に、それはとてもきれいな女性がいたんですよ」
「なんだと?」
エニアスは想い出しながら、その女性について唄うように語り始めた。
「まるで虹の女神アイリスのように、夏のそよ風を運んでくれるような女性でした」
「......」
「その優しい微笑みは、まるでアフォロディーテのように美しく、その瞳の輝きは、まるで暁の女神エオスのように麗しく、風に靡びいたその髪は、まるでニーケの翼のように艶やかで……」
にやけたエニアスの様子が手に取るように分かる親方は、呆れて溜息をついて答えた。
「いいか?こんな辺鄙なアマリ谷のオリーブ畑に、お前の言う女が一人でいたらおかしいだろう?」
「でも、この目で見たんですよ〜」
「それはお前の幻想だ。どうせホメロスの歌ばっかり唄って、ろくすっぽ畑仕事に精を出さないから見たんだろうよ」
「違いますって!あの人は、本当に僕の目の前で佇んで、優しく微笑んでいたんです」
それでも食い下がるエニアスに対して、親方はさらに溜息をついて振り向いた。
「だったら、何故捕まえない?」
「捕まえる?どうしてですか?」
「もし、いるとしたら、それは女の盗人だからだ」
「女の盗人!?」
「その女はお前を油断させてる隙に、仲間共がオリーブを横取する寸法なんだ。そうに決まっている!」
「ひどい。そんなわけないですよ!だって、収穫したオリーブは、例年通りの量じゃないですか」
「あーうるさい!いいかエニアス。今度、そんな怪しい女を見かけたら、絶対にとっ捕まえて俺の前に連れてくるんだぞ!」
親方はエニアスに聞く耳を持たなかったのである。すっかり日も暮れて、親方とエニアス達は収穫作業を終え、既に親方の奥さんが準備をしていた夕食を取ることにした。
「おやまぁ、まるで女神でも見かけた様子ね」
夕食での話題はもちろん、エニアスが今日見た女性の事だ。心優しい奥さんは、微笑みながら耳を傾けてくれる。
「そうなんですよ、お上さん。それはもう、まるで虹の女神アイリスのように、夏のそよ風を運んでくれるような女性でした」
「まぁ、素敵ね」
「その優しい微笑みは、まるでアフォロディーテのように美しく、その瞳の輝きは、まるで暁の女神エオスのように麗しく、風に靡びいたその髪は、まるでニーケの翼のように艶やかでした」
だが親方は全く信じていない。
「こんな歌に出てくるような女が、実際にいるわけないだろ?」
「あなた、いいじゃないですか。エニアスは見たと言ってるんですから」
「いいや、よく無い。居やしない女を見かけたなどと触れ回ったら、それこそ村中から遠ざけられて大変なことになっちまう」
「……」
エニアスは親方の厳しい言い方に、落ち込んでしまった。
「いいか?エニアス。叙情歌などにうつつを抜かさず、しっかり収穫作業に励むんだぞ」
「はい、親方」
「そうすりゃ、お前だって一人前になれるってもんだ。身寄りの無いお前だって、いずれ村中から認められる」
「はい、親方」
そう、エニアスの両親は既にこの世から去っていた。そして幼い彼を引き取ったのが、オリーブ畑を営む親方だった。エニアスはいつものように夕食を片付け、いつものように明日の収穫作業に備えた後、いつものように寝床に着いた。
「はぁ、本当に見たような気がしたんだよなぁ。そりゃ、ちょっとは脚色してるけどさ」
眠れないエニアスは、居ても立っても居られない様子で起き上がり、自分で作った竪琴リュラーを手に取る。
「今宵、貴女に捧げます」
瞳を閉じたエニアスは、七本の弦を器用に押さえ唄い出す。
ああ、麗しき女性よ
名も知らぬ美しき女性よ
まるで美の女神アフォロディテの如く
その優しき微笑みを浮かべながら
貴女は佇んでいた
まるで暁の女神エオスの如く
その美しき瞳を輝かせながら
貴女は佇んでいた
まるで勝利の女神ニーケの翼の如く
その艶やかな髪を風に靡かせて
貴女は佇んでいた
エニアスは祈るように唄った。
湧き上がる想いを、美しいメロディにそっと載せるように。
"エニアス……"
「?」
"ああ、エニアス……"
「うん?」
すると何処からともなく、女性の声が聞こえてくてきたのであった。
続く