君に逢いたかった午後
雪。吹雪。
死にそうだ。
君に逢いたいとか思って。
あいつの声聞きたいとか思って。
ふざけるな。
独りでいるのは辛すぎる。辛すぎるよ。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
あれはいつだったか。
確か、そう遠くない過去。
電話のベルは凝りもせずに鳴っていた。
で。
何だったろう?
あいつと初めて言葉を交わしたのは。
何だったろう?
君にこんなに惹かれた訳は。
何だったろう?
これ程苦しい思いをしている訳は。
――嘘。
わかってる。全部、わかってる。
誰も悪くない。悪いのはあたし。わかってる。
わかってるよ――
あぁ、情緒不安定。死のうとは思わないけど、消えたいとは、思う。
困る。こういうの、すごく困る。
3年越し、敬遠していた煙草でさえ吸いたいなんて思ってしまうくらい、おかしい。
泣きたくなる気分で、そっと、電話引き寄せた。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「ごめんねぇ。急に呼び出して」
「ん?べつに。どーせ暇だったし」
黒のジャケット、黒のジーパン、お洒落なシャツ。いつもの店で、いつもの場所で、いつもと変わらない口調の旭。
どうして、まっすぐ見つめられるんだろう?
どうして、何も聞けないんだろう?
怖いのに。旭がわかんなくて、怖いのに。
たった一言で、この状態。
――俺も、まだよくわかんねーから。
わからなくなったのは、あたしのせいですか?
『好きになれ』と言った旭は、いないんですか?
縛られるのが嫌だと言ったから、臆病になってるんですか?
もし、本当にその気があるのなら、もっとしっかり捕まえててよ。
我儘だから。あたし、我儘だから。
一緒にいる時間、こんなに楽しいのに、独りになったとたん泣きたくなる。
わかりますか?
こんな状態、もつわけないんです。
あたしは、あなたに、助けを求めてるんです。
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「しけてるねぇ」
はっとして、あたしは顔をあげた。
受話器からは虚しくツーツーいう音が響いている。
「え……と、きよむ…だよね」
にこにこと、きつい顔をしてるくせに、やたら愛想のいい笑顔でそいつは話しかけてきた。
黒のロングコートの前を全開にして、黒のパンツのポケットに両手を突っ込んで、黒のシャツのボタンはほとんどしてないに等しい。中に覗いているTシャツまで黒いものだから、一目ではどんな恰好なのかよくわからないというのが本当。
「……どちら様でしょうか」
「朱雀さんです」
「す……?」
「す・ざ・く、です」
にこにこと、全く表情を崩さないで、『すざくさん』は自己紹介する。
呆けたまま、いまいち状況を把握しきれないでいるあたしは、とりあえず、と受話器を置いた。
さて。
ここは何処だろう? うち、だよな。だと、すると。
反射的に(実際はかなり遅いんだけど)身構えて、ようやくあたしは我に返った。
「……誰だよ、おまえっっ!!」
「だぁからぁ、朱雀さんだって。あのね、女の子がそんな言葉使うもんじゃないよ」
いきなり現れた不審人物に、言葉遣いまでどうこう言われたくはないんですけど!
「あ、コート脱がないでること怒ってんのかな? 怒んないでよ。これ、気に入ってるんだからさ。似合うだろ?」
「誰がコートの話なんてしてるんです?! 出てって下さい!」
「出てっていいの? きよむ、泣きそうなのに?」
あんまり静かな言葉に、あたし、絶句。
からかうような口調なのに、なんて瞳をするの! なんて瞳を!
「雪、憂さ晴らししたいんじゃなかった?」
「は?」
「行こうよ。俺も遊びたい」
「……初対面の、怪しい、男と?」
じょおっだんっ。いくらあたしでも、そこまで軽くないって。それに。
それに。
そうだ。あたし、旭に電話してたんじゃなかったっけ?
途中で切っちゃった、とか? え、ちょっと、ヤバイよ、それ。
「やっぱり、エンリョしときます」
すっぱり、きっぱり。旭に謝る方が絶対優先じゃない。
「雪ぅ。旭のとこはダイヤルしてないから、大丈夫だって。ね、行こうよ」
は? ダイヤル、してない? そんな、ばかな。
「してないよ。ほんとだって。だからさぁ、安心して、ね?」
何を安心するんだ。何を。
「あー、もうっ! 昨日智たちと遊びに行ってたことばらすよっ」
拗ねたような顔をして、不意について出た言葉はあたしを脳天から貫いた。
ちょっと、待て。何、こいつ。何で、そんなこと知ってんの?
