服部保長
前半が三人称視点。後半が信広の一人称となります。
服部保長は元々伊賀の花垣村の頭領である千賀地家の出身であった。
土地が狭く、生活が逼迫したため、保長は先祖の姓である服部を名乗り、室町幕府12代将軍、足利義晴に仕えた。
しかし、義晴はそのような珍しい出自の部下を持つ事で、周囲に自分の力を示すためだけの雇用であり、保長自身の技量は重宝されなかった。
そんな折、三河国を平定した事を将軍に謁見し報告するために上洛していた松平清康と出会う。
清康は保長とその一党の技術を気に入り、義晴に頼んで保長を家臣として迎え入れた。
清康は情報の重要性を理解しており、保長とその一党を使い、時に情報を集め、時に偽の情報を流し、三河の保治と尾張侵攻に大いに役立てた。
保長は自らが磨いて来た技術が主君の役に立つ事を喜んだ。
しかし、これを面白く思わない者が居た。
元々松平家で諜報を担当していた者達である。
自分たちの立場が悪くなると思った彼らは、保長とは別に独自に情報の収集に努めた。
そんな彼らがもたらしたのが、阿部定吉に謀反の疑いあり、であった。
阿部定吉は代々松平家に仕える忠臣。それが突然、その時敵対していた織田信秀と通じるのは不自然だった。
しかし清康にその情報をもたらした者達も、古くから清康に仕える者達であり、清康はその情報を無碍にする事はなかった。
情報の裏を取るまで短慮を起こさないよう清康に言い含め、保長は事の真偽を探り始めた。
そしてその情報が、信秀の流した虚報であると判明する。
だが、その時には阿部定吉の子、正豊によって清康は討たれていた。
すぐに保長は思考を切り替え、調べた情報を清康の子である広忠へと伝えた。
清康の横死によって混乱する松平軍は、信秀に散々に打ち破られ、三河へと逃げ帰った。
そこで敗戦の責を問われたのは阿部定吉だったが、保長から真実を伝えられていた広忠は定吉を許した。
この時、広忠は情報を握りつぶし、定吉を処断する事ができた。
敗戦の責を全て被せる事で、三河の民の団結を促す事が可能だった筈なのだ。
しかし広忠はそれをしなかった。
幼さゆえの純粋な正義感の発露か、それとも、絶対的な忠臣を得るための策かは保長にはわからなかった。
しかし、これによって阿部定吉は、身命を賭して広忠に仕え続ける事になる。
その後も、岡崎城を奪った松平信定、織田弾正忠家に広忠を売ろうとした吉良義安などの情報をいち早く掴み、広忠に伝わるよう阿部定吉に報告したのは保長だった。
しかし、その忠節とは裏腹に、広忠は保長を遠ざけるようになる。
思えば、広忠は情報の重要性を理解していた。
同時に、その恐ろしさも理解していたのだろう。
自らの父を殺したのは定吉の息子ではあるが、彼が行動したのは信秀の流した虚報が原因だ。
広忠が岡崎に帰参した後、安祥城の織田信広に敗北が続いているが、三河の民に広忠が敗北していないと情報操作をしていたのも保長とその一党だが、逆を返せば、彼らは広忠の醜聞を広め、三河における松平の求心力を低下させる事も可能なのだ。
情報の重要性を理解しているから保長らを使うが、その恐ろしさも理解しているから、決して彼らを重用しない。
保長自身も、自分達の役目が決して自慢できるようなものではないとわかっていたので、それは仕方ない事なのだと思っていた。
せめて先年生まれた自分の息子は武士として育てようと思う程度には、保長も自分達の任務を汚いものだと思っていたのだ。
「そんな私に、何の用かな?」
岡崎城下にある服部一族の屋敷にて、保長は自室を訪れた何者かに、そう尋ねた。
相手は障子の向こう。月明りに照らされている筈だが、影も形も存在しない。
だが、保長は、そこに居る事に気付いていた。
「用があるのは我らが主でございます」
女の声だった。
「その氏神様はどちらのお殿様で?」
「安祥の主にて」
「ほう……」
保長が仕える主君、広忠を何度も苦しめる若武者だ。保長自身、興味が無いと言えば嘘になる。
「失礼ながら調べさせていただきましたが、半三殿とその一党は、お世辞にも松平家で重用されているとは言い難いのが現状であると」
「その通りだがね。だが、そんなものはどこの忍びも同じだろう?」
「少なくとも、我らが主は違います。我が殿は、我々のような下衆な技能を持つ者にも対等に接し、功には報いて下さるお方」
「そのお殿様が何の御用なのかな?」
「保長殿とその一党を、雇い入れたいと申されております」
「……そうか」
岡崎城下のある屋敷に忍び込んだ安楽は、その屋敷の主に障子越しに話しかけていた。
信広から託された任務は、保長の調略。
失敗しても構わないと言っていたが、そんな事がある筈がない。
主君に言い渡された任務をしくじる忍びなど、何の価値があろうか。
保長の事は調べていた。清康の代には重用されていたようだが、広忠の代になって冷遇されている。
元々そのような扱いだったならともかく、清康の代に重用されていただけに、広忠からの扱いに不満を抱いているだろう。
説得は容易だと安楽は判断した。
だから、特に搦め手を使うでもなく、安楽は保長に正面から切り込んだ。
「保長殿とその一党を、雇い入れたいと申されております」
自信満々に放った一言。それに対する保長の返答は、
「……そうか」
その一言だけだった。
その一言が、安楽の頭上から聞こえて来た。
驚き、思わず見上げる安楽。
そこに、居た。
枯れ枝が黒衣を纏っているような印象を受ける、雰囲気を纏った壮年の男がそこに居た。
間違いない。服部保長だ。
だが、いつ?
障子が開いた音も、床を踏む音も聞こえなかった。
跪いて下を向いていたとは言え、安楽がその動きに気付けなかったのは異常だ。
安楽自身、似たような技術を持ってはいる。
しかし安楽はそれを直感と経験でこなす。伊賀の里に居た頃、上役や年上の者が行っているのを見て、真似して覚えたのだ。
だから安楽は、この技術を説明し、誰かに教える事ができない。
「人が何かをすり抜ける事はできないし、ある地点からある地点へ一瞬で移動する事もできない。ひょっとしたらできる者もいるかもしれないが、それを言い出すときりがないから、この場合は居ないと仮定して話を進める」
そんな話を信広にすると、意外な返答があった。
「意識をずらしているんだろう。相手の意識をコントロール……操作して、意識を自分から逸らさせる。その間に移動するって技術だろうな」
言う信広の手には、それまで弄んでいた扇子の他に、もう一つ扇子が増えてた。
それに安楽は非常に驚かされたが、安楽が興味のある話題を振って、話に意識が向いている間に、懐から取り出しただけだと説明を受けた。
その瞬間、安楽は雷に撃たれたような感覚が走った事を覚えている。
あれはまさに天啓だった。
自らの技術を理解し、分析し、解析した結果、安楽の持つ技術はその精度を増した。
同時に、同じ技術を見破る事もできるようになった。
その安楽が、全く気付けなかった。
これが、里の厳しい修行についていけなくて逃げ出した安楽と、里で最も力を持つ一族の頭領だった男の技量の違いか。
「話くらいは聞いてみようじゃないか。案内をお願いしても良いかな?」
「は、はい。勿論です……!」
緊張からか、安楽の態度と口調が硬くなった。
安祥城、評定の間。
安楽から服部保長到着の報告を受けた俺は、古居と福池を伴い、上座に座る。
うっかり新田を呼びかけ、自滅した事は内緒だ。
俺の目の前には、朽ちた倒木が布を纏っているような雰囲気の男が頭を垂れていた。
この男こそ、伊賀の上忍、服部家の流れを汲む、服部保長。うーん、雰囲気あるな。
とりあえず保長を呼ぶ前に色々調べたところでは、この時代に忍者の正式な呼び名は存在しなかった。
地方や、各勢力ごとに好き勝手に呼んでいた訳だな。
下忍、中忍、上忍のような身分制度も存在しなかったようだ。
上忍という制度を持つ伊賀でも、『上忍とそれ以外』という分け方らしい。
この時代に来て、忍者が、所謂『忍者』のような存在でない事は理解していたんだけど、俺の目の前にいる男は、紛れもなく『忍者』だった。
「安祥城城主、織田五郎三郎信広である。服部半三保長、よう参られた」
「は、服部半三保長。五郎三郎様の呼び出しに応じ、参上いたしました。して、某のような下賤な者に何の御用でしょうか?」
忍者は傭兵のような存在で、武士とは身分が大きく違う。その上で、破壊活動などの、所謂汚れ仕事を行うため、武士階級の人間からは疎んじられていたらしい。
うちでも、安楽達に対する態度はあまり良いものじゃないからな。
こういうのは無理矢理変えようとしても駄目だ。強引な意識改革は逆効果。贔屓の引き倒しになんてなったら本末転倒だからな。
地道に功績を積んでもらって、徐々に認めさせるしかない。
彼らのはたらきを、俺がしっかりと、正当に評価し続ける事も大事だ。
保長の言葉はそんな身分の違いを自虐したものだが、どちらかと言うと皮肉のように聞こえた。
「単刀直入に申そう。其方とその一族全員、雇い入れたい」
「乱破の類であれば、既にお持ちのようですが?」
そう言って保長は肩越しに、彼の斜め後ろに控えている安楽を見た。
最初安楽は同席を辞退しようとしたのだけど、保長の雇用が叶ったなら、最も近しい同僚となるのが安楽なので、強引に同席させた。
本来なら俺の傍に座らせるつもりだったんだが、それは固辞されたのであの位置だ。
「技術を持つのはそこの安楽のみ。安楽もまだ若輩だ」
確か安楽はまだ14歳の筈だ。
「とりあえず年で五十貫文(約五百万円)支払おう。それ以外に与える任務によって臨時で報酬を与える事もある」
「大金ですな。それだけあれば、某の一族や配下全てを雇う事も……」
「いや、これは其方一人に対する俸禄だ」