「……旭、知っても何も言わないよ」
「えー? そうかなぁ。ま、そう思ってんなら、もう少しプラスアルファしてもいいや」
「何言われたって、知らない奴の言葉なんて旭は信じないって」
「雪が智仁君に気があるって言ってもかな?」
意地の悪い笑顔は、あたしに肯定的な無言を生み出させる。
ひどい。
誰が? どっちが?
「あなたに、そんなこと、言われる筋合い、ない、です」
「あ、ごめん。傷ついた? ごめんね。ね、じゃ、お願いするよ。少しの間、俺に付き合ってよ。ほんの、数時間。そしたら、俺、消えるから。雪の前から、消えるから」
声のトーンが突然変わる。
どうにかしたら、泣き出しそうで、あたしは固く目を瞑ったまま、もう、絶対に嫌いにはなれないテノールの声を聞いていた。
やめてよ。
そういう優しさ。
わかってしまう。『すざく』が嫌な奴じゃないって、わかってしまう。
わかってしまったら、頷いてしまう。
何も聞けないで、頷いてしまうしかないじゃない。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
雪。吹雪。
突然記憶喪失にでもなって、一からやり直したいとか、思う。
そしたらきっと旭だけを想うことができる。
旭だけに逢って、旭だけを好きになる。
昔ね、大好きな人を忘れるのと、大嫌いな人を好きになるのと、どっちもできることだと思ってた。今も、思ってる。
でもね、すごく気になる人を忘れるのと、結構好きな人をもっと好きになるのと、同時進行はできないって、わかった。
智仁はね、優しすぎるよ。
誰にでも同じなのわかってるくせに、やっぱり、くるよね。
だって、他の人が特別な人にしかしないことを、平気でしてくれるんだもん。
そういう優しさ、辛いよね。
だから。
もう二度と優しくしてほしくないのに。
もう二度と笑いかけてほしくないのに。
そんな時に誘いの電話なんて、すごく、卑怯だよ。
自分が嫌いになってくよ。
どんどん辛くなってくよ。
忘れようと努力して、ようやく諦めついた頃、智仁は笑いかけるんだ。
ずるいよね。ずるいよ。
嫌われる努力しようか? 馬鹿だよね。
できないくせに言ってみて、やっぱりできないと自己嫌悪に陥って。
手の届く幸せなら、いらない。
そんなの幸せじゃない。
我儘だ。すごく、我儘だ。
誰も傷つけたくないなんて、そんなの嘘だよ。
自分が傷つくのが怖いだけ。これだけわかってるのに――
▼ ▼ ▼ ▼ ▼
「ほんと、馬鹿だなぁ。もっと我儘になればいいのに」
「なんですか? それ」
「雪、もっと素直になればいいのに。もっと自己主張しなよ。あたしを好きになれって、さ」
できれば苦労はないとこなんですけどね。
しかし、どうでもいいけど、黒しか着てないのに、なんて目立つ男だ。(黒しか着てないから目立つのか……)本人も見られ慣れしてるのか、愛想のいいことったらありゃしない。こんな奴とボウリングなんて来るもんじゃないな。
「いつかはさ、雪も相手も我儘ばかり言うような、そんな奴と一緒になれるって。今はさ、だから、もっと悩んで、もっと落ち込んで、いいんじゃないか? 雪らしい雪が好きじゃないなら、そんな奴ふったっていいって」
「励ましてんですか? 馬鹿にしてんですか?」
『すざくさん』は意味ありげに笑って、時計に目を走らせる。
「俺はね、雪好きだよ。この世界でひとりも雪を解ってくれる奴いなかったら、俺んとこおいで。なんてったって、朱雀さんは南を護る神様だからね。雪の我儘くらい聞いてあげるよ」
「かみさまぁ?」
「あ、信じてないね。いいけど。疑うのが、人間だからね」
最後の科白と同時に『すざくさん』は右手を伸ばし、人の頭をおもいっっきり掻き回した。たまらず目を瞑って、もう一度開いた時には、すでに『すざくさん』の姿はなく、あたしは電話の前に座り込んでいた。
ただ、時間だけがきっちり過ぎていて――
―― ウタガウノガ、ニンゲンダカラネ。
君に逢いたかった午後。
FIN