「某一人をお雇いになりたいと? いや、しかし先程一族全てと……」
「そうだ。其方に五十貫文。其方の配下にもそれぞれ、立場に応じた禄を支払う」
「え……!?」
俺の言葉に初めて、保長は人間らしい反応を見せた。
その瞬間、彼の纏っていた、暗い森のような雰囲気が霧散する。
やっぱり、雰囲気を作っていたか。
いかにもな外見と言動。保長と相対した人間は、『何をしでかすかわからない』保長から目を離す事はできないだろう。
それこそが保長の狙い。
保長を集中して監視している、と言えば聞こえは良いが、それは往々にして視野狭窄を伴う。
意識が一点に集中するなら、マジシャンや詐欺師にとっては仕事がやりやすいだろうな。
「わかりやすく最も身分の低い者を下忍と称する。この者には年で十貫文だな。彼らを五人で一組とし、五人の中で最も実力のある者を、下忍頭としてまとめ役とする。この者には役職手当として更に五貫文を追加しよう。この下忍組を五組で一つとし、これを纏める者を中忍とする。この者は三十貫文だ。そして中忍三人で一つとし、これを束ねる者を上忍とする、これが其方や安楽だな」
俺の説明を、最初はぽかんとした表情で聞いていた保長だったが、すぐに気を取り直し、指折り数え始めた。
「それほどの人数はおりませんな……」
「とりあえずの枠組と俸禄を説明しただけだ。下忍、下忍頭、中忍をさっき言った枠に当てはめて、其方の一族、配下から選出して報告せよ」
「……まだ、お受けするとは言っておりませぬが……」
「そうだな。急な話であるからな。よかろう。今日のところは帰ると良い。十日後、再び安楽を遣わす故、その時に返事を聞こう」
「某が誘われた事を、松平に報告するとは思わないので?」
「報告されても問題無い。有能な家臣に敵が引き抜きをかけるのはよくある事だ」
「有能ならば、そうでしょうね……」
「先に言っておくと、其方らの松平家での扱いは知っておる」
決してその扱いは良いとは言えない。むしろ、はたらきから言えば相当悪いだろう。
つまり、松平家で重用されているから引き抜こうとしているのではない、と言外に言っている訳だけど……。
「……そこまで乞われては、返答を保留するなどという不義理は犯せませんな」
どうやら伝わったようだ。声が若干上擦っている。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
安楽の時もそうだったけど、この時代の忍者って本当、不遇だったんだってわかるな。
「一つ、条件がございます」
「申せ」
傍らの福池が微かに動いたので、それを制するようにして、俺は保長に先を促す。
ここまでの条件を並べられて尚、要請するなんて、ってところかな。
「某の息子は武士として育てたいと考えております」
「其方の息子なら良い素質を持っているとは思うが……。何故だ?」
「殿は我々を高く評価していただいておりますが、やはり世間では我らのような存在は胡乱な目で見られてしまうでしょう」
これを否定するのは難しいな。なんせ、未だにうちですらそうなんだから。
「せめて息子には、太陽の下を歩かせてやりたいのです」
「子の養育は親の責任である。その家の教育方針に外野が口を出すのは野暮というもの」
限度はあるけどね。幼児虐待とかさ。
この時代だと殴って躾けるとか当たり前だから、虐待の定義が難しいけどな。
「ありがとうございます。服部保長とその一党、全身全霊をかけて五郎三郎信広様にお仕えいたします!」
感想などで人手不足を指摘する声がありました。
まさしく、それが信広が中々領地を拡張できないでいる原因の一つでもあります。
弾正忠家への配慮、今川への恐怖なども勿論ありますが、急速に領地を拡大しても管理する手が足りないんですね。
実際、厳密に侍大将と呼べる地位に居るのは古居のみ(ギリで新田も)。現状、その下の家臣を、無理矢理格を上げて使っている状態。かと言って、外からいきなり大物を連れて来て、家臣の上に置いても不満が続出するでしょうから、難しいところです。
桜井城、姫城、上野城あたりを家臣として取り込むのではなく、同盟扱いにしているのはそういう事情もあるんですね。




